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2012年11月26日 (月)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・46

 2012年11月11日の夜9時から放送されたNHKテレビのスペシャル番組「中国文明の謎」における――今から約3300年前から出現した甲骨文字が最古の漢字である――という指摘は完全なる誤報である。

 中国の五経の第一に挙げられる『易経(えききょう)』は「三皇時代に結縄(けつじょう)が作られた」と記述し、私は前々回(44回)のブログで――生活必需品を求めて遠くの地に旅したとき、大海を往来するとき、狩猟に夢中になって見知らぬ山地に足を踏み入れたとき、山菜採りに熱中して森林の奥深く迷いこんだとき、家族が待つ家に帰る術の〔易〕のための記号(図書)が結縄であったことを明らかにした。
 そして、「歳差」と呼ばれる天文現象を用いれば、西安市郊外の丘陵地帯から発見された半坡(はんぱ)遺跡から出土した学者たちが「陶文(とうぶん) 」と呼ぶ図書が包犧(ほうぎ)氏が考案した結縄であり、半坡から東へ数十里の地点に所在する臨潼姜寨(りんどうきょうさい)遺跡から出土した陶文が女媧(じょか)氏が創った結縄であり、半坡から西へ7、8百km離れた青海省楽都県の柳湾(りゅうわん)遺跡から出土した陶文が神農(しんのう)氏が考案した結縄であることを証明した。

 『易経』繋辞下伝(けいじげでん)は「上古は結縄して治まる。後世の聖人これに易(か)うるに書契(しょけい)をもってし、百官もって治める」と記載する。
 この文中に登場する「後世の聖人」は、今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した「黄帝につかえた史官(記録官)の倉頡(そうきつ)」である。
 倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。
 中国とわが国の17世紀の初めのデカルトが提唱した西欧近代科学の合理の考えを取り入れなかった18世紀以前の中国とわが国の先人たちは――今から約6000年前の三皇時代初頭の包犧氏は易のための記号を考案した、しかし包犧氏は漢字を創るものではなかった、漢字は倉頡が考案した書契から起源すると確信していた。

 後漢の建光元年(121年)の安帝に献呈した、許慎(きょしん)が著作した字書の聖典『説文解字(せつもんかいじ)』は――『易経』繋辞下伝にある文のうちの少しの字を改めて「敍(じょ)して曰く、古者(いにしえ)包犧氏の天下に王たるや、仰いですなわち象を天に観、俯してすなわち法を地に観、鳥獣の文と地宜を視(み)る。近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸を物に取る。ここにおいて始めて易を作り、云々」とした文の後に――「倉頡の書を初めて作れるを、けだし類に依って形を象すゆえにこれを文と謂(い)う。その後に形声を相益(ま)すをすなわちこれを字と謂う」と記述して、「文字は倉頡の書(書契)から起源する」と指摘する。

 上記の『説文解字』の敍(序)が示すように許慎をはじめ中国とわが国の古(いにしえ)の学識者たちは、銀河を仰ぎ見て倉頡伝説を正しく理解していた。
 このため、彼らは包犧氏・女媧氏・神農氏が作った結縄は「易」のための記号(図書)であり、三皇の氏族はみずからの氏名を表示することができなかったことを知っていた。また、「包犧」「女媧」「神農」という三皇の氏族名は倉頡が考案した書契によって作られたことをも知っていたので――古代の学識者たちは、漢字は倉頡から起源すると確信していた。
 というのも、銀河を観察すれば倉頡伝説は真実を伝えるものであることが確認できた。
 現在の学者たちは、銀河を観ずに倉頡伝説を荒唐無稽と断定する。

 「漢字」はやはり「漢字」という語のごとく、「漢字」であったのである。
 「銀河」は「銀漢」ともいうので「漢字」という語は「銀漢(銀河)から創られた文字」の省略である。
 「天文」はやはり「天文」という語のごとく、「天文」であったのである。
 「漢字」は「銀漢から創られた文字」であったゆえ、「天に多数の文字ありき」ということが事実となり、「天文」という語は「天に文字ありき」と伝えるものであったのである。
 このように、当然知っていなければまらない基礎的知識である「漢字」と「天文」の語源を、現代の学者たちは誰一人考えようともしない。
 これゆえ、彼らは甲骨文字が最古の漢字であると憶測独断する。

