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2013年1月20日 (日)

信長と家康の熱き魂の証言“よみがえれ 日本国誕生史”・8

新井白石以来、邪馬台国説の研究は今日まで約280年間におよぶ。
 
新井白石は、『魏志倭人伝』は卑弥呼が居住した王国の名「邪馬壱国」(「邪馬壱」は「やまい」と読む)を「邪馬台国」と誤読して、最初に邪馬台国は大和、後に邪馬台国は筑後の山門(やまと)郡であると提唱した。
 
この「邪馬壱国」を「邪馬台国」と誤読とする考えを、学界は〔文献批判〕と名づけて白石以来およそ280年間も誤読の空論の伝統を存続させる。


 『魏志倭人伝』の全ての文字を400字詰原稿用紙のマスに埋めるとおよそ5枚でおさまる約2000字足らずの資料である。だから、『魏志倭人伝』にはどのような事柄を記述してあるかは隅々まで記憶することは容易で難しくない。
 ということは、ほんものの学者ならば、わずか2000足らずの文字で構成される『魏志倭人伝』に〔文献批判〕を一切加えなければ各部の記事が合理で統一されて「科学」という語の定義で成立されていることに気づかねばならないことになる。
 したがって、ほんものの学者ならば、当然、〔文献批判〕は即座に〔誤読の空論〕であるではないかと察知できたはずである。

 もしも6000万人の人々が一点も〔誤読=文献批判〕を加えないで『魏志倭人伝』を読解したならば、6000万人の人々が「卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と同一の結論を出す。
 というのも、多数の記事で『魏志倭人伝』は、日本列島は事実と異なって東に伸びずに南に伸びると記載するからである。
 そうすると、学者たちは〔誤読〕を一点も加えないで、東が南になるように日本列島が90度転回する地理に則って卑弥呼が居住した王国の所在地を定めなければならなかったことになる。


 『魏志倭人伝』の記事に多数の〔文献批判〕を加える九州説と近畿説は誤読の空論である根拠・理由を列挙すると下記のごとくなる。

❶『魏志倭人伝』は末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴()国・不弥(ふみ)国・投馬(つま)国・邪馬壱国(女王国)までの戸数・道里(距離・方位)の概略を記載する。この末盧国から邪馬壱国までの距離・方位の記述を地図上に表示すると、卑弥呼が居住していた邪馬壱国は北九州の南に所在して、日本列島地理は〔東〕が〔南〕に90度転位していることが察知できる。

➋『魏志倭人伝』は「女王国(邪馬壱国)より以北は、いままで戸数・道里の概略を記載した各小国が所在するが、その概略を記載した各小国の近傍の余白となる地域は卑弥呼王朝がある邪馬壱国より遠く国交が絶えた一画となるので戸数・距離などはじめ詳細が不明である」と記述する。この原文は「女王国より以北は、その戸数・道里は略載(りゃくさい)を得べきも、その余の旁国(ぼうこく)は遠絶にして詳を得べからず」である。
 この女王国より以北の戸数・道里が略載される国々は❶に列挙した末盧国から投馬国までの各小国部である。ゆえに、末盧国から投馬国までの位置を日本列島地図上に表示すると、現在で言う九州の東部、『魏志』倭人伝が記載する転回日本列島地理でいうと九州の南部となる旧国の豊後・日向・大隅が「その余の旁国」となる。
 九州説の場合、略載された国々と邪馬台国は九州に所在するので「その余の旁国は近隣地域」となるので「遠絶」という語に矛盾するゆえまさに誤読説となる。
 
近畿説の場合は、この記事にまったく矛盾するので完全なる誤読説となる。

➌『魏志倭人伝』は「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東治(とうじ)の東に在るべし」と日本列島地理を明記する。九州説・近畿説の立論基盤は〔天の北極〕を基準にすると〔東〕に伸びることになる日本列島地理である。しかし、この〔東〕へ伸びる実際の日本列島地理は、地図で調べると中国南方の会稽・東治の〔東北〕に所在するので「当然、会稽の東治の東に在るべし」という記事に矛盾する。しかし、『魏志倭人伝』が解説する天文の〔東〕が地理の〔南〕になる90度転回する日本列島地理の場合は、会稽の東治の〔東〕に位置するので「当然、会稽の東治の東に在るべし」という記事に合致する。
 
