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2012年11月15日 (木)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・44

 先日の11月11日の夜9時から放送したNHKテレビは「中国文明の謎」で――今から約3300年前に出現した殷代の甲骨文字を最初の漢字である――と指摘した。
 しかし、この指摘は誤報である。

 わが国には甲骨文字が出現するよりも約750年前の今から約4050年前に、中国から夏(か)王朝2代の帝王となった孫の王子(天祖)と若者たちが大海を越えて日本列島に移住し、夏音文字を根づかせたからである。
 この夏音文字の歴史は、わが国に明確に残る。
 しかし、学者たちは「文献批判」という名の「誤読」を用いて、夏音文字の歴史を抹殺してしまった。
 このため、NHKテレビは甲骨文字を“最古の漢字”と指摘したのである。

 日本古代史学は〔文献批判〕いう名の〔誤読〕に支配される。
 これゆえ、「わが国おいて5、6世紀に始めて漢字を習得した」と断定する定説が〔誤読の空論〕であることに日本の学識者たちや作家たちはまったく気づかない。
 だから、彼らは日本古代史の真髄を深く理解するものではない。
 このため、前回にとりあげた7つの夏音文字の史跡や『古事記』上巻や『万葉集』や『竹取物語』に明確に示された、日本建国の〔愛〕の理念が日本人の命と魂の原点となったことについて彼らはまったく気づいていない。
 先人たちは“愛あざやかに永遠であれ”と願った。
 3世紀後半に伊耶那美命によって提唱された日本建国の〔愛〕の理念は熱き魂から熱き心に受け継がれて1738年まで伝承され保存された。
 この日本建国の〔愛〕の理念を滅ぼさないために、甲骨文字の出現よりも750年前にわが国に伝来した夏音文字は先人たちによってはまもられて1738年まで保存され、前回に紹介した7つの史跡が作成されて現在まで残ったのである。

 わが国の〔誤読〕が正体の〔文献批判〕を絶対視する学者はじめ学識者や作家たちの怠慢と不勉強のために、日本国民が知る権利を有する日本建国の〔愛〕の理念がことごとく排除された。
 そして、7つの史跡に保存された夏音文字の学芸は人類が文字を銀河から発明した秘密を科学的に解明できる世界中でたった一つだけ残った方法である可能性が大である。
 この夏音文字で世界の文字に起源を科学的に解明できる貴重な方法も、〔文献批判〕を絶対視する学者たちによってことごとく闇に葬られてしまった。
 わが国に保存された原初漢字の夏音文字を研究すると、現在世界の8割から9割の人々が使うABCアルファベットはじめ漢字などの文字は銀河から発明されたことが科学的に証明される。

 漢字が起源した中国においては『魏志倭人伝』が著作された3世紀後半、漢字が銀河から創られた秘密を後世まで保存する気運を失っていた。
 ヨーロッパ、アメリカ、アフリカなど世界70ヵ国以上で公用語の文字として使われるABCアルファベットは古代エジプト文字(ヒエログリフ)から起源する。古代エジプト王朝は紀元前30年に滅亡したので、今日、古代エジプト文字が銀河から創られた秘密を科学的に証明することができなくなった。
 しかし、わが国の夏音文字には【銀河各部の形状】が【文字】であった確かな文献(『易経』繋辞伝、『老子』上篇、『説文解字』、『魏志倭人伝』、『古事記』上巻など)と7つの史跡が現存する。
 だから、世界の文字は銀河から発明された秘密が科学的に解明できる。

 【人類最初の文字】は【銀河各部の形状】であったのである。
 中国でもエジプトでも文字は最も強大な政権基盤・王朝の巨万の富を得る方法・最高の名誉を手に入れる方法であったので、反体制者が文字の学芸を手に入れると王朝が容易に崩壊することを心配した。ゆえに、中国においては【銀河各部から創った原初漢字】を書いた後に用済みになったならば文字を直ちに消さない者は死刑と定めた。
 エジプトにおいても銀河の形状から神話を創り、その神話を説明する文字(聖刻文字)を銀河から創ったことに気づいた者は体制側に組み入れ、抵抗して「銀河から文字を創った」と暴露した者は死刑にした。
 太平洋の東端に浮かぶイースター島の高さ9mにも及ぶ巨大な石像モアイの姿は漢字や古代エジプト文字が創られた夏の銀河像に相似する。したがって、イースター島のコハウ・ロンゴ・ロンゴという文字板に記された未解読の謎の象形文字も銀河各部の形状から創られたにちがいない。しかし、古代中国王朝と古代エジプト王朝と同じくイースター島においても「文字が銀河各部の形状から創られた」という秘密は王が独占管理する厳重な機密であったことになる。というのも、モアイ像の中には天を仰ぐ石像もあり、また夏の銀河像にそっくりな石像があるにもかかわらず、銀河各部の名称が存在しないからである。
 不思議なことに、世界中を探しても各星座よりも形が明確な銀河各部の名称が存在しない。中国とエジプトはじめ古代インダス文字を創ったインドにもマヤ文字を発明した中南米においても、天文学が栄えたアラビアにおいても銀河各部に名称をつけなかった。
 これは、世界の文字が銀河各部から創られ、この秘密を世界中の古代王朝が一様に独占管理して厳重な機密にした名残りと考えざるをえない。

 確かな文献史料の「文字は銀河各部の形状から創られた」と解説する証言と7つの史跡によって、わが国において1738年まで保存された【夏音文字】は【銀河各部の形状】であったと科学的に証明できる。
 ゆえに、世界の古代文字が銀河各部の形状から創られた歴史は、わが国の夏音文字によって科学的に解明できる。
 しかし、わが国の学者たちは「漢字を始めて習得したのは5、6世紀である」という定説に固執し、また古代文献史料に記載された「原初漢字は銀河各部の形状であった」という証言を〔文献批判〕という名の〔誤読〕で抹殺し、「5、6世紀以前にはわが国には文字が無かった」と嘯(うそぶ)くので、わが国における最も重大な夏音文字の学芸と、夏音文字で記載された日本建国の〔愛〕の理念が抹殺された。