 倉頡伝説は、下記のごとく事実を伝える。
 「太古、黄帝の時代に、倉頡という四つ目の怪人がいて、鳥獣の足跡からヒントを得て、はじめて文字を創り、古来の結縄の法に代えたので、天は祝福して穀物を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞えたというのである。」
 この倉頡伝説を、左に掲載した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネッサンス)の資料B「秋の銀河と夏の銀河」の銀河を目撃すると現代の学者たちの意見は空想であり妄想であることが確認できる。
 倉頡伝説における「天は祝福して穀物を降らせ、死霊が感激して泣く声が夜な夜な聞えたという」という説明は「倉頡が創った文字によって、三皇の氏族はみずからの氏族名が作られるようになったので後世に歴史を伝えることができた。ゆえに、銀河が輝く夜な夜な三皇時代の氏族の死霊が感激して泣いて降る大雨によって、堅い土地は泥のように柔らかくなるので原始的な木の刃のスキやクワを使ってたやすく耕すことができて、豊かな穀物を手に入れることができた」と伝えるものであった。
 したがって、銀河を観れば倉頡伝説は三皇の氏族がみずからの名前をあらわす文字を作ることができなかったことが察知できた。
 ゆえに、先人たちは銀河を観察して漢字は倉頡から起源すると確信していたことになる。

 上記したように古代の学識者(先人)たちは、「漢字」と「天文」という語から「漢字は銀河から創られた」ことを知っていた。ゆえに、彼らは「死霊が感激して夜な夜な云々」という説明を「三皇時代の氏族の名をあらわす文字は夜な夜なあらわれる銀河から創られた」と解釈していた。
 「倉頡」のうちの[倉]と[頁]は、拙著『邪馬台国説は日本を滅ぼす』の106頁の図37に表記した、私が「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河・鬼の身に相当する銀河)」と名づけた銀河から創られた。[頡]のうちの[吉]は「胎児が無事に出産した」とあらわす字であるので、「鬼の姿に似る銀河」の東隣にある、倉頡がすべての漢字を生む母体と定めた銀河を私が「十字の銀河」と名づけた、胎児が出産する女陰がある箇所に相当する「十字の銀河の股」の部分から創られた。
 この「十字の銀河」は[文]の字となった。
 また、「十字の銀河」は[宀(べん)](ウ冠)に「鬼の姿に似る銀河」は[子]の字が加わって[字]の字が創られた。
 「鬼の姿に似る銀河の顔となる銀河部」に両目があり、「鬼の姿に似る銀河の後頭部とアゴとなる銀河」にも〔目〕そっくりの二つの形がある。
 だから、[倉][頁]の字となった「鬼の姿に似る銀河」は、倉頡伝説の“四つ目の怪人”の秘密をあらわして“倉頡は漢字を最初に創った漢字の始祖である”と表示した。
 つまり、倉頡が“四つ目の怪人”であるということは、「漢字」いいかえると「文字」は「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から創られた」と伝えるものであったことになる。
 これゆえ、銀河を観れば倉頡伝説は真実・真理を伝えるものであると確信できる。

 エジソンが電気を発明する以前は光害がまったくなかった。
 したがって、夜な夜な空に輝く銀河から〔文字は銀河から創られた真実〕を知ることができた。
 今日は、銀河を撮影する写真によって〔文字が銀河から創られた真実〕を知ることができる。
 現在の漢字学者たちは、漢字学に基本中の基本である〔銀河の観察〕をまったくおこなわずに、倉頡伝説を荒唐無稽であると言い張る。

 2012年11月11日のNHKテレビが“わが国の漢字学者の第一人者”で紹介した阿辻哲司(あつじ・てつじ)京都産業大学助教授は著書『図説 漢字の歴史』(大修館書店)の10頁で〔蒼頡(倉頡)の四つ目〕について「現代的な観点からいえば荒唐無稽な話である」と指摘する。
 このように、阿辻助教授はじめ現代の漢字学者たちは先端科学者たちがデカルトが提唱した西欧近代科学の致命的欠陥とした“傲慢(ごうまん)な単純化”を用いて「漢字」という語が「銀漢から創られた文字」であるという事実を排除する。

 ちょっと考えれば「漢字」が「銀漢から創られた字」であると分かるはずである――このような基礎的な知識や初歩的な心得を強引に排除する考え方を、1980年代から先端科学者たちは「西欧近代科学の合理の考え方の致命的欠陥“傲慢な単純化”である」と指摘した。
 現代の学者たちは「漢字」という語が「銀漢から創られた文字」と明示するものであることを考えようともせずに傲慢な単純化をもって、倉頡の「四つ目」は[倉][蒼][頁]の字源銀河となった「鬼の姿に似る銀河」には〔四つの目がある〕と伝えるものである事実を排除し、真実を伝える倉頡伝説を“荒唐無稽”と指摘して抹殺する。

 2012年11月11日のNHKテレビの報道が明確に示したように、現代の漢字学者たちは「漢字」が「銀漢から創られた文字」の略称である事実を傲慢な単純化を用いて排除し、今から約5000年前の五帝時代初頭から今から約3300年前の殷代(いんだい)前半期までの“漢字の始祖”の倉頡が考案した原初漢字「書契」の歴史を闇に葬って「最古の漢字は甲骨文字である」と断定する。

