« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・39 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・41 »

2012年9月 8日 (土)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・40

 日本国は〔愛〕の理念を掲げて誕生した。

 『魏志倭人伝』の末部に下記のごとく説明する記事がある。
 「魏の正始(せいし)八年(西暦247年)ころ、卑弥呼はすでに死んでいた。卑弥呼を埋葬する大きな墓を作る。墓の円墳部の直径は百余歩(約150m)である。この卑弥呼の墓に奴(・18歳くらいの屈強な青年)と婢(・瞳が最も澄む13歳くらの乙女)たち百余人が殺されて埋められた。この残虐きわまりない徇葬(じゅんそう)を憎悪する反乱が起き、卑弥呼の後に倭国の最高位の大王となった男王に国中の人々が服従しなかった。倭の王朝軍と反乱者たちは殺しあって戦い、この戦争で倭王朝は反乱者たちを千余人も殺した。また、倭王朝は卑弥呼の宗女(そうじょ・卑弥呼が率いる巫女界の代表者)として13歳(の時に女王として新生・日本国に赴任させたところ)の壱与(いよ)を(倭国へ帰還させて)倭女王に就任させると、倭の反乱は鎮まって国中が平定された。」

 倭女王・壱与は13歳のときに小国・日本の女王に就任した。彼女は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕の尊さを熱心に説いた。
 これゆえ、壱与は残虐な徇葬を憎悪して猛反対していたことになる。
 彼女は13歳まで倭国に居住するものであったため、彼女の噂を聞いた倭国の人々もまた彼女を敬愛して憧れていた。
 したがって、彼女が倭女王になれば、徇葬は必ず禁止されるにちがいないと反乱者たちは信じて武器を捨てた。ゆえに、『魏志倭人伝』に「壱与が倭女王に立つと、国中遂に定まる」と記述された。
 小国・日本は壱与が提唱した〔愛〕の理念のもとに建国された。
 だから、日本国は〔愛〕の理念を掲げて建国されたことになる。

 13歳の壱与が新生・日本国の女王として就任したのは233~234年ころであったと考えられる。
 この年より3、4年前、呉の黄竜(こうりゅう)二年(西暦230年)、呉の皇帝の孫権(そんけん)は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に、夷洲(いしゅう)と亶州(せんしゅう)とに分かれる東鯷人国(とうていじんこく)への遠征を命じた。この時の呉の水軍の兵士は1万であった。
 呉の1万の水軍が遠征しようとした東鯷人国は女王・卑弥呼が統治する倭国の隣国であった。
 中国の正史『後漢書(ごかんじょ) 』倭伝は「東鯷人国の人民は定期的に大海を越えて、呉の会稽(かいけい)の港に到着して交易をしていた」と記述する。
 当時、倭と国交を結ぶ魏と孫権が治める呉は天下を手に入れようとして敵視しあっていた。
 孫権は燕地(えんち)の王・公孫淵(こうそんえん)が魏帝の配下としてつかえていることに不満であるにちがないと推断して、密使を送って“淵を燕王の地位を与える”と約束した。というのも、燕地は魏の背後の脅威(きょうい)の国であったからである。呉と蜀(しょく)、すなわち天下(中国)を二分して治めようと約束して軍事同盟を結ぶ呉と蜀が魏の正面を突き、背後から淵が指揮する燕軍が攻めれば、魏王朝は滅亡する――と孫権は考えた。
 しかし、淵は孫権の申し出をことわった。なぜかというと、淵が天下二分同盟国の呉・蜀側につくのではないかと疑って警戒する魏に淵の裏切りが知れると、たちまち魏と倭の挟み撃ちにあって公孫氏と燕は滅亡すると考えたからである。
 そこで、淵を味方にするために、孫権は東鯷人国への遠征を企てた。というのも、東鯷人国は倭国の背後の国だからである。
 呉の遠征軍が東鯷人国の海岸で軍の威力を示して直ちに帰還すれば、東鯷人国は呉軍は再度の遠征してくると警戒して倭に服従して防衛に精力をそそぐにちがいない。東鯷人国が呉に征服されると、東鯷人国は倭国の背後の脅威の国となるので倭は軍を派遣することになる。そうすると、呉軍の兵士1万に対して防衛するために、倭から大軍が東鯷人国に派遣される。そうなれば、淵が魏を裏切って魏軍に攻撃されても東鯷人国の防衛にあたる倭は、魏軍を支援するために大軍を派遣することができなくなる。
 だから、1万の呉の水軍の東鯷人国遠征は魏を滅ぼすために淵を呉・蜀の天下二分同盟側の味方にするための作戦であったのである。

