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2012年12月25日 (火)

信長と家康の熱き魂の証言 “よみがえれ 日本国誕生史”・2

 織田信長と徳川家康は有名な歴史上の人物である。
 これゆえ、大半の日本人は――歴史学者と作家たちによって信長と家康の一生は語りつくされて、付け足す秘密や事柄が一つも存在しないと思っているにちがいない。
 しかし、それは思い過ごしである。

 学者や作家たちは最も肝心な秘密すなわち信長と家康が一生追い掛けた夢について、何にも知らない。
 ということは、信長と家康を研究する学者や作家たちは二人が一生ささげた胸に秘めた情念をまったく語るものでないゆえ、信長と家康の生涯についてほとんど知らないに等しいことになる。

 信長と家康は『古事記』上巻に記述された「日本国誕生史を復興する夢」にささげる生涯をつらぬいた。
 この二人がひたすら追い求めた「日本誕生史を復興する夢」について、明らかにした学者や作家は一人も存在しない。
 だから、そんな本はどこにも存在しない。書店にも図書館にも一冊も存在しない。
 信長と家康は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命に熱烈に憧れていた――それは“恋している“というほどに熱烈であったことは現在の日本人は誰も知らない。

 信長と家康が恋した伊耶那美命は実在の人物だったのである。

 われわれは学校教育は『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記述された日本神話は虚構(作りもの)であると洗脳され、「漢字はわが国では5、6世紀に最初に習得した」あるいは「文字はことばをあらわす記号である」と思い込むように訓練された。
 しかし、信長と家康はわれわれと異なって、夏音文字の学芸に精通していた。
 夏音文字の学芸に精通する信長と家康は【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であると認識していた。

 信長と家康が有していた【すべての漢字】は【銀河各部の形状】となる、この【夏音文字の学芸】にもとづくと――漢字の字形と字義は時代とともに「ことばをあらわす文字となる記号化」へと進化したことになる。
 つまり、信長と家康が有していた【夏音文字の学芸】に則ると【今から約5000年前の書契(しょけい・わが国では「刻木」と称した)と次の夏音文字】は【銀河各部の形状】であったゆえ、この夏音文字以後の【甲骨文字・金文・篆文・隷書・楷書そして現代の中国の簡略字とわが国の当用漢字まで】もまた【銀河各部の形状】ということになる。
 漢字の歴史は今から約5000年前に出現した書契から起源し、この書契から楷書までの途中において、朝鮮のハングル文字のように――【銀河各部の形状】に類似しない字形へと一新する――という革命がおこらなかった。
 このため、隋代に完成して以後使用された楷書の字形もまた【銀河各部の形状】に類似する特徴を一変するものでなく、あいかわらず【銀河各部の形状】に類似することになった。
 だから、信長と家康は【すべての漢字】は【銀河各部の形状】であると認識していた。
 この認識のもとに、信長と家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の文を読解するものであったため、伊耶那美命は歴史上に実在した小国・日本の女王にして後年に倭女王であったと確信していた。
 いっぽう、現代の学者たちは「文字はことばをあらわす記号」であると定義し、今から約3300年前に出現した殷代(いんだい)後半の甲骨文字から現代の中国の簡略字・わが国の当用漢字までを【漢字】と定める。
 このため、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻をひもといても、伊耶那美命歴史上実在した日本建国の女王にして後年に倭女王となったと史実を立証できない。

 孔子(紀元前552-同479)が作ったと伝わる『詩経』小雅・大東には「これ天に漢あり」という文があり、この文は「天に天の川あり」とあらわすものゆえ「天の川」は「天漢」、「銀漢」、「銀河」と呼ばれることになった。
 信長と家康は「天漢から創られた文字」あるいは「銀漢から創られた文字」を略して「漢字」と解釈し、また〔書契から楷書までの漢字の進化はいかに短時間で文字を筆記できるかの字形の革命であった〕と認識し、「書契から楷書までのすべての漢字は銀河(天の川)各部の形状である」と考えていた。
 他方、現代の学者たちは「漢字」という語は「銀漢から創られた文字」の略であると考えないから、「書契から楷書までのすべての漢字は銀河各部の形状である」と考えない。
 信長と家康が有していた学識において、【すべての漢字】となる【銀河各部の形状の範囲】は、左に掲示した幻冬舎ルネッサンスから発行した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の【資料Bの「秋の銀河と夏の銀河」(藤井旭氏撮影)の範囲】となる。