 しかし、そうは問屋をおろさなかったのである。
 現代の漢字学は「文字は銀河から創られた」という不可欠にして基礎知識に欠ける、学問の域に達していない、不完全な学術であることが明確に証明できる証拠が存在する。
 というのも、[学]の字源は「古代王朝が厳重な機密にした銀河から創られた文字の知識と芸術」だからである。
 「学問」「学術」の[学]の字源を知らず、また[学]の字源の真実・真理を抹殺する意見はまさに「学問の域に達していない、不完全なもの」と言うべきことになる。

 中国の正史『新唐書』日本伝には――702年に派遣された日本国の遣唐使が「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習い云々」と中国王朝に告げた――という記事がある。
 この記事のとおりに、壬申の乱の後に天武天皇が稍々(やや・少しだけ)夏音文字を習う(復興する)ようにと勅命したところの『古事記』が712年に完成し、『古事記』上巻の随所に多数の夏音文字が〔音〕という注がついて多数記載されて現存する。
 夏音文字は2世紀末から3世紀半ばのわが国の様子を記述した『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名と小国名にも残って現存する。

 このわが国に存在した夏音文字は、今から約4050年前の夏代初頭(後期縄文時代初頭)に伝来した原初漢字、すなわち倉頡が考案した書契であった。
 この夏音文字は、学者たちが「最古の文字」あるいは「漢字の最も古い祖型」と定めた殷代後半の甲骨文字の出現よりも約750年前に日本列島に伝来した。
 したがって、「甲骨文字が最古の漢字である」と主張する学者たちの意見は完全に間違っている。
 「甲骨文字が最古の漢字である」という学説は、「漢字」という語に則って銀河を観察すれば倉頡伝説が真実・真理を伝えるものであると確信できる、この真実・真理を排除する妄想である。

 中国の歴史においては、五帝時代の次が夏代、夏代の次が殷代前半期である。
 ゆえに、702年に派遣された遣唐使は夏代初頭にわが国に伝来したので「書契」を「夏音」と呼称したが、「夏音文字」は倉頡が考案した「書契」ということになる。
 わが国には、今から約4050年前に夏音文字が伝来し、この夏音文字が伝来した痕跡は秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうrっせき)の野中堂遺跡・万座遺跡に明確に残っている。

 私は前回(45回)のブログにて、わが国に夏代の書契・夏音文字が伝来していたことが科学的に証明できる史跡を、下記のごとく8つ指摘した。
❶秋田県鹿角市に所在する大湯環状列石
❷『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作成された静岡県浜松市北区の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵。今日、細江町の行政区域の地図の形として現存する
❸徳川家康が命令して❷の細江町の1千万の大鳥の地上絵を先祖以来約1300年もの長いあいだまもって保存した井伊氏が中心となり、近江彦根の井伊藩近隣7ヵ国12大名が助勢して作成された彦根の3千万坪の“未だ夏音は習わず”と設計する大鳥の地上絵。この彦根の大鳥の地上絵は1603年に着工されて20年後の1622年に完成した。今日、彦根の大鳥の地上絵は滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する
❹家康の遺志を継ぐ将軍秀忠と幕府が、家康から❷の細江の大鳥の地上絵に秘められる夏音文字の学芸の研究を命じられていた小堀遠州に命令して作らせた桂離宮の庭園。家康に30歳で0夏音文字の学芸の研究を命令されて以来、69歳で没するまでの40年間にわたる小堀遠州の夏音文字の学芸の研究成果は桂離宮の庭園に結集されて現存する。この桂離宮の庭園は世界的に有名で、京都市に所在する
❺桂離宮の庭園は後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)の夏音文字の学芸を学習するための施設であったが、“入らぬお節介”と立腹する後水尾天皇は小堀遠州が存命中に一度も桂離宮に行幸しないで徹底的に無視した。そこで夏音文字の学芸の復興を願望した家康の遺志を継ぐ将軍秀忠と幕府は後水尾上皇のために、1655年~1659年にかけて京都市左京区に所在した仏刹修学院跡に離宮・庭園を造営した。したがって、この修学院離宮の庭園もまた、夏音文字の学芸の史跡である
❻桂離宮・修学院離宮と同じ京都市に所在する、枯山水の名園で有名な竜安寺(りょうあんじ)の石庭
❼北九州の宗像(むなかた)大社
❽奈良県桜井市に所在する三輪山の麓の大神(おおみわ)神社と狭井(さい)神社
 このほかに、❾長野県茅野市に所在する中期・後期縄文時代の尖石(とがりいし)遺跡群、❿京都市に所在する金閣寺(鹿苑寺)の庭園なども夏音文字の学芸史跡である。