これゆえ、邪馬台国九州説・近畿説の両説は誤読説・不合理説となり、邪馬壱国出雲地方説は合理説となる。


 ➍『魏志倭人伝』は「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆、倭種なり」と記述する。この文が明記するように、九州説と近畿説の〔東〕には「皆、倭種なり」と記載する海上に浮かぶ群島も諸島も存在しない。
 だから、九州説・近畿説は誤読説となる。
 『魏志倭人伝』は「天文の〔東〕は日本列島地理の〔南〕である」と時計廻りに90度方位が転位すると指摘するので、天文の〔北〕は日本列島地理の〔東〕となる。この転回日本列島地理に則ると邪馬壱国中央・出雲の〔北〕は、『魏志倭人伝』が記載する「女王国の東」となり、その海上には隠岐群島が存在する。この隠岐群島を一括すると「皆」となるので「皆、倭種なり」となる。だから、邪馬壱国出雲地方説は合理説となる。
 以上のごとく、『魏志倭人伝』の転回日本列島地理に関するすべての記事は新村出編『広辞苑』(岩波書店) が記載する「科学」の定義に合致する。しかし、朝日新聞が決して誤読の空論ではないと太鼓判を押す九州説と近畿説は『広辞苑』の「科学」の定義に反する誤読の空論・妄想となる。

新村出編『広辞苑』は「科学」という語を「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と定義する。
 ゆえに、九州説と近畿説は『魏志倭人伝』の多数の記事に対して「系統的な合理」が成立しないものであるから、その「科学」は「ウソの科学」となる。
 
いっぽう、邪馬壱国出雲地方説は『魏志倭人伝』の全部の記事に対して合理となるので、「系統的な合理」が成立して「ほんものの科学」となる。


 しかし、邪馬壱国出雲地方説の場合は、方位が時計廻りに90度転回することが「科学」という語義の常識からはずれることが問題となる。
 九州説と近畿説は“〔方位が時計廻りに90度転回する地理〕は常識的に絶対に「科学」が成立するはずがないと思い込んで、ほんものの「科学」が成立する転回日本列島地理を証言する上記4つの記事群を絶対に信用してはならないと定める。
 しかし、九州説と近畿説の“絶対に信用してはならない”という〔文献批判〕の考えは絶対にこの世にそんな事はありえない妄想となる。
 というのも、九州説と近畿説の主張だと、倭と魏・朝鮮半島にあった魏の出張機関・帯方郡(たいほうぐん)とまったく国交を結べなくなるので、『魏志倭人伝』はこの世にまったく存在しなかった空虚なものとなってしまうからである。
 当然と言えばまったく当然であるが――『魏志倭人伝』は倭と魏が国交を結ぶことが出来たからこの世に存在することになり、倭と魏が国交を結べなかったとことが事実となると『魏志倭人伝』はまったく存在しなかったことになる。
 だから、倭と魏が国交を結ぶことができなかったことが事実となる九州説と近畿説は即刻に誤読の空論・妄想・デタラメであったことが明白となる。
 九州説と近畿説は〔天の北極〕がある方向を〔北〕と定める天文・地理学にもとづいて立論するが、この天文地理学だと日本列島と中国大陸・朝鮮半島を隔てる大海を倭の使節も魏の使節も帯方郡の使節も渡れなかったことが事実となるので、『魏志倭人伝』は1字も書かれていなかった、この世に実在しなかったものとなる。
 だから、「邪馬台国」と4字はもちろん1字も書かれていなかった書物から〔邪馬台国〕の所在地は立論できるとする九州説と畿内説は、明らかに妄想・デタラメ以外のなにものでもない。
 この世の常識は必ずしも真理ではない、この真理の法則にもとづくところの「科学」の真骨頂が『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理だったのである。

『魏志倭人伝』の記事となった2世紀末~3世紀半ば、日本列島と中国・朝鮮半島を隔てる大海を渡る方法はたった一つしか存在しなかった。
 この航法は〔精密な天頂緯度測定をして緯度と子午軸を測量する航法〕であった。


