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2013年6月 6日 (木)

卑弥呼の金印の隠し場所・10

 学者たちは――卑弥呼王朝が〔天の北極〕を基準にすれば日本列島は東に伸びると断定するにちがいないから、『魏志倭人伝』の数々の記事で「日本列島は南に伸びる」と説明するが、この「南に伸びる」という転回日本列島地理は絶対に信じてはならない――と禁止する。
 しかし、わが前回(9回)のブログで証明したように、日本列島から中国に渡る時に必ず通過しなけれならなかった北九州の「玄海灘」の[玄]の字の秘密の基に、卑弥呼は『魏志倭人伝』が最も多くの記事を割いて「日本列島の東端は南の方に伸びている」と証言する錯覚の転回日本列島地理を立論した。
 この卑弥呼が提唱した転回日本列島地理は〔天と地の鬼神が、国々が攻撃しあう戦いに神罰を下すと示すもの〕と王や王女や氏族の長たちに解釈されることになって大乱が鎮(しず)まることになったので、卑弥呼は倭国の最高位の女王に選ばれたのである。

 転回日本列島地理にもとづくと、『魏志倭人伝』が記述する倭女王の卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国の中心部は出雲(現在の島根県東部)であったことになる。
 下の図に示す出雲に所在する「加賀の潜戸の新潜戸」(島根県八束郡島根町)は卑弥呼王朝の政権基盤であった〔[玄]のキャッチ〕すなわち「天頂緯度線と、天頂緯度線上にある天頂点と90度の方角の北または南の目星(銀河部位や恒星)を結ぶ子午線のキャッチ〕をあらわす聖域であった。

 『魏志倭人伝』は「魏の景初2年(238年)の12月、魏の明帝は詔書(しょうしょ)を発して、卑弥呼に金印を授けることを約束した」と記述し、また「魏の正始元年(240年)、魏が朝鮮半島の一角に設置した出張機関の帯方郡政庁の太守(長官)は使節を派遣して、前年に魏帝が約束したことを書く詔書と卑弥呼に与える金印をもたせて、倭国へ派遣した。この帯方郡の使節は倭王に拝謁(はいえつ)した」と書く。
 この魏帝から卑弥呼に与えられた金印は、魏が倭と軍事同盟を結んだ印(しるし)であった。
 言い換えると、『魏志倭人伝』は魏が倭と同盟を結んだ時の魏軍が収集した倭軍の兵力や国力を調査するための軍事資料であったのである。

 魏帝から卑弥呼に与えられた金印は、下の図に示す加賀の新潜戸に隠されて保存されたと考えられる。
 というのも、『出雲国風土記』に記載される「加賀の新潜戸伝説」に登場する「金の弓箭(ゆみや)」の「弓箭」は軍事に使用するものであるので、「魏と軍事同盟を結んで与えられた卑弥呼の金印」を象徴と暗喩を用いて「金の弓箭」と表現するものと解釈できるからである。

 「加賀の新潜戸伝説」は「佐太大神の母は枳佐加比売命(きさかひめのみこと)、この母神の親は神魂命(かんむすひのみこと)である」と記述する。
 加賀の潜戸の南にに、「神魂命」と同名の神魂(かもす)神社(島根県松江市大庭町)ある。
 神魂神社の本殿は国宝であり、これほど立派な本殿を有していながら、神魂神社についての記録は『出雲国風土記』にも『延喜式』にも見当たらない。今日まで深い謎に包まれる古社である。
 神魂神社の屋上の神紋は六角形の亀甲紋の内側に[有]の字を挿入するものであるが、これは出雲の「神在月」を象徴していると言われる。
 神魂神社では「神紋について」――出雲では神在月と言い、他国では神々が不在となるので神無月と言われている。太古より十月十一日に当社へ集められ十八日まで滞在することになっているため、神紋は神々が集合する目標として象形したものと伝えられている――と説明する。
 この「神魂神社に集合する神々」が「卑弥呼時代の諸国の王や王女、氏族の長や妻、巫女と神官たち」であったならば、「神魂神社」は「卑弥呼が居住した宮殿の跡地」であったことになる。

