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2013年5月18日 (土)

卑弥呼の金印の隠し場所の夢・4

 驚いた、びっくり仰天、玉手箱だ!
 日本の古代史学者たちは新井白石以来280年間も、“馬鹿の一つ覚え”の伝統を確立させて『魏志倭人伝』に〔文献批判〕という名の正真正銘の「誤読」を加えてウソ八百の邪馬台国説を構築した。
 『魏志倭人伝』は文献批判を一点も加えなければ歴史の真実がキャッチできる史書である。
 古代史学の初歩的な心得は先人が著作した書物を真っ先に忠実に読解すると決まっている。
 にもかかわらず、白石の馬鹿げた西洋かぶれの思い付きで生まれた考え方に“文献批判”というあだ名をつけて、280年間も学者たちは荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想を日本中に蔓延させる。
 この妄想にマスコミやジャーナリストはすっかり騙(だま)されて虚偽や不正・非理をあばく自らの使命感をうち忘れてウソで丸めた邪馬台国説に尻尾(しっぽ)を振って、すっかり魂を抜かれている。

 先人たちそして皇室は今日の邪馬台国説のごとき〔誤読ででっちあげるデタラメ〕の出現を予想していた。
 ゆえに、先人たちは『魏志倭人伝』の全記事は正しいと後世の人々が科学的に証明できるいくつかの史跡を作っている。
 皇室は大嘗会(だいじょうえ)を本格的に復興し、この大嘗会でおこなう儀式と即位する天皇の王冠の意匠で「『魏志倭人伝』のすべての記事は正しい」と表示した。
 だから、新井白石以来学者たちが馬鹿の一つ覚えでつづける〔文献批判〕は「誤読」であることは何人にも否定できない事実なのである。

 『魏志倭人伝』は⑴「倭には夏音文字があった」と証言し、また⑵最も多くの記事で「日本列島は東に伸びずに、中国の海岸線の南に方に伸びる」と証言する。
 この二つの記事群に反応して、“学者ムシャクシャ”と呼ばれる人々の頭脳は空回りすることになり、真実の厳正さが吹っ飛んでしまう誤読を駆使して荒唐無稽のでたらめの邪馬台国説を得々と吹聴することになった。
 この二つの記事群は真実を伝える証言であったゆえ、先人たちは後世の学者ムシャクシャたちが誤読でデッチあげるデタラメの象牙の塔を築くのではないかと予想して「『魏志倭人伝』の全記事は正しい」と後世の人々が科学的に証明できるいくつかの史跡を作ったのである。
 また、皇室は1738年に大嘗会を本格的に復興してその儀式と即位する天皇の王冠の意匠で「『魏志倭人伝』の全記事は真実である」と表示した。

 今から約4050年前の中国の夏代(かだい)初頭、わが国の後期縄文時代初頭、日本列島に夏音文字の学芸が伝来した。
 この夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名に用いられる文字である。
 『古事記』上巻の随所に記載される多数の〔音〕という注が付く1字1音文字も夏音文字である。
 「卑弥呼」という3字を「ヒミコ」と読むと夏音文字の字音となり、今残されているもののなかで最古の漢字音である。
 卑弥呼は中国の三国時代前半の238年より以前に生存していた。
 卑弥呼が生存した三国時代よりも以前の中古音で「卑弥呼」の3字を読めば「ピミクゥオ」となり、それより古い上古音で読めば「ピミカ」となる。
 だから、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと中国の漢字の上古音よりも古い漢字音となるので、わが国には後期縄文時代初頭に夏音文字で伝来していたことになり、「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」という定説は学者たちがデッチあげた迷妄(めいもう)であったことになる。
 したがって、その意思がまったく無くても「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと、原初漢字の夏音文字がわが国に伝来していたと認めたことになる。また、『魏志倭人伝』の「倭には文字があった」という記述正しいと認めて、定説は根本的に誤っていると断定しなければならないことになる。

 漢字は夏音文字が日本列島に伝来したときより約950年前の今から約5000年前、五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)によって起源した。
 というのも、倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。ゆえに、倉頡は“漢字の始祖”と崇拝された。
 倉頡は――中国の天頂(天を仰ぎ観る人の頭上)にめぐってくる秋の銀河の西部から銀河系宇宙の中心方向がある夏の銀河の西南部までの銀河領域の各部の形状を万物のイメージに類似するように図案すれば多数の文字を作ることができる。それというのも、多数の文字を作る秋の銀河の西部から夏の銀河の西南部までの形状は頭蓋骨の縫合部がやわらかい嬰兒(新生児)の姿に相似し、天頂にめぐってくる秋の銀河の西部の一角は出産が間近のおなかが円く突き出た母親の姿にそっくりである。だから、秋の銀河の西部の妊婦の姿に相似する銀河部を文字を生む母と考え、秋の銀河の西部から夏の銀河の西南部の形状全域の各部の形状を赤ん坊に見立てて、女性のおなかから子どもが生まれるように考えれば多数の文字を生むことができる――とする漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。

