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2013年1月22日 (火)

信長と家康の熱き魂の証言“よみがえれ 日本国誕生史”・9

朝日新聞の夕刊「ニッポン 人・脈・記」の〔邪馬台国を求めて〕シリーズの第1回は2013年1月15日から始まり、この冒頭文は下記のごとくである。
 「謎は深いほどおもしろい。まして自分の国のルーツにかかわることならば。かつて邪馬台国(やまたいこく)という国があった。2~3世紀のことだ。朝鮮半島から海を渡り、陸路の旅を経てたどり着いた地で女王卑弥呼(ひみこ)が治めていた――。古代中国の史書『魏志倭人伝』はそう記す。だが、記述はわずかに約2千字。所在地は九州か、近畿か。江戸時代から論争が続き、今も決着していない。」


 上記に示すように、朝日新聞は女王国の名を「邪馬台国」であったと断定する側にまわるが、古代史家の古田武彦氏が綿密な丹念な研究によって女王国の名は「邪馬壱(やまい)国」であると証明された。実際、『魏志倭人伝』は「邪馬壱国」と記載するので、何回読みなおしても「邪馬台国」なんて国名はまったく見当たらない。
 朝日新聞は、「所在地は九州か、近畿か」と女王国の所在地を2ヵ所に限定する。しかし、女王国は九州にも近畿にも所在しなかった。というのも、両説は〔文献批判〕という名の〔誤読〕を加えて自説が正しいとこじつける方法を取るが、『魏志倭人伝』に一点も〔誤読=文献批判〕を加えないで記事の通りに読むと「女王国(邪馬壱国)は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)であった」と明確に記載するからである。
 だから、1億3千万人が“『魏志倭人伝』には一点も〔誤読=文献批判〕を加えてはならない”という掟に従ったならば、全員が邪馬壱国は山陰出雲地方であったと答えることになる。
 要するに九州説と近畿説は〔誤読〕の空論であり、互いに自らの説が正しいと争うのは“目クソ鼻クソを笑う”ということになり、どっちもどっちということになる。

 学者たちは「女王国は山陰出雲地方である」と明記するわずか2千字足らずの史書『魏志倭人伝』に多数の〔誤読〕を加えて存在もしない「邪馬台国」という存在もしないウソの国をでっち上げ、『魏志倭人伝』末部で――倭王朝は百余人の奴婢(青年と乙女)を殺して卑弥呼の墓に埋める残忍な徇葬(じゅんそう)儀式をおこなった。この徇葬を憎悪する人民が反乱を起こしたため、倭王朝は千余人の反乱者たちを殺した。また、倭王朝はかつて卑弥呼が率いる巫女界を代表して小国・伊耶(いや)(旧国・丹波)出身の13歳の夏音名・壱与を小国・日本の女王とした赴任させたが、この反乱を鎮圧させるために倭女王に就任させた。壱与は小国・日本の人民に“伊耶那美命”と愛称されて敬愛された。この壱与・伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めて治めたので、倭国の反乱者たちは壱与・伊耶那美命ならば徇葬に反対して廃止する政策を示すにちがいないと信じて武器を捨てたので、遂に反乱は終息して倭国は定まった――と伝える日本古代史上最も重大な歴史を排除して闇に葬った。
 この『魏志倭人伝』の末部に記載された残虐きわまりない国家儀式の徇葬を取り上げたのは、漫画『火の鳥』黎明編・ヤマト編を作成した故人の漫画家の巨匠・手塚治虫氏だけである。

もともと女王国の所在地論争はどうだってよいことであり、日本人として魂を有し熱き心を有するならば『魏志倭人伝』における最も重要な歴史は末部に登場する壱与が『古事記』上巻と『日本書紀』に記載された徇葬を憎悪する・日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命の解明に情熱をそそがねばならないはずである。
 九州説と近畿説は女王国の所在地論争に夢中になって、残虐な徇葬と壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の歴史を抹殺する。
 だから、九州説論者と近畿説論者は自説を強引に押し通す、日本人としての魂も熱き心も有しない冷血動物の“人で無し”と言っても過言ではないことになる。
 日本人と日本国にとって、朝日新聞が正しいと太鼓判を押す九州説と近畿説は壱与・伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を抹殺する下劣きわまりないテロ行為・暴力ということになる。

