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2013年4月18日 (木)

信長と家康の熱き魂の証言“よみがえれ 日本国誕生史”・13

 わたくしは3ヵ月前の1月30日のブログで「わが国には、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻・『日本書紀』神代紀の記述とおりの多数の史跡はじめ遺跡・遺物が現存する。この史跡・遺跡については、次回(12回)で説明する」と記述したまま、 その12回(2月13日)で、約束をはたさなかった。
 この約束を、今回(13回)と次回(14回)でまもることにする。

① 『魏志倭人伝』において「卑弥呼王朝は日本列島は東に伸びずに南に伸びると考えた転回日本列島列島地理」を証言する記述が、最も多く占められる。

➁ 歴史学においては「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀~6世紀である」という意見が定説である。しかし、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばにかけて、わが国に文字があった」と明記する。つまり、『魏志倭人伝』は「卑弥呼が書く国書に用いる文字は、魏の都・帯方郡(魏の出張機関がある朝鮮半島に存在した一郡)・諸韓国が用いる文字と差錯(ささく・相違)していた」と証言する。また、「倭の易に用いる卜辞の文字は令亀(れいき)の法の如く」とも証言する。この文中の「令亀の法の如く」の意味は「倭の文字は中国の殷代(いんだい)の甲骨文字のごとくの文字であった」と意味する。

 この二つの記述――すなわち、前者の「実際の日本列島地図と異なって、日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する転回日本列島地理と、後者の定説に反する「卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ば、中国の殷代の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のような文字があった」――というこの二つの証言に対して、日本古代史学界は「絶対に真実であると信用してはならない。著者の陳寿(ちんじゅ)が誤記した虚偽である」と断定する。
 

 702年、「倭」から「日本」への国号改変を中国王朝から承認を得る任務についた日本国の遣唐使は、中国王朝に「わが国には夏音文字が存在する」と告げた。この「わが国には夏音文字(かおんもじ)がある」という遣唐使の証言を、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――「後稍(のちやや)夏音を習う」を述べた――と記述する。
 この「後稍夏音を習う」という言は「672年におこった壬申の乱の後、稍(少しだけ)中国の夏代初頭(今から約4050年前・わが国の後期縄文時代初頭)にわが日本列島に伝来した夏音文字を習う(復興する)ことにした」と意味する。
 わが国には定説に反して、今から4050年前に中国から、夏代初頭の原初漢字・夏音文字が伝来していた。この夏音文字について『魏志』倭人伝は「卑弥呼が用いる文字は魏都・帯方郡・諸韓国と差錯していた」、「倭の卜辞の文字は殷代後半(今から約3300年前)から出現した甲骨文字のごとくの文字であった」と証言するものであったのである。
 この定説に反する今から約4050年前にわが国に伝来した〔夏音文字〕は、『魏志倭人伝』の人名・小国名と『古事記』上巻の〔音〕と注がつく1字1音文字として記載されて、現在のわれわれが直に目で見ることができる文字として現存する。
 だから、日本歴史学界の5、6世紀漢字習得の定説は即座に空理空論であると断定できる。

 今から約5000年前に生存し、五帝時代初頭の黄帝に仕えた史官倉頡(そうきつ)は“漢字の始祖”と崇拝された。倉頡は、万物の情(イメージ)に類似する銀漢(銀河)各部の形状を図案して多数の漢字(文字)を創ることができる方法を発明した。
 これゆえ、「銀漢から創られた字」を略して「漢字」と呼ばれることになった。
 倉頡が発明した銀河各部の形状を図案して文字を創る漢字作成原理の名称は「鳥獣の足跡」あるいは「鳥獣の文」と呼ばれた。
 倉頡は自らが発明した〔銀河各部の形状を図案して文字を創る学芸〕は最も強大な王朝の権力基盤、莫大な富を手に入れる方法、最高の名誉を得る方法、帝(大王)が“神に最も近い偉大な人物”として崇拝される手段になることに気づいた。ゆえに、この漢字の学芸が反体制側が習得して革命に利用したならば、王朝は容易に滅亡すると心配した。
 そこで、倉頡は反体制側の人々が文字の学芸を容易に習得できなくするために、以下に列記する3つの厳しい掟(ルール)に違反する者は即刻死刑にすると定めた。
A 文字は銀河各部の形状から創られた、この事実を暴露した者
B 文字を容易に習得するために、文字を創る銀河各部に名称を付けた者
C 書いた文字が用済みになったならば、文字は直ちに消さない者または消し忘れた者など、これらの人物は“即刻、死刑に処する”と定めた。