 世界的に有名な京都市右京区竜安寺御陵下町に所在する臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派の禅寺の竜安寺(りょうあんじ)の石庭は上記した拙著の資料Bの銀河範囲を表示して、「すべての漢字は銀河各部の形状であった」、この秘密が目撃できるように創られている。

 芸術を創造する右脳思考に優れる人々が拙著の資料Bと同じ銀河範囲の写真を携えて、竜安寺の白砂が敷きつめられた平庭と15個の石を5群に分ける石組を見比べれば、“あっ”と声を挙げて驚き「すべての漢字は秋の銀河と夏の銀河各部の形状である」と感知することができる。

 人間の脳は、左右の半球に分かれ複数の神経の束で結ばれる。
 脳の両半球は、各々まったく異なった方法で考え、異なった方法で記憶する能力を有する。
 すなわち、左脳は言葉で考え、右脳はイメージ(心に浮かぶ像すなわち心像)で考える。
 右脳には銀河系宇宙における地球の位置と中心方向が示される壮大な秋の銀河と夏の銀河の複雑な各部の形状を文字とする思考能力がそなわっている。
 というのも、イメージで考える右脳は複雑な視覚パターンの認識や処理にいちじるしく優れているからである。
 だから、右脳には銀河各部の形状を文字にすることができる能力と文字として記憶する能力がそなわっている。
 この――銀河各部の形状を文字にすることができる右脳特有の思考形態と記憶能力が事実である――と体験できる場所が竜安寺の石庭である。

 禅宗の立場を示す標語の「不立文字(ふりゅうもんじ)」や「以心伝心(いしんでんしん)」は「言葉で言いあらせない真理を、心から心へと伝える」と意味するものと指摘される。
 ゆえに、「言葉で言いあらわせない真理を、心から心へ伝える」という「不立文字・以心伝心」の宗旨は「心に浮かぶ像すなわちイメージで考える右脳で漢字が銀河各部の形状であった真理を知り、心から心へと伝える」ということになる。
 だから、竜安寺の石庭は右脳によってキャッチできるイメージですべての漢字が銀河各部の形状である真理を知る庭園となる。
 ゆえに、「不立文字・以心伝心」は「銀河各部の形状が漢字となる字源や語源を研究せよ。しかし、文字が銀河各部の形状である秘密を暴露すると天皇・皇室の権力基盤を崩壊させるため、朝廷と争うことになる。これゆえ、字源や語源が銀河各部の形状から成立するものであるという秘密を絶対に暴露してはならない。ただひたすら心を集中して右脳思考へと沈潜(ちんせん)して真理を知れ」と意味するものであったのである。
 ということは、竜安寺の石庭は右脳思考の能力を高めるための道場であったことになる。

