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2013年1月18日 (金)

信長と家康の熱き魂の証言“よみがえれ 日本国誕生史”・6

2013年1月15日の朝日新聞・夕刊1面は〔ニッポン 人・脈・記〕にて「邪馬台国を求めて」というシリーズを開始した。
 わがブログの名前は「卑弥呼の逆襲」である。
 これゆえ、朝日新聞に対抗して邪馬台国説が日本国を滅ぼし、日本民族を虐殺する暴論であることを誰もが容易に理解できる説明・証明を示して、邪馬台国説が日本を滅亡させる真っ赤なウソであることを暴くことにする。
 しかし、無用の時には反論しない。だから、おそらく2日から3日に一回ずつ連続的に朝日新聞の記事に対する反論が発表することになろう。

朝日新聞夕刊「邪馬台国を求めて 1」の初頭の記事は下記のごとくである。

「謎は深いほどおもしろい。
 
まして自分の国のルーツにかかることならば。かつて邪馬台国(やまたいこく)という国があった。2~3世紀のことだ。朝鮮半島から海を渡り、陸路の旅を経てたどり着いた地で女王卑弥呼(ひみこ)が治めていた――。古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」はそう記す。
 
だが、記述はわずかに約2千字。所在地は九州か、近畿か。江戸時代から論争が続き、今も決着していない。卑弥呼についても「鬼道(きどう)をよくする」、呪術者とみられていたことぐらいしかわかっていない。」

 朝日新聞は無責任きわまりない言葉「謎は深いほどおもしろい」から始まる。
 邪馬台国説は日本国を滅ぼし、日本民族の命と魂の根元を抹殺する。
 このような“日本人は生きる価値がない”と言っていると同然の邪馬台国説をもちあげて、朝日新聞は「謎は深いほどおもしろい」と悪フザケの言葉を用いて日本人の理想・理念と尊厳を根底から愚弄する。

『魏志倭人伝』末部に記載する「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)」は、『古事記』上巻に記載される「伊耶那美命」である。
 伊耶那美命は13歳の時の小国・日本の女王となり、国作りの柱を〔愛〕と定めた。
 しかし、当時、『魏志倭人伝』が「卑弥呼の陵墓を作る時に、百余人の奴婢(ぬひ)すなわち18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女を殺して卑弥呼の墓に埋めた。この徇葬(じゅんそう)国家儀式を憎悪して反乱が起き、卑弥呼の後に倭の大王となった男王に人民は服従しないので、倭王朝は千余人の反乱者を殺した。また、倭王朝は小国・日本に赴任させた女王・壱与をもどして倭女王に就任させると、遂に反乱は鎮静化して倭国は安定した」と記述するように、大国・倭では残虐きわまりない徇葬がおこなわれていた。
 

卑弥呼の宗女(卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性)として13歳の時に小国・日本へ赴任させた壱与・伊耶那美命は『魏志倭人伝』に列記される倭に属する小国・伊耶国(旧国・丹波)出身者であった。彼女は、小国・日本の国作りの柱を徇葬に対抗して〔愛〕と定めた。小国・日本の人々は壱与を「伊耶国出身の美しい女王」と称え、彼女を「伊耶那美命」と略称して敬愛した。
 壱与は元来倭国に属する小国・伊耶国出身者であったので、倭の人民たちは小国・日本の人民に敬愛されるという評判を誇りに憧れ、壱与・伊耶那美命を尊敬した。この徇葬を憎む〔愛〕の女王の壱与・伊耶那美命が倭女王となったため、徇葬を憎悪する反乱者たちは壱与・伊耶那美命ならば徇葬を必ず廃止するにちがいないと信頼して武器を捨てた。このために、『魏志倭人伝』は「国中遂に定まる」と記述した。

しかし、この壱与・伊耶那美命が没すると、倭女王に選ばれた天照大御神が残虐な徇葬国家儀式を決行して多数の青年と乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に埋めた。
 この歴史は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話に記載された。
 