 わが国には甲骨文字が出現するより約750年前に夏音文字の学芸が伝来し、『魏志倭人伝』には現在残されている漢字音で最古の夏音を伝える文字が人名・小国名に用いられて現存し、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注がついて多数記載されている。
 これゆえ、現在の我々は夏音文字を実際に目に捕えて目撃できる。
 だから、甲骨文字以前の書契の夏音文字は実在する。
 学者たちが“ウソだ!”と否定しても、上記に列記した8つ以上の夏音文字の史跡によって、『魏志倭人伝』と『『古事記』上巻に記載されて夏音文字が実在するものであることはなんびとにも否定できない事実となる。

 学説は、根本的に間違っている。
 上記の夏音文字の史跡によって「漢字」という語は「銀漢から創られた文字」という事実を伝えるものであり、“荒唐無稽”と否定した倉頡伝説はすべて真実を伝えるものと証明される。
 現在の漢字説は先端学者たちが“西欧近代科学の考え方には幾つかの誤りがある”と指摘した、この〔西洋近代科学の誤った考え方から生まれた妄想〕である。
 わが国に存在する夏音文字の史跡によって、現代の学者たちが「文字でない」と抹殺した甲骨文字以前の書契は実在したものであったと否定できない事実となる。

 学者たちは『魏志倭人伝』と『『古事記』上巻に記載されて現存する夏音文字を〔文献批判〕と〔傲慢な単純化〕を用いて抹殺して、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する。
 しかし、学者たちが用いる〔文献批判〕も〔傲慢な単純化〕も古代史学における歴史の真相を知ることができる絶対的な方法ではない。
 古代史学における絶対原理はシュリーマンのトロイの遺跡発見を注目すれば理解できる。

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は約350年後の紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』の記述された。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイ戦争の遺跡を発見した。
 シュリーマンのトロイ遺跡の発見は――先人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、先人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちが文献批判して否定した意見は誤読の空論であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が古代史学には存在することを立証することになった。

 夏音文字は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて現存し、わが国には8つ以上のる夏音文字の史跡が現存する。
 このような文献史料と史跡にもとづいて夏音文字の秘密を研究すると、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の全記事は歴史を伝えるものであることが明白となり、邪馬台国説と日本神話虚構説は〔文献批判〕と〔傲慢な単純化〕を立論基盤とする完全なる誤読の空論、支離滅裂な妄想であることが白日のもとにさらされる。

 夏音文字の研究は、邪馬台国説と日本神話虚構説が妄想であったと証明する他に、三皇時代の結縄と五帝時代から殷代前半期までの書契の秘密を解明することができ、また倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」(「鳥獣の足跡」)を科学的に解明できる。
 さらに、古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)は漢字と同じく銀河から創られたことを科学的に解明・証明できる。
 このような夏音文字の研究によって、わが国の夏音文字は「すべての漢字とエジプト文字が同じ銀河範囲から創造された」と科学的に証明できる、現在、唯一残った世界的にきわめて貴重かつ重大な文字であることも明らかとなる。
 わが国の夏音文字によって、現在の世界の8割から9割の人々が使用している文字の起源が科学的に解明できる。

 字書の聖典『説文解字』は敍(序)において、「包犧氏が〔鳥獣の文〕を発明し、倉頡が〔鳥獣の足跡〕を発明した」と記載している。
 しかし、わが国の夏音文字の研究によって――包犧氏は〔鳥獣の文〕を発明せず、倉頡が発明した〔鳥獣の足跡〕の別名が〔鳥獣の文〕であったことになる。つまり、〔鳥獣の足跡=鳥獣の文〕であったのである。