 このように、竜安寺の石庭は銀河各部の形状を造形表現する史跡である。
 したがって、多くの禅僧たちが画や書に優れるという伝統は、本来、漢字が銀河から創られたという学識にもとづく秘密によるものであったと考えられる。
 江戸中期の臨済宗妙心寺の第一座となった白隠(1685-1768)は、駿河の片隅の地で生まれ幼少期を過ごし、禅画や書に優れ、漢字が銀河から創られた秘密を知っていたようであるが、「不立文字」の標語からしてこの秘密を黙して語らなかった痕跡を残す。
 私は2011年の12月16日から2012年2月3日までのブログ〔卑弥呼の逆襲╱枯山水の名園で有名な竜安寺の石庭は“世界の文字は銀河から創られた”と証言する〕43回に分けて、「銀河各部の形状が文字であった秘密」を詳細に解説した。
 上記した太い赤字で示したように、拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』にて資料Bとした「秋の銀河と夏の銀河」の写真と字源字書を横に置いて、竜安寺の石庭を下記のごとく観察すれば、右脳の才能に優れる人たちならば【漢字】は【銀河各部の形状】から創られた図案であると確信できる。
 先ず、石庭の東端(第1群)・中央(第3群)・西端(第5群)の石組の正面形は天頂を仰ぎ見る僧侶や人の横顔に酷似することに気づいたならば、この〔天頂を仰ぎ見る横顔〕は「夜な夜なに輝く秋の銀河と夏の銀河を仰ぎ見よ」と指示するものであると解釈する。
 そして横に置く銀河の写真の下部の(夏の銀河の西南部)と東端(第1群石組)の形を見比べると両者が互いに類似しあうことに気づくにちがいない。この秘密が気づくことができたならば、夏の銀河の東北部のはくちょう座の中央が漬かる銀河部(拙著の資料Bにて「人の横顔に酷似する銀河」と名づけた銀河)と石庭の西端(第5群)の石組の正面形が酷似することが察知できる。ゆえに、石庭の東端から西端の石組までは夏の銀河の西南部から夏の銀河の東北部の「人の横顔に似る銀河」までの銀河の範囲を5つに分化して設計するものとなる。
 次に、西端(第5群)から東端(第1群)へと視線を移すと――東端の石組は拙著の資料Bの左端の最上部(秋の銀河の北端)の銀河に見立てる仕組みになっていて、中央の第3群の天を仰ぐ横顔の形の石組は拙著で「鬼の横顔に似る銀河」に見立てることができるようになっている。これゆえ、西端の石組から東端の石組は「人の横顔に酷似する銀河」から「秋の銀河の北端」までを設計するものとなる。
 したがって、5群の石組における各々の正面形は【すべての漢字】が創られた【銀河の全範囲(秋の銀河と夏の銀河)】]を表現するものとなる。
 このように、銀河の写真と石庭の石組の形を見比べれることを繰り返しながら、心を集中して右脳思考に沈潜すれば石庭の諸部分がさまざまな銀河各部の形状を造形表現する仕組みになっていることが察知できるようになる。と同時に、字書による字源解説は銀河各部の形状を説明するものであることが理解できるようにもなる。
 以上のごとく、竜安寺の石庭は“論より証拠”という諺のごとく「すべての漢字は銀河各部の形状であった秘密」を目で見て知ることができる史跡である。

 信長と家康は竜安寺の石庭に設計される「すべての漢字は銀河各部の形状である」という秘密を知っていた。
 信長と家康は夏音文字の学芸に精通していたために、「すべての漢字は銀河各部の形状である」という事実を知っていた。
 信長と家康は夜な夜な銀河を仰ぎ観て、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命に恋していたのである。

 中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に――702年に派遣された遣唐使が「後稍夏音(のち・やや・かおん)を習い……」と述べた――と書く、この原初漢字・夏音文字の学芸を信長と家康は幼少のときに習得していた。
 なお「後稍夏音を習い」の「習い」の意味は「復興する」である。
 その証拠に「神仏習合」という語は「日本の神がインドのになって復興して(習い)合体する」と意味する。

 家康は駿河の今川義元の人質となって、義元の軍師の大原雪斎(たいげんせっさい)に8歳から14歳までの7年間、夏音文字の学芸の教育を受けた。
 家康の教育係の雪斎は臨済宗妙心寺派の高僧であり、上記したように竜安寺は臨済宗妙心寺派の禅寺である。ゆえに、雪斎は夏音文字に精通していたことになる。
 信長の先祖は福井県丹生(にゆう)郡織田町に所在する織田剣(つるぎ)神社の神官であった。また、倭王権の祭祀を担当した忌部(いんべ)氏の血を継いでいた。この忌部氏が夏音文字の学芸に精通していたので、信長は夏音文字の学芸に通じていたと考えられる。 
 信長と家康は夏音文字がわが国に伝来して『魏志倭人伝』の人名と小国名に用いられ、『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音の文字であることを知っていた。

