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2012年11月10日 (土)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・42

 紀元前1200年前後におこったトロイ戦争は紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』に記述された。
 学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。
 しかし、ドイツ人のシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。
 したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。

 シュリーマンのトロイ遺跡発見が明確に示すように、古代史学には過去の出来事を事実であると証明できる絶対原理(絶対方法)が存在する。
 つまり、古代史学には――前人が作った文献にある記述を、たとえ後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献に記述したとおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない真実であり、学者たちの文献批判して否定した意見が誤読の空想であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――このような絶対原理が存在する。
 したがって、古代史学における絶対原理は〔文献批判〕ではない。

  この絶対原理は、古代史学に限ったものではない。
 この絶対原理によって、過去におこったすべての事件に対する判断が正しかったのかあるいは誤っていたかが決定される。
 2012年11月8日の朝、テレビと新聞は東京電力女性社員殺害事件について、いったんは無期懲役となったゴビンダ・プラサド・マイナリ氏(46)の無罪が確定したと報道した。逮捕から約15年半、母国ネパールでマイナリ氏は喜びを語る一方、「悪いことをした、すいませんと、僕とネパール人に謝ってほしい。そうでないと、僕はゆしません」と声明を出し、警察、検察、裁判所に怒りを示して抗議した。
 このようにマイナリ氏は〔そのときに女性を殺していないという確かな証拠(DNA型鑑定)〕によって、彼が無罪を主張した言葉は正しく事実であったことになり、彼の言葉を批判して疑った警察・検察・裁判所の考えは冤罪(空想・妄想)であったことになる。

 〔マイマリ氏の無罪を主張した言葉〕を〔前人が作った文献の記述〕に見立てて、〔マイナリ氏が無罪になったDNA型鑑定による証拠〕を〔前人が作った文献に記述されたとおりの史跡・遺跡・遺物〕に見立てれば、〔警察・検察・裁判所のマイナリ氏の証言を批判して否定した冤罪(空想・妄想)〕は〔後世の学者たちの前人が作った文献に「この記事は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判を加えて立論した意見〕に相当する。
 邪馬台国説、日本神話虚構説、わが国では5、6世紀に最初に漢字を習得したという、この3つの学説は〔文献批判〕を加えて立論される。いいかえると、この3つの説は先人が作った文献を忠実に読解せず、「この記述は誤っている。絶対に信用できない」と批判して成立する。
 ということは、〔文献批判〕を用いて立論される邪馬台国説・日本神話虚構説・5、6世紀漢字習得説は、前人が作った『魏志』倭人伝と『古事記』と『日本書紀』や中国の正史の記述とおりの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば、これらの3説は直ちに〔誤読の空論・妄想〕であったことが否定できない事実となる。

 現在、日本古代史学界のおいては絶対視してはならない〔文献批判〕を絶対視する。
 これゆえ、わが国の古代史学界は〔文献批判〕に支配される。
 しかし、前述したように、先人が作った文献の記述とおりの先人が作成した史跡・遺跡・遺物が存在すると直ちに〔文献批判にもとづく意見〕は〔誤読の空論・妄想〕となる。
 文献批判学者たちは、この古代史学における絶対原理を知らない。

 この古代史学における絶対原理をまったく知らない人物といえば、考古学者の森浩一教授である。
 2012年3月28日、朝日新聞が「ひと」の欄で南方熊楠賞を受賞した考古学者・森浩一教授(同志社大学名誉教授)について「日本の考古学研究をリードしてきた学者のひとりである」と讃(たた)える、
 しかし、森教授は古代史学の根本原理(上記の絶対原理)をまったく知らない〔誤読〕を専門とする学者もどきの代表格である。
 森教授は――「仁徳」という漢風諡号(かんぷうしごう)は奈良時代に創られたから、古墳時代になかった。それゆえ、「仁徳天皇陵」と呼ぶのはおかしいということで、この古墳名は所在地で呼ばれている地名で呼ぶべきだと主張して、「大山(だいせん)古墳」という呼び名をデッチあげた。
 このため、現在の教科書においては「仁徳天皇陵」ではなく「大山古墳」という名称に変わった。
 この森教授の意見は、要するに“完全なるデタラメ”である。
 「仁徳天皇陵」が正しく、「大山古墳」は根本的に間違っている。
 「大山古墳」なる名称は森教授が古代史学の絶対原理と基礎知識をそなえていない何よりの証拠となる。したがって、彼は正真正銘の偽(ニセ)学者である。
 森教授は〔文献批判〕を絶対視する。だから、森教授は〔誤読〕を専門とする偽学者となった。
 森教授は『古事記』の「仁徳天皇」という漢風諡号は、古墳の所在地が[仁]と[徳]の字源に適合することから天皇名が「仁徳」になったことを知らない。
 「仁徳」という天皇名と諱(いみな)の「大雀」もまた仁徳天皇陵の所在地から付けられた。
 このことを、わたくしは2012年3月31日のインターネットのブログ「卑弥呼の逆襲」の〔邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・16〕の後半で解説した。
 森教授は日本古代史における最も重大な史実を〔誤読〕で抹殺して、日本人の命の原点である真実を消滅させる、日本民族を虐殺する無知無学の偽学者である。そして、森教授は、結局、人類共通の敵となる。
 というのも、日本古代史に秘められる原初漢字の秘密(つまり、夏音文字の学芸)によって、現在、世界の8割から9割の人々が使用する文字が起源した古代漢字と古代エジプト文字が銀河から創られた秘密が科学的に解明できるが――森教授は愚かにも〔文献批判〕を用いてこの日本列島に伝来した原初漢字の秘密を抹殺するゆえ、人類共通の敵となる。