 もしも夏音文字の歴史が抹殺されなかったならば、日本国の最高理念は〔愛〕ということを全国民は知って、男女が愛しあうことを大事にして出生率を高めていたにちがいない。
 今朝(11月16日)の朝日新聞の特集記事・耕論のテーマは「亡国って」である。
 フランス文学を研究する明治大学教授の鹿島茂氏の主張は「『恋愛は面倒』で人口減る」と題され、辞書コレクターのサンキュータツオ氏の主張は「『らしさ』揺らいで『国』探し」という題となる。
 この両論を読むと、先人たちが絶対に失うことができないと熱い心から熱い魂へ受け継がれた日本建国の〔愛〕の歴史が学者たちの〔文献批判〕で抹殺されていなかったならば、現在、日本は亡国を論ずる必要がまったくなかったにちがいないと思わざるをえない。
 したがって、現在において亡国を論じたり考える必要があるほど日本が窮乏した原因は学者たちが〔誤読=文献批判〕を用いて夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を抹殺したことに原因がある。
 だから、夏音文字の学芸の歴史と日本建国の〔愛〕の理念を抹殺した文献批判学者たちは日本民族を虐殺する人々ということになる。

 甲骨文字が出現した時より約750年まえ、わが国に夏音文字が伝来した。
 この夏音文字を、学者たちは〔誤読〕を用いてことごとく闇に葬った。
 11日のNHKテレビの“甲骨文字を最古の漢字”という指摘は誤報であった。
 この誤報は、学者たちが日本建国の〔愛〕の理念を抹殺し、世界の文字の起源が科学的に解明できる夏音文字の歴史を抹殺するものであったからなされたことであったのである。
 夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名として現存し、また『古事記』上巻の随所の〔音〕という注が付いて多数の夏音文字が記載されて現存する。
 だから、学者たちは「誤読」を用いて日本古代史に明確に残った夏音文字の歴史を抹殺してしまったことは否定できない事実となる。

 この夏音文字について、『魏志倭人伝』は「倭の占いに用いる卜辞は令亀(れいき)の法のごとし」すなわち「倭の卜辞に用いる字形は殷代後半の亀の甲羅に刻んで記した甲骨文字のごとくであった」と伝える。
 夏音文字の学芸は、司馬遷(しばせん)著『史記』五帝本紀の帝王・堯(ぎょう)と帝王・舜(しゅん)の時代の歴史が語られる記事に登場す名門・益氏によってわが国に伝来した。

 益氏の日本列島移住は『日本書紀』神武天皇初頭部の天祖降臨説話に記載される。
 また、『古事記』上巻の天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話において、益氏の歴史が表示されて益氏の日本列島の移住が示唆される――つまり、この説話においては、夏音文字の学芸に精通する人物こそが天下を治める最高位の大王にふさわしい。ゆえに、大和王朝を治める天照大御神が夏音文字の学芸に最も精通していることを示すために、天照大御神の孫の天孫が率いる遠征軍は司馬遷著『史記』夏本紀に記載される帝益の箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)したという記事を再現し演出した――と伝える。この歴史は筑紫地方の「鳥栖(とす)」や「基山(きざん)」という山の名や宗像(むなかた)大社の辺津宮創設に秘められて現存するものとなる。
 司馬遷著『史記』陳杞世家(ちんきせいか)は「益氏の子孫は、どこに封ぜられたか不明である。史伝に記載されていないからである。益氏は唐虞(とうぐ・五帝時代の帝堯と帝舜)の時代に、功徳をもって令名のあった臣下である。益氏の先祖は帝になった」と伝える。
 このように、名門益氏は中国の歴史から忽然(こつぜん)と消えている。
 というのも、益氏を後継する王子と若者たちが日本列島に移住したからである。

 “夏の始祖”である帝禹(う)は五帝時代以来の国家を作らず多数の氏族が共同で治め、多数の氏族から最も優秀な人物が帝王となる氏族共同体制の継続を願った。
 しかし、帝禹の息子の啓(けい)は国家を樹立して禹・啓の一家の子孫が帝王を世襲するという、世襲王朝国家体制の創設を欲求した。
 ゆえに、禹は彼の政事を補佐した益に天下をさずけて、崩じた。
 三年の喪が終わると、益は位を啓にゆずって、箕山の南に隠棲した。
 というのも、諸侯は禹の遺志である氏族共同体制を望まず、啓が提唱する世襲王朝国家体制を望んでみな益から去って啓のもとに入朝したからである。
 箕山の南に移住した益は禹の遺志を受け継ぐため、新天地日本列島への移住を決意した。
 日本列島に移住するためには、荒波逆巻く大海を小舟で何日も漕いで渡らなければならない。ところが、帝益は老いて何日も小舟を漕ぐ体力を失っていた。
 だから、禹の遺志を受け継ぐ大海を越えて日本列島に居住する事業は、力みなぎる腕力と屈強な肉体を有して荒波逆巻く大海を幾日も漕ぐことができる帝益の孫の王子と若者たちによっておこなわれた。
 禹の遺志を受け継ぐ日本列島移住は益氏の後継者である若者たちによっておこなわれたので、中国に残った益氏は若者不在となって後継者が失われたの滅亡したか他の氏族に吸収されて消滅したにちがいない。
 これゆえ、上記した司馬遷著『史記』陳杞世家に「益の子孫は、どこに封ぜられたのか不明である云々」と記述されることになった。

