信長と家康の熱き魂の証言 “よみがえれ 日本国誕生史”・3
織田信長と徳川家康は日本国誕生史の復興に一生をささげた。
二人は日本建国の母・伊耶那美命(いざなみみこと)に熱烈にあこがれた。
伊耶那美命は『魏志倭人伝』の末部に登場する倭女王・壱与(いよ)である。
『魏志倭人伝』は末部にて「また卑弥呼の宗女の壱与、年十三にて王と為(な)りしを立てて、国中ついに定まる」と記す。
この記事が伝えるように、伊耶那美命・壱与は13歳の時に卑弥呼の宗女(卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性)に選ばれて小国・日本を安定させるための女王となり、約14年後の247年ころに倭女王に就任した。
『魏志倭人伝』は伊耶那美命・壱与が倭女王に就任した当時の様子を下記のごとく伝える。
「卑弥呼はすでに死んだ。大きな墓を作る。円墳部の直径は百余歩(約150m)。呪力の強い奴婢(ぬひ)を百余人殺して卑弥呼の墓に埋めた。卑弥呼の没後、男王が倭の大王となって就任した。しかし、卑弥呼の陵墓を作るときに百余人の奴婢を殺した倭国の徇葬(じゅんそう)儀式を憎悪する人々が反乱をおこして倭王に服従しなかった。倭政府と反乱する人民は殺しあって戦うことになり、倭政府は千余人の反乱者を殺した。」
この後の記事が上記の「また卑弥呼の宗女の壱与、年十三にて王と為なりしを立てて、国中ついに定まる」である。
卑弥呼の陵墓を作るときに殺された「奴婢」の「奴」は「18歳くらいの若者」であり、「婢」は「13歳くらいの乙女」であった。
当時の農地を耕すクワやスキの刃先は木製であった。
このような原始的な木製の刃先のクワやスキだと、太い腕を有する筋肉隆々の屈強な18歳くらいの青年ならば堅い土地を耕すことができたので、18歳くらいの若者は「奴」と呼ばれて最も呪力があると信じられた。
[奴]の下に[心]の字を加えると[怒]という字になる。つまり、[怒]は「怒り大声をあげて怒鳴って耕すと全身から力がみなぎり、クワの刃先がどんな堅い土地でも食い込んで耕すことができる。怒りは心に怨みや怒りの感情がわいて初めて怒ることができる」と示す字であったのである。
[奴]に「農夫」の字義があるのは、[奴]の原義が「堅い土地でも耕すことができる、農夫にもっとも適した若者」であったからである。
徇葬は卑弥呼の死霊が天に昇って雨を降らして大地を泥のようにやわらかにして原始的な木製の刃先のクワやスキでも耕しやすくなって農作物の豊かな実りを祈願する祭儀であった。
これゆえ、卑弥呼の天に昇る死霊が途中で邪魔ものに遭った時に退治するために呪力の強い若者がお伴することになった。
そして、最も澄んだ瞳を有する呪力の強い13歳くらいの乙女たちもまた、天に昇る雲路(くもじ)を卑弥呼一行が迷わないためにお伴することになった。
現在においても、13歳くらいの乙女が最も澄んだ瞳を持ち最も天体観測に優れているとされる。
だから、[婢]の字は「瞳が最も澄んでいる13くらいの乙女」と意味した。
3世紀においては、最も瞳が澄む13歳の乙女が女性にあって最も強い呪力を有すると信じられていた。
だから、13歳の壱与・伊耶那美命は小国・日本の女王に選ばれた。
というのも、壱与・伊耶那美命の最も重大な役目は日本列島に遠征してくる呉の水軍の襲撃を防衛することであったからである。
当時は、敵の呪的な戦力を奪うための巫女(みこ)・媚蠱(びこ)が戦いの先頭に立った。
ゆえに、壱与・伊耶那岐命は媚蠱の女王であった。
したがって、『魏志倭人伝』が壱与について記述した「卑弥呼の宗女」という文は「卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性」と意味することになる。
卑弥呼は老いていたが、壱与は13歳で最も強い呪力(いわゆる「魔力」)を有するものであったので呉の遠征軍の呪的な戦力を奪う媚蠱に選ばれ、小国・日本の女王となって赴任したのである。
中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「倭国の隣は東鯷人国(とうていじんこく)であった」と記述する。
中国の正史『三国志』呉書孫権(そんけん)伝は「呉の黄竜二年・西暦230年、皇帝の孫権は夷(い)州と亶(たん)州に分かれる東鯷人国への遠征を命じた。このときの武装兵の数は一万」と記載する。
208年の赤壁(せきへき)の戦いで、呉の2万の水軍は魏の曹操(そうそう)が率いる80万の広大な長江をうめすくすほどの魏の大軍を、折しも吹く強風を利用して火攻めを仕掛けて撃破した。
