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2013年6月18日 (火)

卑弥呼の金印の隠し場所・12

  学界の定説の場合――わが国が最初に漢字を習得したのは55世紀あるいは6世紀である――と断定する。しかし、2世紀末~3世紀半ばの日本列島の様子を記述する『魏志』倭人伝は「倭の易卜の卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法のごとく」と証言する。この「令亀の法のごとく」とは「中国の殷代(いんだい)後半の亀の甲羅に刻む甲骨文字のような文字があった」となる。ゆえに、学界の定説は『魏志倭人伝』を誤読して成立したものとなり、わが国にはすでに2世紀末~世紀半ばに甲骨文字のような原初漢字が存在しことになる。


 中国の五経の第一に挙げられる『易経』は「漢字は今から五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)の発明によって起源した」と記述する。
 この“漢字の始祖”と崇拝された倉頡が生存した今から約5000年前から約4080年前までの五帝時代の遺跡から、また今から約4080年前から約3600年前までの夏代の遺跡から、また今から3600年前から約3300年前の殷代前半の遺跡から、学者たちが「文字」と定義した図書や記号は現在まで一点も出土していない。


 漢字の始祖・倉頡は自らが考案した漢字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡・崩壊すると考えた。ゆえに、倉頡は下記に示す3つの掟を破った人物には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。

◆倉頡が死刑と定めた3つの掟
(
) 文字が〔銀河各部の形状(天頂を通過する秋の銀河の西部から夏の銀河までの各部の形状)から創られたことを暴露した者

() 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者

() 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者

上記の(3)の掟は、今から約3300年前の殷代後半に出現した甲骨文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)と(2)の掟については厳重にまもった。ゆえに、(1)の掟によって「文字は銀河から創られた」ことは現在においても解明されず、(2)の掟によって銀河各部の名称は存在しない。
 上記の〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕はa.『魏志』倭人伝の記述、b.『魏志』倭人伝と同時代の3世紀後半に作成された静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵(この巨大な大鳥の地上絵を、私は「卑弥呼の地上絵」と呼ぶ)c.徳川家康が井伊氏彦根藩に命じて作成させた1603年に着工して1622年に完成させた、「未だ夏音(かおん)文字は復興せず」と設計した、現在の滋賀県彦根市の行政区域を表示する地図の形として現存する3千万坪の大鳥の地上絵、d.江戸幕府が小堀遠州に京都の伏見奉行に就任させて彦根の大鳥の地上絵を完成させた翌1623年から小堀遠州が病床に倒れた1645年までの23年間も情熱を傾けて作成した京都市に所在する桂離宮の庭園(遠州は2年後の1647年に死去した)e.霊元(れいげん)上皇が遂に幕府の欲求を受け入れて、1738年に本格的に復興した大嘗会(だいじょうえ)と天皇の即位式に用いられる王冠の意匠、f.世界的に有名な京都に所在する竜安寺(りょうあんじ)の石庭などはじめとする多数の確かな史料・史跡・遺跡・遺物によって科学的に解明できる。

「銀河」は「天漢」または「銀漢」とも言うように、「銀漢から創られた文字」を略して「漢字」と名づけられたのである。
 ゆえに甲骨文字以後の漢字においても倉頡が定めた(1)と(2)の掟は厳守されたため、上記した今から約4080年前の夏代初頭に出現した夏音文字と卑弥呼が生存した当時(2世紀末~3世紀半ば)の魏が用いた楷書も「銀漢各部の形状」が「文字」となったのである。
 このような秘密があったゆえ、「天に万物をあらわすすべての文字ありき」となった状況を略して「天」は「天文」と呼称されることになった(この「天文」という語は紀元前5世紀に作成されたと指摘される『易経』に記載されている)
 わが国には今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に夏音文字が伝来し、この夏代初頭に相当する国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき・秋田県鹿角市に所在する)の万座・野中堂の両遺跡には夏音文字の学芸が伝来した痕跡が現在も明確に残っている。

したがって、わが国に最初に中国から漢字が伝来したのは約4050年前の後期縄文時代初頭であった。

わが国に後期縄文時代初頭(夏代初頭)に伝来した夏音文字は『魏志』倭人伝の人名・小国名として残存し、『古事記』上巻の序全体を通して夏音文字について解説され、『古事記』上巻の随所に〔音〕と注が付く1字1音文字となって夏音文字は多数記載されている。
 だから、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻を開くと、現代のわれわれは約4050年前に伝来した夏音文字を目撃することができる。

中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍(のちやや)夏音を習う」と中国王朝に伝えた――という記述があり、この「後稍夏音を習う」は「壬申の乱の後、稍々(やや)夏音文字の学芸を習うすなわち復興する」と意味した。ゆえに、702年から10年後の712年に完成した『古事記』上巻の随所に夏音文字が記載されることになったのである。

『魏志』倭人伝は「倭女王卑弥呼が書いた文書に用いる文字は魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と差錯(ささく・相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検して確認していた」と記述し、「倭では夏音文字を楷書に変換できた」と証言する。