 倉頡は自らが発明した文字は最も強力な権力基盤、莫大な富を手に入れる方法、最高の名声を得ることができる方法であることに気づき、もしも反体側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用すれば王朝は容易に滅亡すると心配した。
 ゆえに倉頡は➀文字は銀河から作られた秘密を暴露した者、➁文字を容易に習得するために、銀河各部に名称を付けた者、➂書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者には即刻に神罰が下されて必ず死刑に処せられるとする厳しい掟を定めた。
 夏音文字は倉頡が定めた➀➁➂の掟を厳守する文字であったため、遺跡から1字も出土しない文字となった。しかし、夏音文字は➂の掟によって「銀河各部の形状」が「文字」となった確実に実在した原初漢字であった。
 中国においても、紀元前3000年から紀元前2070年までの五帝時代、紀元前2070年から紀元前1600年までの夏音文字、紀元前1600年から紀元前1300年までの殷代(いんだい)前半の「文字」と定義された図書は遺跡から1字も出土していない。

 紀元前1300年ころより以後の殷代後半に倉頡が定めた➂の掟が破られた。
 これゆえ、殷代後半の遺跡から文字が刻まれる亀の甲羅や獣骨は4万片も出土し、この甲骨文字の字数は合計4672字も存在する。
 しかし、甲骨文字は➀の掟をまもったために現在の学者たちは〔漢字は銀河から作られた事実〕に気づかず、また甲骨文字は➁の掟を守ったために、現在の学者たちは〔なにゆえ星座の形よりもずっと明確な形状を有する銀河各部に名称がないのか〕この点に疑問をまったく抱かず、この秘密は倉頡の掟にもとづくものであることにまったく気づいていない。

 『魏志倭人伝』には「倭の易における卜辞に用いられる文字は令亀(れいき)の法の如(ごと)く」という記事がある。
 この記事は「倭には殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字の如き文字があった」と意味することになる。
 したがって、この「令亀の法の如く」と記述された文字が「夏音文字」であったのである。
 これゆえ、『魏志』倭人伝には「卑弥呼が書く文書の文字(すなわち夏音文字)は魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と差錯(ささく・相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港において卑弥呼が書いた文書を点検し確認して、国交が支障なくスムースにゆくようにしていた」という記事がある。
 魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書は短時間で筆記することできるようになった点は革命的・画期的であった。
 しかし、楷書は、依然として倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を厳守して銀河各部の形状に類似するように図案する文字であったのである。
 だから、倭の伊都国の港では漢字が作られた銀河を観察して夏音文字と楷書の字源・字形・字義が一致する銀河各部の形状をキャッチして、卑弥呼が用いる夏音文字と魏都・帯方郡・諸韓国の楷書とを正しく変換することができたのである。

 3世紀、伊都国では夏音文字と楷書とが合致するように正しく変換できた。
 しかし、あいかわらず倉頡の掟➀➁➂を守っていたので、用が済んだ楷書も消していたので遺跡から1字も出土しないことになったのである。
 だが5世紀になると、短時間で筆記することができる楷書で夏音文字を表記する方法がおこなわれるようになったために、遺跡から夏音文字を表記する楷書(すなわち上代特殊仮名遣いに用いられる楷書)が出土するようになったのである。
 それゆえ、712年に完成した『古事記』上巻に〔音〕という注がつく1字1音読みの夏音文字が楷書で多数記載されることになったのである。

 楷書も夏音文字も「銀河各部の形状」が「文字」とした。
 『魏志倭人伝』が「倭女王卑弥呼は魏の明帝から金印を授かった」と記述する、この卑弥呼の金印は「銀河各部の形状」が「文字」であったからこそ――中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元2年(57年)、光武帝が倭奴国の王に印綬を授けた」と記述された金印が江戸時代に北九州の志賀島(しかのしま)から発見された――ように、現在も卑弥呼の金印は失われずに隠されているにちがいないと考えることができる。
 しかもその隠し場所は、前回にて指摘したように島根県八束(やつか)郡島根町の加賀(かか)の潜戸(くけど)ということになる。
 “加賀の潜戸”と呼ばれる洞窟は2ヵ所あり、北の洞窟は“新潜戸”、南の洞窟は“旧潜戸”と呼ばれる。
 卑弥呼の金印は新潜戸に隠されたと考えられる。

 旧潜戸は幼くして亡くなった子どもたちの霊が集まると伝えられる賽の磧(さいのかわら)となる。
 上記したように、各部の形状から漢字が作られた〔秋の銀河の西部と夏の銀河の西南部までの形〕は〔頭蓋骨の縫合が堅(かた)まらない子どもの姿〕に相似する。
 ゆえに、死産した子どもたちの霊が集まる旧潜戸には卑弥呼の金印は隠されたとは思えない。
 いっぽう、新潜戸には古来からの伝説があり、この伝説は“神から命をさずかって誕生した、黄金のように輝く子ども”を象徴と暗喩(あんゆ)を用いて表現するとともに、卑弥呼が授かった金印は新潜戸に隠したと表現するものと解釈できる。
 さらに、新潜戸には金印が発見された志賀島と共通点を有する。
 この共通点については次回にて説明するが、1回で済むほど簡単ではないので何回にも分けて説明することになろう。

 なお、今回は“びっくり仰天、玉手箱”という語句から始めたが、卑弥呼が金印を授かった当時、“びっくり仰天、玉手箱”の形をした銀河が中国と日本列島の天頂にめぐってきた。
 これゆえ、卑弥呼の金印は「びっくり仰天、玉手箱の形をした銀河」をあらわすと見立てられた「聖なる加賀の新潜戸」に隠されたと考えられる。
 なお、「びっくり仰天、玉手箱の形をした銀河」は上記の倉頡が「すべての漢字を生む母親と定めた銀河」の西南に隣接する。

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