『古事記』編纂スタッフはその聖性を絶対に汚してならぬと禁じる朝廷の至上神の皇祖・天照大御神が残虐な徇葬を決行した歴史を後世に伝えるため、〔徇葬墓が築造された場所〕を「黄泉国」、〔殺された青年と乙女たち〕を「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」、〔天照大御神〕を伊耶那美命の後を継ぐ倭女王であるから「黄泉国の伊耶那美命」と表記した。
 そして、千引(ちびき)の石(いわ)の前で、伊耶那岐命(伊耶那美命と天照大御神の夫)は天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)に離縁を言い渡すと、天照大御神は怒りくるって「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」つまり「亡き前の女王・伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重する日本国・倭国の人民の母親たちの産道が狭くなるように呪って、一日に千人の胎児の頭が産道を通過できないように絞め殺す」と誓った。この呪いに対して、亡き愛妻・伊耶那美命の〔愛〕の理念を受け継ぐという決意を示して伊耶那岐命は「吾一日に千五百の産屋立てむ」すなわち「男女が愛し合って一日に千五百人の子どもを生むように、〔愛〕を尊重せよと人民に熱心に説く」と誓った――と『古事記』上巻は日本建国の〔愛〕の理念を伝えている。

このように、〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史の復興に、織田信長と徳川家康は一生をささげた。
 というのも、『古事記』完成以後、朝廷は『日本書紀』を正史と定め、『日本書紀』神代紀に皇祖・天照大御神の聖性を汚さないような都合のよい誤読や解釈や隠ぺいを加えて定説にするようにはかり、反逆の史書『古事記』上巻が全体を一貫して伝える日本建国の〔愛〕の理念と日本国誕生史の真相の排除・抹殺に躍起となったからである。だから、信長と家康は『魏志倭人伝』末部と『古事記』上巻に記載される日本国誕生史が排除されて闇に葬られたならば、日本国は滅び、日本民族は真理と誇りを失って滅亡すると考えた。

家康は晩年、皇室に日本国誕生史の復興を要求し、1603年から井伊氏・彦根藩を中心に彦根藩の近隣7ヵ国12大名に動員を命じて、3千万坪の「いまだ夏音(かおん)文字の学芸は習わず」と設計する大鳥の地上絵の作成を命じた(「習わず」は「復興しない」と意味する)

そして、家康は1616年に没した。この6年後の1622年に彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は完成し、現在の彦根市の行政区域をあらわす地図の形となって残っている。
 

この3千万坪の大鳥の地上絵を中心となって作成した井伊氏・彦根藩主の先祖は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載される7人の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)のうちの「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の祖(おや)」であった。
 この遠江国造である先祖の建比良鳥命は1千万坪の大鳥の地上絵を作成した。この建比良鳥命が作った1千万坪の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域をあらわす地図の形となって残っている。
 この1千万坪の大鳥の地上絵を学術調査すると『魏志倭人伝』と『古事記』上巻のすべての記事には〔文献批判〕を加えることがなくすべての記事が正しいことが科学的に証明される。
 

井伊氏の先祖(代々の建比良鳥命とその後の井伊氏たち)は、この1千万坪の大鳥の地上絵すなわち細江町の北に隣接する引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住し、「遠江」は『魏志倭人伝』に記載される「不呼(ふこ)国」であったとことを現在まで伝えて引佐町井伊谷の地図の形は鳰(にお)と浮巣の形になっている。

つまり、[不]の字源は国際天文学で「M39」と呼ばれる明るい散開星団で、このM39ははくちょう座α星のうしろにあって肉眼で〔鳰と浮巣〕の形に見える。[]という字は日本で創られた国字で、鳰・カイツブリは全長25-29cmぐらいの尾羽が非常に短い流れのゆるやかな河川・湖沼・湿原などに生息する水鳥で、水底から伸びた水草を足がかりにまわりにある水草の茎や葉を集めて水に浮いたやや平たいボウル状の巣を作る。

[]の字源もまた「鳰の姿」である。[]の字源となった銀河部は[]の字源にもなり、字源を解説する字書の聖典の『説文解字』は[]の字源を「鳥の短尾なるものの総名なり」と解説する。つまり、『説文解字』は[]の字源を「尾の羽根が非常に短いのような小鳥などをいう」と解説するものとなる。

この[][]の字源の真北に「M39」があり、この南北の[][]と「M39」の字源となる銀河の形状を、『説文解字』は[]の字源で「鳥飛んで上翔し、下り来らざるなり。一に従ふ。一はなお天のごときなり」と解説する。この『説文解字』の[]の字源解説に適合するように、遠江の建比良鳥命は南の1千万坪の大鳥の地上絵に北側すなわち「天」に相当する井伊谷を包みこむ細江町と引佐町の境界線の形を〔鳰と浮巣〕の形にした。