 倉頡は五帝時代初頭に生存した黄帝につかえる史官(記録官)であった。
 黄帝は東洋最古の医学書『内経』を作った。
 この『内経』はいかにして子どもは誕生するのかすなわち女性の生殖器と子宮における胎児の成長と出産までの研究を主とする人体の研究であった。
 なぜ、黄帝は女性の生殖器と子宮で育つ胎児の研究に興味を抱いたかと言えば、人間にとって〔命〕が最も大事であったからにほかならない。
 当時の人々は遠くの地に旅するときや狩猟や山菜採りに熱中して山地奥深く踏み入れたときに、天の北極の高度を緯度に換算する方法だと不精確となるので道に迷って命を失うことを知っていた。
 当時の人々は天頂点と重なる銀河部位あるいは天頂点と重なること座内やヘルクレス座内の印象深い部位を命を委ねる目印(神)と定めていた。
 彼らは、この目印の銀河部位や目印(星)などが4~6秒ぐらいで天頂点の西から東へ移動する天頂緯度線(軌道)をキャッチする眼力を日々鍛え、精密に緯度を測定しながら天頂点と南もしくは北の目星と結んで子午軸を作って、道に迷わないですむ技
(わざ)すなわち易の術を鍛錬して命が失われないように努力していた。
 この〔命を長らえる精密な天頂緯度と子午軸をキャッチする易〕における心得は――❶妊婦のおなかのように腹部を円くして前に突き出して、天頂を仰ぐ。❷産道を通過する胎児のように無心になれ、必ず天頂点をキャッチする、必ず家族が待つ家に帰るなどと欲を有すると道に迷って落命する――であった。
 ❸当時は、医学が未発達の時代であったから、胎児が産道を通過できないで命を失う事故が多発していた。❹出産時の妊婦は雷のような大き声を挙げるいわゆる怒責(
どせき・いきみ・きばる)という行為が自然発生し、胎児は天から降る雨水と同じ〔水〕とされる羊水によって産道通過が容易になって命を得る。
 この❹の状況に類似して、当時の人々は、❺雷が鳴って降る雨によって泥のようにやわらかくなった土地を原始的な木製の刃先のクワやスキを使って耕し、降る雨で育った作物を食糧にして命を確保していた。
 このように当時の状況は、〔天頂緯度測定するときのポースと心得〕と〔女性の生殖器と胎児出産状況〕と〔原始的な
農業〕は「命」に直結する共通事項であった。
 ゆえに、黄帝の医学研究は女性の生殖器と胎児の出産の状況が中心となったのである。

 この黄帝の女性の生殖器と胎児の出産の研究成果をあらわすことができる文字を創るのは、記録官の倉頡の役目であった。
 当時、黄帝が居住した本拠地であったと推測される黄帝陵(北緯35度36分)の天頂緯度線は上記した私が「十字の銀河」と名づけた、その「十字の銀河の頭部のほぼ中央部」を貫通し、北緯32度近辺の揚子江が流れる南京市や少し南方の長江口や上海市の天頂緯度線は「鬼の姿に似る横顔の口よりやや下部」から「十字の銀河の子宮部」を貫通し、黄帝軍が遠征した華南地方の北緯30度付近の杭州湾・紹興市(『魏志倭人伝』に記載される呉の会稽)の天頂緯度線は「十字の銀河の左足」を貫通していた。
 このように中国大陸の天頂にめぐってきた「十字の銀河」を、上記したように、倉頡は[文]と[宀]の字と定めた。
 倉頡が[子]と定めた胎児や新生児に相似する「鬼の姿の似る銀河の頭の上に生える一本の角
(つの)の部分」を、黄帝陵の天頂緯度軸が貫通していた。杭州湾の天頂緯度軸は「鬼の姿に似る銀河の顔のアゴの南端」を貫通していた。
 「十字の銀河」の[宀]に「鬼の姿に似る銀河」の[字]が加わって[字]という字が創られた。
 したがって、「文字」は「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」となるので、【文字】は【銀河各部の形状】から創られたことになる。

 中国大陸の天頂にめぐってきた「十字の銀河」の西半分は〔乳房と円い妊婦のおなかと生殖器に観える形状部〕があり、西に向かって歩いて進む女性の側身形となる。
 「十字の銀河」の東半分は〔左手に弓または刀を持つ男性の姿〕に相似し、東に向かって歩いて進む男性の側身形となる。
 「十字の銀河」の胴体部の中央よりやや東に寄った部分に〔女性と男性の姿に分ける縦に子宮部の東横まで、木の幹の割れ目(裂け目)のような暗黒天体部の細い縦線〕が存在する。
 このように「十字の銀河」の胸部から腹部まで暗黒の縦線で分かれるも、頭部・両手・両足は一体となっているために西に向かう女性と東に向かう男性の姿が交錯する形状となっている。
 ゆえに、『説文解字』は[文]の字源となる「十字の銀河」の形状を「錯
(まじ)はれる畫(くわく)なり。交文に象(かたど)る」と解説したのである
 倉頡は〔乳房の形、妊婦の円くつきでたおなかの形、この腹部に相当する腰の箇所に生殖器に相当する形〕を有する「十字の銀河」を〈すべての漢字を生む母〉と定めた。
 さらに前述したように、「十字の銀河」を[宀]の字とし、“四つ目の怪人”と呼ばれた四つの目を有する「鬼の姿に似る銀河」を[子]の字と定め、[宀]に[字]を加えて[字]の字になると定めた。
 したがって、[文]と[字]の字は「十字の銀河の母体から万物の情に類似して図案すれば多数の文字を生む(創る)ことができる」と示すことになった。

