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2013年4月19日 (金)

信長と家康の熱き魂の証言“よみがえれ 日本国誕生史”・14

 前回(13回)にて、現在の学者たちが主張する邪馬台国説と日本神話解釈は〔誤読=文献批判〕を論考基盤とする誤読の空理空論・100%の真っ赤なウソであることを何人にも否定できない事実であると解明・証明できる立証1つの史料(天皇の即位式に用いられる王冠)と4つの史跡を紹介した。

 今回でも、1つの史料・奈良県桜井市三輪町に所在する三輪山の頂上に立つ奥津磐座(おきついわくら)の石標(石の標識)と4つの史跡を取り上げる。
この4つのうちの2つの史跡は――わが国には“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が「文字は銀河各部の形状とする」と定めた掟を厳守する、「銀河各部の形状」を「文字」とする夏音(かおん)文字の学芸が伝来した。楷書の字形は「夏音文字」となった「銀河各部の形状に相似・類似する図案」であるゆえ、『魏志倭人伝』の人名・小国名と『古事記』上巻の〔音〕という注が付く多数の夏音文字は楷書の字形で表記された――という深奥な事実すなわち真実を伝える史跡である。残る2つの史跡は、夏音文字がわが国に伝来したのは中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭の今から約4050年前のことであったと伝える史跡である。

➅ 三輪山の頂上には奥津磐座の石標が所在する。この石標は、徳川・江戸幕府創設の原動力となった日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して祟(たた)る呪詛(のろい)を造形するものであった。だから、この石標を幕府は直ちに破棄したかったのであるが、どうしても破壊することができなかった。というのも、この石標は〔楷書の字形は銀河各部の形状を図案する記号である〕という事実の基に〔誤読=文献批判〕をいっさい加えないで『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀を忠実に読解すると、真実の歴史が明らかとなることを明確に示す史料となったからである。
 この石標は3世紀後半の天照大御神・崇神(すじん)天皇母子王朝が設置した。天照大御神・崇神天皇は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して呪った。この呪いをあらわして石標は「日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの子宮頚管(しきゅうけいかん)が狭くなるように呪って、一日に千人の胎児の頭を狭い子宮頚管で絞め殺す」と誓った天照大御神の祟(たた)りを表現した。ゆえに、この石標は〔狭い子宮頚管でねじり絞められた頭と産道を通過できないで死産した胎児の無残な姿〕を造形するものとなる。
 この石標は『古事記』上巻と『日本書紀』崇神天皇紀の箸墓築造記事に書かれた恐ろしい天照大御神の祟りをあらわすものであったために、江戸幕府は三輪山を一般の人々が足を踏み入れることができない禁足の山と定める厳しい政令を設け、神社の山札がないと入山できないようにしたのである。
 現在は狭井(さい)神社の社務所で許可を得れば入山ができる。しかし、上り下りの行程が4kmを3時間以内で下山しなければならないという規則が定められ、また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止されている。したがって、頂上の奥津磐座の石標は撮影することができない。この石標をスケッチし、この絵をブログで公開した人物がいる。ブログで「大神神社(おおみわじんじゃ)」とクリックすると〔泰山の古代遺跡探訪記〕が出力される。この〔泰山の古代遺跡探訪記〕を開くと、「奥津磐座」が三輪山の頂上に所在すると表示する絵が登場し、次に泰山氏が1989年初冬と2006年の秋にスケッチした「三輪山頂上のご神体石」の絵があらわれる。このご神体石が天照大御神の祟りを造形する石標である。2006年の秋にスケッチした絵のほうが天照大御神の祟りが明確に描かれている。石標(ご神体石)の「台座となる石」は「女性の膣(ちつ)」、「台座の穴」は「産道」、「穴の中から突き出る石」を「狭い子宮頚管で絞められた頭と死産した胎児の身体」をあらわしている。
 これゆえ、三輪山の入山許可を得る狭井神社の「狭井」は「狭い子宮頚管」を意味する。大神神社の「大神」には「天照大御神の祟り」という意味が秘められ、「磐座」と「三輪山の頂上」は[祟(たたり)]の字源の秘密を有する。このような秘密は「文字となった銀河各部の形状」を注目すれば明らかとなる。
 前回(13回)にて紹介したように、江戸幕府は徳川家康が一生をささげて日本建国の〔愛〕の理念の復興を皇室に欲求したが、これはかなえられなかった。ゆえに、日本建国の〔愛〕の理念の復興の願いは家康の遺志となって幕府が受けつぎ、家康の死去から122年後の1738年に大嘗会(だいじょうえ)における天皇の即位式に用いる王冠・菅蓋(かんがい)の意匠で明確に表示されて家康の願いを成就した。
 ところが、この1738年直前において新井白石(1657-1725)が〔誤読=文献批判〕を加えて考える邪馬台国説を提唱し、つづいて本居宣長(1730-1801)も〔誤読=文献批判〕を用いる邪馬台国説を唱え、さらに宣長は〔誤読=文献批判〕をもって『古事記』上巻に記述された最も重大な日本建国の〔愛〕の理念を削除する解釈を『古事記伝』を著作して発表した。このような学者たちの〔誤読=文献批判〕で日本建国の〔愛〕の理念を削除する解釈・意見によって、家康と幕府が努力した夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念を復興する事業が水の泡と化す心配の種(たね)が生じた。だから、『魏志倭人伝』と『記』『紀』の日本神話に〔誤読〕を加えて立論する学者たちの邪馬台国説と日本神話解釈が後世に確立されることを予想し心配して、幕府は天照大御神・崇神天皇王朝が三輪山頂上に設置した奥津磐座の石標を破壊せずに残したのである。
 この石標を注目すると、白石・宣長から始まる今日までの約280年におよぶ邪馬台国説と日本神話解釈は〔誤読の空論〕であると断定すべきことになる。なぜならば、この石標は天照大御神・崇神天皇王朝が〔精密な天頂緯度測定〕で測量した転回日本列島地理の経緯度原点地であるからである。邪馬台国説は〔精密な天頂緯度測定〕を排除して、『魏志倭人伝』の個々の記事に〔文献批判〕を加えるが正しい考え方であると主張するが、〔精密な天頂緯度測定〕を排除すると魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになり『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていなかった白紙となる。また、この石標は『古事記』上巻に記述された日本建国の〔愛〕の理念を天照大御神が憎悪して祟ったことを造形表現し、『日本書紀』崇神天皇紀の箸墓築造記事には天照大御神の日本建国の〔愛〕の理念への祟りが説明されている。箸墓記事に天照大御神の日本建国の〔愛〕の理念への祟りが書かれていることに、宣長の『古事記伝』を基に研究する今日の学者たちは誰一人も気づいていない。
 このように、白石と宣長から今日までの学者たちの邪馬台国説研究と日本神話解釈は肝心な日本建国の〔愛〕の理念を排除する〔誤読の空理空論〕であることは否定できない事実である。