 益氏の若者たちが移住したために、夏音文字の学芸は日本列島に根づいた。
 益氏の日本列島移住は禹の氏族共同体制の継続の遺志を受け継ぐものであったために、中国から約2200年も遅れた2世紀末に卑弥呼によって国家が始めて樹立されることとなった。
 白川静著『字統』は[卑]の字について「金文にはなお卑賤の用義例はない」と指摘する。ゆえに、周代に用いられた金文の[卑]は「賤(いや)しい」と意味するものではなかったのである。
 金文の[卑]と[俾]の字形は同一であるので、[俾]も[卑]も同義にして同字源であったことになる。字書の聖典『説文解字』は[俾]の字源「益なり」と解説する。中国の歴史においては、益は帝禹の政事を補佐したことで有名であるから、[埤]と[裨]の字義は「おぎなう。たすける。補佐する」となった。
 ゆえに、[卑]の字源は[益なり」であり、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」という名は「益氏が伝えた夏音文字の学芸に精通する」と誇示するものであったことになる。

 121年に後漢の安帝に献呈された許慎(きょしん)著『説文解字』は[卑]の字源を「賤しきものなり」と解説する。だから、中国では2世紀初頭に[卑]の正しい字源を失っていたことになる。
 文献批判学者たちは、この『説文解字』の[卑]の字源解説を利用して“倭女王の名に「賤しい」と意味を有する字を配しても気づかなかったのは、この時代に文字が無かった何よりもの明確な証拠である”と主張する。
 しかし、当時、倭の最も強力な政権基盤は夏音文字の学芸であったので、倭女王は「卑弥呼」と名乗って“夏音文字の学芸に精通している”と明示して天下を掌握していたのである。
 『魏志倭人伝』は「魏の都と魏の出張機関がある朝鮮半島の帯方郡と諸韓国の文書と卑弥呼が書く文書の文字は差錯(ささく)していた」と記述する。
 この「差錯」という語は「新しいものと古いものが錯(まじ)わる」と意味するものである。
 だから、『魏志倭人伝』は「魏都・帯方郡・諸韓国の文字は新しい漢字(隷書に近い楷書)であるのに対して、卑弥呼が用いる文字は甲骨文字のごとき古い漢字であった」と伝えていることになる。
 これゆえ、『魏志倭人伝』は「倭においては、伊都(いと)国の港で差錯する魏都・帯方郡・諸韓国と卑弥呼が書く文字を捜露(そうろ)する、すなわち点検して確認して相通じるようにしていた」と記述する。

 卑弥呼によって夏音文字の学芸は国家を統治できる強大な政権基盤であり、王朝の巨万の富を手に入れる方法となり、最高の名誉を得る方法ということが明確となった。
 卑弥呼の後に男王が倭の最高位の大王となり、この後を壱与(いよ)・伊耶那美命が倭女王となり、壱与・伊耶那美命の後を、天照大御神・崇神(すじん)天皇の生母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が倭女王となった。
 当時は夏音文字の学芸が国家を統治できる最も強力な政権基盤となるものであったので、伊迦賀色許売命は「天照大御神」と名乗った。
 というのも「天照大御神」という名は“天を照らす夏の強い陽射し”と表示するものであるから、「夏音文字の学芸に精通する」とあらわすものとなったからである。
 このように、「卑弥呼」と「天照大御神」のいう名は「当時、夏音文字の学芸が最も強力な政権基盤であった」と明示するものとなる。

 『日本書紀』神武天皇紀の益氏の日本列島移住の歴史は天祖降臨説話に記述され、下記のごとくである。
 「昔、わが天神(あまつかみ)の高皇産巣霊尊(たかみむすびのみこと)と大日孁尊(おおひるめのみこと)は、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)をすべてわが天祖の彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた。そこで、天祖は天のいわくらを開き、雲路をおしわけて、先ばらいを立てて地上に降臨された(日本列島に移住した)。このとき、この日本列島は荒れはてて草昧(そうまい)であった。ゆえに、みずから学芸を養い正しい政事を示して西の偏(ほとり)を治めた。」

 天祖(帝益の孫の王子)と益氏の若者たち一行は東北地方の男鹿半島東方の秋田県潟上(かたがみ)市の天王(てんのう)町に上陸したと考えられる。
 この天王町・船越水道の東岸から緯度軸に対して60度となる地点は、秋田県山本郡三種(さんしゅ)町の鹿渡(かど)となる。
 この鹿渡に、益氏は定住したと考えられる。
 地図において明確に示されるように、八郎潟の東岸に所在する鹿渡は東北地方の西の偏(ほとり)である。だから、鹿渡は『日本書紀』に記載された天祖の居住地「西の偏」に合致する。

 この「西の偏」の鹿渡から緯度軸に対して夏至の日の出の方角(29度の東北)に国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)が所在する。
 この鹿渡から大湯環状列石の角度の「夏至の日の出の方角」は「夏音文字の学芸」をあらわすものとなる。説明するまでもなく、「夏至の日の出の方角」の「夏至」から「夏音文字」が容易に連想できるからである。