 今から約4050年前の夏代(かだい)初頭(わが国の後期縄文時代初頭)、原初漢字の夏音文字がわが国に伝来した。
 この原初漢字・夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名として残っている。
 また、『古事記』上巻の随所に記載される〔音〕という注が付く1字1音文字が夏音文字である。
 1738年に本格的に復興した大嘗会(だいじょうえ)において新設される二つの古代様式の宮殿の名称は、原初漢字・夏音文字が伝来していることを示して、夏音名で表示される。つまり、この大嘗宮の悠紀殿の「悠紀」は「ゆうき」ではなく夏音で「ゆき」、主基殿の「主基」は「しゅき」と読まずに夏音で「すき」と称される。

 白川静著『字統』(平凡社)の9頁から10頁にかけて、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるとおい関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」

 漢字が起源した中国では、現在、夏音文字が失われている。
 しかし、1738年に皇室の最大の神事である大嘗会を復興するときに大嘗宮の名称を夏音文字で表示したように、わが国には最古の字音・夏音が保存されて残った。
 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)の30頁は「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる。また、魏以前の中古音で読めば〔ピミエクゥオ〕となる」と指摘する。
 このように「卑弥呼」を〔ヒミコ〕と読む字音は中国の上古音よりも古い、現在残っている漢字音のうち最も古い夏音文字の字音ということになる。

 したがって、わが国には今から約4050年前の後期縄文時代初頭、夏音文字が伝来していたことになる。
 この夏音文字の伝来が証明できる史跡は、後期縄文時代初頭の史跡とされる秋田県鹿角市(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡である。

 だから、森浩一教授による「仁徳天皇陵」を「大山古墳」への改称は〔誤読〕にもとづく、その根拠・理由の正当性はまったく成立しないデタラメということになる。
 学者たちは〔文献批判〕を用い、あるいは〔見落とし〕をもって、『魏志倭人伝』はじめとする古代文献に記述された夏音文字がわが国に伝来した幾つかの記述を抹殺する。

 現在、残っている最古の漢字音の夏音文字がわが国に伝来したという証言は、『日本書紀』神武天皇紀の初頭部の「天祖(てんそ)降臨説話」と『古事記』上巻の「天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話」に記載されている。
 この二つの記述は、下記のごとく説明していることになる。
――今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)において、“夏の始祖”の帝禹(う)の後に帝王となった帝益(えき)の孫の王子(すなわち「天祖」)と名門益氏の若者たちが日本列島に移住して夏音文字の学芸を根づかせた。
 つまり、益氏の王子と若者たちは荒波逆巻く大海を小舟を漕いで、日本列島に到着して夏音文字の学芸を広めた。
 だから、この偉業は「益荒男(ますらお)」という日本語の語源となった。
 つまり「益荒男」は「益氏の王子・天祖と若者たちは荒波逆巻く大海を越えた勇猛果敢な立派な男子」の略した語である。ゆえに、今日「益荒男」は「立派な、勇ましい男子」と意味することになった。
 「益荒男」は万葉仮名では「大夫」と表記する。

