« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・44 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・46 »

2012年11月23日 (金)

邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・45

 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に派遣された日本国の遣唐使が「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習う」と中国王朝に告げた――と記述する。
 この日本国の遣唐使の「後稍夏音を習う」という発言は「壬申の乱の、天武天皇は皇祖・天照大御神の聖性を汚す事績をすべて削除(さくじょ)し、(少しだけ)習うすなわち復興して、天照大御神が夏音文字の学芸に精通していた偉大な女性であることを後世に伝える偽書を作成せよ」と意味するものである。
 この遣唐使の言のとおり、702年から10年後の712年(和銅5)1月28日に元明天皇に献上された『古事記』上巻(日本神話)の随所には〔音〕という注が付く1字1音文字の夏音文字が多数記載された。

 この夏音文字の伝来について、『日本書紀』神武天皇紀の天祖降臨説話と『古事記』の天孫筑紫降臨説話が記述する。
 この二つの説話は、夏王朝の帝益の孫の王子と若者たちが荒波逆巻く大海を小舟を漕いで渡り、日本列島東北地方の男鹿半島縄文文化圏(八郎潟の東岸)に移住して夏音文字の学芸を根づかせたと伝える。
 この名門益氏の王子と若者の大海を越えた移住史は「益荒男(ますらお)」の語源(すなわち、益氏の王子と若者たちのごとく荒波逆巻く大海を越えたように、勇猛果敢な立派な男性)となった。
 名門益氏による夏音文字の学芸の伝来の痕跡は、下記の❶の国の特別史跡の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡に現在において明確に残っている。

 2012年11月11日の午後9時から、NHKテレビは「中国文明の謎」という番組で、学者たちの意見にもとづいて「最も古い漢字は甲骨文字である」という誤った報道をおこなった。
 わが国には殷代後半期の甲骨文字の出現よりも約750年前の夏音文字が伝来していたので、国の特別史跡の大湯環状列石にその痕跡が明確に残り、『古事記』上巻に多数の夏音文字が記載されて現存する。
 『古事記』上巻だけでなく、夏音文字は『魏志倭人伝』に記載される人名はじめ小国名に用いられて現存する。

 夏音文字は中国において“謎”とされる、紀元前2070年に出現した夏王朝の文字のことである。
 702年の日本国の遣唐使は「後稍夏音を習う」と発言したので、夏王朝の文字を「夏音文字」と呼ぶことにしたが、中国では紀元前3000年頃の五帝時代から、夏王朝、そして紀元前1300年までの殷代(いんだい)前半期末までの漢字の秘密がほとんど不明・未解明の状態となる。
 この「五帝時代初頭から殷代前半期までの漢字」の名は一括して「書契(しょけい)」と呼称することができる。この「書契」という名は、中国の五経の第一に挙げられる『易経』繋辞下伝(けいじげでん)に記載される。
 しかし上記したように、『新唐書』日本伝に「後稍夏音を習う」という文があるので、紀元前2070年から始まる夏代の文字を「夏音文字」と呼ばれて日本古代史上に実在する原初漢字となった。

 『易経』繋辞下伝は「上古(紀元前4000年ころから始まる三皇時代)に考案された結縄(けつじょう・すなわち易に用いる記号)をもって治めた。後世(五帝時代初頭)の聖人これに易(か)うるに書契をもってする」と記述する。
 この書契を考案した聖人は、五帝時代初頭の“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)である。
 私は前回(44回)のブログにて、倉頡が三皇時代の結縄を創った「包犧(ほうぎ)氏、女媧(じょか)氏、神農(しんのう)氏」という氏族名を、当時の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部と頭髪部に相当する銀河部」から考えたことを解説し証明した。
 この解明はわが国に現存する下に列記した夏音文字の史跡にもとづいておこなった。

 わが国には、夏音文字の秘密が科学的に解明せきる以下の史跡がある。
 ❶紀元前2000年ころの後期縄文時代初頭(夏代初頭)に作られた国の特別史跡の大湯環状列石の野中堂遺跡・万座遺跡。この史跡は秋田県鹿角(かづの)市に所在する
 ❷『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成された静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵
 ❸徳川家康が命令して井伊氏・彦根藩が中心となり、近江・彦根の近隣の7ヵ国12大名が助勢して作成された彦根の3千万坪の「未だ夏音文字の学芸は習わず(復興せず)」と設計する大鳥の地上絵。この彦根の大鳥の地上絵は1603年に着工されて20年後の1622年に完成した。この彦根の大鳥の地上絵は滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する
 ❹家康の遺志を継いで、将軍秀忠と幕府が当時の天才芸術家にして科学者の小堀遠州に命令して作らせた、世界的にも有名な京都市に所在する桂離宮の庭園
 ❺同じく京都市に所在する、枯山水の名園で有名な竜安寺(りょうあんじ)の石庭
 ❻京都市に修学院離宮の庭園
 ❼北九州の宗像(むなかた)大社
 ❽奈良県桜井市に所在する三輪山の麓の大神(おおみわ)神社と狭井(さい)神社

 これら夏音文字の秘密が科学的の解明できる史跡によって、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の文」(「鳥獣の足跡」とも言う)の秘密や、前回で行ったように倉頡が作った三皇の氏族名と結縄の秘密などが解明できる。

 『魏志倭人伝』は「魏の都・帯方郡(魏の出張機関が所在した朝鮮半島の一角)・諸韓国と交わす卑弥呼が書いた文書の文字は差錯(ささく)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検して確認して、間違いがおこらないようにしていた」と記述する。
 この記事が明確に伝えるように、当時の魏都・帯方郡・諸韓国の文字は多くの字源・本義を失った隷書に近い楷書の新しい文字に対して、卑弥呼は紀元前21世紀に伝来した正しい字源・本義を保存する古い夏音文字を用いていた。
 「差錯」という語は単に「相違する」という意味ではなく、「新しい文字と古い文字とで字義が対立して相違する」と意味する。
 これゆえ、3世紀においてわが国に魏より以前の夏音文字が伝来していたことは、夏音文字が『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数記載されて保存されて、その実在をこの目で目撃できて確信できることになるので否定できない事実となる。

 夏音文字について、『魏志倭人伝』は下記のごとく証言する。
 「倭の易に用いる卜辞は、令亀(れいき)の法の如くであった」
 「令亀の法の如く」という文は「殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字で記す卜辞のごとくであった」と意味するもので、卑弥呼が外国と国交を結ぶ文書に書いた文字とまた倭の占いに用いた夏音文字は甲骨文字のごとき絵に近い字形の文字であったことになる。
 しかし、『魏志倭人伝』に記載される字形が令亀(甲骨文字)のごとき夏音文字が出土されない。
 もしかしたならば出土していて、銅鐸の身(筒の部分)に刻まれている図書が夏音文字かもしれない?
 しかし、この銅鐸の身に刻まれる図書を夏音文字と考えるのは、早計であろう。
 というのも、銅鐸の身に刻まれた図書が夏音文字ならば、銅鐸と同様な図書が銅鐸以外の竹簡や木簡などや石などに刻まれる史料が出土していなければならない。
 ゆえに、夏音文字は銅鐸絵画のごとき図書であったが、銅鐸絵画と夏音文字は別物であったと考えるべきことになる。