 さらに倉頡は、漢字にする銀河の範囲を定めた。
 〔夏の星座が漬
(つ)かる銀河〕は「夏の銀河」と呼ばれる。この「夏の銀河」は最も巨大で明確な形を有する。
 〔秋の星座が漬かる銀河〕は「秋の銀河」と呼ばれるが、子午線通過するときに東部・西部に分かれるうちの「秋の銀河の東部」は形が不鮮明な銀河であるので漢字を生む範囲から除外された。「秋の銀河の西部」は天頂にめぐってきた明確な形の「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」からなるので漢字を生む範囲となった。
 上記したように「秋の銀河の西部」が正確な名称となるが、いちいち「秋の銀河の西部」と表記するのは煩
(わずら)わしいので、「秋の銀河」と省略することにした。
 ゆえに、拙著『邪馬台国説は日本を滅ぼす』では「秋の銀河と夏の銀河」という名称に定めた。
 なお、「鬼の姿に似る銀河」は「秋の銀河」と「夏の銀河」の中間に存在することになる。
 〔春の星座が漬かる銀河〕の「春の銀河」と〔冬の星座が漬かる銀河〕の「冬の銀河」を、倉頡は漢字を生む銀河の範囲から除外した。
 ゆえに、倉頡は漢字を創る銀河の範囲を広大な「秋の銀河と夏の銀河」と定めた。

 中国と日本には、鳰(にお・カイツブリ)、ハジロカイツブリ、ミミカイツブリ、アカエリカイツブリ、カンムリカイツブリの1属5種のカイツブリが生息する。
 「夏の銀河の全範囲(さそり座がある南端から鬼の横顔に似る銀河まで)」はペンギンのように二足歩行の姿勢となって〔鳰が歩く姿〕に相似する。漢字を創る銀河の最北の端は「三つ輪の銀河」である。この「三つ輪の銀河」の最北の「円形の銀河の北端の鳥や獣の首の形に似る銀河」は〔鳰の顔〕に観え、「円形の銀河」は〔鳰の浮巣〕の形に相似する。
 したがって、〔鳰〕は〔漢字を創られた銀河の全範囲〕を表示することになった。
 〔鳰の顔〕に見立てられた「円形の銀河の北端の獣の首の形に似る銀河」は獣の〔ジャコウウシの顔〕にも観え、「円形の銀河」は〔天敵のオオカミに襲われたとき、ジャコウウシの群れが子を真ん中に隠して構える円陣〕のようにも観える。「ジャコウウシ」は[牛]の字源となった。「円形の銀河」には無数の星がひしめくゆえ、「ひしめく」は「犇めく」となった。というのも、[牛]の字源の「ジャコウウシ」は以前(五帝時代)において100頭以上の群れがごくふつうであったからである。ジャコウウシの子を中心にして円陣を組む防衛法の〔円陣〕は〔女性の骨盤〕に見立てられ、〔真ん中に隠す子ども〕は〔骨盤に包囲される子宮に宿る胎児〕に見立てられて、「陣痛」(子どもが生まれようとするときの腹の痛み)の語源となった。
 『説文解字』は字義が「小鳥」となる[隹]の字源を「鳥の短尾なるものの總名なり」と解説する。鳰はカモの仲間よりは一回り小さく、“尾が無い”と指摘されるほど短い尾を有するので、[隹]の字源は「鳰」となる。
 「十字の銀河の子宮部」は〔鳰の顔と頸
(くび)〕の形に見立てられて[隹]の字源となった。「十字の銀河」は〔西に向かってすすむ女性と東に向かってすすむ男性の姿〕に観えるので、[行]=之繞(しんにょう)に[隹]の字が加わる[進]は「すすむ」をあらわす字となった。
 [隹]の字源銀河の「十字の銀河の子宮部」は〔鷹の顔や頸〕の形にも観え、子宮は胎児の成長に伴い鳰が鷹になるように大きくなるので、〔鳥〕にも見立てられた。

 以上のごとく、倉頡が〔すべての漢字が生まれる子宮部〕と定めた「十字の銀河の子宮部」は〔鳥の鳰〕にも〔獣のジャコウウシが円陣の真ん中に隠す子ども〕にも観える。
 〔女性の生殖器〕は〔鳥の鳰とハジロカイツブリ〕の側身形に相似し、〔子宮に宿る胎児〕は〔ジャコウシ〕の側身形は類似する。
 「十字の銀河」は[文]の字となった。
 だから、倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の文」と呼ばれたのである。
 「十字の銀河の子宮部」は指の数は3本しかないけれども〔人の足底〕また〔人の足跡〕の形に相似し、「十字の銀河の妊婦の円いおなか」となる部分は「十字の銀河の右足」にも観える。
 ゆえに、倉頡伝説では漢字作成原理は「鳥獣の足跡」という名で呼ばれた。
 だから、「鳥獣の文」と「鳥獣の足跡」は同義で、両者とも倉頡が発明した漢字作成原理の名称であったことになる。