『魏志』倭人伝と『古事記』上巻に残存した夏音文字は甲骨文字のような字形の文字であり、「夏音文字」は「銀河各部の形状」として存在したが、倉頡が定めた3つの掟を厳守した文字であったために後世に出土しない文字となった。
 魏都・魏の出張機関がある朝鮮半島の帯方郡・諸韓国が用いる楷書は短時間で筆記することができるようになった点が革命的な文字であった。しかし楷書もまた五帝時代の漢字や夏音文字と同じく、「銀河各部の形状に類似するように図案する」と定めた倉頡が発明した漢字作成原理(この漢字作成原理は「鳥獣の足跡」または「鳥獣の文」と名づけられた)を厳守する文字であった。ゆえに、楷書は〔銀河各部の形状〕に相似するように図案されていたので、楷書の字形から字源となる〔銀河部〕が察知した。このため、伊都国の港では卑弥呼が精通する〔すべての「夏音文字」の字源・字形・字義となった「銀河の全範囲」〕を字書・辞典のごとくあつかって、卑弥呼が書いた夏音文字を魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に正しく変換していたのである。
 そして、楷書は倉頡が定めた上記の(3)の掟である用済みになった文字を消さなくても神罰がくだらない文字であったゆえ、『魏志』倭人伝と『古事記』上巻において夏音文字は楷書で表記されることになったのである。

わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、漢字の字源を解説する字書の聖典の『説文解字』が[]の字を「賤(いや)しきものなり」と解説するが、[]の字について「金文にはなお卑賤の用義例はない」と指摘する。

説文解字』は[]の字源を「益(えき)なり」と解説する。[]の原字は[]であるので――甲骨文字や周代に用いられた金文、そして夏音文字の[]の字義は「益なり」であった――ことになる。
 
 夏代初頭、夏王朝2代の帝益が啓(けい)に帝位を譲って箕山(きざん)の南に隠棲(いんせい)した時、“夏の始祖”である帝禹()の遺志を継ぐために帝益の孫の王子(天祖)と益氏の若者たちが大海を越えて日本列島の大湯環状列石がある東北地方に移住した。
 ゆえに、益氏の日本列島移住の歴史は『日本書紀』神武天皇紀の天祖降臨説話に記述され、『古事記』の序の冒頭でも説明され、『古事記』上巻の天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の筑紫降臨説話を慎重に読めば察知できる記述になっている。
 だから、「卑の字源は益なり」であった。ゆえに、「卑弥呼」という名は「名門益氏がもたらした夏音文字の学芸に精通する巫女(みこ・弥呼)」と表示するものであったことになる。

白川静著『字統』の9頁末部から10頁の初頭は〔わが国の漢字音〕と題してカールグレーンから始まった西洋の言語学・音韻学が漢字の字音にも適用することができると証明され、この方法が急速に進展して「そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
 千賀四郎編集『邪馬台国』(小学館)は〔卑弥呼の発音について〕という注で――「卑弥呼」の3字を中国漢字の上古音でよめば「ピミカ」になる。また魏以前の中古音で読めば「ピミエクゥオ」となる――と指摘する。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は中国の上古音よりも古い、ゆえに中国の歴史学において「上古」とされる殷代の甲骨文字の字音よりも古い、白川静著『字統』が指摘するように現在残されている漢字音で最も古い夏代初頭の音文字の字音だったことになる。
 したがって、「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと“夏音文字は存在しない”という意見を有する人が“夏音文字の字音だけは存在するが、夏音文字は存在しなかった”と主張する反論や弁解は詭弁(きべん)・屁理屈(へりくつ)となるので、彼等は自らの意見・意思に反して「夏音文字は実在した」と断定することになる。
 
 夏音文字は倉頡が定めた(3)の掟を厳守して用済みになった文字は必ず消されていた。ゆえに、夏音文字は、結局、「銀河各部の形状」が「文字」となった。だから『魏志』倭人伝に「倭には甲骨文字の如く文字があった」と説明された夏音文字は現在まで遺跡から1字も出土しないが(上記したように、中国でも夏音文字は遺跡から1字も出土しない)、「夏音文字」は「銀河各部の形状」として実在したのである。

天文には〔歳差(さいさ)〕という現象があり、この歳差にもとづくと中国と日本列島の天頂(天文観察者の頭の真上)に、A図に示す銀河がめぐってきた。
 このA図の「鹿の横顔に似る銀河」の形は、B図に示す「加賀の新潜戸がある鹿の横顔に似る半島の地図」の形に相似する。
 だだし、A図の北→B図の東に、A図の南→B図の西に合致する。
 『魏志』倭人伝のすべての方角の記事は「北→東・東→南・南→西・西→北」に転回する仕組みにとなっているので、A図とB図の90度方位を転位する相関図に合致する。

図に示した白鳥座ε星は光度2.6等の巨星で、白鳥座の翼の部分にある。

図の「鹿の横顔に似る銀河の鼻の先端部」にある〔白鳥座ε星〕はB図の「鹿の横顔に似る半島の地図の鼻の先端部」にある〔加賀の新潜戸〕に合致する。
 『日本書紀』は――伊都県(いとのあがた)はC図に示す九州の糸島半島に存在した――と記述するゆえ、『魏志』倭人伝が記述する伊都国は伊都県が所在した現在の糸島半島であったことになる。
 C図の糸島半島の形はA図・B図と同じく〔鹿の横顔〕に相似し、A図とB図の〔鹿の横顔の鼻の先端〕はC図における〔鹿の横顔の鼻の先端〕に所在する伊都国の港(糸島半島の西海岸)となる。この港の東方にある前原(まえばる)町は、伊都国があった所ではないかと指摘される。
 だから、糸島半島(伊都国)の西海岸の港にて、卑弥呼から送られてきた文書に書かれていた夏音文字は魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に正しく変換されていたにちがいない。

以上からして、『魏志』倭人伝が「魏の明帝が卑弥呼に与えた」と伝える金印は、A図の白鳥座ε星とB図の加賀の新潜戸が共に鹿の横顔の鼻の先端で符合するゆえ、『魏志』倭人伝が「魏の明帝が卑弥呼に与えた」と伝える金印は白鳥座ε星に相当する加賀の新潜戸の西戸の辺りに隠されたと考えられる。

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