 中国では倉頡が考案した文字が発見されていない。
 上記したように、五帝時代初頭から殷代前半期の漢字は一括して、倉頡が考案した「書契」であると考えなければならない。
 ゆえに「書契」はすなわち「倉頡文字」ということになる。
 夏音文字は夏代の倉頡文字(書契)ということになる。
 このブログの最初の左の部分に拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネッサンス)を掲載した。
 この拙著の資料Bに示す「秋の銀河と夏の銀河の全域」からすべての漢字は作られた。
 倉頡は――資料Bの巨大な範囲の銀河は万物の情(イメージ)を示すゆえ、秋の銀河の一角の私が「十字の銀河」と名付けた銀河部を「すべての漢字を生む母体」と定め、この「十字の銀河の子宮部」から母親を子を生むように思考して、秋の銀河と夏の銀河の各部の形状に類似するように図案して多数の漢字を作る方法――を発明した。
 この倉頡が発明した漢字作成方法は「鳥獣の文」あるいは「鳥獣の足跡」と呼ばれた。

 倉頡は「鳥獣の文」で多数の子ども(文字)が生まれる――この文字の学芸は、最も強大な権力基盤となり、王朝が巨万な王朝を得る方法となり、最高の名誉を得る方法となり、また帝王にふさわしい叡智を手に入れる方法であることに気づいた。
 ゆえに倉頡は、反体制側の人々が文字の学芸を手に入れたならば容易に王朝が崩壊すると心配した。
 だから、倉頡は〔秋の銀河と夏の銀河から多数の文字を創る「鳥獣の文」の秘密を暴露する者〕、〔文字を覚えやすくするために銀河各部に名称を付けた者〕、〔用が済んだならば書いた文字を直ちに消さない者〕、これらの者たちは死刑にすると定めた。
 「死刑」の[刑]や「創世」・「創造」の[創]の右側の立刀(りっとう)は[刅(そう)]である。
 この[刅]は「死刑にする者を斬って殺す刀」をあらわした。
 だから、[創]の字は「倉頡」の[倉]に「死刑に用いる刀」をあらわす[刅]が加わる字となる。
 上記した倉頡が厳重に定めた〔漢字が銀河から創られた秘密を絶対に明らかにしてはならない掟〕をあらわす[創]という字が作られ、この[創]の字は「文字を創る」というふうに用いられた。ゆえに、「銀河各部の形状に類似するように文字を創る芸術に類する作業」は「創造」という語となり、倉頡の漢字作成原理「鳥獣の文」によって前人がこの世にあった出来事すまり歴史を後人に伝えることができることになったので「創世」や「草創」は「歴史の始まり」を意味する語となった。
 ゆえに、倉頡が反体制者に漢字が銀河から創られた学芸を絶対に習得できないようにした掟によって、【書契】は【銀河各部の形状】となった。

 以上のごとく、五帝時代初頭から殷代前半期までの【書契】は【銀河各部の形状】であったのである。
 だから、もちろん、夏代初頭(後期縄文時代初頭)にわが国に伝来した【夏音文字】も【銀河各部の形状】であったことになる。
 いわゆる“倉頡文字”は【銀河各部の形状】であったのである。
 学者たちは、現在の「文字」にもとづいて「【文字】は【ことばをあらわす記号】である」と定義する。
 しかし、倉頡は「【文字】を【銀河各部の形状】とする」と定めた。
 ゆえに、『魏志倭人伝』に「令亀の法の如く」と記載された【夏音文字】は【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】であったことになる。
 【夏音文字】は【銀河各部の形状】であったので、後世に出土しない文字となった。
 【書契(倉頡文字)】は現在の「文字」と差錯して【銀河各部の形状】であったため、また学者たちは【銀河各部の形状】を【文字】と定義しないために、わが国の夏音文字と中国における書契は未解明・不明の漢字となってしまったのである。
 この事実は上記の8つの史跡を学術調査すれば明確なる事実となって、学者たちの【文字】の定義は根本的に誤っていたことが否定できない事実となる。なぜならば、約800字といわれる【古代エジプト文字(ヒエログリフ・聖刻文字)】もまた【銀河各部の形状】であり、また文字が作られた銀河の範囲は漢字が作られた同一の銀河範囲(秋の銀河と夏の銀河)であることが明らかとなるからである。

 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に多数記載されて現存する【夏音文字】は夜空に輝く【秋の銀河と夏の銀河の各部の形状】であった。
 私が前回(44回)のブログで「十字の銀河」と呼んだ銀河は[文][天][大][丈][夫][竹][玉][阜][母][親][木][聿][立][建][隹][進][黄][横][行][牛][馬][包][犧][女][媧][神][農]など様々な字となった。
 このように単一の「十字の銀河」から多数(多種)の意味を有する文字を創ることができたのは、人間の頭脳における右半球の右脳の働き(能力)によるものであったのである。
 「十字の銀河」を仰ぎみれば右脳の複雑な視覚パターンの認識や処理にいちじるしく優れる能力と右脳独特の記憶能力で、様々な文字の字義が見分けできる。
 現在の「文字」は左脳があつかう「ことばをあらわす文字」と定義される。
 ゆえに、学者たちは「文字はことばをあらわす記号」という定義に則って「甲骨文字を最古の漢字」と断定する。
 しかし、卑弥呼が用いた「夏音文字」は右脳の働きによるところの「銀河各部の形状を感覚(イメージ)で考え・記憶する文字」であった。
 「文字は原初の段階では銀河各部の形状であり、後世になって言葉をあらわす記号」と定義しなければならなかったのである。
 上記の赤色の太い文字で指摘したように、【古代エジプト文字】もまた【銀河各部の形状】であった。
 私はブログ「卑弥呼の逆襲」の〔枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から創られた”と証言する〕というシリーズの1回~43回まで(2011年12月16日~2012年2月3日まで)で、【古代エジプト文字】もまた【銀河各部の形状】であったことを証明した。しかも、漢字と古代エジプト文字は同一の「秋の銀河と夏の銀河」の全域からすべての文字が創られた。
 だから、「文字は原初においては銀河各部の形状であったが、後世において言葉をあらわす記号となる」と定義しなければならないことになる。