この2万で80万の魏の大軍を大敗させた呪力を有する呉の1万の水軍が日本列島・東鯷人国への遠征を決行したのである。
ところが、『後漢書』倭伝の末部は「東鯷人は定期的に呉の会稽(かいけい)の港に到着して交易をしている。しかし、東鯷人が往来する大海の道は中国の人々にとってははるかに遠く途中で絶えてしまうことになるので、往来することができなかった」と記述する。
1万の呉の水軍は――東鯷人が伊豆諸島→小笠原諸島→火山列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)→広大な太平洋(東西約1700km)→宮古島→石垣島→与那国島→台湾→呉の会稽港に到着して帰還する――この広大な太平洋を横断して日本列島・東鯷人国に到着することができなかった。
呉の水軍は80万の魏の大軍に勝利したが、東鯷人が往来できた太平洋横断に敗れて8割から9割の兵士が命を失い藻屑(もくず)となって大海に消えた――この呉軍の日本列島への遠征の大失敗は『三国志』呉書孫権伝に記載されている。
1万の呉の水軍が壊滅した宮古島から硫黄島までの約1700kmも離れる広大な太平洋を、『後漢書』倭伝は「所在絶遠にして往来べからず(東鯷人国の所在地ははるかに遠く途中つまり広大な太平洋で道が絶えていて往来することができない)」と記述したのである。
呉の水軍の東鯷人国遠征の情報は会稽で交易する東鯷人が東鯷人国の国王に知らせたのか、それとも呉を敵国とする魏軍が軍事同盟を結ぶ倭国に知らせて卑弥呼が東鯷人国の国王に知らせたのかは定かでないが――2万の戦力で80万の魏軍を撃破した1万の無敵艦隊の呉の水軍と戦っても、まったく勝ち目がないと判断した東鯷人の国王は倭に服属することを決意して卑弥呼に防衛を要請した。
これゆえ、小国・日本国が誕生した。
東鯷人国は陸続きの隣国であるゆえ、呉軍が東鯷人国を征服すると東鯷人国は倭の背後の脅威の国となる。これゆえ、卑弥呼は東鯷人国が倭の背後の脅威となることを防ぐため、東鯷人国の倭国への服属を承認したのである。
また、『魏志倭人伝』に記述されているように倭国は魏と軍事同盟を結んだために、この軍事同盟に対抗して呉の皇帝・孫権は東鯷人国(小国・日本)への遠征を決行するものであったから、卑弥呼と倭政府は東鯷人国王の倭国服属と防衛の要請を拒絶できなかったのである。
ここに、「東鯷人国」は「日本国」と国名が改められた。
日本国は呉軍と争う戦場となるので、この戦いの先頭に立つ媚蠱の女王に、最も強い呪力を有すると信じられていた年齢となる13歳の壱与・伊耶那美命が選ばれたのである。
中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は日本国について「その国が日辺(日の出に近い東方)にあるので、日本という名になった」と記す。
中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は日本国について「遣唐使が言うには、その国は日の出ずる所に近い。ゆえに、日本という名になった」と記す。
だから、壱与が媚蠱となって赴任した旧東鯷人国・新生日本国は日本列島の日の出ずる東端となる。ということは、小国・日本はいわゆる東国(東海・関東地方)であったことになる。
地図を開けば明白に示すように――呉軍が遠征に成功したならば、上記したように伊豆諸島から東鯷人国に上陸することになる。
だから、伊豆諸島の北に位置する東国が東鯷人国・日本国であったと考えるべきことになる。
この伊豆諸島ルートの他に、日本列島に到着できるルートは呉の港から出発して台湾→南西諸島→九州南部に到着する海の道である。
中国の呉から日本列島に到着する海の道は、❶太平洋・伊豆諸島ルートと❷南西諸島ルートの二つしかない。
呉の水軍は孫権の命令で、魏の背後にある燕(えん)の王の公孫淵(こうそんえん)を説得して呉と蜀の連合国の味方にするための使者として合計三度、山東半島から燕地の遼東(りょうとう)半島までの渤海(ぼっかい)を往来している。
この呉の水軍が三度往来した渤海の南北距離は、南西諸島における島から島までの最長距離にほぼ等しい。また、台湾→南西諸島→九州南部は、広大な太平洋を渡る伊豆諸島ルートよりもはるかに近回りのルートである。
だから、呉の水軍は南西諸島ルートならば日本列島に到着できた。また、伊豆諸島ルートよりも近道となるので、『後漢書』倭伝の「所在絶遠にして往来すべからず」と記載する文に矛盾する。
したがって、『後漢書』倭伝が「所在絶遠にして往来すべからず」と記載する東鯷人国は伊豆諸島の北側に所在する東国であったと断定できる。