 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に現存する夏音文字は、今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)にわが国に伝来した。
 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の野中堂遺跡と万座遺跡は夏代初頭に相当する遺跡で、夏音文字の学芸が伝来した痕跡が各所に明確に残っている。
 2010年2月20日、東京国際交流館「プラザ平成」国際交流会議場において秋田県教育委員会と秋田県北秋田市教育委員会の主催の〔平成21年度 縄文遺跡群世界遺産登録推進フォーラム〕の「縄文世界とストーンサークル」がおこなわれ、私もそのフォーラムに出席して報告を聴くことにした。
 大湯環状列石の野中堂遺跡の直径は42m、万座遺跡の直径は48mである。両遺跡には“日時計組石”と呼ばれる特殊装置(組石)が所在する。
 鹿角市教育委員会の生涯学生課主幹の藤井安正氏から大湯環状列石についての報告があり、藤井氏は「野中堂遺跡の中心・野中堂遺跡の日時計組石の中心と万座遺跡の中心・万座遺跡の日時計組石の中心を一直線で結ぶと、その線は夏至の日没方法を指差す」と発表した。これについて、藤井氏は地図と夏至の日没時における両遺跡のスライド映写機で拡大した写真で表示した。
 この「野中堂と万座の両遺跡の中心と日時計組石の中心を結ぶ一直線が指差す夏至の日没方向」は「わが国に夏音文字の学芸が伝来した」と表明する証(あかし)となる。

 わが国の中国・日本の漢字研究の第一者とされる故・白川静博士が著作する『字統』(平凡社発行)の9頁の後ろから3行目から10頁の3行目までで、「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。
 「古紐や古韻の研究は、西欧の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 中国で残されている字音よりもわが国の漢字の字音のほうが古いという、この字音こそが702年に遣唐使が“わが国に存在する”と証言した「夏音」であり、『魏志倭人伝』の人名と小国名に用いられて現存する夏音文字の字音であり、『古事記』上巻に〔音〕という注が付く夏音文字の字音であり、大湯環状列石の野中堂と万座の両遺跡の中心を結ぶ一直線によって表示される夏音文字の字音である。

 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館発行)の30頁には、下記のような注がある。
 「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読むと〔ピミカ〕になる。また魏以前の中古音で読めば〔ピミクゥオ〕となる」
 『魏志倭人伝』は魏・蜀・呉の三国が鼎立(ていりつ)した時代(220~280年)において、魏と国交を結んだわが国の様子を記載した文献史料(史書)である。
 白川静著『字統』と千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』が指摘するように、『魏志倭人伝』に記載される倭女王の「卑弥呼」の3字を「ヒミコ」と読む字音は、3世紀の魏より以前の中古音「ピミクゥオ」よりも上古音「ピミカ」よりも古い漢字音である。

 このように、「わが国では5世紀あるいは6世紀に最初に漢字を習得したと断定できる」という定説に反して、今から約4050年前の後期縄文時代に夏音文字が伝来していた。
 このように定説よりも以前の3世紀に魏の字音よりも古い漢字音がわが国に存在していたとするならば、この字音は大湯環状列石に伝来した痕跡が明確に残る夏代初頭の漢字音以外に考えられない。 
 『日本書紀』神武天皇紀の初頭記事の天祖降臨説話は夏代初頭の2代帝王・益の孫の王子(天祖)と益氏の若者たちが日本列島に移住したと説明するものと解釈できる。
 また『古事記』上巻の天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話もまた名門・益氏が日本列島に移住したと伝えるものとなる。
 このように、夏音文字の伝来を説明する記述も存在する。

 さらに、『魏志倭人伝』は「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いたる)に皆みずから“大夫”と称す」と書く記事がある。
 大海を越えて中国に到着した倭の使者たちの皆が称したという「大夫」の万葉時代の漢字音は「ますらお」であり、「ますらお」は現在の日本語では「益荒男」または「大丈夫」と書く。
 現在の日本語「益荒男」には「益」の字が配されている。ゆえに、この「益荒男」という語が示すように、『魏志倭人伝』に記載される「大夫」は「荒波逆巻く大海を小舟を漕いで渡った勇猛果敢な名門益氏の王子と若者たちと同じく、我らもまた荒波逆巻く大海を越えてきた男児である」と自画自賛して誇る様子を示す語であったことになる。
 『魏志倭人伝』に記載される「大夫」は「益荒男」であるからしても、夏代初頭に日本列島名門・益氏が移住して夏音文字の学芸を根づかせたと考えるべきことになる。
 だから、最古の夏音文字の字音がわが国に現存することになったのである。