 前回(44回)にて説明したように、「十字の銀河」の東隣は「三つ輪の銀河」である。
 この「三つ輪の銀河」の最北の銀河は「円形の銀河」であり、この「円形の銀河の北端の縁(へり)の銀河部」は〔鳥や獣の首〕のような形をしている。
 女性の生殖器(卵管・卵巣・子宮・産道)の側身形は鳰(カイツブリ)やハジロカイツブリなどの〔水鳥の姿〕に相似し、胎児の姿は獣のジャコウウシに類似すると見立てられた。また、胎児が宿る子宮と子宮を包囲して胎児の命を守る骨盤は天敵のオオカミに襲われたときに子ども真ん中に隠してジャコウウシ(獣)が作る円陣に見立てられた。ゆえに、この「ジャコウウシの円陣」が「陣痛」の語源となった。
 すべての漢字を生む母体となる「十字の銀河」は[文]の字(字源・字形・字義)となった。
 これゆえ、倉頡が発明した漢字作成原理の名は「鳥獣の文」となった。

 「三つ輪の銀河」の北隣は半円形に並んで星が連なるの〔四つの輪〕が連結するので「四つ輪の銀河」となる。
 中国の三皇時代(約6000年前・わが国の前期縄文時代)、「三つ輪の銀河」の最北の「円形の銀河」が中国と日本列島の天頂にめぐってきた。
 したがって、当時、中国と日本列島の天頂に「四つ輪の銀河」の最北の輪となる「半円形にならぶ星々の連なり」の輪はめぐって来なかった。つまり、天頂より北側にめぐって来たことになる。
 これゆえ、「四つ輪の銀河」の北隣の輪の銀河を除外すると「三つ輪の銀河」となる。

 上記したように、「三つ輪の銀河」の最北の銀河は「円形の銀河」である。
 この「円形の銀河」の南隣の銀河(三つの輪のうちの中央の輪の銀河)と最南の銀河の枠の形は〔半円形〕であるので、「三つ輪の銀河」と名づけた。
 三つの輪の形に枠どられる「三つ輪の銀河」の全域は一様に無数の星がひしめき、所々では星たちが小さな円を描き、所々では星たちが渦を巻き、所々で星たちが奔放な曲線を描く。
 ところが、「最北の半円形に星が並ぶ輪の銀河部」の枠の内側は星がまばらで暗黒天体部に占領される。ゆえに、南側の無数の星がひしめく「三つ輪の銀河」の形状と決定的に異なる。
 この「三つ輪の銀河」に北隣の輪の銀河を加えて四つとする「四つ輪の銀河」の形は、水母(クラゲ)の形(最も普通のクラゲのヨツメクラゲ)に相似する。
 「最北の半円形に星が並んで枠どる、暗黒天体部で占められる銀河」と「三つ輪の銀河」の「円形の銀河」・その南隣の「中央の半円形の銀河」の三区画の形は「巨大な女性の乳房」に類似して横長のハート形となる。
 ゆえに、この「母となる女性の胸の形に似る銀河」にもとづき「クラゲ」は[水]と[母]の「水母」と表記されたと考えられる。捕獲するとヨツメクラゲの体は、ほとんど水でできていることがわかる。
 このように、「四つ輪の銀河」を観れば「クラゲ」が「水母」と表記される理由が解明できる。

 約6000年前から始まる前期縄文時代(中国の三皇時代)、日本列島の関東地方と中国の中原(ちゅうげん)となる黄河中流地域の天頂緯度線は、「三つ輪の銀河」の最北の「円形の銀河」のほぼ中央部を貫通していた。
 約5000年前から始まる中期縄文時代(五帝時代)、関東地方と中原の天頂緯度線は「円形の銀河の南部」から南隣の「中央の半円形の銀河の北部」を貫通していた。
 わが国夏音文字が伝来した約4050年前の後期縄文時代初頭(夏代初頭)、関東地方と中原の天頂緯度線は「三つ輪の銀河」のうちの「最南の半円形の銀河のほぼ中央部」から「中央の半円形の銀河の南部」を貫通していた。

 上記したように「四つ輪の銀河」のうちの最北の「半円形に枠どって星たちが並ぶ銀河」は〔半円の形〕に凝固するものの混沌(こんとん)として、この銀河は前期縄文時代において、関東地方の天頂を通過していなかった。だから、この様子は「混沌とした元(はじまり)となって半円形に凝固するもの」と言うことになる。この「混元すでに凝(こ)りた、星たちが半円形に枠どる銀河」の内側はわずかの星が点在し、ほとんど暗黒天体部であるので、何かの形となる気も無く象(かたち)もあらわすことができない」ので、この様子は「気象効(あらわ)れず」と言うことになる。したがって、この銀河からは名をあらわす漢字が創られず、文字を創ったり位置と方角を測量する為(わざ)もまったく成立せず、名も無く形としてとらえる為も無いということで形を後世に伝えることができなかったことになる。
 この「四つ輪の銀河」のうちの最北にある「混元すでに凝りた、星たちが半円形に枠どる銀河」について、『古事記』序の冒頭は下記のごとく記述する。
 「臣安万侶言(しん・やすまろ・まを)す。それ混元すでに凝りて、気象いまだ効れず。名も無く為も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。」

 上記の文の直後に続く文は、下記のごとくである。
 「しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作(な)す……」
 この文中にある「参神造化」は「三つ輪の銀河」のことである。というのも「三つ輪の銀河」は「縄文土器・土偶の造化(芸術作品)」のモデルとなったからである。
 要するに「参神」は「前期縄文・中期縄文・後期縄文初頭の3時代、関東地方の天頂緯度線が三つ輪の銀河を貫通した様子」をあらわす。

 わが国では前期縄文に、関東地方で土器芸術革命がおこり、土器の表面や口縁部(こうえんぶ)に多くの渦や奔放の曲線で装飾する、世界に類をみないほど躍動的な、芸術性に優れる造形芸術の花が開いた。
 また、中期縄文には関東地方の勝坂様式始め新潟県信濃川流域の火炎土器様式、そして長野県茅野市の尖石(とがりいし)遺跡群からは最古の国宝となる“縄文のビーナス”と呼ばれる芸術性豊かな美しい土偶が創られた。
 これら芸術性に優れる土器と土偶は、現代の多くの名だたる芸術家たちも感嘆の声をあげて賞賛する。
 このような土器を装飾する躍動的な造形や意匠は、無数の星がひしめき、所々で星たちが円を描き、所々で星火たちが渦を描き、所々で奔放な曲線を描く星たちが円や渦の形にからまる、複雑な形からなる「三つ輪の銀河」を表現されるものであったのである。
 また、前期縄文から始まって中期縄文に数々の芸術性豊かな名作が創られた土偶は[文]の字となった「十字の銀河」はじめ出産する胎児に相似するので[子]の字となった「鬼の姿に似る銀河」や、「三つ輪の銀河」などのばらばらの場所に存在する形やイメージを一体化して創造された作品である。