 字書の聖典『説文解字』は、『易経』繋辞下伝に記載される「鳥獣の文」は三皇時代初頭の包犧氏が発明し、倉頡伝説に登場する「鳥獣の足跡」は倉頡が発明したものとする。
 しかし、三皇時代の〔易〕について考え、また当時の人々の〔生活と命の関係〕を考え、また黄帝が作った『内経』について考え、さらに銀河とわが国に存在する上記の夏音文字の史跡を調査すれば、「鳥獣の文」と「鳥獣の足跡」の両者はともに倉頡が発明した漢字作成原理の名称であったことが明らかとなる。
 学者たちは「鳥獣の足跡」を「雪や土の上に残った鳥獣の足跡をヒントにして文字が創られた」と解釈するが、この解釈は「漢字」や当時の〔命〕の状況についての基本的知識についてまったく考慮せず、〔傲慢な単純化〕を用いてこじつけた空想にして妄想であるたことが否定できない事実となる。
 中国では『説文解字』が著作された2世紀初頭において夏音文字は失われていた。しかし、わが国では18世紀前半期までは夏音文字の学芸は保存されていた。
 このことは、中国では漢字作成原理と書契の秘密を科学的に解明できないことを示すものとなる。さらに、中国の史料では古代エジプト文字が漢字と同じ銀河範囲から創られた秘密をも解明できないことを示すものとなる。
 だから、わが国の文字だけが文字は銀河各部の形状から創られて起源したことを科学的に証明・解明できる現在において唯一残った貴重な文字ということになる。

 倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」は、現在の先端科学の分子生物学のDNA遺伝子理論と共通する。
 分子生物学ではDNAという小さな場に大きな情報が入っていると考える。
 ゆえに、倉頡の漢字作成原理は――小さな場の「十字の銀河」には「秋の銀河と夏の銀河」の大きな銀河範囲の各部の形状の情報(イメージ)が入っている。ゆえに、「十字の銀河の子宮部」を「女性の子宮・産道」のごとくに見立てれば、多数の文字を生むことができる――と考える。
 このように、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」はDNA遺伝子理論と共通する。
 実際、DNA遺伝子理論はデカルトが提唱した西欧近代科学の考え方では成立しないが、東洋の古来の考え方ならば成立するので確立された――と多くの先端科学者たちが発表した。
 1980年代に入ると、先端科学者たちはいくつかの国際会議を開き、西欧近代科学の考え方には無秩序から秩序の創造ができない、傲慢な単純化をする(複雑なものを複雑なものとしてあつかわずに構成する要素に還元できると考える)など、幾つかの欠陥があると警告した。
 学者たちは西欧近代科学の傲慢な単純化を用いて、「漢字」の語源が「銀漢から創られた文字」である事実を無視し、銀河を観れば倉頡伝説が事実であることが容易に知ることができる事実を排除する。
 また、先端科学者たちが西欧近代科学を超越する壮大な理論と注目した東洋の神秘思想を伝えるわが国における数々の夏音文字の史跡によって、甲骨文字を最古の漢字と断定した学者たちの意見は西欧近代科学の〔傲慢な単純化〕と西欧近代科学から産まれた〔文献批判〕とでこじつけた
空理空論であることが否定できない事実となる。

 文字は強大な政権基盤と巨万の王朝の富と最高の名誉と帝王にふさわしい叡智を手に入れる方法となった。
 倉頡は文字の学芸を反体制側が手に入れて革命に利用したならば、容易に王朝が滅亡すると心配した。

 これゆえ、倉頡は文字の学芸を王朝が独占管理して厳重な機密にするという法(掟)を定めた。
 この掟によって、❶文字は銀河から創られたという秘密を暴露した者、❷書いた文字が用済みになったら直ちに消せない者、あるいは消し忘れた者、❸文字が銀河から創られたことに気づいて者にあって直ちに体制側に参加することを拒み抵抗する者、❹文字の学芸を習得しやすくするために銀河各部の形状に名称をつけた者などを、死刑にすると定めた。
 だから、【書契・倉頡文字(五帝時代、夏代、殷代前半期の漢字)】は【銀河各部の形状】となった。
 このため、中国の書契に相当する文字の出土例は10種(10字)あるかないかの状況となって極めて少ない。