朝日新聞の〔邪馬台国を求めて〕のシリーズの第1回には映画監督であった篠田正浩氏を登場させ、「皇国史観を押しつけた人々に対し、篠田はいまも許せないと思っている」と書く。
 しかし、皇国史観を否定した早稲田教授の津田左右吉が確立した日本神話虚構説は徹底的に〔誤読〕を駆使して日本神話に記載された史実(真実・真相)を抹殺した。
 『古事記』に登場する主な英雄は➀伊耶那美命、②伊耶那岐命、③天照大御神、④須佐之男命、⑤大国主神、⑥天孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)、⑦山幸彦(やまさちひこ)の火遠理命(ほおりのみこと)、⑧海幸彦(うみさちひこ)の火照命(ほでりのみこと)の8人であるが、津田左右吉は著書『神代史の研究』(岩波書店)で徹底的に誤読、誤読を繰り返して「全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い。いひかへると、神代史上の神々は民族的もしくは国民的英雄では無いのである。」と断定して、おのれの無知・無学の実体を明確に示した。
 『古事記』は海幸彦の火照命については国民的英雄でないと明瞭に説明してあるので、皇国史観においても英雄あつかいしなかった。
 しかし、〔誤読=文献批判〕をいっさい加えなければ、『古事記』上巻も『日本書紀』神代紀も――伊耶那美命は日本建国の〔愛〕の理念を提唱し、夫の伊耶那岐命は愛妻・伊耶那美命の〔愛〕の日本建国理念を受け継ぎ、伊耶那美命の息子の須佐之男命も〔愛〕の日本建国理念を受け継ぎ、邪馬壱国・出雲の大国主神も〔愛〕の日本建国理念を受け継ぎ、山幸彦の〔愛〕の日本建国理念を受け継いだ――と記述していることになる。
 だから、皇国史観は天照大御神と天孫邇邇芸命を英雄視したのは誤っていたが、津田の「全民族の欲求なり理想なりによって動いてゐると思はれる神は少しも無い。いひかへると、神代史の神々は民族的もしくは国民的英雄では無いのである」という意見ほどにはひどい誤りをおかすものではない。
 津田は〔誤読〕を巧みに用いて日本国民をすっかり騙した詐欺師であり、皇国史観を唱えた軍部よりもより悪質なウソをつく。

学者たちが『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『日本書紀』神代史に加える〔文献批判〕の実体は〔誤読〕である。
 『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『日本書紀』神代史には〔文献批判〕を加える必要が全く無いことが直ちに察知できる共通した絶対的な真理が存在する。
 前回(8回)のブログ末部で、この絶対的な真理は『魏志倭人伝』に記載された「倭の使節は大海を往来した」という証言であると指摘した。
 この「倭の使節は大海を往来した」という証言は「倭においては精密に天頂緯度を測定する能力が最も尊重された」と言い直すことができる。


 この〔精密な天頂緯度測定を基軸にした夏音文字の学芸〕を習得してこそ、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の全文を正確に理解できる仕組みになっている。
 しかし、現代のわが国の学者たちには〔精密な天頂緯度測定を基軸にした夏音文字の学芸〕が存在したことを察知できる能力がまったく備わっていない。だから、学者たちは『古事記』上巻と『日本書紀』神代史を〔誤読〕を駆使して真の歴史をことごとく抹殺する理不尽な暴力を続ける。

『魏志倭人伝』はわずか2千字で構成されるので、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀と共通する『魏志倭人伝』に記載された絶対的な真理「倭の使節は大海を往来した=精密な天頂緯度測定」の秘密について前回(8回)に続いて、これから説明を加える。

前回において〔天の北極の高度を緯度換算する航法では大海を渡ることができない。天頂点をキャッチする航法ならば大海を往来することができる事実〕を証明した。
 この事実を『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕(学習研究社)は「緯度の測定」と題して、下記のごとく解説する(ただし、この記事は〔天の北極〕を単に「北極」と表記する)

「緯度は北極の高度だから、簡単な方法は北極星の高度を測定すればよい。日付・時刻が決まれば、北極星の北極からのかたよりが計算できるので、北極の高度に換算できる。もっと精密に測る方法は、子午線経過を天頂の南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである。」

〔天の北極の高度で緯度を換算する方法〕は不精確である。また、「時刻が決まれば」と上記の文が条件を付けているように、今日のような精確な時刻を表示する時計が必要となった。さらに、当時の北極星は〔天の北極〕から遠く離れていたために、その緯度換算は現在の北極星を肉眼観測して行うよりもはるかに不精確となったので、〔天の北極〕を基準にする航法で大海に入ると必ず命を落とした(現在の北極星・こぐま座α星座は1947年には天の北極より1度の隔たりがあり、89年後の2102年には最小五約0.5度となる。これゆえ、2、3世紀当時の北極星は天の北極より遠く離れる周極星であった)
 だから、大海で囲まれる日本列島においては、〔天の北極〕を基準にする方法は縄文以前においても縄文時代においても弥生時代にあってもまったく発達せず原始からわが日本列島にはまったく存在しなかったのである。
 日本列島においては、大海に入って命を落とさないですみ、遠くの地に旅しても必ず家族が待つ家に帰ることができる〔精密な天頂緯度測定〕が栄えていたことになる。人間にとって命がいちばん大切なものであり、命を守る努力は本能としてそなわっているものであるから、日本列島では〔天の北極〕を重視することになったのはシナ天文を習得した738年のころからであった。
 それ以前は、当然、日本列島では〔精密に天頂緯度を測定する方法〕で日々の生活が営まれていたことになる。