 このように、わが国には後期縄文時代初頭(夏代初頭)以前に約2000年におよんで「三つ輪の銀河」から優れた作品を多数生む造化・芸術が栄えていた。
 この2000年の芸術史の伝統にもとづき、「十字の銀河」を〔漢字を生む母〕に見立て、「鬼の姿に似る銀河」を〔「十字の銀河」から生まれた子〕に見立てて[字]と定めれば、「万物の情(イメージ)に類似する秋の銀河と夏の銀河」から多数の文字を造化(創造)することができる――と定めた倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕の理論が、縄文の芸術家たちには理解できたのである。
 司馬遷著『史記』の五帝本紀と夏本紀に登場する名門・益氏が日本列島に移住して夏音文字を根づかせた。
 この益氏の王子(天祖)と若者たちが話す夏音の言葉はまったくチンカンプンカンであったが、彼らが銀河を指さし、また手ぶりで説明し、また地面に図を画いておこなう文字の解説を、縄文の芸術家たちには理解できた。
 だからこそ、わが国では【銀河各部の形状】を【文字】と定める夏音文字が習得できたことになる。

 『古事記』序の初頭部に記載される「参神造化」は、結局、「三つ輪の銀河」のことであり、「前期・中期・後期初頭の縄文芸術」のことであった。
 「三つ輪の銀河」の最北の「円形の銀河」の北端に「鳥や獣の首に似る銀河部」が連結する。ゆえに、『古事記』序は「参神造化の首」と表記して、[首]の字を「はじめ」と読ませたのである。
 『古事記』上巻の冒頭の「創世の神々」は、下記の文から始まる。
 「天地初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)、この三柱(みはしら)の神は皆独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して、身を隠したまひき。」
 この文に登場する「天御中主神」は土器革命が起こった関東地方における「前期縄文時代、円形の銀河のほぼ中央部を貫通した天頂緯度線」ということになる。天頂緯度線が貫通した「円形の銀河のほぼ中央」を「天御中主」と表現して、神の名としたのである。
 「高御産巣日神」は関東地方において「中期縄文時代、円形の銀河の南部から中央の輪の銀河の北部を貫通した天頂緯度線」となる。この中期縄文時代の天頂緯度線は後期縄文時代初頭の天頂緯度線よりも高い緯度となったので神の名に「高」と字が配され、「円形の銀河」と「中央の輪の銀河」はわが国に生息する〔鳰(にお・カイツブリ)や鷹の巣を上から見た形〕に相似するので、「産む」の[産]と[巣]と日輪(太陽円盤)のように円いので[日]の3字が加わって神の名は「高産巣日」となった。
 「神産巣日神」は[神]の字を構成する[示]・[申]の字義はともに「神」であり、[示]の甲骨文字の字形[Τ]は「精密に天頂緯度が測定できる物差しとなる[玄]と[玄]と直角に交わる交点となる天頂点」をあらわす図書である。したがって、「天頂緯度線」をあらわす[神]に、この天頂緯度線が「最南の半円形の銀河のほぼ中央部から中央の半円形の銀河の南部」を貫通するので「産巣日」の3字が加わって、神の名は「神産巣日神」となった。  

 この造化の参神に名が列記される直後に続く文は下記のごとくである。
 「次に国稚(わか)く浮かべる脂(あぶら)の如くして、久羅下那州多陀用弊流(クラゲただよへる)之の時云々」
 この文中にある[流]という字より上に並ぶ10字は1字1音文字は、〔音〕と注が付く夏音文字である。
 上記四つ輪の銀河」のうちの「混元すでに凝りた、半円形に星たちが枠どる銀河」と「三つ輪の銀河」の「円形の銀河・中央の半円形の銀河」が連結して一体となる形は「久羅下」すなわち「くらげ(水母)」と表現されたことになる。
 ゆえに、「クラゲが漂(ただよ)える」ように観える銀河は「浮かぶ脂の如く」と表現された。というのも。銀河は黒に近い群青色の水面に油の液が広がり浮かぶような形に観えるからである。

 『古事記』序の説明にもどる。
 『古事記』序の末部は、上巻(日本神話)に〔音〕と注を付ける夏音文字を、まず「稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦(よ)むところの勅命(ちょくめい)の旧辞(きゅうじ)」と表示する。
 このブログの冒頭にて指摘したように、『新唐書』日本伝が――『古事記』が完成する10年前の702年に派遣された日本国の遣唐使が「後稍夏音を習い云々」と述べた――と記述するが、この遣唐使の「後稍夏音を習い」という発言は「壬申の乱の後、天武天皇が稍々(やや)すなわち少しだけ夏音文字を復興せよと勅命した」と意味するものであった。
 『古事記』序は中ほどで、「天武天皇が稗田阿礼に帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞を誦み習う(復興する)ようにと勅語(勅命)した」と記述する。
 「帝皇の日継」は、『古事記』中巻と下巻の「天皇紀」すなわち「歴代天皇の系譜を中心とした記録」である。
 ゆえに、「先代の旧辞」「旧辞」(あるいは、『古事記』序は「本辞」とも記す)は「上巻の日本神話の原典」となる。
 だから、天武天皇に勅語されて誦み習うことになった旧辞に記されていた文字は、『古事記』上巻に〔音〕と注が付く、702年に派遣された遣唐使が「後稍夏音を習い」と発言した「夏音文字」であったことになる。
 [辞]の[舌]は「ことば」、[辛]は「文字」を意味する。というのも、[辛]は「甲骨文字の亀の甲羅や獣骨に文字を刻んで記す辛(はり)」であるからである。
 したがって、「旧辞」は「ことばをあらわす夏音文字で記述された、『古事記』上巻の原典であった書物であった」ことになる。
 『魏志倭人伝』も「倭には令亀の法(甲骨文字)の如き卜辞があった」と記載するゆえ、「旧辞」は「令亀の法の如き夏音文字で作られていた史書」であったことになる。

 天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせた、この「誦み」を学者たちは一様に「暗誦する」と訳するが「天を仰いで【銀河各部の形状】の【文字】を読解する」と訳すべきことになる。
 私が「十字の銀河」と名をつけた銀河が[天]と[宀(べん)]の字となり、その顔の部分が「十字の銀河」を仰ぎ見る「鬼の姿に似る銀河」は胎児や乳児に相似するので[子]の字となり、「十字の銀河」の[宀]の下に「鬼の姿に似る銀河」の[子]を配して[字]という字が成立した。そして、「十字の銀河」は〔妊婦が西に向かって歩く側身形、左手に弓や刀を持つ男性が東に向かって歩く側身形」に酷似し、この男女が通う道は「鬼の姿に似る銀河」が相当する。また、「鬼の姿に似る銀河の顔となる銀河部」は[天]の字となり「十字の銀河」を仰ぎ観る形をしており、「十字の銀河」は倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕で「すべての文字を創る範囲となる秋の銀河と夏の銀河全域」に共通すると定められた。そして、「言(ことば)」はすべての文字を生む「十字の銀河」から生まれると定められたゆえ、「十字の銀河」を仰ぎ見る「鬼の姿に似る銀河の顔となる銀河部の口の部分」が[言]の字となり、上記したように「鬼の姿に似る銀河」は〔男女が通う道〕に相当するので[甬]の字となった。この「鬼の姿に似る銀河」のイメージが示す[言]に[甬]を加えると[誦]という字になる。
 したがって、「鬼の姿に似る銀河」は〔天を仰いで【銀河各部の形状】の【文字】を読解する〕というイメージを示すので、[誦]の本義・夏音文字の字義は「天を仰いで【銀河各部の形状】の【文字】を読解する」であったことになる。