そして、現在も細江町の地図の形として残る1千万坪全域は「卑・弥・呼」と読めるように3字の字源をあらわす形に設計した。
 従来、私は細江町の地図の形を作成者・建比良鳥命にちなんで「建比良鳥の地上絵」と呼んでいたが、今日から〔「卑弥呼」の地上絵〕と呼ぶことにする。
 

山尾幸久著『魏志倭人伝』(講談社)は『魏志倭人伝』は280-289年に著作されたと指摘する。建比良鳥命が「卑弥呼」と設計した1千万坪の地上絵と[不呼]の鳰と浮巣の地上絵は260-290年ころに作成された。ゆえに、『魏志倭人伝』と細江町の1千万坪の「卑弥呼」と設計する大鳥の地上絵は同時代に作成された。

家康はこの秘密を知っていて関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月に、井伊谷に本拠地とする井伊氏を彦根藩主にして、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻のすべての記事は正しいと後世に伝える3千万坪の「いまだ夏音文字の学芸は習わず」と設計する大鳥の地上絵を作成させて、皇室に壱与・伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱した日本国誕生史の復興をせまった。 

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は、702年に中国に渡った日本国の遣唐使が下記のように小国・日本と大国・倭について説明したと記載する。
 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす。あるいはいう、倭国みずからその雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国出る所に近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」
 倭国は卑弥呼の後を受け継いだ大王と大和朝廷の基礎を築いた天照大御神によって残虐な徇葬が行われた国家と認識された。

小国・日本は国家儀式の徇葬を憎悪して人民に〔愛〕を説く国家であった。

だから、日本国の遣唐使は「日本国と倭国は別種である」、「倭国みずから雅ならざるを憎み、人民は伊耶那美命が赴任した小国・日本を国号にするように要求した」と説明したのである。
 天照大御神と離婚した後、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった伊耶那岐命が日本と倭国を併合したがやがて没した。

このため、長寿の天照大御神(崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命、または伊耶那岐命に離婚されて「倭迹迹日百襲姫命」と改名した伊迦賀色許売命)が強大な権力を手に入れて大和朝廷の基礎を築いた。

この遣唐使の証言の10年後の712年1月28日に皇祖・天照大御神の聖性は絶対に汚してはならないと朝廷の要望を無視する反逆の史書『古事記』が完成して元明天皇に献上された。

元明天皇は『古事記』献上を即座に拒絶し、翌713年5月2日に『風土記』の作成を命じて『古事記』上巻に記載された地名を抹殺するために、畿内・七道諸国の郡郷の名に好字(よきじ)を付けるように徹底させた。

『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話末部で伊耶那岐命が「吾一日に千五百の産屋立てむ」と伊耶那美命の〔愛〕の日本建国理念の継承を誓った場所の千引の石は現在「ごとびき岩」(和歌山県新宮市磐盾町の神倉神社の御神体)と呼ばれ、「ごとびき」は「蟾蜍(ひきがえる)」を意味する。『古事記』が完成した712年当時、建比良鳥命家(彦根藩主・井伊家の先祖)が住む井伊谷はごとびき岩(千引の石)の前の誓いの歴史を伝えるために「蟾郷」つまり「ひきがえるの郷」と号していた。元明天皇の命令に逆らって建比良鳥命家が滅亡して「卑弥呼」と設計する大鳥の地上絵を消滅させることは出来なかったので、建比良鳥命家は「蟾郷」を廃して『遠江風土記』に「渭伊郷」と改めて記した。

このように元明天皇の『風土記』編纂命令は反逆の史書『古事記』に記載された地名をことごとく消滅させる方法で焚書(ふんしょ)させて歴史が後世に伝わらなくするための工作(政策)であった。

だから、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は『古事記』序に記載された元明天皇が太安万侶に『古事記』完成を命令した和銅4年(711)9月18日と元明天皇に『古事記』が献上した和銅5年(712)1月28日の記事を削除した。

『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は下記のごとく説明する。
 「伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を憎悪して強大な権力を最優先する大和の天照大御神・崇神天皇母子に服従することに反対し、五人の王たちは伊耶那美命が生んだ王子・須佐之男命に倭の大王になるようにと要請するクーデターを企んだ。須佐之男命は母・伊耶那美命の遺志をまもって国を二分して争う大乱を回避しようと決意し、戦闘の準備が完了した天照大御神・崇神天皇の陣地・天(あめ)の安河(やすかわ)に乗り込んで戦争はしないと誓って約束する密談を交した。