 

 この倉頡が定めた3つの厳しい掟によって、「銀河各部の形状が文字」と定められた。
 今から約4050年前のわが国に伝来した、卑弥呼が国書に書いた夏音文字は上記の倉頡が定めた3つの掟をまもる文字であったので、巫女や神官などが易を占うときに用いられた夏音文字は用済みになったならば必ず消せれていた。しかし、卑弥呼が国書に書いた夏音文字はまさしく文字(漢字)であったゆえ、『魏志倭人伝』は夏音文字について「倭の小国・伊都国の港で卑弥呼が書く夏音文字を魏の都・帯方郡が用いる楷書に直して送っていた」と記述することになったのである。
 倉頡が定めた3つの掟をまもると、書いた文字は必ず消されていたので、結局「文字」は「銀河各部の形状」となる。したがって、「天に多数の文字が有りき」となったためにこれを略して「天」は「天文」と呼ばれることとなった。


 だから、「銀漢の各部の形状から創られた字」を略して「漢字」という語と、「天に多数の文字有りき」を略して「天文」という語は、『魏志倭人伝』が「倭には中国の甲骨文字のような夏音文字があった」という証言は真実であったと証明できる史料となる。
 なお、今から約3300年前の殷代後半から出現した甲骨文字は、倉頡が定めた上記のCの掟を破棄したが、AとBの掟をまもった。このため、Aの「文字は銀河各部の形状から創られた秘密」を学者たちはまったく気づかず、Bの「文字が創られた銀河各部に名称をつけてはならない」という掟によって、現在においても銀河各部の名称は存在しない。言い換えると、現在においても〔星座の形よりもずっと明確な形を有する銀河各部に名称が存在しない〕、この事実は「漢字」は「銀漢各部の形状から図案された文字」であった確かな証拠となる。
 もしも、漢字が銀河各部の形状から創られなかったならば、すべての星座よりも明瞭な形を有する銀河各部に名称があるのが当然となる。

 したがって、“わが国が漢字を最初に習得したのは、5、6世紀であった”と定説は、まさしく正真正銘の空理空論・妄想となる。
 定説が妄想であることは、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む漢字音は夏音文字の字音であり、この夏音文字の字音はいま残されているもののなかで中国の上古音よりも古い、最古の漢字音であるという下記に示す2書の指摘によって、簡単・容易に確信できる。

 千賀四郎編集『日本古代史の旅3 邪馬台国』(小学館発行)は「卑弥呼の発音について」と題する注で「卑弥呼の文字を中国の上古音で読めば〔ピミカ〕になる。また、魏以前の中古音で読めば〔ピミクゥオ〕となる」と指摘する。 
 ゆえに、『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む邪馬台国説学者たちは「わが国には中国の上古音よりも古い〔卑弥呼〕を〔ヒミコ〕と読む漢字音があった。だから、わが国には中国の上古=殷代の甲骨文字の字音よりも古い、今から約4050年前の後期縄文時代初頭に夏音文字が伝来していた」と、定説・自説に反して「卑弥呼の時代には、文字が存在した」と明言していることになる。このように「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと定説に反して、“『魏志倭人伝』の「倭に文字があった」という記述は正しい”と断言していることになる。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作する『字統』(平凡社発行)は「わが国の漢字音」と題して、下記のごとく指摘する。この指摘にもとづいても、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと『魏志倭人伝』の「倭には文字があった」と記述は歴史上の事実であったと承認したことになる。
「古紐や古韻の研究は、西洋の言語学・音韻学がとり入れられ、殊にその音韻史研究によってえられた諸法則が、原理的にほぼ適用しうるという関係もあって、カールグレンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」
 白川博士が指摘するように、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は、中国に残されている最古の漢字の字音(上古音・甲骨文字の字音)よりも古い字音となる。
 中国の上古・殷代の字音より古い字音と言えば、702年の日本国の遣唐使がその存在を証言した夏音文字の字音以外に存在しない。
 以上のごとく――「卑弥呼」はじめ『魏志倭人伝』に記載される人名・小国名は、いま残されている最古の漢字の字音である夏音文字の字音を現在に伝える。だから、夏音文字は『魏志倭人伝』に記載されて確かに存在すると目撃でき確認できるゆえ、確かに存在する文字となる。
 したがって、倭には倉頡の掟を厳守した「書いた後に用済みになると必ず消されていた、銀河各部の形状を文字とする夏音文字が確かに存在した」ことになる。