 『魏志』倭人伝には「昔より以来、倭の使者は中国に到着すると皆“大夫”と称する」という記述がある。
 つまり、倭の使者たちは“太古に夏音文字の学芸を伝えた名門益氏の王子と若者たちのごとく荒波逆巻く大海を越えてきた”と自慢して、皆が皆“大夫”(万葉時代の「ますらお」)と称したのである。
 中国の五経の第一に挙げられる古典の『易経』繋辞下伝(けいじげでん)は漢字の起源について「仰いでは天象(てんぞう)を観(み 、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と説明する。
 この漢字起源記事は「万物(すべて)の漢字の字形は銀河各部の形状であった」、つまり、この漢字起源記事は「五帝時代の書契(しょけい)も夏代の夏音文字も殷代(いんだい)の甲骨文字も隋代(ずいだい)に完成した楷書も、【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であった」と説明するものとなる。
 このような「夏音文字も楷書も【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」という事実は、紀元前4、5世紀に生存した老子の教えを伝える37の章で構成される『老子』上編(道経)においても記述される。
 さらに、2世紀初頭に完成した許慎(きょしん)が著作した字書の聖典『説文解字』をもまた伝える。
 そしてわが国の『古事記』の序もまた証言する。 
 『古事記』序は、その初頭部にて「芸術創造の神々である造化参神(ぞうかさんしん)のうちの神産巣日神(かむむすひのかみ)の時代(中国の夏代初頭。わが国の後期縄文時代初頭)、わが国に夏音文字が伝来した」と記述する。
 そして、『古事記』序の末部にて「【夏音文字】ははじめ万葉仮名の楷書も【銀河各部の形状】であった」と、難解な文章で解説する。

 「天の川」すなわち「銀河」は「銀漢」とも称する。だからこそ、「漢字」という語は「銀漢から作られ文字」を省略したものであったのである。
 「天に銀漢から作られた文字が多数存在する」ことになったので、「天に多数の文字ありき」を省略して「天体」は「天文」と呼ばれることになった。
 これゆえ、大嘗会が本格的に復興した1738年以前において、夏音文字の学芸知識に精通する人々は〔漢字が銀河から作られた秘密〕も知っており、〔夏音文字はじめ【すべての漢字】は【銀河各部の形状】である秘密〕を知っていたのである。
  これゆえ「漢字」と「天文」という語は〔銀河から漢字が作られた〕と示すものであるゆえ後世の学者たちは必ず“漢字は銀漢(銀河)から創られた”と気づくにちがいないと想定して、『古事記』の序は難解な文章をもって「夏音文字はじめ万葉仮名の楷書も【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」と解説するものとなる。 
 『古事記』序の末部は「日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)といい、帯(たい)の字を多羅斯(たらし)という」と記述する。
 この文は――楷書の[日]と[下]の字となる銀河部は夏音文字の[玖][沙][訶]の字となる銀河部と同じであり、楷書の[帯]となる銀河部は夏音文字の[多][羅][斯]となる銀河部と同じである。ゆえに、【楷書】も【夏音文字】も【銀河各部の形状】を図案したものであるから、【すべての漢字】は【銀河各部の形状】となる――と指摘していることになる。
 この『古事記』序の指摘は、銀河を観れば、楷書の「日下」が夏音文字の「玖沙訶」、楷書の「帯」が夏音文字の「多羅斯」になることが解明できる。

 しかし、この指摘は“ウソだ! 完全に間違っている”と森教授はじめとする文献批判学者たちは即座に否定するにちがいないであろうが――『古事記』序は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」と解説するものであることを科学的に明確に証明できる確かな史跡がわが国には幾つか存在する。
 上記したように、秋田県鹿角市に所在する国の特別史跡の大湯環状列石における万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字が伝来して痕跡が残っている。
 この大湯環状列石のほかに、わが国には原初漢字・夏音文字が伝来したと科学的に明確に証明できる確かの史跡を、次回(43回)にて6箇所列挙する。
 これらの史跡によって、〔文献批判〕を立論基盤とするすべての邪馬台国説と日本神話虚構説とわが国が最初に漢字を習得したのは5、6世紀とする定説は〔誤読〕の空論であったことが否定できない事実となる。
 最初に指摘したように、前人が作った文献にある記述を後世の学者たちが「この記述は絶対に誤っている、信用してはならない」と批判・否定しても、その文献のとおりの史跡・遺跡・遺物を発見されたならば、前人の記述はなんびとにも否定できない事実であり、後世の学者たちが文献批判して否定した意見が誤読の空論であり、妄想であったことがなんびとにも否定できない事実となる――これが古代史学における絶対原理である。
 この絶対原理は、シュリーマンが『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘してトロイの遺跡を発見したことによって証明された。   

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