 神魂神社は一説には「天穂日命(あめのほひのみこと)が当地に天降(あも)りて起源した」と伝わる。
 『古事記』は「天穂日命」を「天菩比命」と表記する。
 『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話には「五柱(いつはしら)」と数えられる五人の男王が登場し、そのうちの一人が「天之菩卑能命(あめのほひのみこと)」である。
 この天之菩卑能命の後に「天菩比命」が登場し、天菩比命は「五柱の子である」と記述する。
 ということは、「天之菩卑能命」という名には「卑弥呼」の[卑]の字が配されるので「卑弥呼亡き後に、邪馬壱国・出雲を統治した男王」であったと考えられる。(ただし、『古事記』に記載される大国主神ではなく、大国主神が統治する以前に邪馬壱国を治めることになった男王であると思われる)。
 天照大御神・大和王朝はかつて倭国を統治した邪馬壱国の出雲・大国主神王朝を征討して、ことごとく邪馬壱国の歴史を葬った。
 大国主神を尊敬する北九州の宗像の天菩比命は、出雲国造の祖となって、神魂神社を再建して出雲国造家の斎場とした。
 前回(9回)のブログで指摘した卑弥呼が立論した転回日本列島地理の西端の基点となった沖ノ島には、宗像の天菩比命が奉仕する三柱(みはしら)の女神のうちの沖津宮(おきつみや)が鎮座する。
 だから、『古事記』が記述するように「宗像の天菩比命は出雲の天之菩卑能命の子」ということになる。
 これゆえ、神魂神社は卑弥呼が居住した宮殿趾であったと推測できる。

 上記したように『出雲国風土記』に記載される「加賀の新潜戸伝説」に登場する「金の弓箭」は「卑弥呼の金印」を今日の象徴詩人が作る詩のごとく象徴と暗喩で難解になるように表現したもの考えられる。というのも、卑弥呼の金印の盗掘を防ぐためにも、また卑弥呼の金印をもって格調高く天と地の鬼神に倭の繁栄と平和を祈願するためにも、象徴と暗喩で表現する必要があったからである。
 この「加賀の新潜戸伝説」は下記のごとくである。

 ――加賀の神崎(かんさき)に岩窟がある。高さは十丈ほどあり、周囲は五百二歩ほどである。その洞窟は東西に抜け、また北へも抜けている。ここは、いわゆる佐太大神が産まれた場所である。佐太大神が生まれようとする時に、弓箭を亡くした。その時に、親神の神魂命の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと)は「わたくしの御子が、もしも麻須羅神(ますらがみ・雄々しい神)の御子であるなら、亡くなった弓箭は出てこい」とお願いされた。その時に、角(つの)の弓箭が洞窟の流れにしたがって流れ出てきた。その時に、母神が弓を手に取って詔(の)りたまわったことには「この弓はわたくしの弓箭ではない」と述べて、角の弓箭を投げ捨てられた。また、今度は、金の弓箭が流れ出てきた。金の弓箭が出てくるのを待っていた母神は、早速、手に取って坐って「なんて暗い岩窟でしょう」とおしゃって、その箭で岩窟を射通(いとう)した。そして、そのまま、母神の支佐加比売命(きさかひめのみこと)の社は、ここに坐すことになった。今の人がこの岩窟のあたりを行く時の掟は、必ず大声を岩窟に反響させて行かねばならないことになっている。もしも静かに行くと、鬼神があらわれて旋風(つむじかぜ)がおこり、乗っている船は必ずひっくりかえることになっている。

 上記の文中の「弓箭は亡くした」は「卑弥呼が亡くなった」と表現するものと解釈でき、「この弓箭は吾が弓箭にあらずと詔りたまひて」という文の「詔りたまひて」は「魏帝の詔書」を暗示するものではあるまいか。
 新潜戸の洞内に入ってすぐ左上にある棚岩に白木の鳥居が設置され、そこが「佐太大神が生まれた誕生岩」であると伝えられる。
 この棚岩は、広さ1間ばかりの少し凹んだ滑らかな岩場で、揺りかごのようになっているという。
 この揺りかごの一角が卑弥呼の金印の隠し場所であるとそうは簡単に探し出すことができないであろうが、鳥居の奥あるいは周辺の女性の子宮や乳房のような形をした岩で蓋(ふた)をして卑弥呼の金印は隠されたのではあるまいか。

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