 702年に派遣された日本国の遣唐使が「わが国には夏音文字が存在する」と中国王朝に伝えたとおり、その10年後の712年に完成した『古事記』上巻には、[音〕という注が付く1字1音読みの多数の夏音文字が記載される。
 この夏音文字を白川静著『字統』は「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。

 『魏志倭人伝』は多数の記述で「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」と証言する。
 この『魏志倭人伝』が証言する転回日本列島地理は実際の日本地図と相違する。
 『魏志倭人伝』が多数の記事で証言するところの方位が時計回りに90度転位する転回日本列島地理は倭女王となった卑弥呼が立論した。
 この卑弥呼が提唱した転回日本列島地理を、夏音文字の学芸を取得する諸国の王・氏族の首長・巫女や神官たちは“真実である”と絶賛した。この転回日本列島地理論によって、卑弥呼は倭国の最高位の倭女王に選ばれたのである。
 
 したがって、『魏志倭人伝』が多数の記事で証言する転回日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本地理であった。だから、『魏志倭人伝』が多数の記事で伝える転回日本列島地理は歴史上に実在した日本地理であったことになる。
 なぜ、卑弥呼が立論した転回日本列島地理は否定されなかったと言えば――●倭国における夏音文字の学芸においては〔精密な天頂緯度測定〕、言い換えると〔天頂点のキャッチ〕を最も重視し、日本列島は東に伸びると確信できる〔天の北極が存在する方向が「北」と定める天文地理学〕はまったく確立されていなかったからである。また、●転回日本列島地理と34小国名は倉頡が定めた漢字を創る銀河の全範囲と倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を表示する仕組みになっている。ゆえに、卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は卑弥呼王朝をささえる最も強大な政権基盤となり、夏音文字の学芸における最も神聖にして最高の科学知識(天文地理学)をあらわすものとなったからである。

 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成して〔天の北極〕が最も重視されることになった。
 このため、旧来の〔精密に天頂緯度を測量する方法=天頂点をキャッチして緯度と子午軸を精密に測量する眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃止された。このため、卑弥呼が生存した2世紀末~3世紀半ばになると、中国(魏・蜀・呉)の人々は大海を越えて日本列島に到着することができなくなった。
 この事実を、中国の正史『後漢書』倭伝は「紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代、方士・徐福は童男女(青年と乙女)数千人を率いて日本列島に到着して、中国に帰還しなかった。3世紀、徐福一行の子孫は倭国に隣接する“東鯷人国(とうていじんこく)”と称される国に居住し、数万家となっていた。東鯷人たちは定期的に大海を越えて、中国の呉の会稽(かいけい)の港にやってきて交易をした。しかし、中国の人々には東鯷人たちが往来する会稽と日本列島を結ぶ海の道は、あまりにも遠くて途中で道が絶えていることになり往来することが不可能であった」と記述する。

 上記のごとく、紀元前3世紀には〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が確立されていなかったので、徐福一行は天頂点をキャッチして大海を越えて日本列島に到着することができた。しかし、紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したため、卑弥呼が生存した3世紀になると、中国の人々は大海を越えて日本列島に到着できなかった。

 いっぽう、卑弥呼が生存した当時、日本列島の倭国・東鯷人国では〔日本列島は東へ伸びる〕と断定することができる〔天の北極〕を注目する天文地理学は確立されていなかった。
 かわって、五帝時代・夏代から秦代・前漢前半期まで重視されていた〔天頂点をキャッチして精密に緯度(東西」と子午軸(南北)を測量して、大海を往来できる天文地理学〕が栄えていた。

 このように、シナ天文によって〔天の北極〕を最も重視することになった魏と帯方郡の使節は大海に入ると直ぐに位置と方角が不明となってため、大海を渡って日本列島に到着できなかった。
 しかし、倭の使節と船乗りは天頂点をキャッチできたために、魏と帯方郡が往来することができない大海を往来できた。
 