 天文には〔歳差(さいさ)〕という現象があるが、この〔歳差〕を利用すると古代の中国と日本列島の天頂にめぐってきた銀河部を知ることができる。
 『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼と壱与が生存した3世紀、中国と日本列島の天頂には[]の字(字源・字形・字義)となった銀河部がめぐってきた。この[]の字となった銀河部は日本の神社の入口に立てる門「鳥居」のモデルにもなった。また、この銀河部は『古事記』上巻に登場する英雄や女王の名の「命(みこと)」・『日本書紀』神代紀に記載された「尊(みこと)」という尊称となり、大和王朝の天照大御神と出雲王朝の大国主神に共通する「神」という尊称にもなった。
 この銀河部は、国際天文学界が「北アメリカ星雲」と「ペリカン星雲」と呼ぶ両星雲の東南に隣接し、あるいは「コールサック」と呼ばれる暗黒天体部の北部となる。この銀河部の概略形は「長方形」の辺で包囲され、少し詳しくいうと北部はほぼ「正方形」の辺・南部は「台形」の辺で包囲されるので、南北の辺は「鳥居」の形にソックリとなる。つまり、「鳥居」は卑弥呼と壱与が生存した3世紀において倭の使節が大海を往来したときに羅針盤となった銀河部をあらわすものであった。

というのも、この「鳥居」の形をした銀河部の「長方形」の辺とその内部にある幾つかの恒星は、上記の『図詳ガッケン・エリア教科事典』第7巻〔地球・宇宙〕の「もっと精密に測る方法は、子午線通過を天頂で南側と北側とで行い、そのときの天頂距離がほとんど等しいような一対の恒星を選んでおき、その天頂距離の差を測るのである」という説明に適合するだけでなく、また肉眼で直接的に緯度と子午軸が精密に測定できる形状になっているので倭の使節は大海を往来することができる羅針盤となった。
 この「鳥居」のモデルとなった「長方形の暗黒天体部」が精密に緯度と子午軸を測量できる羅針盤になったので、倭の使節が大海を往来できて『魏志倭人伝』が著作された。
 このような肉眼で緯度と子午軸を精密に測量できる理想的な「鳥居」の形をした銀河部が中国・朝鮮半島と日本列島の天頂にめぐってきたにもかかわらず、紀元前1世紀に完成した〔天の北極〕を最も重視するシナ天文のために、魏・蜀・呉の使節も水軍も船乗りも大海を越えて日本列島に到着できなくなった。
 〔天の北極〕を基準にすると日本列島は〔東〕に伸びることになる。この〔天の北極〕を基準にする日本列島地理を理論基盤とする九州説と近畿説だと倭の使節も大海を渡ることができなくなるので、倭と魏は国交を結ぶことが出来なかったことになる。
 だから、九州説と近畿説に則ると倭と魏は国交を結ぶことが出来なかったゆえ『魏志倭人伝』の全文字は一瞬にして消滅することになって、明確に両説はまったく事実ではない空想・絵空事ということになる。


 『魏志倭人伝』が証言する〔南〕に伸びる転回日本列島地理は〔精密な天頂緯度測定〕を最も重視した夏音文字の学芸における錯覚だったのである。
 日本列島は〔東〕に伸びると気がつく〔天の北極〕では必ず大海に入ると命を失ったので、大海で囲まれる日本列島では〔天の北極〕を重視するはずもなかったのである。
 『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理は常識的には「科学」に反することになるが、『魏志倭人伝』には一点の〔誤読〕を加える必要が無いと明確に伝える真の「科学」を示すものとなる。
 このように九州説と近畿説は〔誤読〕の空論・「科学」にまったく反するデタラメだったのである。