 大湯環状列石は花輪(はなわ)盆地の一角の秋田県鹿角市花輪町の中通りに所在する。
 地図に示されるように花輪盆地の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)は〔花冠〕の形となる。
 司馬遷『史記』五帝本紀は――益氏は今から約4250年前ごろの五帝時代の最後の帝王・舜(しゅん)の時代に「虞(ぐ)」という官に任命された――と記述する。この「虞」は」天頂緯度を精密に測地して三角測量をして、中国全土をもれなく包みこむ精密海岸線地図を作成する官職」であった。このことは、前回に列挙した7つの夏音文字の史跡を検証すれば科学的に解明できる。
 約200年間も益氏は精密地図作製を官職に就くものであったから、鹿渡から夏至の日の出の方向にある盆地の形が〔南北二片に分かれる花弁とその中央が東から西へめしべ・子房供の形〕になっていることを天頂緯度測定と三角測量をおこなって明らかにした。だから、この盆地の名は「花輪盆地」となった。
 益氏の精密地図を作製する地理学の方法は『日本書紀』に登場する「阡陌地割(せんぱくちわり)」である。
 大湯環状列石は〔めしべと子房部の連結部〕となる地点に立地する。
 ゆえに、「花輪盆地」という地名は『易経』繋辞下伝(けいじげでん)の漢字起源記事の「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」という文中の「地宜」の秘密をあらわすので、わが国に夏音文字が伝来したことを示す。

 国の特別史跡の大湯環状列石は県道をはさんで、野中堂遺跡と万座遺跡がある。
 県道の東側は直径42mの野中堂遺跡、西側は直径48mの万座遺跡である。この野中堂・万座の両遺跡には“日時計組石”と呼ばれる特殊組石がある。
 野中堂遺跡の中心より真北の内帯部に、「菱形組石」という特殊組石が所在する。この「菱形組石」は精密地図を作製する方法である阡陌地割の秘密を表示するものである。
 注目すべきは、東の野中堂遺跡の中心と日時計組石の中心を結んだ線を延長すると、西の万座遺跡の中心と日時計組石の中心を貫通し、この延長線は夏至の日没の方角となる。
 この「夏至の日没の方角」もまた「夏音文字の学芸」をあらわす。
 また、万座遺跡の外帯の東側の配石群の平面図(地宜)は「夏の銀河像」の面影が、4000年後の現在にあっても残っている。
 このように、国の特別史跡の大湯環状列石には益氏の移住と夏音文字の学芸の伝来の痕跡が明確に残っている。
 古代史学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて現存する夏音文字を、〔文献批判〕という名の〔誤読〕の方法で抹殺したのである。

 わが国には甲骨文字が出現した時より約750年前に伝来した夏音文字の史跡はじめ文献史料が存在する。そして、大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興した1738年まで夏音文字の学芸を保存した歴史が明確に残っている。
 この夏音文字の学芸を保存した歴史を明確に示す史跡は、前回(43回)で静岡県浜松市北区の細江町の1千万坪の大鳥の地上絵、京都市に所在する枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭、滋賀県彦根市の「未だ夏音は習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵、京都市に所在する桂離宮の庭園、そして京都市に所在する金閣寺の庭園と修学院離宮の庭園など――大湯環状列石と合わせると7ヵ所も存在する。

 この7ヵ所の史跡によって、中国で解明できなくなった漢字の起源の歴史がわが国では科学的に明確に解明できる。

 左に示す幻冬舎ルネッサンスから2011年7月30日に発行した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の史料Cにおいて「十字の銀河」という名称を付けた銀河を、前回では「漢字を生む母体となる銀河」と定めた。しかし、今回は「十字の銀河」と呼ぶことにする。
 今回においては銀河各部の名称を左に示す拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』に従うことにするので、前回の[字]の下の[子]の字となった「誕生した子に観える銀河」は「鬼の姿に似る銀河(鬼の横顔に似る銀河・鬼の身に相当する銀河)」と名づけるので、留意していただきたい。

 今から約5000年前に生存した五帝時代初頭(わが国の中期縄文時代初頭)の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は“漢字の始祖”と崇拝された。
 漢字は今から約6000年前の三皇時代初頭(わが国の前期縄文時代初頭)の包犧(ほうぎ)氏から起源した。しかし、包犧氏は“漢字の始祖”と崇拝されなかった。
 包犧氏の考案した図書の作成方法では、万物の名(事物や事柄)をあらわすことができることができなかったからである。その証拠に、みずからの氏族名をあらわす図書が作成することできなかった。

 包犧氏は「易」のための記号(図書)を約22種(いままで発見された図書の種類)ぐらい考案した。
 包犧氏は、天頂を通過する人の姿そっくりの「十字の銀河の頭部となる銀河部」から、[玉][竹][阜]をあらわす図書や[五][七][八][二]などの数詞をあらわす図書を作った。
これらの図書は陶器の一つの破片に一個ずつ刻まれるているので「陶文(とうぶん)」と名づけられた。
 これらの包犠氏が作った陶文は天頂にめぐってくる「十字の銀河の頭部となる銀河部」や東隣の「三つ輪の銀河」のうちの最北の「円形の銀河」からデザインされた。
 当時の人々は精密に天頂緯度を測定して、みずからの命を守っていた。

 〚緯度を測定する方法〛は❶天の北極の高度を緯度に換算する方法と❷天頂緯度を測定する方法の二つしか存在しない。
 このうち、❶の天の北極の高度を緯度に換算する方法では緯度が精密に測定できないために命を失うことになった。
 いっぽう、❷の天頂緯度を測定する方法だと精密に緯度が測定できるので、当時の人々は天頂緯度を測定(天頂点をキャッチ)して日々命を守っていたのである。
 だから、包犧氏は天頂にめぐってくる「十字の銀河の頭部となる銀河部」と東隣の「円形の銀河」から、❷の天頂点をキャッチする眼力と技(わざ)を身につけるための術に必要な図書を作った。
 包犧氏は「ことばをあらわす記号」の「文字」を作るために図書を作ったのではなく、命を守るための天頂点をキャッチする術に必要な図書を作った。
 この術のための図書は“ココの箇所が天頂点となる”と単一的に(1個ずつ独立して)表現する必要があったので、一つの破片に一個ずつの図書が刻まれたと考えられる。

