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2013年5月13日 (月)

卑弥呼の金印の隠し場所の夢・3

現在、古代史学界を支配する邪馬台国説たちの立論基盤である〔文献批判〕は、古代史学における初歩的な心得・原理原則を無視して「『魏志倭人伝』のすべての記事は絶対に信用してはならない。勝手に自分の意見に合わせて“批判”という名のもとに排除も歪曲もすることができる」と定める。
しかし前回で指摘したように、皇室と江戸幕府は邪馬台国学説のような誤読の空論を主張する偽学者たちが後世に出現することを予想し、この誤読の空論で日本国が滅び日本人の命と魂の根元が凌辱(りょうじょく)されて台無しになることをあらかじめ防禦するために、1738年から復興した皇室最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)と天皇の王冠の意匠をもって後世の心ある人々に「『魏志倭人伝』のすべての記事は真実の歴史を証言する」と伝えるようにした。

新井白石以来約280年におよぶ邪馬台国研究の立論基盤である〔文献批判〕が疑いも無く正真正銘の〔誤読〕であることは太鼓判を押すことができる。
邪馬台国学説は明白なる〔誤読〕の空論であることは、天皇の王冠の意匠で表示される「[玄]のキャッチ」によって科学的に証明されて何人にも否定できない絶対的な事実となる。前回で指摘したように、われわれ日本人民は〔誤読〕の妄想の邪馬台国学説に鎖やロープで縛られて監禁部屋で「とっとと死ね! 死に損ないのクズ野郎!」と罵(ののし)られて滅多打ちの暴行にあっている状況である。
この邪馬台国学説の不条理・不正・非理の暴行から解放され、命の尊厳を取りもどすには〔[玄]のキャッチ〕の一点に絞って考える方法を古代史学界に欲求すればよい。
この欲求は学者たちにとって古代史学者ならば絶対に必要な初歩的な心得と基礎知識を身につけると言うことになるので、これを拒絶すれば似非(えせ)学者・ペテン師であることを表明することになり、相変わらず日本人民を「死に損ないのクズ野郎!」と愚弄していることになるのでいかなる詐欺よりも悪質な詐欺をはたらいていることが抗弁できないことになる。
学者たちには最も悪質な詐欺師であるという評判が立つことは最も耐えがたい屈辱であるにちがいないので、邪馬台国学説が〔誤読〕の空論であることは〔[玄]のキャッチ〕による証明には太刀打ちできないと多分早々に認めるのではあるまいか。

『魏志倭人伝』は「238年(魏の景初2年)の12月、魏の明帝は詔書(しょうしょ)を発して、卑弥呼に金印を授けることを約束した」と書く。また、『魏志倭人伝』は「240年(魏の政始元年)、魏の出張機関が所在した朝鮮半島の一角に所在した帯方郡政庁(たいほうぐんせいちょう)の太守(長官)は使節を派遣して、前年に魏帝が約束したことを書く詔書と卑弥呼に授ける金印をもたせて、倭国にゆかせた。この帯方郡の使節は倭王に拝謁(はいえつ)した」と記述する。
この240年の記事に登場する「倭王」は「倭女王・卑弥呼」ではなかったと考えるべきことになる。「卑弥呼」ならば「倭女王」と記載しなければならないからだ。
そうすると、倭女王・卑弥呼は238年12月から239年12月の間、あるいは240年のいつか、死去したことになる。

この前後における倭国における国難を考え、また卑弥呼王朝の最も強力な権力基盤であった夏音(かおん)文字の学芸が最も重視した[玄]の字となる「銀河部」はじめ[金]と[印]の字となる「銀河部」の秘密を明らかにし、また魏の年号や当時考えなければならない動きを示した呉の年号に用いられた漢字の秘密を「銀河各部の形状」に変換すれば、卑弥呼の金印の隠し場所が推定できる。
というのも、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「57年(建武中元2年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜(たま)うに印綬(いんじゅ)を以てす」と記述した「金印」は金印に刻まれていた国名「委奴」や出土した島の名の「志賀」そして[極]や[南]の字を「銀河各部の形状」に変換したとおりの場所から出土しているからである。
卑弥呼に授けられた金印が倭王に渡された、その年は倭国は国家が滅亡しかねない国難を抱えていた。
この国難を乗り切るために、志賀島から金印が大きな石の下に隠されていたことからして、卑弥呼の金印もまた最も運気がある呪力(じゅりょく)が湧き出る神聖な岩の下に隠したにちがいないのである。

前回で説明したように、“漢字の始祖”倉頡(そうきつ)が定めた掟を厳守して用が済むと必ず消されていた卑弥呼が使用していた「夏音文字」は「銀河各部の形状」であった。
卑弥呼が国交を結んだ魏王朝が用いる楷書は短時間で筆記することができるようになった点が革命的であったが、依然として「夏音文字」となる「銀河各部の形状」に類似するように図案するという原則を堅持する文字であった。

だから、『魏志倭人伝』には「倭国の伊都(いと)国の港では、魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に正しく変換して、国交に間違いが生じないように点検し確認していた」と記述されることになったのである。
楷書の字源・字形・字義は〔夏音文字の字となった銀河各部の形状の図案〕から生まれた産物であることは事実であった。
そして、夏音文字は用済みになったならば必ず消さなければならないという掟が厳しく定められる文字であったが、魏と朝鮮半島においては楷書は書いた後も消さなくてよい文字であったので、倭においては『魏志倭人伝』が伊都国の様子を伝える記事で書いてあるように、4世紀ころから5世紀になると夏音文字を変換した楷書は消さなくてよいことになったのである。
だから、『魏志倭人伝』と『古事記』に夏音文字は楷書で表記されて現存することとなった。

「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、卑弥呼が生存した三国時代より以前の中国の中古音だと「卑弥呼」は「ピミクゥオ」、上古音で読めば「ピミカ」となる。
わが国の古代文字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)の10頁でカールグレーンが開発した西洋の言語学・音韻学について説明して「カールグレーンがその方法を開いてから、急速な進展をみせている。そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
これゆえ、中国の漢字音の最古の上古音は、わが国の夏音文字の漢字音よりも新しいことになる。
したがって、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むとその意思がなくても、「わが国には夏音文字があった」と認めたことになる。

だから、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻には楷書で夏音文字が記載されて現存することは古代史学の権威ある学者が“邪馬台国学説は誤読の空論でない”と弁護して擁護しても、邪馬台国学説が荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想であることは否定できない絶対的な事実となる。

『魏志倭人伝』は[玄]のキャッチによって卑弥呼王朝が制定した錯覚の転回日本列島地理にもとづいて、倭女王・卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱(やまい)」国」であり、邪馬壱国の中心地域は島根県八束(やつか)郡島鹿島町の佐太(さだ)神社、松江市の神魂(かもす)神社や八束郡八雲村熊野の熊野大社などが所在する地域であったと伝える。

そうすると、卑弥呼の金印は島根県の北東部の八束郡島根町の、島根半島北部の日本海に突出する加賀(かか)の潜戸(くけど)の一角に隠されたと考えられる。この加賀の潜戸の佐太大神の誕生説話に登場する「黄金の弓矢」は「卑弥呼」の金印を譬えるものであったにちがいない。
この隠し場所の理由や根拠については次回から追々証拠を挙げて説明する。

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