 上記のごとく、魏と倭の軍事同盟は淵が裏切った時に魏の背後の脅威の公孫氏と燕を滅亡させるために結ばれるものであった。
 現に、魏のエースの司馬懿(しばい)は公孫淵を討伐するためと孫権が魏都を攻撃させないために、東夷の大国の倭が魏に味方にして三国戦争に参加したと孫権に納得させるために、魏の天子(明帝)が病床に伏せて面会できないにもかかわらず倭の使節一行を明帝に面会したと見せかけて卑弥呼を親魏倭王に任命するという約束を交わすようにした。
 この「卑弥呼を親魏倭王の任命」は、『魏志倭人伝』に記述されている。
 司馬懿の倭の使節一行を病床に伏せて面会できない明帝に面会させる作戦によって、司馬懿軍は淵を討伐し、その討伐している時、呉の孫権は呉・蜀の両軍の魏都攻撃を制止させていた。彼は倭の参加によって無鉄砲に魏都を攻撃できないと慎重に考えて、東夷の大国の倭軍の戦力はいかにと調査していた。
 ゆえに、司馬懿軍の公孫淵討伐は成功した。もしも孫権の号令で呉・蜀の両軍が魏都を攻撃していたならば司馬懿軍の留守の魏都は陥落し、司馬懿軍は呉・蜀と燕軍の挟み撃ちにあうことになるか、またが呉・蜀の軍に追われて逃亡する敗者になっていたのである。
 孫権は倭の使節一行の魏都到着に惑わされて魏を倒す千載一遇(せんさいいちぐう)の絶好のチャンスを逃してしまったのである。

 230年の1万の呉の水軍の東鯷人国への遠征について、定期的に呉の会稽の港で交易する東鯷人国の人民が知ったのか、それとも魏が倭に通報し倭王朝から東鯷人国の国王の耳に届いたのか判然としない。
 いずれにしても呉の1万の水軍が自国に遠征しようとしたと知った東鯷人国の国王は呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと考えたにちがいない。そこで、卑弥呼が統治する倭国へ服属して呉軍を迎え撃つ決意をした。
 というのも、208年における中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いにおいて、2万の呉軍の水軍は呉・蜀連合軍の中心的な役割をになって、80万の魏の大軍を撃破したからである。
 ゆえに、東鯷人国に遠征する呉の1万の水軍は、40万の魏軍に匹敵する。40万の敵と戦うには東鯷人国の兵力では全然間に合わなかった。どうしても倭軍の兵力が必要となった。だから、東鯷人国の国王は倭に服属を決意して卑弥呼に倭軍の派遣を要請しざるをえなかったのである。

 かくして、東鯷人国は、『魏志倭人伝』が列記する侏儒(しゅじゅ)国、裸(ら)国、黒歯(こくし)国に続く35番目に倭に服続する小国となり、国名が改められて「日本」となった。
 この新生・日本国(旧東鯷人国)の女王に、13歳の壱与が選ばれた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』は13歳の時に女王となった壱与は「卑弥呼の宗女」と記述する。「卑弥呼の宗女」すなわち「卑弥呼が率いる巫女界の代表者」である。
 230年における呉軍の東鯷人国遠征の情報が東鯷人国の国王に届き、小国・日本が誕生し、この日本国を防衛するための女王を壱与と定めて就任させるためには、早くても3年、おそらく4年が必要であったであろうから、壱与の小国・日本の赴任は233年ころか234年ころのことであったことになる。

