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2013年5月31日 (金)

卑弥呼の金印の隠し場所・5

 『魏志倭人伝』の方位に関するすべての記事は、北→東・東→南・南→西・西→北になるように、実際の日本列島地図の方角より90度相違する。
 というのも、卑弥呼王朝が制定した日本列島地理は、中国の海岸線地域の南のほうに、日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島が所在するにちがいないと考えたからである。
 〔緯度と子午線の測定する方法〕は➀天の北極の高度で緯度換算する方法と、➁天頂緯度を測定し、天頂緯度線上の天頂点と北または南にある目星(銀河部位や恒星)を結ぶ子午線をキャッチする方法の2つがある。 
 後者の➁の方法すなわち「天頂緯度線と天頂点と北または南の目星を結ぶ子午線のキャッチ」を[玄]と言った。ゆえに、➁の方法を“[玄]をキャッチする方法”と呼ぶことにする。

 ➀の天の北極の高度で緯度換算する方法は不精確であったゆえ、大海や遠くの地に旅する人々は命を落として家族が待つ家に帰ることができなかった。
 ➁の[玄]をキャッチする方法は精密に緯度と子午線が測量できたので、大海や遠くの地に旅する人々は家族が待つ家に帰ることができた。

 『魏志倭人伝』は「倭国の使節は大海を往来できた」と明確に記述する。
 だから、卑弥呼王朝は➁〔[玄]のキャッチ〕を最も重視してことになる。言い換えると、卑弥呼王朝の最も強力な政権基盤は〔[玄]のキャッチ〕であったことになる。
 もしも卑弥呼王朝において➀の天の北極を基準にする天文地理学が栄えていたならば、天の北極を基準にして現代の日本列島地図と同じく、『魏志倭人伝』は「日本列島は東に伸びる」と記述したはずである。
 しかし、卑弥呼王朝の政権基盤は〔[玄]のキャッチ〕であり、天の北極を基準にすると大海を往来できずに命が海の藻屑(もくず)となって消える死のポイントとなるため、天の北極を無視したのである。
 ゆえに、卑弥呼王朝は「日本列島は南に伸びる」と思い込んで、転回日本列島地理の誤りを正すことができなかったのである。

 「偉大」の言う語の[偉]と「緯度」の[緯]は同じ[韋]の字部を有する。
 この[偉]と[緯]の字は、中国においても、天の北極を最も重視するシナ天文が紀元前1世紀に完成する以前は、精密に緯度を測定できる[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣が栄えていたことを示すものとなる。

 
 『魏志倭人伝』は方位を示すすべての記事の通りに、現在方位を90度転回する卑弥呼王朝が制定した日本列島地理にもとづくと、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)となる。
 そして、卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心は出雲(現在の島根県東部)となる。
 新井白石以来約280年もの長い間、学者たちは天の北極を立論基盤にして『魏志倭人伝』が説明する日本列島地理の記述を誤読して、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬台」であると言い張る(この「誤読」を「文献批判」と呼ぶ)。
 古代歴史家の古田武彦氏が綿密に証明したように、「邪馬壱国」が正しく「邪馬台国」は誤読となる。

 下に示す下の図となる「卑弥呼の金印の隠し場所の推定地」は、『魏志倭人伝』が証言する転回日本列島地理にもとづく卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心であった出雲の島根県東部の八束(やつか)郡島根町に所在する「加賀(かか)の潜戸(くけど)」である。
 加賀の潜戸は卑弥呼が居住した邪馬壱国であったゆえ、卑弥呼が魏帝から授かった金印は加賀の新潜戸に隠されたと考えられる。
 その証拠に、下に示す「九州の志賀島の金印出土地」と「」卑弥呼の金印隠し場所の推定地」の両方の地図をよく見ると相似しあう。

 「加賀の潜戸」の「加賀」は「金色に輝く」と示す地名となる。
 九州の「志賀島」と「加賀」の地名は、ともに[賀]の字を有する。
 しかも「志賀」の「しか」は「鹿(しか)」を意味し、志賀島の西の対岸となる糸島半島の地図の形は〔鹿の横顔〕に相似する。
 潜戸がある半島の地域の名は「加賀」であり、この「加賀」の地図の形も角(つの)の無い〔メスの鹿の横顔〕に相似する。この〔メスの鹿の横顔〕は「倭女王・卑弥呼」をあらわすものとなる。
 志賀島の西北に「玄海島」と「桂島」がある。
 加賀の潜戸の南に「粟島」と「桂島」がある。
 九州の玄海灘に浮かぶ「桂島」と同名の出雲の「桂島」は、「粟島・桂島」と一体化させると〔オスの鹿の正面顔〕となる。

 九州の志賀島から出土した金印は、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝が「建武中元2年(57年)、倭の奴国の使者が朝賀して、光武帝が授けた印綬(いんじゅ)」と記述する金印である。
 『後漢書』倭伝の文中にある「朝賀」の[賀]は、「志賀島」と「加賀」の[賀]である。
 下に示す〔海の中道の方角から昇る朝日〕は正午になると金印が出土した志賀島の南端の上空に位置する。ゆえに、「朝賀」という語を「朝の太陽」に見立てて、正午の太陽が燦々と輝く南中高度に見立てられる地点となる志賀島の南端に金印を埋めたと考えられる。

 倭の奴国の使者が玄海灘を往来してもたらした金印は志賀島の南端に埋められた。
 この使者が往来した「玄海灘」の[玄]は「[玄]のキャッチ」をあらわし、[灘]は「流れが急で舟行の困難な大海原」を意味する。
 紀元前1世紀、中国では天の北極を最も重視するシナ天文が完成して、卑弥呼が生存した3世紀においては、魏の使節と魏の出張機関である帯方郡(たいほうぐん)政庁の使節は[玄]をキャッチして精密に緯度と子午線を測量できなくなったために玄海灘を往来することができなくなった。
 ゆえに、倭の使節が玄海灘を往来し、また倭の使節の船に帯方郡の使節が便乗して、魏と倭は国交を結ばれた。これゆえ、『魏志倭人伝』が著作された。
 もしも倭においても日本列島は東に伸びると定めることができる天の北極を重視するものであったならば、魏と帯方郡の使節と同じく倭の使節も玄海灘を往来できなかったことになる。そうすると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も書かれていなかった白紙であったことになる――このように、倭の使節が玄海灘を往来できなかったことになると、その結論は荒唐無稽(こうとうむけい)の空理空論となる。
 だから、卑弥呼王朝は〔[玄]のキャッチ〕にもとづき日本列島が南に伸びる転回日本列島地理を制定していたことは何人にも否定できない事実となる。

 下に示す〔志賀島の金印出土地〕と卑弥呼が魏帝から授かった金印の隠し場所と推定される〔新潜戸〕は、〔[玄]のキャッチ〕をあらわす聖域となる。
 だから、卑弥呼の金印の隠し場所は【加賀の新潜戸】であると推定できる。
 次回は、さらに[玄]の字の秘密の解説を続行して、卑弥呼の金印の隠し場所の推定をさらに確かになるようにする。
 
 
 

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