というのも、南西諸島→九州南部に到着すると、『魏志倭人伝』が対馬国から列記する卑弥呼が居住する王国いわゆる“邪馬台国”に到着し、九州説と畿内説が主張する倭国に到着するからである。
したがって、南西諸島の北側は倭国であって東鯷人国ではないと断定できる。
この結果、「東鯷人国」は伊豆諸島北側の「東国」であると断定でき、この「東国」は『旧唐書』倭国日本伝が「その国日辺にある」、『新唐書』日本伝が「国日の出ずる所に近し」と記述する「日本国」と断定すべきことになる。
呉の孫権は魏の背後の脅威となる燕王の公孫淵を味方に引き入れ、魏の正面を呉・蜀の軍事連合国が攻撃し、燕軍が背後から襲撃すれば、魏を滅亡させることができる企むと軍略を立てた。
しかし、公孫淵は魏と軍事同盟を結ぶ倭が燕の背後の脅威となることを心配した。
もし呉・蜀に軍事同盟をしたことが知られたならば、魏と倭の挟み討ちになって燕は滅亡すると心配して、呉から派遣された水軍の密使の説得をことわった。
それゆえ、呉の孫権は倭の背後の東鯷国へ呉軍を遠征させることにしたのである。
呉軍が東鯷人国へ遠征すれば、倭は必ずや多数の兵を東鯷人国防衛にあてるにちがいない、と孫権は考えた。
そうなれば、魏の要請があっても倭は多数の兵を燕の背後へ派遣することができなくなる。したがって、東鯷人国遠征によって燕の背後の脅威である倭の軍力を殺(そ)ぐことができるから、公孫淵は安心して呉と蜀の軍事同盟国側に参加するにちがいないと、孫権は考えて東鯷人国遠征を決行した。
しかし、東鯷人国遠征軍は8割から9割の兵士を失って壊滅した。
孫権は再度の東鯷人国遠征を断念した。
ところが、倭の卑弥呼と東鯷人国の国王は再度の遠征は決行されるにちがいないと考えた。
このために、壱与・伊耶那美命は日本国(東鯷人国)の女王となって赴任することになった。
結局、呉軍の再度の遠征は無かった。
これゆえ、媚蠱の壱与の呪力は80万の魏軍を2万の兵士で勝利した呉軍の呪的な戦力を奪ったと称えられることになった。
呉軍の呪的な戦力(魔力)は、赤壁の戦いにおいて強風を利用して魏の大軍を撃破した火攻めの「火」とされた。
「火は水で消滅させる」ことができるので、呉軍の「強風で煽られる火炎」の呪力に対して、「大量の水」の呪力ならば消滅させ勝利することができる。
これゆえ、呉軍の呪的な戦力は「赤い火」とあらわされ、日本軍の呪的な戦力は「青い水」であらわされることになった。
だから、「媚蠱の壱与・伊耶那美命の呪力」は高さが130mもある日本一の滝「那智の大滝」であらわされたのである。
こういうわけで、伊耶那美命は熊野那智大社の主神となった。
また、伊耶那美命は那智の大滝の精霊となった。
というのも、伊耶那美命は「赤い火」の呉軍の呪的な戦力を奪った「青い水の精霊」であるゆえ「那智の大滝の精霊」となったのである。
このように、壱与は伊耶那美命であったと証明できる。
『魏志倭人伝』において、壱与が登場する記事の少し前の魏の正始八年(西暦247年)の文は、朝鮮半島に所在した魏の出張機関の帯方郡(たいほうぐん)政庁と倭から派遣された使節の載斯烏越一行について下記のごとく説明する。
「魏の正始八年、帯方郡太守に就任した王頎(おうき)が帯方郡政庁に到着した。倭の女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず。倭は載斯烏越一行を遣わして帯方郡に到着し、倭と狗奴国の戦況を説明した」
この正始八年の1年前の246年・正始七年、馬韓において反乱がおき帯方郡の軍事基地を襲撃した戦いで、帯方郡の太守の弓遵(きゅうじゅん)が死んだ。この反乱に軍事同盟を結ぶ倭は帯方郡へ出兵することができなかった。というのも、卑弥呼と不和の狗奴国との戦いで兵士を派遣できなかったからである。そこで、載斯烏越が狗奴国との戦いで兵士を派遣できなかった事情を説明するために帯方郡政庁に訪問したのである。
このような軍事同盟を守れなかった重大な事情を説明する役割からして、載斯烏越は武将であったと考えられる。また、説得性のある高い地位の人物でなければ帯方郡政庁への弁明も成功しなかったので、載斯烏越は今でいう皇太子に匹敵するような高位の身分を有する人物であったにちがいない。
載斯烏越が登場する記事の直後に、小国・日本の女王の壱与・伊耶那美命が倭女王に就任した記事がある。
ということは、載斯烏越は壱与・伊耶那美命の夫の伊耶那岐命(いざなきみこと)であったと考えられる。
前回の〔信長と家康の熱き魂の証言 “よみがえれ 日本国誕生史”・2)〕のブログで解説して証明したように、『魏志倭人伝』の人名・小国名は【銀河各部の形状】が【文字】となった夏音文字によるものとなる。