『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使者は中国に詣(いた)ると皆自ら“大夫”と称した」という記事で倭の使者は大海を往来していたと証言し、「魏の景初二年(238年)六月に卑弥呼が派遣した難升米(なしめ)一行は大海を越えて帯方郡・魏都に到着して倭に帰還した」と証言する。
 また、「魏の正始八年(247年)、倭からの使節・載斯烏越(そしあお)一行は大海を越えて帯方郡政庁に到着し、この載斯烏越一行が帰還する船に便乗して帯方郡から派遣された使節・張政(ちょうせい)一行が倭に到着して難升米に魏帝の詔書(しょうしょ)と魏軍の軍旗である黄幢(こうどう)を手渡した」と証言し、また「帯方郡の使節・張政一行は倭の使節・掖邪狗(ややこ)一行の船に便乗して帰還した」と証言する。
 このように、『魏志倭人伝』は「帯方郡の使節は大海を渡ることが出来なかったが、倭の使節は大海を往来することができた」と証言する。

 以上のごとく、倭の使節が大海を往来する方法であった〔精密な天頂緯度測定〕は九州説・近畿説が誤読の空論であることを証明できる絶対的な真理となる。いいかえると、『魏志倭人伝』の「倭の使節は大海を往来した」という幾つかの記事は、絶対的な真理を明記するものであったことになる。

だから、朝日新聞が正論と太鼓判を押す九州説と畿内説は完全なる誤読の空論ということになる。
白石以来、学者たちは誤読の空論に夢中になっている。

“なぜ、倭の使節は大海を往来できたのか”と疑問を抱けば、『魏志倭人伝』はすべての記事は正しく、90度時計廻りに方位が転位する日本列島地理は大海を往来した方法の「精密な天頂緯度測定」が卑弥呼王朝に最も強力な権力基盤・莫大な富・最高の名誉を手に入れる方法であったことが容易に察知できる。
 したがって、科学者たちが倭の使節が大海を往来できた方法の解明に集中すれば、2時間で九州説と近畿説が誤読の空論であることが明白となる。
 九州説と近畿説は理不尽きわまりないデタラメである。
 先日(1月19日)、私は山田洋次監督50周年記念作品の「東京家族」と映画を観た。この映画で橋爪功氏が演じた主役の老父が酔っぱらって“なんでこんなに日本は悪くなったのだ”と暴れるシーンがあったが、この日本を悪くした諸悪の根元は〔文献批判〕を加える方法ならば歴史が解明できると巧みに日本国民を騙す邪馬台国説と日本神話虚構説である。
 『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に一点も〔文献批判〕を加えずに忠実に読解すれば、邪馬台国説と日本神話虚構説が排除して闇に葬った日本建国〔愛〕の理念を解明できる。
 信長と家康と井伊氏はじめ多数の先人たちは、この日本建国の〔愛〕の理念の復興に命をささげた。彼等は日本建国の〔愛〕の理念が失われたならば日本国と日本人は滅びるにちがいないと考えた。
 現在、邪馬台国説と日本神話虚構説のために日本建国の〔愛〕の理念が失われて、少子高齢化によって日本国と日本人は滅びへの道へと向かう。
 だから、〔精密な天頂緯度測定〕に注目すればすべてがデタラメであることが容易に証明される邪馬台国説と日本神話虚構説に、朝日新聞が正しいと太鼓判を押しても日本人は決してだまされてはならない。

邪馬台国説と日本神話虚構説が理不尽きわまりない誤読の空論なのである。

この事実は、『魏志倭人伝』と同時代に作成された「卑弥呼」と設計する1千万坪の大鳥の地上絵によって立証できる。この大鳥の地上絵は現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として残る。この「卑弥呼」と設計する1千万坪の大鳥の地上絵は、『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理は卑弥呼王朝が制定したものであると証明できるだけでなく、『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話の歴史の全貌が解明できるとともに卑弥呼没後の転回日本列島地理がどのようにあつかわれていたかも解明できる。
 この「卑弥呼」と設計する細江町の1千万坪の大鳥の地上絵の秘密を知っていた徳川家康は、この「卑弥呼」の地上絵の北隣の引佐町井伊谷に居住して約1300年も滅ぼしてはならないと守ってきた井伊氏を1601年に彦根藩主に任命し、彦根藩近隣7ヵ国12大名に動員を命じて、1603年に「いまだ夏音文字の学芸は習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵作成が着工をされた。この大鳥の地上絵は20年後の1622年に完成し、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として保存されている。


 この現在にも残って失われなかった3世紀に作成された「卑弥呼」と設計する1千万坪の細江町の大鳥の地上絵と17世紀初頭に作成された「いまだ夏音文字の学芸は習わず」と設計する3千万坪の大鳥の地上絵を検証すれば、九州説・近畿説と日本神話虚構説は誤読の空論であり、その実体は理不尽きわまりない日本国と日本人を滅亡させる暴力であることが何人にも否定できない明白な事実となる。
 

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