 学者たちの――〔天の北極〕を基準にすれば、日本列島は東に伸びていると断定できる。ゆえに、南に伸びると説明する転回日本列島地理の記述は事実と絶対に成立しない事柄となるので絶対に信用してはならない。必ず転回日本列島地理は排除・否定しなければならない――という邪馬台国説の主張にもとづくと、魏・帯方郡とそして倭の使節は大海を往来できなかったことになる。
 したがって、倭と魏は国交を結ぶことができなかったならば、『魏志倭人伝』はこの世にまったく存在しなかった文献となる。すなわち、邪馬台国学説の場合は、『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていなかった白紙であったことになる。
 そうすると、「邪馬台国」の4字も煙のごとく消滅し、「卑弥呼」の3字も同様に消滅して、『魏志倭人伝』はまったくの白紙であったという奇妙奇天烈な事態となる。
 こんな「『魏志倭人伝』は1字も書かれていなかった白紙であった」という奇妙奇天烈な事態において、邪馬台国についてまた卑弥呼について意見を述べるということは支離滅裂の真っ赤なウソ・まったくのウソを“ほんとうだ”とうそぶいて誑(たぶらか)すペテンということになる。

 『魏志倭人伝』が多数の記事で証言する「日本列島は東に伸びずに南に伸びる」という錯覚の転回日本列島地理を成立させた立論基盤は、〔精密は天頂緯度測定方法〕である。この〔精密な天頂緯度測定〕によって、倭の使節と船乗りは大海を往来していたのである。だからこそ、『魏志倭人伝』は実在する確かな史料ということになる。
 いっぽう、実際の地理のとおり“日本列島は東に伸びる”と定めることができる〔天の北極〕を基準にすると、上記にて立証したように、『魏志倭人伝』は1字も書かれていない白紙であったことになる。ということは、学者たちが主張する邪馬台国説は支離滅裂にして荒唐無稽(こうとぷむけい)な誤読の空理空論ということになる。
 

 わが国において卑弥呼が立論した転回日本列島地理は錯覚であったと断定したのは、〔天の北極〕を最も重視するシナ天文を習得した738年が最初のことであった。ゆえに、738年以前は卑弥呼が立論した転回日本地理は正しいと信じられていた。
 だから、●738年以前の712年に完成した『古事記』の上巻の〔天照大御神と須佐之男命の誓約説話〕の末部には、卑弥呼が立論した転回日本列島地理が登場する。また、●720年に完成した『日本書紀』の崇神天皇紀と成務天皇紀にも卑弥呼が立論した転回日本列島地理が登場する。このように『魏志倭人伝』が記述された転回日本列島地理は実在したと証言する『古事記』『日本書紀』という参考史料も存在するため、転回日本列島地理は卑弥呼王朝の政権基盤となった実在した錯覚の地理だったのである。

 以上からして、〔1 実際の東に伸びる日本列島地理を定めることができる「天の北極」では『魏志倭人伝』は1字も書かれていなかった白紙の史料であったとなる空理空論となる。しかし、南に伸びる錯覚の転回日本列島地理の原因となった「精密な天頂緯度測定」の存在によって、倭の使節・船乗りは大海を往来できたとなるゆえ『魏志倭人伝』は約2000字からなる確かな史料であると確定することができる〕。
〔2 わが国には今から約4050年前に夏音文字が伝来していた。この夏音文字は倉頡が定めた掟(禁忌)を守って、書いた後に用済みになった文字は必ず消されていたので、「銀河各部の形状」が「文字」となった。「銀河各部の形状」が「文字」であり、楷書は「銀河各部の形状の面影を色濃く残す図案文字」であったために、夏音文字は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に楷書で記載されて現存することになった。この楷書の字形と銀河各部の形状の相似・類似性を比較照合すると、「銀河各部の形状」は「漢字の原字(最初の文字)」であったことが明らかとなる〕。
 

 先人たちは、この〔1〕と〔2〕を示す史跡を作成した。そして、これらの史跡が現存する。
 このように〔1〕と〔2〕の2点に分化せずに、一点に絞って考えることができる。
 というのも、「銀河各部の形状」を「文字」と定めた夏音文字の学芸は大海を往来できる〔精密な天頂緯度測定〕を基軸に構築されるものであったからである。ゆえに、『魏志』倭人伝が「倭の使節は大海を往来できた」と証言した原因の〔精密な緯度測定〕は、「倭に文字があった」と証言した原因の〔夏音文字の学芸〕に直結する。
 だから、〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えると、学界が正しいと太鼓判を押す邪馬台国説と日本神話説(日本神話解釈)は誤読の空理空論・100%のデタラメであることが簡単・容易に証明できる。