『古事記』上巻の随所に記載される夏音文字の字音は1字1音となる。
したがって、『魏志倭人伝』における夏音文字も「卑弥呼」は「ヒミコ」、「壱与」は「イヨ」と1字1音読みが原則となる。
『魏志倭人伝』の小国名には「対馬(ツシマ)」、「一大(イチダイ)」など、夏音文字の1字1音読みを守らず、魏都・帯方郡・諸韓国の字音の影響を受けたものもあったにちがいない。しかし、「伊都(イト)」、「不弥(フミ)」など1字1音読みの小国名も多数ある。
「載斯烏越」は「サイシウエツ」と読むことができるが、夏音文字の1字1音読みでよむと「ソシアオ」となる。
「載斯烏越」を「そ・し・あ・お」と1字1音読みすると、「烏越(あお)」は「青(あお)」となり日本軍の呪的な戦力「青い水」をあらわすことになる。
上記したように、夏音文字は【銀河各部の形状】が【文字】となった。
載斯烏越が生存した247年当時、日本列島の天頂を私が「長方形の暗黒天体部」と名づけた銀河部がめぐってきた。この「長方形の暗黒天体部」の位置については左に掲示した幻冬舎ルネッサンスから発行した拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』の資料Cに表示した。
国際天文学において「コールサック」と呼ばれる銀河部がある。
「長方形の暗黒天体部」は「コールサックの北部」となる。
「コール」は「石炭」、「サック」は「袋」を意味するので、「コールサック」は「石炭袋のごとく黒みをおびた紺青色の銀河部」ということになる。
「烏越」の[烏(からす)]の羽の色は「黒」であるので、「烏越」の[烏]は「長方形の暗黒天体部(コールサックの北部)」をあらわすことになる。というのも、「コールサック」は「真っ黒な烏の姿」に相似する形を有するからである。つまり、「長方形の暗黒天体部」は「烏の頭」の部分となる。
この「烏の頭」のようにも観える「長方形の暗黒天体部」の西端の北の角は、国際天文学で「北アメリカ星雲」と呼ぶ、火炎のように赤い星雲が輝く。
この「北アメリカ星雲」は〔火の燃えるイメージ〕をあらわすゆえ、[火]の字(字源・字形・字義)となった。
「長方形の暗黒天体部」の東端の北の角は[滝(瀧)]の字(字源・字形・字義)となった〔洪水の水または大量の雨が流れる河川あるいは急流のイメージ〕の銀河部が隣接する。
わが国の中国古代漢字研究の第一者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は[滝(瀧)]の字源を――『説文解字』に「雨瀧々(ろうろう)たるなり」と雨の降るさまとする。〔広義校訂(こうぎこうてい)〕に、字は水に従うものであるから、急流の水を本義とすべしという。わが国の『万葉集』の用法はその意で、「雨零(ふ)れば瀧(たぎ)つ山川」(十巻・2308番)のようにいう――と解説する。
「長方形の暗黒天体部の東北の隅に隣接する銀河部」の形状は〔雨が瀧々と滝のように降るさまに観え、急流の水の様子に相似し、大量の雨が降って水がたぎつ流れる河川のごとくに観える〕ので、[滝(瀧)]の字となった。
この「[滝(瀧)]の字となった銀河部」が「載斯烏越」の「烏越」であり[越]をあらわしていたのである。
つまり、[滝(瀧)]の字となる銀河部の〔水が溢れて越えて、[火]の字源の北アメリカ星雲に覆い尽くす〕というイメージを「烏越」という2字であらわした。
つまり、「烏越」は――天頂にめぐってくる「長方形の暗黒天体部」の北側に隣接する東西の銀河部の形状にもとづき、「青(烏越)い水」の呪的な戦力を有する日本軍が「赤い火」の呪力を有する呉の水軍の勢いを消滅させて勝利する――という願いをあらわすことになった。
『説文解字』は「載斯烏越」の[斯]の字源を「柝(さ)くなり」と解説する。この「柝くなり」という字源解説は「鉞(まさかり)や斧で木を裂くように敵の兵士たちを殺す」と意味する。
というのも、[王]の甲骨文字や金文の字形は「鉞の刃の部分を下にした形」であり、[兵]の甲骨文字と金文の字形は「斧を両手でさしあげている形」に図案するからである。だから、[斯]は「鉞や斧で裂いて、木の命を絶つ」を「柝くなり」と表現するものとなる。
白川静著『字統』は「載斯烏越」の[載]の字源を下記のごとく解説する。
「載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるのであろう。」
伊耶那岐命は呉の遠征軍と戦う日本国最初の王であった。
そして、当時は18歳の青年が最も呪力を有すると信じられていたので小国・日本を防衛する戦いの王(大将)は当然のごとく青年となり、「載斯烏越」という名の「烏越」は「青年」をも表現するものであったにちがいない。