 この「誦む」という行為について、『古事記』序は「目に度(わた)れば口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す)」と説明する。
 この前半の「目に度れば口に誦み」は[誦]の字(字源・字形・字義)となった「鬼の姿に似る銀河」のイメージをあらわすものであり、後半の「耳に払るれば心に勒す」は「鬼の姿に似る銀河」に隣接する「北アメリカ星雲」のイメージを示すものである。「北アメリカ星雲」は[耳]と[心]の字となった。
 子午線通過するとき、「鬼の姿に似る銀河のアゴの先端となる銀河部位」と「北アメリカ星雲の南端」で隣接する「長方形の暗黒天体部」は[口]と[勒]の字となった。
 ゆえに、[誦]の字の秘密から【夏音文字】は【銀河各部の形状】であり、『古事記』上巻の原典は「夏音文字で記された朝廷が厳重な機密にしていた史書」であったことになる。
 この『古事記』上巻の朝廷が厳重な機密にして保管していた秘密の史書は、『日本書紀』皇極天皇紀が「645年(皇極天皇4年)6月13日、蘇我臣蝦夷(えみし)が中大兄(なかのおおえの)皇子に殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった」と記述する「国記」だったにちがいない。

 『古事記』序の末部を訳すると、下記のごとくになる。
 「ここにおいて今上陛下(元明天皇)は旧辞の誤り違っているのを惜しまれ、帝紀の誤り錯乱しているのを正そうとされて、和銅四年九月十八日に、臣安万侶に詔(みことのり)して、稗田阿礼の誦むところの勅語の旧辞を書物に著して献上せよ、とおっしゃいましたので、謹んで詔の主旨のままに事細やかに採録いたしました。しかしながら上古(の夏音文字)においては、言(ことば)も意(こころ)もともに素朴で、万葉仮名の文章や語句に書きあらわしますと、どういう万葉仮名(楷書)に直したらよいか困難なことがあります。すべて訓(くん)にもとづいて記述しますと、上古文字(夏音文字)の詞(ことば)の心を捕えることができず、すべて音にもとづいて万葉仮名を連ねると、文章がたいへん長くなってしまいます。この書物を作るにあたって、ある場合は一句の中に音と訓とを交えて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて書くことにしました。そして、辞理(じり)の見えがたきは、注を付けて明らかにし、意味がわかりやすいものには別に注をつけませんでした。また、姓については日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と称し、名においては帯(たい)を多羅斯(たらし)と呼ぶ、こういう類例は上古から伝えられる本(もと)のままにして改めませんでした。」
 この文中にある「辞理の見えがたき」という文は、【夏音文字】が天を仰ぐと見える【銀河各部の形状】であったから、「見えがたき」と表現したのである。
 文中にある「本のままにして改めませんでした」(原文の書き下し文は「本の随に改めず」)の[本]の字源銀河は「十字の銀河の子宮部」である。
 というのも、「十字の銀河」の全象は〔木〕の形に相似し、『説文解字』が[天]の字源について「一大に従ふ」と解説するのは「十字の銀河」が[大]字形で、「十字の銀河の子宮部」が[一]の字源だかである。[木]の字を〔母体(女体)〕に見立てて、[木]の〔根本(ねもと)〕と〔女性の子宮部〕に相当する部分に[一]を加えると[本]という字となる。

 夏音文字の学芸では〔精密に緯度と子午軸が測量できる天頂緯度測定〕を最も重視した。遠い地に旅したとき、大海を往来したとき、獲物を追って狩猟に夢中になって見知らぬ山地に踏み入れたとき、山菜採りに熱中して密林や森の奥に入ったとき、家族が待つ家に帰るには、天頂緯度測定しなければならなかったからである。
 天の北極の高度でも緯度に換算できたが、この方法の場合は緯度が不精確に測定されるので道に迷って家に帰れず落命したり、九死に一生を得るやっと助かって命びろいするような体験をすることになった。
 このように道に迷った人々は4秒から6秒ぐらいで測量する天頂緯度線に委(ゆだ)ねれば命が助かるが、天の北極の高度を緯度に換算する方法だと命を失った。
 上記したように、[神]の甲骨文字の字形[Τ]の「頂部の横線」は「4秒~6秒ぐらいで測量する天頂緯度線=玄」をあらわし、この「横線と縦線が直角に交わる交点」は「天頂点」を示し、「下に垂れる鉛直線」は「天頂点をキャッチした観測者の視線」を表示した。
 したがって、新村出編『広辞苑』は「天頂」を「地球上の観測点における重力の方向(鉛直線)を上方に伸ばして天球と交わる点。天頂点」と定義する。
 天頂点と重なる銀河部位は一日(24時間から約4分少ない23時間56分)で一周する大円を描いて運行する。
 これゆえ、[神]の甲骨文字[Τ]の「頂部の横線」は「天頂点と重なる銀河部位が4~6秒ぐらいで天頂点の西から東へ移動する平らに横一直線に移動する軌道」をあらわした。
 したがって、『広辞苑』の「天頂」の説明に登場する「天球」は、上古の人々が「4~6秒間で測量する天頂点と重なる銀河部位の軌道」のことである。というのも、「天球」という語は「球のように円い天」と表示するが、「4~6秒間で測量する天頂点と重なる銀河部位の軌道」は「横一直線に平らな天球面」となり、この平らな天球面と重力の方向(鉛直線)を上方に伸ばして交わる点」が「天頂点」だからである。
 要するに天頂点をキャッチできれば精密に緯度と子午軸を測量できるので、上古の人々は遠くの地に旅しても道に迷って命を失うこともなく、大海に入っても落命しないで往来でき、見知らぬ山地に踏み入っても家族が待つ家に帰ることができた。