 天頂点をキャッチすると、日用必需品を求めて遠くの地に旅をする人や他所の文化に興味を抱いて遠くの地に旅をする人や狩猟に夢中になった人や山菜採りに熱中した人が、迷って落命しないで家族が待つ家に帰ることができた。
 ところが、上記したように天の北極の高度で緯度に換算する方法だと道に迷って落命することになった。
 蜥易(せきえき)すなわちトカゲには必ずもとのすみかにもどる帰家性がある。
 ゆえに、『説文解字』は[易]の字源を「蜥易(トカゲ)なり」と解説する。
 つまり、生活必需品を求めて遠い地に旅したとき、狩猟や山菜採りで夢中になったときに迷わずに家族が待つ家に帰ることができる術は「易」の字源となるものであったことになる。
 「易」は進化して「占い」となり、殷代後半に用いられた甲骨文字は帝王が占いに用いる文字となった。

 包犧氏は天頂緯度を測定して迷わずに家に帰ることができる「易」に用いるための記号を考案した。
 天の北極の高度を緯度に換算する方法では迷って命を失った。そして、天の北極周辺には図書をデザインすることができる形が存在しない、真っ暗な暗闇である。
 だから、文字と芸術は符合や記号を図案することができる形を有しない天の北極とその周辺から起源するはずがなかった。
 形無き天の北極とその周辺から形有る符合や記号を何種類も作ることは絶対にできない。「天の北極」をあらわす記号は[・]のみ1種類しか作ることができないからである。
 だから、文字と芸術は多数の符合や記号などの図書を作ることができる形と情(イメージ)を有する天頂にめぐってくる銀河から起源したのである。

 イギリスやスペイン、ポルトガルの研究者たちは、今から3万7千年前のスペインのエルカスティーヨ洞窟の頭上の天井に相当する壁に、手に赤い塗料を吹き付けて作った多数の手形の画を発見した。
 包犧氏や黄帝・倉頡が生存した時代、黄河中流地域すなわち中原(ちゅうげん)地域の天頂を「十字の銀河」が通過したとき、天頂のすぐ南に「鬼の姿に似る銀河」が位置した。この「十字の銀河」を〔天井〕に見立てると、「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の中間にあって両銀河をつなげる「2本の帯状の銀河部」は〔人の腕〕に観え、「2本の帯状の銀河部と十字の銀河の接触面(連結部)」は〔左右の人の手〕に観える。その〔左右の人の手〕に観える銀河部位は赤い。
 これゆえ、エルカスティーヨ洞窟の「赤い塗料を吹き付けて作った多数の手形」は〔天井の壁に人が腕を伸ばして手を押し付ける形に観える赤く輝く銀河部位〕の「2本の帯状の銀河部と十字の銀河の接触部」を表現するものであったにちがいない。
 子午線通過する時や天頂に位置する時の「十字の銀河」を経度軸にそって横にすると〔天井〕のように観える。というのも、子午線通過する時に緯度軸にそって東西に伸びる「鬼の姿に似る銀河」は〔天や天井や頭上を見上げる人の姿〕に酷似するからである。

 漢字では「十字の銀河」は[天]の字となり、[天]の字源は「天頂点」をあらわした。
 『説文解字』は[天]の字源を「至高にして上なし」と解説する。「至高にして上なし」つまり「それ以上の上が無い、最も高い天体部位」は「天頂点」となる。
 上記した「鬼の姿に似る銀河」は〔天を仰ぐ人の姿〕に相似するので、命をまもることができる天頂緯度線が測定できる銀河部であるともに形ある銀河部である[天]や「天頂点」のイメージをあらわす「十字の銀河」が真っ先に注目されたのである。
 ゆえに、「始めに天頂緯度が測定できる銀河ありき」であったのである。
 人類にとって、「始めに、天の北極ありき」ではなかった。
 人類の天文地理学は漢字の「易」で示される術すなわち精密に天頂緯度を測定できる術から始まった。
 だから、天文地理学は精密に緯度を測定できる天頂にめぐってくる銀河から始まったのである。
 上記した天頂を仰ぐ人の姿に相似する「鬼の姿に似る銀河の両手に観える帯状の銀河」は〔細い糸を両手で持って目の上にかざすと、天頂緯度が精密に測定できる器具〕となることを示し、あるいは〔棒の先に糸を垂らして、糸の先端に小石を錘(おもり)にすると、重力の方向(鉛直線)を上方に伸ばした天球と交わる天頂点をキャッチできること〕を示した。
 このような器具を作れば天頂点と重なる銀河部位に命を委ねれば、日々食料となる獲物を追う移動生活を続けても迷わず生きてゆけることを確信して、3万7千年前の人類は洞窟の天井の壁に、手に赤い塗料を吹き付ける多数の手形を残したことかもしれない。

 包犧氏が生存した時代、彼らが居住した地の天頂点に「十字の銀河の頭部に相当する銀河部位」が重なった。
 「十字の銀河の胴体部」は〔節がある、竹の茎〕のごとくにも観える。ゆえに、包犧氏は「十字の銀河」を〔竹〕に見立て、「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」を竹を横に切ったときにあらわれる〔竹の筒〕に見立てて、[竹]の図書を作った。
 というのも、「十字の銀河の頭部に相当する銀河」は〔中央の暗黒天体部は竹の筒の内側の空洞のごとく観え、外側は円形の環となって中央の暗黒天体部を包囲する形〕であるために、「竹の筒」の形にそっくりだからである。
 包犧氏が居住した地の天頂緯度線は円形の「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」の中央よりやや南部を貫通し、さらに東隣の「三つ輪の銀河」の最北の「円形の銀河」の中央よりやや南部を貫通した。この天頂を通過する二つの円形の銀河から「玉」をあらわす図書が生まれたのである。
 「三つ輪の銀河」最北の「円形の銀河」の北端には「鳥や獣の首のような形をした銀河部」が隣接する。「円形の銀河」は無数の星が渦を巻き円形を描くがごときひしめく形状であるので〔川や湖沼の水面〕のように観える。このため、「鳥や獣の首のような形をした銀河部」は〔川や湖沼の水面より高い阜(おか)〕や〔梯子(はしご)のように高い所に登ることができる上へ上へと延びる坂道を登った、見晴らしの良い高台〕のイメージとなる。ゆえに、「鳥や獣の首のような形をした銀河部」を「おか(丘陵地帯)」や「高い所に登る梯子のような坂道を登りつめると到達できる高台」をあらわす[阜]という図書が考案された。