 下記に列記する4つの史跡と1つの史料(天皇の王冠)は〔精密な天頂緯度測定〕を基軸にした夏音文字の学芸が実在したことを明確に示す。
 次回に列記する1つ史料(三輪山頂上の奥津磐座)と4つの史跡も夏音文字の学芸が実在したことを明確に示すゆえ、〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えると邪馬台国学説と日本神話学説は100%のデタラメにして1%の事実さえも存在しない誤読の空論であることが簡単・容易に明確となる。

➀ 『魏志倭人伝』が著作された3世紀後半、現在の静岡県西部の旧国・遠江に居住した豪族・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が作成した「卑弥呼」の地上絵。この「卑弥呼」の地上絵は設計の基盤部となる3地所が[卑][弥][呼]という字を示すように設計されているので、「卑弥呼」の地上絵と名づけることにした。左に掲示した2011年7月30日に発行された拙著『邪馬台国説が日本を滅ぼす』(幻冬舎ルネッサンス発行)の資料(口絵)Aでは、「卑弥呼」の地上絵を地上絵の作成者の名にもとづき「建比良鳥の地宜」とわたくしは名づけた。「建比良鳥の地宜」改めて「卑弥呼」の地上絵はちょうど1千万坪の大鳥の形に設計され、上記の〔精密な天頂緯度測定〕にもとづいて経緯度原点地を設置して作成される。ゆえに、邪馬台国学説と日本神話学説は100%のデタラメ・空理空論であることが検証できる史跡となる。ゆえに、この「卑弥呼」の地上絵は、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕や彼がさだめた3つのきびしい掟はもちろん、すべての漢字の字源が解明できる〔1400字前後の基本字〕となる〔銀河各部〕が解明できる仕組みとなっている。だから、「卑弥呼」の地上絵はすべての漢字の字源が解明できる史跡となる。この「卑弥呼」の地上絵は、静岡県浜松市北区の細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。なお、建比良鳥命は後の近江の彦根藩主となった井伊氏の先祖である。

➁ 1603年から着工して20年後の1622年に完成した、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する3千万坪の大鳥の地上絵。この彦根の3千万坪の大鳥の地上絵は、702年の日本国の遣唐使が述べた「後稍夏音を習う」という言に因んで「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計される。この「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計する3千万坪の彦根の大鳥の地上絵は、徳川家康が建比良鳥命の子孫の井伊氏に命じ、彦根藩近隣7ヵ国12大名に助勢を命じて作らせた。彦根市をあらわす地図の形として現存する、この彦根の大鳥の地上絵を検証すると徳川家康は夏音文字の学芸を復興して『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記載された日本建国の〔愛〕の理念を復興することに一生を賭けたことが明確となる。したがって、日本歴史学においては徳川家康は「夏音文字の学芸を復興させて、『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀に記載された日本建国の〔愛〕の理念の復興に一生をささげた」と事実が指摘されない事情は、邪馬台国学説と日本神話学説が誤読の空論であり、荒唐無稽のデタラメであるからにほかならない。『魏志倭人伝』と『古事記』上巻・『日本書紀』神代紀の記述に〔文献批判〕をいっさい加えないで忠実に読むと伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕が明確になる。この日本建国の〔愛〕の理念の復興に一生をささげた家康は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻・『日本書紀』神代紀に後世の学者たちが〔誤読=文献批判〕を加えることを予測して、彦根の3千万坪の「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計する大鳥の地上絵作成を、➀の「卑弥呼」の地上絵を作成した建比良鳥命の子孫の井伊氏・彦根藩に命じたのである。つまり、家康は、後世に邪馬台国説や日本神話説のような誤読の空理空論が出現することを予測したゆえ、〔精密な天頂緯度測定〕にもとづく3千万坪の「未だ夏音文字の学芸を習わず」と設計する大鳥の地上絵の作成を命じたのである。それというのも、〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えると、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻の記述は歴史を伝えるものであることが簡単・容易に察知できるからにならない。
 家康は1616年に死去したので、彦根の大鳥の地上絵の完成を見ていない。