 したがって、上古の人々は天頂点と重なる銀河部位が4秒~6秒ぐらいで天頂点の西から東へ移動する軌道である[玄]に命を委ねていた。
 だから、命を委ねることができる「天頂点」は人の命を与える「神」となったので、[神]の甲骨文字の字形は[Τ]とデザインされたのである。
 この「天頂点のキャッチ(いいかえると、精密な天頂緯度と子午軸の測定)」をあらわす甲骨文字の字形[Τ]は、「十字の銀河の子宮部」を「[Τ]の頂部の横線」であらわし、「鬼の姿に似る銀河の顔の目から発する視線」を「[Τ]の頂部の横線と90度の方向に下へと垂れる縦線(鉛直線)」であらわした。
 したがって、「[Τ]の頂部の横線」は「4~6秒ぐらいで測量する天頂緯度線と天頂点(天頂緯度線[玄]の中央の点)」をあらわした。
 いいかえると、「[Τ]の頂部の横線」をあらわす「十字の銀河の子宮部」は「天頂点をキャッチできる4~6秒間で測量する天頂緯度線[玄]」と「天頂点」をあらわした。
 というのも、天頂点をキャッチするときの心得は“産道を通過する胎児のように無欲であれ”であり、何が何でも精密に緯度を測定するのだと欲を有すると天頂点がキャッチできず道に迷って落命する羽目となったからである。また、医学の未発達であった上古には母体の骨産道(骨盤の産道)が狭いために骨産道を通過できずに死産する胎児や最も大きい頭の部分が膣(ちつ)入口を通過できずに死産する胎児の悲劇が多発した。そして、上古には産道を通過する胎児のように無欲になれずに道に迷って命を落とす悲劇が多発した。
 だから、「4~6秒間で精密に緯度と子午軸を測量する天頂緯度線」と「産道を無欲で通過して出産する胎児」は同一視されることになり、倉頡が文字を生む子宮と定めた「十字の銀河の子宮部」は同一視された「4~6秒間で精密に緯度と子午軸を測量する天頂緯度線」と「産道を無欲で通過して出産する胎児」をあらわすことになった。
 このような「十字の銀河の子宮部」は、上記したように[本]の字となった。

 上記したように、「三つ輪の銀河」を貫通した関東地方の中期縄文時代の天頂緯度軸は「高御巣日神」という名となり、後期縄文初頭の天頂緯度軸は「神産巣日神」という名となった。
 この両神の名に配された[日]の字が示すように、「三つ輪の銀河」の「三つの輪」は〔太陽〕が容易に想像されるものとなるゆえ[日]の字となった。
 北に向いて銀河を仰ぎみると、「三つ輪の銀河」の方が「十字の銀河」より北にあるから、「十字の銀河」は[日]の「三つ輪の銀河」の下にあるように見える。
 したがって、「十字の銀河の子宮部(子宮・産道)」は「日下」となる。
 ゆえに、『古事記』序の末部に記載される「日下」すなわち「玖沙訶」は「十字の銀河の子宮部(子宮・産道)」であり「女性の生殖器の子宮と産道」をあらわした。
 「女性の子宮と産道」の側身形は[久]の字の草書体・ひらがなの[く]の字形に曲がる。[玖]の偏となる三皇時代の[玉]の結縄は「十字の銀河の頭部を貫通する緯度線」を図案するものであった。だから、[玖]は「天頂緯度線」に見立てられた「十字の銀河の子宮部」をあらわす字であったことになる。[玖]の字義は「玉に次ぐ黒色の美しい石」であるが、結縄の[玉]の字は包犧氏が居住した半坡(はんぱ)集落の天頂にめぐってきた「十字の銀河の頭部の暗黒天体部」から作られた。これゆえ、[玖]の字義は後世において「玉に次ぐ黒色の美しい石」となったのである。
 『説文解字』は[沙]の字源を「水の散らせる石なり」として「水少なくして沙見ゆ」を意味すると解説する。白川静著『字統』は[沙]の右側の[少]の字形は「小さな砂模様の形」と解説する。女性の子宮頚(しきゅう・けい)から膣入口までの産道となる膣の壁にはミゾがある。この膣の壁のミゾは、胎児の頭が螺旋状に旋回して一気に出産するように、また胎児の頭の最も大きい部分が膣入口を通過しようとするときに引っ込まず一気に生まれるようにするための役割がある。そして、胎児の頭が壁にミゾがある参道(膣)を旋回して出産するとき、羊水は壁にミゾがある膣を湿潤(しつじゅん)にして、胎児の産道を通過を容易にする。これゆえ、[沙]は「小さな山と谷がくりかえされて続く風に吹かれてできる砂の模様に相似する、羊水で潤(うるお)う産道の壁のミゾ」をあらわすことになる。
 『説文解字』は[訶]の字源を「大言して怒るなり」と解説する。子宮口がすっかり開くと、胎児の頭がさがって母体の直腸をおさえるために、反射的に腹圧が加わって母体は大きな怒り声を挙げていきみ・きばる怒責(どせき)がおこる。あるいは、出産した胎児はすぐに呼吸をはじめて怒るように大きな声を挙げて泣く。
 だから、楷書の「日下」と夏音文字の「玖沙訶」は同義となり、倉頡がすべての漢字を生む子宮・産道と定めた「十字の銀河の子宮・産道に相当する部分」と「女性の子宮と産道」をあらわした。

 倉頡がすべての漢字を生む母体と定めた「十字の銀河」の西半分は妊婦そっくりの側身形となる。(西半身は西に向かって歩く妊婦の姿、東半身は東に向かって歩く左手に弓を持つ男性の姿)。
 倉頡がすべての漢字を生む子宮・産道と定めた「十字の銀河の子宮部」は「十字の銀河の妊婦のおなか」また「十字の銀河の右足」の部分と重なる。
 「三つ輪の銀河」と「十字の銀河の子宮部」とで「日下・玖沙訶」の語が成立すると、「十字の銀河」の西隣にある「鬼の姿に似る銀河」は〔天を仰ぐヒト・天頂緯度測定するヒト・遠くを見るヒト・母親の乳房を嘗(な)める乳児〕などに見える。
 「十字の銀河」は[大]字形(人が両手を左右に伸ばし、両足も左右に伸ばすゆえ[大]字形となる)ので[大]の字となった。また上記したように、〔乳児〕のごとくに観える「鬼の姿に似る銀河の舌の部分」は「十字の銀河の妊婦のおなかや右足」に観える部分を「嘗める」ようにも観えるので、[嘗]と字となった。だから、天皇即位式がおこなわる皇室最大の神事の名は[大]に[嘗]が加わる「大嘗会(だいじょうえ)」または「大嘗祭」となった。この大嘗会をおこなうために新設される古代様式の二つの宮殿(悠紀殿・主基殿)の名は1字1音の夏音文字にもとづき「悠紀」は「ゆき」、「主基」は「すき」と定める。
 [嘗]の字は「十字の銀河の妊婦のおなか・右足」を「乳房」に観ると「乳児」に観える「鬼の姿に似る銀河の舌」が「十字の銀河の乳房」(妊婦のおなか・右足)を「嘗める」ように見えるので成立する。
 「十字の銀河」は[宀(べん)](ウ冠)の字となり、乳児に観える「鬼の姿に似る銀河」は[子]の字となって、[宀]に[子]が加わって[字]の文字が成立した。
 ゆえに、『説文解字』は[字]の字源を「乳するなり」と解説する。
 したがって、[字]と[乳]と[嘗]の字源は同一銀河のイメージによって成立するものであり、「大嘗会」の語源でもある。