 包犧氏が居住した地は、黄河中流地域の西安市郊外の阜(おか)すなわち丘陵地帯から発見された半坡(はんぱ)遺跡である。この半坡遺跡から色とりどりの彩色土器(彩陶)が発掘された。この彩陶には合計113点の図書が刻まれていた。整理すると、全部で22種類の形の図書があるとまとめられた。
 放射性炭素測定で、半坡遺跡は6080年(±110)から5600年(同105)と算出されたので、半坡遺跡から出土した陶文(図書)は今から約6000年前から約5600年前のものとなる。
 半坡遺跡は、中国最初の農耕民による新石器文化の「仰韶(ヤンシャオ)文化」の代表的な遺跡である。この仰韶文化は、黄河中流地域を中心として存在する。
 半坡遺跡から東へ数十里の地点、黄河中流地域に所在する臨潼姜寨(りんどうきょうさい)遺跡が所在する。この姜寨遺跡の仰韶文化の遺跡であり、45種ぐらいの陶文が発見された。
 さらに、半坡遺跡から西へ7、8百km離れた地点となる、青海省楽都郡の柳湾(りゅうわん)遺跡からも52種類の陶文が出土した。この柳湾遺跡もまた、仰韶文化の遺跡である。

 このように、半坡より姜寨、姜寨より柳湾の陶文の種類は多い。
 半坡と姜寨の陶文の形や風格はきわめて似ており、姜寨の陶文のほうが複雑に組み合わさるものがあり、その種類の数も姜寨は半坡の倍以上もある。
 これゆえ、半坡の陶文のほうが古く、姜寨の陶文のほうが新しいと考えられる。
 柳湾の陶文と、半坡および姜寨の陶文はよく似ている。しかも柳湾の陶文のほうが半坡や姜寨よりも解読しやすく、殷代の甲骨文字によく似ている。
 ゆえに、柳湾の陶文がいちばん新しいと考えられる。
 仰韶文化は約5000年前に滅びた。
 ゆえに、柳湾集落の終末は約5000年前であったであろう。
 上記したように、放射性炭素年代測定で半坡集落の終末は約5600年前と算出された。
 ゆえに、姜寨集落は約5600年前に出現したと考えられる。
 柳湾集落の終末は約5000年前であると考えられるので、約5600年前から約5000年前までの600年間が姜寨・柳湾の両集落の時代となる。この600年間の半分は300年間となるので、約5600年前から約5300年までが姜寨集落が存続した時代、約5000年前から約5000年前までが柳湾集落が存続した時代であったと考えられることにする。
 そうすると三皇時代は半坡集落が始まった約6000年前から仰韶文化が終わった約5000年前となる。
 これゆえ、黄帝・倉頡が生存した帝五帝時代初頭は、今から約5000年前となる。

 三皇時代は、包犧氏、女媧(じょか)氏、神農氏が天下を治める三つの時代に分かれる。
 したがって、半坡集落は包犧氏が居住した集落、姜寨集落は女媧氏が居住した集落、柳湾集落は神農氏が居住した集落であったと考えられる。
 半坡遺跡は北緯34度16分に位置するので、天文学における「地球の赤道の緯度0度の天頂緯度を0度」と定める赤緯(せきい)に則(のっと)ると、半坡集落の天頂緯度は+(プラス)赤緯34度14分となる。
 姜寨集落の緯度は北緯34度22分であるから、その天頂緯度は+赤緯34度22分である。
 柳湾集落の北緯36度16分であるので、その天頂緯度は+赤緯36度16分となる。
 黄帝を祭る廟(びょう)と墓とされる黄帝陵は、陝西(せんせい)省延安(えんあん)市黄陵(こうりょう)県に所在する。司馬遷著『史記』五帝本紀は「黄帝が崩ずると橋山(きょうざん)に葬った」と記載する。この橋山の地に、黄帝陵がある。
 黄帝陵は北緯35度36分に位置するので、天頂緯度は+赤緯35度36分となる。

 天文には「歳差(さいさ)」という現象がある。
 この歳差によって、春分点と天の北極は、黄道の北極を中心にして円を描いて一周している。この春分点と天の北極の円を描く移動は、2万5千8百年で一周する。
 この「歳差」によって、過去の時代の各地における天頂緯度線を算出できる。
 円一周は360度であるから、25,800年割る360度は71.666年となる。
 これゆえ、71.7年ごとに、春分点と天の北極は、黄道を中心した角距離で1度ずつ移動している。
 したがって、春分点が10度過去のほうにもどった位置にある時は、717年前の天文図を表示するものとなる。
 6000年前の半坡集落の春分点と天の北極は6000年÷71.7=83.68度となるので、6000年前の春分点と天の北極は黄道を中心とした角距離で84度過去のほうにもどった位置にある。
 姜寨集落が出現した5600年前の春分点と天の北極は78度過去にもどった位置、柳湾集落が出現した5300年前の春分点と天の北極は74度過去にもどった位置、5000年前の黄帝が生存した時の春分点と天の北極は70度過去にもどった位置に所在する。
 現在の星座盤を分解して、天の北極と春分点を現在の位置より84度過去のほうにもどった位置に定めれば、6000年前の半坡遺跡の天頂緯度線(+赤緯34度16分)が貫通した銀河部を知ることができる。同様な方法で、5600年前、5300年前、5000年前の星座盤を作成すれば、5600年前の姜寨、5300年前の柳湾、5000年前の黄帝陵の天頂緯度線が貫通した銀河部を知ることができる。