 『魏志倭人伝』は13歳の壱与は「卑弥呼の宗女」であったと記す。
 13歳ころの乙女たちの瞳孔は最も澄んでいる。彼女たちには夜の暗い星・暗い銀河部も見える。だから、13歳の巫女は敵の戦力を殺(そ)ぐことができる魔女であった。この魔女を「媚蠱(びこ)」という。ゆえに、日本国防衛の女王となった13歳の壱与は、媚蠱の女王であったのである。
 この女王名の「壱与」は「天から大量の水を降らせて地上に豊穣(ほうじょう)をもたらす。大量の水の精霊」と意味するものであった。
 2009年の5月と9月に、巨匠ジョン・ウーが監督する「レットクリフ」すなわち「赤壁」と題する映画の1部と2部が上映された。この映画が克明にレッドクリフ(赤壁の戦い)を描いたように、2万の呉の水軍は赤壁に集結した80万の魏の水軍を折しも吹く強風を利用して大火災を起こして壊滅させた。
 だから、日本国に遠征する呉の水軍は〔赤壁の戦いにおいて、強風にあおられて勢いを増した大火災の赤い火の軍〕ということになる。
 〔大火災の燃え上がる赤い火〕は〔天から降る大量の雨〕で消滅させることができる。
 だから〔大火災の赤い火の呉軍〕に勝利する媚蠱の女王の名は〔天から降る大量の雨〕を意味する「壱与」となったのである。

 紀元前1世紀、中国では天の北極を最も重視するシナ天文が完成した。
 〔シナ天文が最も重視する天の北極の高度で緯度(東西の位置)を測定し、子午軸(南北)を計測する方法〕だと、大海に入ってまもなく正確な位置と方位が不明となり迷って漂流して命が海に消えることになる。
 呉の遠征軍は8割から9割の兵を失って壊滅した。
 天の北極を最も重視するシナ天文によって、大海を往来できる緯度と子午軸を測量する眼力と技術を鍛えていなかったからである。
 孫権が企てた呉軍の日本列島遠征はシナ天文のために大失敗した。

 〔緯度の測定〕には二つの方法がある。
 一つは〔精密に天頂緯度を測定する方法(天頂点をキャッチする方法)〕である。
 もうひとつが〔天の北極の高度で緯度を換算する方法〕である。
 前者の〔天頂点をキャッチする方法〕だと精密に緯度と子午軸が測量できるので、精密な緯度と子午軸の測量が求められる大海でも命を落とさずに往来することができる。
 後者の〔天の北極の高度で緯度を換算する方法〕だと緯度の測定が不精確となるので、呉の水軍の日本列島遠征で証明されたように海の藻屑(もくず)となって命を落として帰らぬ人となる。

 上記に示した〔天頂点をキャッチする方法〕と〔天の北極の高度で緯度を換算する方法〕における〔大海を渡って日本列島に到着できるとできないの相違〕は、中国の正史『後漢書』倭伝末部にある東鯷人国についての説明する記事で明示される。
 『後漢書』倭伝は下記のごとく説明する。
⑴ 秦の始皇帝は、方士(天文地理学者)の徐福(じょふく)を派遣し、童男女(徐福の天文地理の知識を学ぶ弟子の青年と乙女)数千人を率いて海に入り、日本列島に到着して、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めさせたが探すことができなかったので、徐福は死刑になることを畏(おそ)れ、徐福一行は東鯷人国に定住して帰国しなかった。
⑵ 東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽港にやってきて交易をする。東鯷人が往来する海の道は遥か遠くまで続くが、中国の人々にとってはこの大海の道は途中で絶えていることになって往来することができない。
 このように、紀元前3世紀においては中国に住んだ徐福一行は日本列島に到着できたが、卑弥呼・壱与が生存した3世紀になると呉の水軍はじめ中国の人々は大海を渡って日本列島に到着できなくなった。
 紀元前1世紀にシナ天文が完成した。紀元前3世紀の徐福一行は〔天頂点をキャッチできた〕から、大海を越えて日本列島に到着できたのである。当時の中国では〔天頂点をキャッチする眼力と技術を鍛錬する習慣〕は衰退していたが、方士・徐福とその弟子たちは天頂点をキャッチする眼力と技術を鍛錬して研ぎ澄ましていたのである。
 紀元前1世紀にはシナ天文が完成した。このシナ天文が最も重視する〔天の北極の高度で緯度を換算する方法〕は不精確であったので、精密に緯度を測定してこそ渡ることができる大海を呉の遠征軍はじめ中国の人々は渡ることができなくなったのである。
 3世紀、日本列島の倭国、東鯷人国、東北地方の人々はシナ天文を習得しておらず、また天の北極を最も重視せずに、日本列島においては〔精密な天頂緯度測定〕を最も重視されていた。
 ゆえに、倭人も東鯷人も、〔天頂点をキャッチする眼力と技術を鍛錬する習慣〕が栄えていた。だから、東鯷人たちは中国人には往来できない大海の道を往来することができたのである。