➆ 京都市に所在する臨済宗妙心寺派の寺院・竜安寺(りょうあんじ)の石庭は、●中国を代表する孔子とともに有名な思想家の老子の教えを伝える37章で構成される『老子』上篇(道経)は「文字は銀河各部の形状であった」と説明するものであり ●「文字」となった「銀河の全範囲」を表示し ●夏音文字の学芸体系は〔精密な天頂緯度測定〕を基軸にして組織される ●「楷書は銀河各部の形状を図案する記号である」などの秘密を造形表現する。これゆえ、科学(天文地理学)と意匠・図案・デザインを創造する右脳の才能に長ける人が石庭を見学すれば、石庭は〔禅僧たちが銀河から創られた文字の学芸を学び研究する道場〕であったことが容易に察知することができる。
 竜安寺の石庭は「夏音文字の学芸体系は〔精密な天頂緯度測定〕を基軸にして組織される」と造形表現する、この〔精密な天頂緯度測定〕の一点に絞って考えれば、白石・宣長から始まる『魏志倭人伝』と『記』『紀』の日本神話に〔文献批判〕を加える邪馬台国研究と日本神話研究はわずか1時間という短い時間で〔誤読の空論〕であると断定することができる。
 この〔精密な天頂緯度測定〕によって察知できる「真理」を『老子』上篇は「知足(ちそく)」と表現した。ゆえに、石庭・方丈庭園の北側には「知足の蹲(つくばい)」が設置される。この「知足の蹲」という名称は“漢字の始祖”の倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕をあらわす銀河部の形状(すなわち、すべての漢字を生む生殖器と定めた銀河部にして、女性の子宮のように観える銀河部)の形状を表示するものとなる。
 このような秘密が存在することを明確に示すために、石庭の東端にある第1群最大の主石と石庭中央の「横三尊」と称される第3群の大石の正面形は〔禅僧が天を仰いで天頂点をキャッチする横顔〕の形に酷似するものとなる。この第1群の大石の〔天頂点をキャッチする禅僧の横顔〕は〔親の虎の横顔〕、第3群の大石の〔天頂点をキャッチする禅僧の横顔〕は〔子の虎の横顔〕にも相似する。ゆえに、竜安寺の石庭の俗称は“虎の子渡しの庭”である。したがって、石庭を見学するか第1群・第3群の大石を正面から撮影する書物にある写真を見れば、この二つの大石の形は〔天頂点をキャッチする禅僧の横顔〕と〔虎の親子の横顔〕に相似することが多くの人々に理解できるにちがいない。

➇ 京都市に所在する通称・金閣寺(鹿苑寺・ろくおんじ)の庭園もまた●銀河各部の形状は文字であった、●夏音文字の学芸は〔天頂点のキャッチ(精密な天頂緯度測定)〕を基軸にして組織された、●「楷書は銀河各部の形状を図案する記号であった」と伝える仕組みになっている。金閣寺の庭園は完全な形で保存されずに大半が破壊されたが、その中枢部は破壊されなかったので、上記の秘密を造形表現する設計が保存されて残った。