 上記したように、6000年前の包犧氏が居住した半坡集落の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部に相当する銀河部の南部」を貫通した。この「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」は、上記したように〔竹の茎を切って現れる筒の外側が円環となり、内側が空洞(暗黒天体部)〕となる。
 「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」の「外側の円環部」は〔ジャコウウウシの群れが天敵のオオカミに襲撃されると作る円陣〕に見立てられた。また、「内側の空洞(暗黒天体部)の中心」は〔ジャコウウシが真ん中に隠す子どもたち〕に見立てられた。このように、ジャコウウシはオオカミに襲われると子ども真ん中に隠して円陣を作った。
 この「ジャコウウシの子ども包囲して円陣を作る」が[包]の字源となり、「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」が[包]の字をあらわした。
 「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」の「外側の円環東部の中央より南側の一部分」は切れて隙間(すきま)となる。この「外側の円環東部の隙間となる銀河部(暗黒天体部)」は〔円陣の一角が崩れて、オオカミの餌食となって犠牲となったジャコウウシ〕をあらわすことになる。
 白川静著『字統』は「犠牲」の[犠]と「包犧」の[犧]は同義で「いけにえ」と指摘する。『説文解字』は[犧(犠)]の字源を「宗廟の牲なり」と解説する。この「宗廟の牲なり」の[牲]は「犠牲(いけにえ)」の[牲]である。[犧(犠)]と[牲]の偏の[牛]は「ジャコウウシ」の「牛」をあらわすものである。
 半坡集落の天頂緯度線は[犧]の字となる「外側の円環部が切れて隙間となる部位(暗黒天体部)」を通過した。
 ゆえに、倉頡は半坡集落に居住する氏族の名を「包犧」と定めたのである。

 ジャコウウシはツンドラ地帯のきびしい寒さに耐えられるように、特製の防寒具で身を包む。その黒い赤みを帯びた褐色の毛足の長いコートは、すさまじい猛吹雪にも負けることはなくあたたかい。この身を包むウールのコ-トが羊のコートに相似しているので、ジャコウウシの別名は「ジャコウヒツジ」である。
 現在の北極地方に生息するジャコウウシは20頭から30頭の群れをなして行動する。以前は100頭以上の群れがごくふつうにみられたと言う。有史以前は広く北半球の寒帯に生息していたが、多くの地方で絶滅した。
 中国では、殷代には絶滅していたようであるが、それ以前は生息していたことになる。
 というのも、甲骨文字の[祟](たたり)には〔円陣を示す曲線の両横に、長い毛を伸ばす字形〕のものがあり、この字形は「ジャコウウシ」を表現するものとなるからである。また、『説文解字』は[祟]の字源を「神の禍なり」と解説し、白川静著『字統』は[祟]の甲骨文字と金文の字形を「呪霊(じゅれい)をもつ獣の形」と解説するが、この字源解説は「ジャコウウシ」に合致するからである。
 『説文解字』の[祟]の字源解説「神の禍(わざわい)なり」は、[犧(犠)]の「宗廟の牲なり」という字源解説と共通性がある。つまり、ジャコウウシは神を祭る宗廟の犧牲(いけにえ)となったために絶滅したから神の禍となったことになる。
 香料がなかった三皇五帝時代では、鹿やイノシシの肉を焼いても煮ても鼻に悪臭がついて生臭さかったが、ジャコウウシの肉はジャコウの香りがしておいしかった。だから、宗廟の犠牲でけでなく、最高においしい食料肉として乱獲されて中国ではジャコウウシは絶滅することになったのである。

 また、ジャコウウシの長い毛は、目の上にかざして精密に天頂緯度を測定するための糸として最適であった。これゆえ、乱獲されて絶滅したのである。
 人々が目の上にかざして精密に天頂緯度を測定するための「ジャコウウシの毛糸」は「玄(げん)」と名づけられた。
 ゆえに、『説文解字』は「黒にして赤色あるものを玄と為す。幽に象(かたど)り、入はこれを覆(おほ)ふなり」と解説する。
 ジャコウウシの毛糸は黒い赤みをおびた褐色である。目の上にかざすジャコウウシの毛が最も細くなって幽(かす)かに見えたとときに、天頂緯度線にピッタリと重なって精密に天頂緯度が測定できた。ゆえに、『説文解字』は[玄]の字形を「幽に象る」つまり「幽かに見える極細線となる」と説明した。[入]という字の頂部は「天頂点から真北の位置を示す目印となる恒星」あるいは「天頂点から真南の位置を示す目印となる恒星」を示し、[入]の下部の両端は「4~6秒ぐらいで精密な天頂緯度を測定する玄の長さ」をあらわすものとなる。ゆえに、『説文解字』の「入はこれを覆ふなり」という説明は「天頂点を覆う北あるいは南の星をキャッチして、精密に子午線を測量する」と意味することになる。つまり、“天頂点をキャッチし、子午線を測量できる瞬間”は“入った”と喜びの声を挙げる時であったにちがいない。
 [玄]の字源は「遠い天空に所在する、4~6秒間ぐらいに測量する天頂緯度線とピッタリと重なる幽かに見える極細線となり、しかも子午線となる天頂点と北あるいは南の恒星をキャッチするためジャコウウシ毛」であったのである。
 だから、『説文解字』は[玄]の字源を地上の観測者から遥かに遠い天頂緯度線と天頂点を示しして「幽遠(ゆうえん)なり」とも解説する。