 〔緯度の測定方法〕には〔天頂点のキャッチ〕と〔天の北極の高度〕の二つしかない。
 『魏志倭人伝』には「朝鮮半島の魏の出張機関の帯方郡の使節の張政一行は倭の使節の船に便乗して倭に渡り、そして魏都に派遣された倭の使節の船に便乗して帰還した」と記すゆえ、倭の使節は天頂点をキャッチして大海を渡ったことになる。
 『魏志倭人伝』の対馬国から卑弥呼が居住する邪馬壱国までの旅程記事における方位によって、日本列島は〔東〕に伸びずに〔南〕に伸びると記述して実際の日本列島地理と異なると証言する。
 したがって、この〔転回日本列島地理〕の証言は卑弥呼王朝が〔天の北極〕をせず、〔天頂点のキャッチ〕を最も重視したことの証明となる。
 もしも〔天の北極〕を重視していたならば日本列島は〔東〕に伸びることになり〔南〕に伸びないことになるからである。また、〔天の北極〕を重視していたならば倭の使節は大海を渡ることができなかったことになるので、倭は帯方郡と魏と国交を結ぶことができなかったことになる。そうすると、『魏志倭人伝』と呼ばれる文献史料はこの世に存在しないことになり、そこに書かれているすべての文字を1字も書かれていなかったことになる。
 『魏志倭人伝』の対馬国から邪馬壱国までの旅程記事が表示する〔転回日本列島地理〕は、この旅程記事以外のすべての方位に合致して矛盾しない。ということは、卑弥呼王朝は“日本列島は〔東〕に伸びずに〔南〕に伸びる”と思い込んで、〔転回日本列島地理〕は正しいと断定していたことになる。
 だから、邪馬台国説学者たちが“絶対に信用してはならない”と主張する〔転回日本列島地理〕は実在した卑弥呼王朝が制定した地理観であり、邪馬台国説は誤読の空論であると証明される。

 『魏志倭人伝』の正始八年・西暦247年の「帯方郡の使節・張政一行が倭に渡った船に便乗した」と記す文中に、倭の使節・載斯烏越(そしあお)が登場する。
 載斯烏越は倭と卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴(くな)国との戦争状況を説明するための使者である。ゆえに、載斯烏越は武将であった。
 正始八年の1年前か2年前、帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)が馬韓(ばかん)の首長を中心とする人々に攻撃されて戦死した。楽浪(らくろう)郡から水軍の応援があって、韓の軍は敗退した。正始八年、戦死した弓遵の後に帯方郡の太守の王頎(おうき)が赴任した。
 帯方郡政庁は、魏の背後の脅威である朝鮮半島・韓国の安定をはからなければならなかった。この朝鮮半島を安定させるために、魏は倭と国交を結ぶものであった。
 したがって、帯方郡と韓との戦いに、軍事同盟を結ぶ倭が支援しなければならなかった。しかし、倭は狗奴国と戦争して兵を派遣できなかった。そこで、武将の載斯烏越が狗奴国との戦況を説明するために、帯方郡政庁に訪れたのである。
 倭の戦乱状況は、朝鮮半島の安定に悪影響となる。倭が狗奴国を討伐して安定すれば、帯方郡と倭の両軍の威力で朝鮮半島の鎮静化がはかれる、これが魏の軍事政策であった。
 だから、帯方郡王頎は魏帝の詔書と魏軍の軍旗の黄幢(こうどう)を張政一行に持たせて、倭に派遣した。つまり、武将・載斯烏越は狗奴国攻撃を指揮する軍王(いくさのおおきみ)となり、魏帝の詔書の主旨に則る檄(げき・軍書)を作り、魏の軍旗をひるがえして狗奴国攻めは決行されることとなった。