➈ 秋田県鹿角(かづの)市に所在する後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に相当する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)の万座遺跡と野中堂遺跡には、今から約4050年前に中国から夏音文字の学芸が伝来した痕跡が明確に残っている。
 夏王朝の2代帝王・益の孫の王子(天祖)と若者たちは、大海を越えて日本列島に移住して夏音文字の学芸をもたらした。ゆえに、この歴史は「益荒男」という日本語の語源となった。「名門・益氏の王子と若者たちは荒波逆巻く大海を越えて日本列島に到着した立派な男子である」を略した語が「益荒男」である。万葉仮名では「益荒男」は「大夫」と表記される。『魏志倭人伝』は「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いた)るに皆自ら大夫と称す」と記述する。大海を越えて中国に到着した倭の使者は皆自ら「益氏の王子のごとく荒波逆巻く大海を越えた」と自慢して「大夫」と称したのである。
 殷代の甲骨文字と周代に用いられた金文の[卑]の字義は「下賤である」ではなかった。甲骨文字と金文の[卑]の字義は「益なり」であった。つまり[卑]の字源・初文は「益なり」であったゆえ、夏音文字の[卑]も「益なり」であったことになる。だから、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む夏音文字がわが国には伝来していることは確かなこととなる。
 司馬遷著『史記』の五帝本紀・夏本紀に登場する益氏の日本列島移住の歴史は『日本書紀』神武天皇紀初頭の天祖降臨説話と『古事記』上巻に天孫(天照大御神の孫の王子)・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話にも表示される。この天孫・邇邇芸命の筑紫降臨説話で表示される事柄は、司馬遷著『史記』夏本紀に「帝益は位を帝禹(う)の子の啓(けい)にゆずって、箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した」という記事に符合する。
 この天孫・邇邇芸命の降臨説話末部は上記の➅の三輪山頂上の奥津磐座の石標に直接的に関連しているので、益氏の日本列島移住は確かな歴史であったと証明されることになる。

➉ 長根県茅野市に所在する尖石(とがりいし)遺跡によって、益氏の若者たちが話す夏音がチンプンカンプンであったが、縄文の芸術家たちによって夏音文字の学芸が習得されたことが解明できる。
 今から約6000年前の関東地方において優れた土器・土偶を創造する芸術革命がおこった。今から約5000年前の中期縄文初頭になると、尖石集落群において世界的に特筆すべき芸術性豊かな土器や土偶が作られた。わが国の最古の国宝は尖石遺跡から出土した“縄文のビーナス”と呼ばれる土偶である。この国宝“縄文のビーナス”は尖石遺跡の天頂とその周辺にめぐってきた銀河各部の形状をモデルにして造形された。この“縄文のビーナス”のモデルとなった銀河は、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕のモデルとなった銀河でもあった。この銀河は妊娠した女性の姿に相似するとともに、円く前へ突き出る腹部に胎児が宿る子宮に観える銀河部位が存在する。これゆえ、“縄文のビーナス”は妊娠像に造られ、その腰の部分は銀河の子宮部を表現するかのごとくに造形される。この“縄文のビーナス”が作られた約950年後の後期縄文時代初頭に、益氏が日本列島に移住して夏音文字の学芸を伝えた。
 益氏の若者たちが手ぶり・身ぶりで示し、文字となる銀河部を指さして説明する夏音文字の学芸は、東北地方や関東一円の銀河各部をモデルにして芸術性豊かな土器や土偶を作った芸術家たちによって習得されたのである。
 この縄文の芸術家によって夏音文字の学芸を習得された歴史は、『古事記』序と上巻の冒頭部に記述された。つまり、序の冒頭に記述された「参神造化の首(はじめ)」という語の「首」は土器・土偶を造化(造形)して芸術革命がおこった「前期縄文時代」を指さし、「参神」は土器・土偶の造化モデルとなった「前期縄文から後期縄文時代初頭までの天頂を通過した銀河部の形状」を説明するものである。ゆえに、『古事記』上巻冒頭に記載される最初の参神の「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 」は前期縄文に東北・関東地方の天頂にめぐってきた銀河部の形状をあらわす名であり、二番目の「高御産巣日神(たかみみすひのかみ)」は中期縄文に東北・関東地方の天頂を通過した銀河部の形状をあらわす名であり、三番目の「神産巣日神(かむむすひのかみ)」は益氏が移住して夏音文字の学芸を伝えた後期縄文時代初頭の東北・関東地方の天頂を通過した銀河部の形状をあらわす名である。
 この秘密は「歳差(さいさ)」と呼ばれる天文現象にもとづいて前期・中期・後期縄文時代初頭の東北・関東地方の天頂を通過した銀河部を再現すると、参神の名は東北・関東地方の天頂を通過した銀河部の形状を表現するものであると証明される。このように、前期縄文時代に花開いた造化(土器・土偶を作る造形芸術)と倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕は同一の銀河を注目するものであったため、「銀河各部」を「文字」とする夏音文字の学芸が縄文の芸術家たちには理解・習得できたのである。

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