 ジャコウウシは天敵のオオカミに襲撃されると、子を中心にして顔を外に向ける円陣を組んで防衛した。
 女性の子宮に宿る子(胎児)の命は、骨盤に包囲されてまもられる。
 〔中心に隠すジャコウウシの子〕は〔子宮に宿る胎児〕に見立てられ、〔顔を外に向けて円陣を組むジャコウウシの群れ〕は子宮・胎児をまもる〔骨盤〕に見立てられた。
 「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」には円形の銀河部の北端に平べったい楕円形の銀河部つまり「頭髪に相当する銀河部」が連結するので、〔瓢箪(ひょうたん)や西洋梨(せいようなし)の形〕に相似する。
 男性の骨盤の窩(あな)の形すなわち骨盤口の形は犬やオオカミの顔の形に相似する。
 しかし、女性の骨盤口は瓢箪や西洋梨を平たくしたような形である。
 ゆえに、女性の骨盤口は「十字の銀河の頭部と北端の頭髪に相当する銀河部」に相似する。
 そして、注目すべきは女性の子宮は瓢箪や西洋梨の形となるので、女性の子宮の形は「十字の銀河の頭部や頭髪に相当にする銀河部」に相似することになる。
 このように、女性の骨盤口と子宮は「十字の銀河の頭部や頭髪と相当する銀河部」の形に相似する。
 5600年前から5300年までの姜寨集落の天頂緯度線は「十字の銀河の頭部に相当する銀河部」の中央を貫通していた。
 ゆえに、倉頡は姜寨集落に居住した氏族の名を「女媧」と名づけた。
 「女媧」の[媧]の右側の[咼(か)]は[窩]の下部に配され、三水偏と[咼]が組み合わさると[渦(うず)]の字となる。
 胎児の頭は産道を螺旋状に渦を巻いて誕生する。ゆえに、[媧]は「胎児の頭が渦を巻いて通過する産道」をあらわした。
 だから、天頂緯度線が「十字の銀河の円形の頭部に相当する銀河部」の中央を貫通した姜寨集落に居住した氏族名を、倉頡は「女媧」と定めたのである。

 5300年前から5000年前の柳湾集落の天頂緯度線は、「十字の銀河の頭髪に相当する銀河と大・小の輪を[8]の字形となる銀河の接合部」を貫通した。これゆえ、三皇時代の易に用いられた図書は「結縄」と名づけられた。
 柳湾集落の天頂緯度線が貫通する銀河部は胎児が出産する骨盤の出口を表示するものであったので、この「天頂緯度線が貫通する銀河部」が[神]となった。また、柳湾集落周辺に生息した「ジャコウウシ」が[農]の字をあらわした。
 ゆえに、倉頡は柳湾集落に居住した氏族の名を「神農」と定めたのである。
 ジャコウウシは寒いツンドラ地帯で生息するゆえ、半坡、姜寨、黄帝陵より北の柳湾集落周辺に生息していたにちがいない。
 ジャコウウシは降り積もった雪の下から植物の根を掘り起こしては食べ、生命の糧(かて)とした。このジャコウウシの生態は人が土の下から食糧となる植物の根を掘り起こす農作業に類似する。だから、ジャコウウシの食糧を得る方法は原始的農業を示すものとなるので、柳湾集落の氏族の名に[農]の字が配されることになったのである。
 [神]の原字は[示]である。[示](神)の甲骨文字の字形は[Т]であり、この[Τ]は「重力の方向を上方に伸ばして天球とえ交わる天頂点と[玄](天頂緯度線)」をあらわすものとなる。
 子宮は前後にやや平たい瓢箪あるいは西洋梨の形に相似し、長さ約8cm、幅4~5cm、厚さ約2cmであるが、妊娠すると胎児の成長にともなって筋繊維が増殖肥大して、子宮筋層は非常に大きく引き伸ばされる。
 だから、[示]に〔妊娠時の子宮筋層が大きく引き伸ばされる〕の[伸]の原字の[申]」が加わって、[神]の字が生まれた。
 柳湾集落の天頂緯度線が貫通する銀河部は[伸]の原字となった[申]の字源となった「胎児が出産する時の、最も大きく引き伸ばされた子宮」をあらわした。
 「出産する胎児の顔」は「サルの赤い顔」に相似するので、後世に[申]の字義は「サル」となった。また、サルは縮こまって小さい姿になって座るが、立つと背丈が大きく伸ばされる。
 [申]の字義が「もうす。言う」となったのは、[口]の字源は「人が言い、食べる器官のくち」だけを表示するものでなかったからである。
 [口]の字源は「子宮口」「骨盤口」などがある「産道」をもあらわした。ゆえに、[口]の字源は「胎児が通過する産道」でありまた「人が言う器官」であったので、[申]の字義は「もうす。言う」となった。
 このような事情によって、[申]の字義は[示]とおなじく「かみ」となった。
 だから、柳湾集落に居住した氏族の名は「神農」と定められた。

 以上のごとく「歳差」という天文現象を用いて天頂緯度線が貫通した銀河部を解明すると、半坡遺跡は包犧氏が居住した集落、姜寨遺跡は女媧氏が居住した集落、柳湾遺跡は神農氏が居住した集落であったことが立証される。
 だから、半坡・姜寨・柳湾の3遺跡から出土した、学者たちが「陶文」と呼ぶ約120種ぐらいの図書は、三皇時代の易に用いられた記号の「結縄」であったことになる。 

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