 当時、日本列島では最も軍事力がそなわっていたのは呉の遠征軍との戦いを防衛する兵士が集結した新生・日本国であった。
 だから、載斯烏越は小国・日本の軍王であったのである。
 「載斯烏越」の「烏越」は「青」をあらわし、「赤い火の呉軍に勝つ青い水の日本軍」と「18歳の最も屈強な肉体を有する年頃の青年武将」を意味するものであったのである。
 18歳の青年は最も腕力に恵まれ屈強な体力を有するので、堅い土地を原始的な木製の刃のクワやスキで耕作することができる肉体を有する。このような農作業においては、堅い土地が柔らかくなるように「壱与」の[壱]の字源「天から降る大量の雨」を求めた。このように「載斯烏越」は「壱与」とセットとなる人名であるゆえ、載斯烏越は小国・日本の女王の壱与の夫であり、呉の遠征軍との戦いを指揮する軍王であったと考えるべきことになる。
 小国・日本は最も軍事力が備わるものであったので、狗奴国征討は日本国の軍王の載斯烏越が指揮して、倭国と日本国の連合軍によってなされたのである。
 この載斯烏越は233年か234年ころに18歳であったから、狗奴国攻めの軍王になった247年のときは31歳か32歳であったことになる。
 正始八年においては、小国・日本の女王・壱与は26歳か27歳であった。

 「載斯烏越」の[載]について、わが国の中国古代文字研究の第一人者の故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社発行)は「載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行を開始するであろう」と解説し、[載]の字義は「はじめ」とする。
 「載斯烏越」は「日本国最初の〔青い大量の水〕という呪力(じゅりょく)と気力を有する青年の軍王」と表示する名となる。
 白川静著『字統』の[載]の字源解説にある「軍行が開始される」と字義の「はじめ」にもとづくと、載斯烏越は第9代開化天皇ということになる。というのも、[載]の字が示す「開始」・「はじめ」と天皇名の「開化」は類似しあうからである。
 『古事記』中巻の開化天皇紀の初頭記事は下記のごとくである。
 「天皇は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の竹野比売(たかのひめ)と結婚されてお生みになった御子(みこ)は比古牟須美命(ひこむすみのみこと)である。また、継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されてお生みになった御子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)・崇神(すじん)天皇である。」

 開化天皇が居住した宮殿名「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」と「伊耶那美命(いざなみのみこと)」と「伊耶那岐命(いざなきのみこと)」の先頭2字は同一である。
 だから、卑弥呼の墓を作るときの徇葬を憎悪する反乱を鎮静化した壱与は、開化天皇の正妃の竹野比売であり、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命であったことになる。
 『魏志倭人伝』に列記される中に、「伊耶那美命」の先頭2字に合致する「伊耶(いや)国」がある。
 この「伊耶国」の「伊耶」の2字は「霧深き山里、土地のやわらかい耕作がしすい地域」と意味する。
 壱与・竹野比売の出身地の丹波は“霧の丹波”と呼ばれて有名である。ゆえに、「伊耶那国」は旧国丹波、現在の京都府中部と兵庫県の一部を占める範囲となる。
 小国・日本の人民と壱与・竹野比売を敬愛する倭の人々は、〔愛〕の女王・壱与を「伊耶国出身の美しい女王」と讃えて「伊耶那美命」と愛称して熱烈に敬愛していたのである。

|

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・39 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・41 »

学問・資格」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・40:

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・39 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・41 »