 字源を解説する2世紀初頭に完成していた字書の聖典『説文解字』は[俾]の字源を「益なり」と解説する。
 白川静著『字統』は[卑]の字源について「金文にはなお卑賤の用義例はない」と指摘する。
 金文は周代に用いられた文字であり、金文より以前の漢字は今から約3300年前に出現した殷代(いんだい)後半期に使用された甲骨文字であり、この甲骨文字よりも約750年前にわが国に夏音文字が伝来した。
 したがって、倭の夏音文字の[卑]には「賤(いや)しい」という意味がなかった。
 [俾]の原字は[卑]であるので、[卑]の字源は「益なり」であり、倭女王の名に用いられた[卑]は「益荒男」の[益]と同じく「益氏」を意味したことになる。
 邪馬台国説学者は――「卑弥呼」の[卑]の字は「賤しい」である。このように倭女王の名に「賤しい」という字が配されて侮辱されていたことに気づかなかったことからして、倭には文字が無かったと考えるべきことになる――と主張する。
 しかし、この意見は上記に列挙した幾つかの理由・根拠・史料からして、空理空論のして妄想であったことになる。

 白川静著『字統』は『説文解字』の[卑]の「賤しきものなり」という字義について「字の本義からではなく、その仮借義から引伸義が派生している例である」と指摘する。
 したがって、中国では周代の金文以後の『説文解字』の著者の許慎(きょしん)が生存した2世紀初頭の後漢時代には[卑]の字源・字義・字音(ピ)が失われて誤っていた。
 2世紀末から3世紀半ばの倭の夏音文字の[卑]は字源・字義・字音を失わずに正しく保存されていた。
 このような事情であったゆえ、『魏志倭人伝』には「魏の都・魏の出張機関となる朝鮮半島の帯方郡の政庁・諸韓国が文書に用いる文字と倭女王・卑弥呼の文書の文字は差錯(ささく・相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検し、確認をして、女王のもとに届いたとき間違いの無いようにしていた」と説明する記事がある。
 倭女王は「益氏が根づかせた夏音文字の学芸に精通する」と表示して「卑弥呼」と名乗り、卑弥呼が用いる夏音文字は正しい字源・本義・夏音を保存するものであった。
 しかし、魏や帯方郡や諸韓国が用いる真書(隷書に近い字形の楷書)は幾つかの字源・本義を失い夏音をまったく失うものであったので、誤解が生じないように伊都国の港において送ったり受け取ったりする文書の文字を点検して確認していたのである。

 『魏志倭人伝』には上記以外にも「倭には夏音文字があった」と明記する記述があり、この文を要約して現代語訳すると下記のごとくなる。
 「倭の易の卜辞は、令亀(れいき)の法の如くである」
 この「令亀の法の如く」は「殷代後半の亀の甲羅に文字を刻む甲骨文字の卜辞のごとく」であると意味するものとなる。
 この記事が明確に示すように、倭には[卑]の字義を「賤しい」と意味しない金文・甲骨文字以前の夏音文字が確かに存在した。
 この夏音文字は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官・倉頡(そうきつ)が厳しく定めた掟を守って――書いた文字は用済みになったならば直ちに必ず消されていた。
 だから、夏音文字は発掘されない文字となった。
 『魏志倭人伝】が「令亀の法の如く」と記載する易の卜辞に用いられた夏音文字は天に存在する文字であったのである。
 この夏音文字の字形は甲骨文字のごとくの象形文字であったが、この字形は時代とともに単に短時間で書くことができる進化をするものであったため、【楷書の字形】は一新されるものではなくあいかわらず【銀河各部の形状】に類似するものとなった。
 だから、信長と家康が認識して竜安寺の石庭に秘められたように【すべての漢字】は【銀河各部の形状】となったのである。

 倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。
 というのも、倉頡は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から万物の情(イメージ)に類似する漢字作成原理「鳥獣の足跡」を発明し、「文字は銀河各部の形状」であるとする厳しい掟を定めたからである。
 現代の学者たちは倉頡が発明した「鳥獣の足跡」を「雪や土の上に残す鳥や獣の足跡からヒントを得て倉頡は文字を創った」と断定する。
 しかし、「鳥獣の足跡」は「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から万物の情に類似するように多数の文字を生む(創る)漢字作成原理」の名称であったのである。

 中国の先人たちは――三皇時代初頭の包犧(ほうぎ)氏は易の記号となる結縄を考案し、この結縄に代えて書契を考案した倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」によって文字の歴史を起源した――と考えたので、倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。
 倉頡は文字は強大な権力基盤と巨万な富と最高の名誉と帝王の地位にふさわしい叡智を手に入れることができる方法であることに気づき、反体制側の人々が文字の学芸知識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に崩壊すると心配した。
 ゆえに、倉頡は銀河から文字が作られた秘密を暴露する者はもちろん、用が済んだならば書いた文字を直ちに消さない者、あるいは消しわすれた者もまた即刻に死刑にすると定め、さらに反体制側の人々にとって習得を困難にするための対策を無視して【文字】となる【銀河各部】に名称を付ける者もまた死刑に処すると厳しい法を定めた。

 この王朝による文字知識の独占管理と厳重な機密政策によって、文字が銀河から創られた秘密は暴露できないことになり、五帝時代の書契、夏代の夏音文字、殷代前半期の甲骨文字は倉頡が定めた掟を厳重に守ったのである。
 臨済宗妙心寺派の高僧たちや信長と家康は朝廷の権力基盤であった文字の学芸の秘密を暴露することをしないで、皇室との無用の争いを避けた。
 というのも、信長と家康は自ら天下を取った時に文字の学芸が最も強大な権力基盤となると認識するものであったため、この秘密を暴露して権力基盤を害して幕府の屋台骨を弱体化・劣化させるような行為は愚の骨頂と考えていたからである。
 現代の学者たちは、卑弥呼が倭国を樹立してから江戸時代まで文字の学芸が最も強大な権力基盤であったことにまったく気づいていない。

 以上のごとく、今から約4050年前にわが国には夏音文字が伝来し、すべての文字は銀河各部の形状であるという学芸が最も強大な権力基盤であったことは否定できない事実となる。

 いいかえると、右脳思考の才能に優れる人々によって竜安寺の石庭からすべての漢字は銀河各部の形状であったことが容易に具体的に証明できて事実となり、この事実によって信長と家康が日本国誕生史の復興に一生をささげ、伊耶那美命に熱烈に憧れていたことが科学的に明らかとなる。
 徳川家康は彦根・井伊藩を中心にして、近江近隣7ヵ国12大名に、信長と家康が一生をささげて情熱をかたむけた日本誕生史の復興の願望を表現する「夏音文字の学芸は未だ習わず」と表現する3千万坪の地上絵の作成を1603年から着工を命令した。
 この3千万坪の大鳥の地上絵は1622年に完成した。
 しかし、家康は1616年に75歳の生涯を閉じたから、3千万坪の大鳥の地上絵の完成を見ていない。
 この3千万坪の大鳥の地上絵は、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する。
 この現存する彦根市の3千万坪の大鳥の地上絵によって――❶すべての漢字は銀河各部の形状であった ❷倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の全貌が科学的に解明され ❸今から約4050年前に夏音文字はわが国に伝来していた ❹『魏志倭人伝』の全記事は正しいゆえ、新井白石以来約280年に及ぶ邪馬台国研究は誤読の空論である ❺『古事記』序は「すべての漢字は銀河各部の形状である。上巻の随所で〔音〕という注が付く文字は夏音文字である」と解説するものであり ❻早稲田大学教授の故・津田左右吉が確立した「『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の日本神話は虚構である」という説もまた邪馬台国説と同様に誤読の空論である――ことが歴史学の絶対原理によって科学的に立証され、なんびとにも否定できない事実となる。

 

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