 [字][乳][嘗]の字となり「大嘗会」の語源が成立する「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の中間に2本の「帯」に観える帯状の銀河部がある。
 「M39」と呼ばれる肉眼で見える散開星団が重なる「十字の銀河の胸部(左の乳房)」と「鬼の姿に似る銀河の額(ひたい)」の中間に、また[嘗]の字が成立した一角を担う「十字の銀河の右の乳房」と「鬼の姿に似る銀河の舌」の中間に、計2本の帯状の銀河がある。
 なお、前者の〔帯〕状の銀河は長く、後者の〔帯〕のように観える銀河は「鬼の姿に似る銀河の舌」と重なって短い。ゆえに、前者の〔帯〕に観える銀河は[長]の字となり、後者の〔帯〕状の銀河は[短]の字となった。
 「十字の銀河」を帯を洗濯して日に干すための横木(要するに、現在「物干し竿」)に見立てると、〔帯〕状の銀河は〔横木から垂れる日に干す帯〕に観える。
 ゆえに、[帯]の夏音文字の「多羅斯」は「垂らし」と解釈すべきことになる。
 上記したように、[帯]の字となる銀河部は「十字の銀河の左と右の乳房」から垂れる。だから、「垂乳(たらち)」「垂乳女(たらちめ)」「垂乳男(たらちを)」「垂乳根(たらちね)」などの語源となった。「十字の銀河」は〔立ち木〕のようにも観え、「鬼の姿に似る銀河」は〔立ち木を見る人〕に相似し、しかも倉頡は「十字の銀河」を「鬼の姿を似る銀河」を生んだ母親と定めたゆえ、「立ち木」の[立]の下に[木]を配してその右横に[見]に加えて[親]という字が成立した。「十字の銀河」の東半身は男性の姿・西半身は女性の姿となるので、「垂乳女」と「垂乳男」という古語が作られ、「垂乳根」は「❶母 ❷父 ❸両親」を意味することになったのである。「十字の銀河」は「立ち木」のごとくに観え、[字]と[乳]と[嘗]の字となった「十字の銀河の子宮部」と「十字の銀河の右の乳房」は〔立ち木の根〕に相当するので「垂乳根」という語が成立したのである。

 [帯]の字となった2本の「帯状の銀河」に凝視すると、両者ともに「三本の線」から成っているように見える。
 [三]と[参]の字には「多い」と意味がある。「十字の銀河の左の乳房から垂れる[帯]の字となる銀河」は〔夏の強い陽射しの木漏れ日〕のように観えるゆえ「多くの陽射し」をあらわす。また「十字の銀河の右の乳房から垂れる[帯]の字となる銀河」は〔豊かな作物の恵みをもたらす天ら降る雨〕に観えるゆえ「多くの雨」をあらわす。
 これゆえ、「[帯]の字となる銀河」は[多]の字となった。
 『説文解字』は[多]の字源を「重夕を多と為(な)し、重日を畳(でふ)と為す」と解説する。「重夕を多と為す」は[夕]の字が重なる[多]の字形に合致する。「重日を畳と為す」という解説は2本の「[帯]の字となる銀河」を「夏の強い陽射しの木漏れ日」に見立てた解説であると考えられる。というのも「十字の銀河」の東隣の「三つ輪の銀河」は〔最北の円形の銀河とその隣の二つの輪の銀河が畳むように重なり、また三つ輪の銀河は日・太陽が重なってる〕ように観えるからである。
 『説文解字』は[羅]の字源を「糸を以て鳥の罟(あみ)するなり。网(あみ)に従い、維に従ふ」と解説する。「[帯]の字となる銀河」は〔三本の糸〕が垂れる形状に観えるので、[糸]となる。「十字の銀河の左の乳房の銀河部」と重なる「M39」という名の散開星団は〔隹(小鳥)の鳰(にお・カイツブリ)やツバメの顔が覗く巣の形〕に観え、また「十字の銀河の右の乳房の銀河部」と重なる「十字の銀河の子宮部」は〔隹の鳰の顔と頸(くび)〕の形に相似する。ゆえに、[糸]に[隹]を加える字は[維]と字となるので、『説文解字』は[羅]の字源を「維に従ふ」と解説したのである。ということは、「十字の銀河」は『説文解字』が「糸を以て鳥の罟するなり。网に従い」と解説する[羅]の字源銀河であり、[罟]と[网]の字源銀河であったことになる。「M39」と「十字の銀河の子宮部」は共に〔鳰の姿〕に観えるが、「十字の銀河の子宮部」のほうが大きく「M39」のほうが小さいので「十字の銀河の子宮部」は「鷹の顔と頸」に観え、また「十字の銀河の子宮部」は〔鳰の顔と頸の形〕であるのに対して「M39」は〔鳰の顔と浮巣の形〕で異なった形となる。これゆえ、[不]の字源となり、『説文解字』は[不]の字源を「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ」と解説する。殷代、殷の都の「M39」がめぐってきたので[一]の字源となり、また、『説文解字』の[不]の字源解説は「M39」を〔飛翔して高い所に作る巣と燕(ツバメ)の顔〕と見立てた解説である。この字源解説によって、[不]の字は否定・打ち消しの「ず」に仮借して用いられることになった。「十字の銀河の子宮部」は鳰の隹より大きい〔鳥〕にも見立てられたので、[羅]の「糸を以て鳥の罟とするなり」という解説は〔「十字の銀河」を鳥を捕獲する罟に見立てた〕とあらわすものとなる。
 『説文解字』は[斯]の字源を「柝(さ)くなり」と解説する。[帯]の字源銀河は〔斧で木の幹を斯(さ)いた(裂いた)木の切れはし〕に観える。また、白川静著『字統』は[斯]の字について「折(せき)・離(り)の意に用いる」と指摘する。[帯]の字源銀河は「斧で斯いた木の枝」または「折れる枝」にも観えるゆえ、[斯]の字は[折]の意を有することになったのである。上記したように「十字の銀河の両方の乳房の銀河部」から垂れる「[帯]と[斯]の字となった銀河」は[長]の字となった〔長い距離の帯〕と[短]の字となった〔短い距離の帯〕を示すから、[離]の意をも有することになったのである。