載斯烏越・伊耶那岐命が「誕生した小国・日本にて最初におこなう軍事」は[載]の「軍行を開始する」の字義に合致する。
ゆえに、載斯烏越・伊耶那岐命は小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であったことになる。
[載]の「軍事をはじめる」の「開始」は、第9代の天皇名の「開化」と同類の意味となる。
『古事記』中巻の開化天皇紀は下記のごとく記述する。
「若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)・開化天皇は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇が旦波(たんば・丹波)の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された」
開化天皇が居住した宮殿「伊耶河宮」と「伊耶那岐命・伊耶那美命」の先頭2字は「伊耶」で合致する。
したがって、開化天皇の夏音名は「載斯烏越」、愛称が「伊耶那岐命」であったことになる。
だから、開化天皇が結婚した「竹野比売」の夏音名は「壱与」、愛称が「伊耶那美命」であったことになる。
『魏志倭人伝』が倭に属する小国を列挙して記載するなかに「伊耶国(伊邪国)」がある。
夏音文字は「銀漢各部の形状が文字であった」を略して「漢字」と呼称するようになったと示すゆえ、3世紀に倭国(西日本)の天頂にめぐってきた「長方形の暗黒天体部」の北隣の「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」(拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』を参照)の形状を注目すると「伊耶」は「霧深き山地」の意味することになる。
竹野比売の生地は“霧の丹波”と呼ばれて有名である。
だから、大県主の由碁理の娘として竹野比売が幼年を過ごした旧国丹波は伊耶国であったことになる。
小国・日本の人民は「伊耶国の美しい女王」と敬愛して、「伊耶那美命」と愛称していたのである。
以上のごとく、信長と家康が熱烈に憧れた伊耶那美命の本名は「竹野比売」、伊耶那美命は歴史上に実在した日本建国の女王・壱与であり、卑弥呼の没後の男王の次を継いだ倭女王であったことになる。
信長と家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に現存する夏音文字の学芸を修得するものであった。
ゆえに、信長と家康は――【楷書】も結局、【銀河各部の形状】となる――という漢字の基礎知識を有するものであったから、銀河を観察して『魏志倭人伝』が「卑弥呼の宗女」と記載する壱与は『古事記』上巻に登場する伊耶那美命、壱与・伊耶那美命は『古事記』中巻に記載される開化天皇の正妃・竹野比売であることを知っていた。
このように、【すべての漢字】は【秋の銀河と夏の銀河各部の形状】ということが事実であったゆえ、夜な夜な銀河を観察すると『魏志倭人伝』のすべての記事は事実を伝える、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の日本神話は史実を記述するものであるから日本神話虚構説は誤読の空論であることが科学的に明らかとなる。
というのも、銀河を観察して文字を読解する方法で明らかとなる事柄と合致する多数の史跡が現存するからである。
多数の史跡・遺跡・遺物に保存されている秘密と『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記載された事柄が合致するということは、その文献史料の記事はすべて真実であったことになる。
いっぽう、学者たちは『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と『日本書紀』の「すべての記事を正しいと信用してはならない。個々の記事に対して、十分に批判して読解しなければならない」という立論基盤に則る。
この学者たちの立論基盤は「文献史料の記載を信用せずに、誤読して読まなければならない」となるものゆえ、文献史料の記載通りの史跡・遺跡・遺物が発見されたならば即時に学者たちの意見は誤読の空論・妄想であったことと証明されることになる――この「文献史料の記載と史跡の合致は真実を伝える」という法則は古代史学における絶対原理である。
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