 日本列島が〔東〕に伸びると定めることができる〔天の北極の高度を緯度換算する航法〕だと大海に入った途端に位置も方位が不明となって命を失った。
 新井白石以来約280年間も学界は、〔天の北極〕を基準にする航法で大海を往来できるにちがいないと思い込んでいたのである。学界は〔精密な天頂緯度測定の方法〕のみしか大海を往来できなかった、この事実・科学を全然知らなかったのである。
 「緯度の測定方法」は前者の〔精密な天頂緯度測定する方法〕と後者の〔天の北極を緯度に換算する方法〕の二つしかない。このうち、前者の航法ならば大海を往来できたが、後者の航法だと大海を渡ることができず落命した。
 中国では、〔天の北極〕を最も重視するシナ天文は紀元前1世紀に完成したため、2世紀あるいは3世紀になると、紀元前1世紀以前に存続していた〔精密に天頂緯度測定を測定する能力(眼力と技術)〕を鍛錬する習慣が廃(すた)れた。このため、『魏志倭人伝』の記事となった当時、大海を往来する方法を失った魏と帯方郡の使節や魏・蜀・呉・三国の水軍・船乗りたちは日本列島に渡ることができなかった。
 いっぽうわが国がシナ天文を取り入れたのは、東に伸びる日本列島地理を定めた738年ころであった。これ以前は倭の使節は〔精密な天頂緯度測定の航法〕によって大海を往来して中国と国交を結んでいた。しかし、738年ころにシナ天文を取り入れると遣唐使船は大海を渡ることができなくなったので、やがて遣唐使の制度は廃止された。

〔シナ天文が最も重視し、東に伸びる日本列島地理を定めることができる天の北極の高度を緯度換算する航法では大海を渡ることができない。精密に天頂緯度を測定する航法ならば大海を往来できた事実〕を証言する記事が、中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部に記載されている。この証言は下記のごとく記述された。「倭国の南端(現在地理の東の端)となる小国・裸()国と黒歯(こくし)国に隣接して東鯷人(とうていじん)国が所在する。東鯷人国は中国の会稽の海外に所在して、二十余国に分かれている。また、東鯷人国は夷洲(いしゅう)と澶洲(せんしゅう)の二つに分かれる。中国では――秦の始皇帝(紀元前246-同210・在位37年)は方士・徐福と童(若者)男女数千人一行を派遣して海に入った。徐福たちは始皇帝が求めた蓬莱(ほうらい)の神仙にあるという霊薬を探すことができなかった。徐福は誅(ちゅう)の罪で死刑になることを畏れて帰還せず、日本列島の東鯷人国に定住した――と伝えられている。その後、徐福一行の血筋は代々受け継がれて、卑弥呼が倭を統治した時代には数万家となった。東鯷人国の人民は定期的に会稽に到着して交易をする。会稽の東冶の県人が海に入って暴風に遭遇して流れ移り、東鯷人国の澶洲に漂着した者がいる。東鯷人国の所在地は中国の会稽港から遥かに遠く、東鯷人たちが往来する海の道は途中で絶えて消えてしまうことになるので中国の人々には往来することができない。」

このように、『後漢書』倭伝は「シナ天文が完成しなかった紀元前3世紀においては、精密に天頂緯度を測定する航法によって徐福一行は大海に入って日本列島に到着できた。しかし、卑弥呼が裸国・黒歯国を服属させた3世紀になると、シナ天文は最も〔天の北極〕を重視したために精密に天頂緯度を測定する眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣が廃れた。だから、中国の人々には東鯷人が往来する海の道は遥か遠くて途中で絶えていることになるので往来することができなくなった」と証言する。
 
だから、『後漢書』倭伝が証言するがごとく、〔天の北極の高度〕を基準とする方法だと大海を往来できなかったことが事実となる。
 卑弥呼王朝では〔精密に天頂緯度測定〕を最も重視するものであったので、倭の使節はこの航法を用いる船に乗って大海を往来して魏と帯方郡と国交を結ぶことができた。
 以上のごとく、中国ではシナ天文のために〔天の北極〕が重視されて〔精密に天頂緯度を測定する眼力と技術を鍛錬する習慣〕が廃れたので、魏と帯方郡の使節は大海を渡ることができなくなった。しかし、倭では〔精密な天頂緯度測定〕を最も重視されていたために倭の使節は大海を往来できたために『魏志倭人伝』が著作されることになり、卑弥呼王朝は〔南〕に伸びると錯覚した転回日本列島地理を制定することになったということが事実となる。

この〔精密な天頂緯度測定〕は九州説と近畿説が誤読の空論であることを簡単に確実に証明できる絶対的な真理である。
 
いいかえると、『魏志倭人伝』に記述された「倭の使節は大海を往来した」という幾つか記事は絶対的な真理を明記するものであったことになる。
 だから、新井白石以来280年間も学者たちは誤読に夢中になっていたことになる。
 大海を往来する方法は〔精密な天頂緯度測定の方法〕のみであったゆえ、この「科学」について次回(9回)さらに10回と続けて解説して、〔天の北極〕では絶対に大海を往来できなかった事実を証明する。

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