 以上のごとく、楷書(万葉仮名)の【日下】の2字も夏音文字の【玖沙訶】の3字も、楷書の【帯】の1字と夏音文字の【多羅斯】の3字も、すべて【銀河各部の形状】であった。
 『古事記』序は初頭部で〔夏音文字の日本列島伝来〕について記述し、中ほどの文章に用いられるすべての【漢字】は本々【銀河各部の形状】であり、言い換えるとすべての【漢字】の字源・字形・字義は【銀河各部の形状】であることを伝えるために、末部の「また姓に於きて日下を玖沙訶と謂(い)ひ、名に於いきて帯の字を多羅針斯と謂ふ、かくの如き類(たぐい)は、本(もと)のままに改めず」という文で、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の文〕で定められたすべての漢字を生む母体となる「十字の銀河」とすべての漢字を生む子宮となる「十字の銀河の子宮部」で、結縄・書契・夏音文字・甲骨文字・金文・篆文・隷書・楷書の区別もなくこれらの【すべての漢字】は【銀河各部の形状】である真実を察知するようにしたのである。
 また、なぜ楷書の[帯]と夏音文字の「多羅針斯」(垂らし)を注目したかと言えば、「【すべての漢字】は【銀河各部の形状】である」と解説する字書の聖典の『説文解字』は序で「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識(し)るなり」と記載するものであったからと考えられる。
 『古事記』は歴史書であるから「文字があればこそ歴史を後世に伝えることができる、【すべての文字】は【銀河各部の形状】であった事実を知れば『古事記』上巻に記述された歴史の真相を識ることができる」ということで、後世の学識者たちは字源を解説する字書の『説文解字』の序の「前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり」という文に注目するにちがいないと期待をこめて[帯]は夏音文字の「多羅斯=垂らし」という語を選んだのではあるまいか。

 『古事記』序が記述したように【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であった。
 上記の8つの夏音文字の史跡もまた【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であると表示し、科学的に証明できる。
 だから、この事実を学者たちが批判・否定しても、古代文献と8つの夏音文字の史跡が合致して【すべての漢字】は【銀河各部の形状】と伝えるものであるので、明確なる事実となる。
 学者たちの【漢字】と【古代エジプト文字】はじめ、ABCアルファベットのルーツのワディ・エル・ホル文字や原シナイ文字やフェニキア文字の字形も【銀河各部の形状】から創られたことが証明できるので、【文字】の定義は根本的に間違っていることになる。

 「漢字」はやっぱり「漢字」であったのである――「銀河」は「銀漢」ともいうので「漢字」は「銀漢から創られた字」の略称であったからして、【漢字】はやっぱり「漢字」という語のとおりであったのである。
 「天文」という語はやっぱり「天文」であったのである――「天に多数の文字ありき」の略称が「天文」であるからして、「天体」を【天文】という語はやっぱり「天に多数の文字ありき」であったのである。
 『古事記』序は読者が「漢字」から「銀漢から創られた字」、「天文」から「天に多数の文字ありき」と連想できるという前提のもとに、難解の語句と文章を用いて【すべての文字】は【銀河各部の形状】であると解説する。

 『古事記』の序は、極めて珍しい序である。
 『古事記』の序は「古事記上巻 序并」〔古事記上巻并(あわ)せて序〕と表記する。
 ゆえに、『古事記』の序は上巻だけの序であって――中巻・下巻を序ではない。
 『古事記』の序は「【すべての文字】は【銀河各部の形状】である」と解説し、「上巻のすべての【漢字】を【銀河各部の形状】に改めて文を読解せよ」と指摘するものであるから。だからこそ、「古事記上巻 序并」と表記したのである。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話の文字を銀河各部の形状に改めると――伊耶那美命の死後に登場する「黄泉国の伊耶那美命」は皇室が最も崇拝する皇祖・天照大御神であり、彼女は熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された伊耶那美命の墓を作るときに多数の青年と乙女たちを殺して葬る残虐きわまりない徇葬(じゅんそう)を決行した。伊耶那美命(正妃)と天照大御神(第二后)の夫であった小国・日本の軍王である伊耶那岐命は愛妻・伊耶那美命の遺志を継いだ配下の日本兵と熊野に住む人民(戦士)のとともに倭女王・天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)の徇葬を否定するクーデターを決行し、大斎原から伊耶那美命の棺を奪って逃走し、現在の熊野速玉大社(和歌山県新宮市に所在する)の境内で待機していた日本軍と熊野の戦士たちの本隊は伊耶那岐命一行を追跡してくる倭の大軍を撃破した。天照大御神は捕虜となり、現在の熊野の神倉神社(和歌山県新宮市に所在する)の御神体となる千引(ちびき)の石(いわ)・現在は「ごとびき岩」と呼ばれる岩の前で、天照大御神は「伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親の産道を狭くして、一日に千人の胎児の頭を絞め殺」と呪い怨んで誓った。この天照大御神の呪詛(じゅそ)の誓いに対して、伊耶那岐命は「吾は一日に千五百の産屋を立てむ」と述べて、伊耶那岐命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を継ぐという決意を示して誓った――という歴史が明記されていることになる。
 『古事記』上巻は――天照大御神は千引の石の前の誓いのとおり日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し、伊耶那美命を敬愛する人民を苦しめ、伊耶那美命を崇拝した大国主神が治める出雲王朝を征服し、また、出雲王朝を支援する九州の宗像王朝も征服して、大和王朝を繁栄させた――と記述する。

 ところが、現在の書店に陳列される『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀を訳する絵本や書物は「天照大御神は日本建国の〔愛〕の理念を呪って憎悪して人民を苦しめた人民の敵であった」と正しく解釈したものは一冊も存在しない。
 すべての本は誤訳して天照大御神を至上神と賞賛するが、正しく解釈すると日本神話における至上神は日本建国の母である伊耶那美命ということになる。
 伊耶那岐命は『万葉集』で「春」「花(梅の花)」「天の香具山」に象徴され、「夏」「耳成山」に象徴される天照大御神よりも数段優って敬愛される。また、〔愛〕をテーマとする日本最初の小説にして反権力風刺小説の傑作『竹取物語』のヒロインとなり、舒明天皇・仁徳天皇・舎人皇子・源頼朝・足利尊氏・織田信長・徳川家康・歴代井伊氏の家督者たちが憧れた。

 そもそも学者たちは『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の文を正しく訳する能力をまったく有していない。このため、ただただひたすら誤訳する。
 だから、すべての訳本は誤読の産物となったのである。
 ゆえに、日本神話虚構説を唱える学者たちは日本民族を虐殺する日本人の敵であり亡国の徒であることになる。
 また、『古事記』序の文を正しく訳すれば、上記の8つの夏音文字の史跡から漢字だけでなく古代エジプト文字も銀河各部の形状から創られたことが科学的に証明できるので、わが国の文献批判を用いる邪馬台国説と日本神話虚構説を唱える学者たちは人類共通の敵でもある。

|

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・44 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・46 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・45:

« 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・44 | トップページ | 邪馬台国学説は日本民族を虐殺する。しかも人類共通の敵である・46 »