 「銀河から文字を創る」の[創]の右側は[刅(そう)](立刀・りっとう)は「倉頡が定めた法を犯した者を死刑にする刀」をあらわす。
 ゆえに、[刑]や[罰]にも[刅]の字が加わる。
 また、「鋭利に切れる」の[利]にも[刅]の字がある。ゆえに、[刅]は「狩猟した獲物を解体するときに用いられたと考えられる刀、すなわち考古学者たちが“細刃器(さんじんき)”と呼ぶ道具」であったと考えられる。
 “細刃器”は「剃刀(かみそり)のように鋭利に切れる石器を木の割れ目に数個をならべてはさんで膠(にかわ)やコールタールなどで固めた道具」である。
 この〔“細刃器”の発明〕は「賢い」を意味する「利口」の語源となり、細刃器は犁(すき)や木の枝を伐採する刀や木の幹を切るノコギリにも用いられたので後世の「便利」の語源となるものであったと考えられる。
 というのも、銀河を観ると、「細刀器」が「利口」の語源であると推理でき、細刃器が獲物を解体するときの刀・犁・木の枝を伐採する刀・木の幹を切るノコギリなどになったと推測できるからである。

 そして、『古事記』の序が指摘するように、【殷代後半期の甲骨文字、周代の金文、その後の篆文、隷書、隋代に完成した楷書】もまた【銀河各部の形状】ということになる。
 というのも「楷書」も「漢字」であり、【漢字】は【銀漢から創られた文字】であるからである。
 事実、【楷書の字源・字形・字義】の秘密を【銀河各部の形状】で知ることができる。
 書契から楷書そして今日の中国の簡略字とわが国の当用漢字までの歴史はいかに簡略に文字を筆記できるかの進化であって、【銀河各部の形状】から脱皮できないまま、書契と同じ立ち位置に踏み止まっていたのである。
 学者たちは、【現在の中国の簡略字とわが国の当用漢字】も【銀河各部の形状】であることに気づかないが、【すべての漢字】が【銀河各部の形状】であることは事実である。
 というのも【現在の漢字の字形】にも【銀河各部の形状】の面影が残り、【現在の漢字の字源・字義】を【銀河各部の形状】で知ることができるからである。
 中国の簡略字と日本の当用漢字を比較すると、中国の簡略字のほうが銀河各部の形状に類似しない。だから、中国の簡略字のほうがより進歩的な漢字ということになる。

 倉頡は文字の学芸を厳重な機密にするために、〔字形を南を正面にして見たときの銀河各部の形を北向きに直し、この北向きにするときに裏返しにする〕と定めて複雑化した。
 この倉頡が定めた漢字の字形定式を考えると、頭が壊れるかと思うぐらい複雑きわまりない。したがって、この複雑きわまりまい字形定式は、反体制側の人々が文字の学芸を容易に習得できなくするために倉頡がおこなった対策であったことになる。
 この倉頡が考案した字形定式は殷代後半期の甲骨文字に受け継がれ、以後もまったく変わらずに保持されて現在の中国の簡略字とわが国の当用漢字に受け継がれている。
 日本語の「内裏(だいり)」は「禁裏(きんり)」とも言い、「天皇の御殿。皇居」を意味する。
 この「内裏」「禁裏」は倉頡が定めた漢字の字形定式の秘密を伝える語であると考えられる。
 つまり、「内裏」という語は「漢字の字形は南を正面にした形を北向きに転回し、そのときに内側へと裏返しにする」、「禁裏」という語は「暴露することを厳重に禁止された銀河から創られた漢字の字形定式における裏返しの秘密」を省略したものと考えられる。

 『魏志倭人伝』には人名・小国名に用いられて夏音文字が現存する。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「魏の都・帯方郡・諸韓国と倭女王・卑弥呼が送ったり受け取ったりする文書の文字は差錯(ささく)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検し、確認して、間違いが生じないようにしている。」と書く記事がある。
 この「差錯」という語は「新しい文字と古い字とで相違する」と示すゆえ、「魏都・帯方郡・諸韓国の文書に用いられる漢字」が「新しい文字」、「卑弥呼が書いた文書に用いられた文字」すなわち「夏音文字」が「古い文字」となる。
 『魏志倭人伝』には「倭の易に用いられる卜辞は令亀(れいき)の法の如く云々」と指摘する記事がある。この「令亀の法の如く」という語句は「亀の甲羅に刻む甲骨文字の卜辞の如く」と意味する。
 この「甲骨文字の如くの卜辞の文字」といえば、上記の数々の史跡に保存され、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『万葉集』に記載されて現存する夏音文字以外に存在しない。
 しかし、夏音文字が出土した事例や史料はほとんど発見されていない状況である(実際には存在するが、その事例はごくわずかしか存在しない)。
 夏音文字は書契であったゆえ、倉頡が定めた掟を厳重に守って、書いた文字は用済みになると必ず消されていた。
 だから、出土しないものの、夏音文字は実在した文字であったことを明示して『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『万葉集』に記載されて現存する。
 以上のごとく、現在の学者たちの漢字研究の意見は西洋近代科学の〔傲慢な単純化〕と〔文献批判〕を立論基盤とする、基礎的知識と基本的な事実を排除して構築したところの空論であり錯覚であることになる。

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