➂ 1608年、家康は当時の天才芸術家にして科学の才能に秀でる30歳の小堀正一に、上記した➀の「卑弥呼」の地上絵の研究を命じた。「卑弥呼」の地上絵は遠州の細江村の地図の形として保存されるものであったゆえ、小堀正一はこの年(1608年)以後、「遠州」と号した。1616年に家康が没した7年後、つまり➁の彦根の「未だ夏音文字の学芸は習わず」と設計する3千万坪の地上絵が完成した翌年の1623年、江戸幕府は家康が一生をささげた日本建国の〔愛〕の理念の復興の遺志を継ぎ、皇室が日本建国の〔愛〕の理念の復興を承認することを欲求して、小堀遠州に現在の京都市に所在する桂離宮の庭園の作成を命じた。遠州は1623年から没する2年前に病床に伏す1645年までの23年間、桂離宮の庭園作りに情熱を傾けた。遠州は30歳の時から69歳で没するまでおよそ40年間、➀の「卑弥呼」の地上絵と関わる人生を送った。遠州が作った桂離宮の庭園の核心部にも〔精密な天頂緯度測定〕が設計されている。したがって、桂離宮の庭園は〔誤読=文献批判〕を加えて実(まこと)しやかにデッチあげる邪馬台国学説と日本神話学説が誤読の空論であることが容易に明確にわかる史跡となる。いいかえると、桂離宮の庭園は後世の学者たちが●転回日本列島地理と、●「夏音文字」は「銀河各部の形状」であった、●楷書は「銀河各部の形状」に類似する図案文字であることを後世の人々が容易に理解できる施設となる。桂離宮の庭園もまた後世の学者たちが〔誤読〕を加えて真っ赤なウソを捏造することを予測して、真実の歴史を伝えるために作られた施設となっている。

➃ 家康は一生を捧げて彦根の3千万坪の大鳥の地上絵で日本建国の〔愛〕の理念の復興の願いを欲求しても成就しなかった。また、小堀遠州が桂離宮の庭園を作って皇室に日本建国の〔愛〕の理念の復興をせまっても承認されなかった。そこで、遠州の死後、幕府は1655年ころから1659年にかけて、後水尾(ごみずのお)上皇に日本建国の〔愛〕の理念の復興を決意させるために修学院離宮の庭園を造営して献上した。したがって、京都市に所在する修学院離宮の庭園もまた、邪馬台国学説と日本神話学説が〔誤読の空論〕であることが立証できる史跡である。

➄ 1629年に後水尾天皇は将軍・秀忠の娘和子が生んだ興子(おきこ)内親王に譲位した。これが、明正天皇である。この明正天皇によって日本建国の〔愛〕の理念の復興に一生を捧げた家康の血が受け継がれ、家康の死から122年後の桜町天皇の即位式において家康の願いは成就した。光明天皇から3代後の天皇に即位した霊元(れいげん)上皇は将軍・吉宗の協力を求めて、「文字」は「銀河各部の形状」であったと明確に示す、皇室最大の神事となる儀式である大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興した。この大嘗会において、即位する天皇の王冠・菅蓋(かんがい)の上の飾りは➀の「卑弥呼」の地上絵を造形する意匠であり、下の飾りは日本建国の〔愛〕の理念を菅笠(すげかさ)で象徴的に表現した。今上陛下は、この天皇の王冠を高々と差し上げる儀式をおこなって即位した。したがって、前の昭和天皇と今上陛下の天皇即位式は邪馬台国学説と日本神話学説は誤読の空理空論にして荒唐無稽の妄想であると明かに表示されたことになる。このようにナンセンスきわまりない100%ウソから成る邪馬台国説と日本神話学説は、天皇をけっ飛ばして嘲笑うとともに天皇の王冠と日本民族の最高尊厳となる日本建国の〔愛〕の理念を凌辱(りょうじょく)する悪質きわまりない狂気ということになる。

 この大嘗会が本格的に復興された1738年より少し前に新井白石が邪馬台国説を立論して〔誤読=文献批判〕を立論基盤とする研究が次第に確立され、本居宣長の『古事記伝』を基にして〔誤読=文献批判〕を正しいとする方法の日本神話解釈研究が確立された。
 したがって、1738年以前の先人たちが〔文献批判〕をいっさい加えないで思考する『魏志倭人伝』と『古事記』上巻・『日本書紀』神代紀の研究は、現在の〔文献批判〕を加える研究方法とまったく相反する。
 1738年以前の先人たちの思考法のほうが正しいことは、〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えると簡単・容易に立証される。
 現在の学者たちの『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『日本神話』神代紀の研究は、〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えれば誤読の空論・100%デタラメであることが直ぐに理解できる。

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