このとき、須佐之男命はクーデターを企む5人の王の名を天照大御神・崇神天皇に伝えた。

この五人の王は伊耶那岐命の後を受け継ぐ小国・日本の軍王の正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国に居住する王の天之菩卑能命(あめのほひのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・活津日子根命(いくつひこねのみこと)・伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となった熊野の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)であった。

卑弥呼が居住した邪馬壱国の王・天之菩卑能命には宗像(むなかた)の三女神に奉仕する宗像の王が従い、この宗像王の天菩比命(あめのほひのみこと)には「子」と記された天菩比命を首長と仰ぐ弟子であった七人の建比良鳥命がクーデター計画に加わっていた。この七人目の建比良鳥命に遠江国造の先祖となる建比良鳥命がいた。」
 このように、天照大御神と須佐之男命の密談によって戦争は回避されて、〔愛〕の国作りを目指すクーデターは失敗した。そこで、遠江の豪族・建比良鳥命は日本建国の〔愛〕の理念を夏音文字の学芸にもとづいて「卑弥呼」と設計する1千万坪の大鳥の地上絵の作成を決意して完成させたのである。
 

上記した中国の正史『新唐書』日本伝が「後稍夏音を習い……」と記載するように、原初漢字・夏音文字がわが国には伝来していた。
 秋田県鹿角(かづの)市に所在する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)には今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に原初漢字の夏音文字が伝来した証拠が今も歴然と残っている。
 わが国の漢字の最初の伝来は定説の5、6世紀ではなく、約4050年前の夏音文字の伝来であったのである。

『魏志倭人伝』の卑弥呼・壱与はじめ人名・小国名の文字は夏音文字であり、『古事記』上巻の随所に多数記載される〔音〕という注が付く1字1音文字もまた夏音文字である。

千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館)は〔卑弥呼の発音について〕と題する注釈で「卑弥呼の文字を中国漢字の上古音で読めば〔ピミカ〕になる。また魏以前の中古音で読めば〔ピミエクゥオ〕となる」と指摘する。
 わが国の中国古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は〔わが国の漢字音〕と題して「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学が取り入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘する。
 朝日新聞は2013年1月15日の夕刊〔邪馬台国を求めて1〕で「卑弥呼」につけた「ひみこ」という音はわが国で最初に漢字を習得したのは5、6世紀と断定する定説に反する、3世紀の魏以前の上古音「ピミカ」よりも古い夏代初頭の漢字音である。
 だから、夏音文字は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に記載されて現存してこの目に確かに伝来していたと目撃でき、大湯環状列石に夏音文字が伝来した証拠が明確に残っているので、「夏音文字は伝来していなかった」と絶対に否定することも排除することもできない。

細江町の「卑弥呼」と設計した1千万坪の大鳥の地上絵と「いまだ夏音文字の学芸は習わず」と設計した3千万坪の大鳥の地上絵を検証すれば、邪馬台国説論者たちが『魏志倭人伝』が「倭には殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字のごとくの文字」があったという記事を無視・排除する意見は根本的に間違いであることが科学的に証明される。

わが国に伝来した夏音文字を闇に葬った〔文献批判〕という方法は〔科学〕を無視した誤読の空論であり妄想であったのである。

この夏音文字がなぜ発掘されないのか、その秘密は今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた厳重な掟が原因していた。
 細江町の「卑弥呼」の大鳥の地上絵と彦根市の「いまだ夏音文字の学芸は習わず」の大鳥の地上絵には、現在、学者たちが〔文献批判〕が用いてすべて抹消して不明にしてしまった倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」(「鳥獣の文」とも呼称する)・倉頡が定めた表記方法における掟・倉頡が定めた漢字となった銀河の範囲など、その全貌が科学的にしかも手に取るように明確に解明できるようになっている――この説明は、次回(7回)でおこなう。
 

このように邪馬台国説は傲慢に『魏志倭人伝』に記事を否定してわが国に伝来した夏音文字を抹殺する。

そして、邪馬台国説は完璧なる誤読の空論であることが誰にも簡単に理解できる絶対的な真理が『魏志倭人伝』には記載されている。
 このなんびとにもウソであると立証できない絶対的な真理は、次回(7回)ではなく8回のブログで明らかにする。

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