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2013年6月20日 (木)

卑弥呼の金印の隠し場所・14

●卑弥呼に金印が与えられた当時の状況

◆238年当時、魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)する状況に変化が生じ、呉の皇帝・孫権が率いる呉と蜀が天下を二分して治めようと軍事同盟を結んだ連合国と魏との争いになっていた。つまり、魏と呉・蜀天下二分連合国とで天下取りの決着をつけるかのごとくになっていた。
◆中国には、魏・呉・蜀の三国とは別に、魏の背後となる燕地(えんち)を公孫(こうそん)氏が治めていた。これゆえ、三国時代は実質的には「四国時代」と称すべき状況であった。この燕地を治める公孫淵は魏帝の配下となってつかえていたので、呉の孫権は天下二分側に組みするように説得するための使節を送った。
◆呉の孫権と同盟を結ぶ気配を見せた燕の公孫淵は魏の背後の脅威となったため、238年(魏の景初二年)に魏軍は倭の協力を得て公孫淵を討伐することになった。
 238年の春、魏軍のエースとされる司馬懿(しばい)は4万人の歩兵・騎兵を率いて魏都・洛陽を出発し、途中、前年から公孫淵討伐作戦をおこなって失敗した毌丘倹(かんきゅうけん)を副将に任命して毌丘倹の軍を合流させて、6月に遼東に乗り込んだ。
◆そして、公孫淵を討伐する司馬懿が率いる魏軍が遼東に到着した238年6月、『魏志倭人伝』は「倭女王は難升米(なしめ)一行を派遣して帯方郡に到着させ、魏の明帝との謁見(えっけん)を求めた。そこで、帯方郡大守の劉夏(りゅうか)は役人を派遣して、倭の使節一行を魏都に案内した」と記述する。
 この時、魏の明帝は重病で床に伏せて、倭の難升米一行と面会することはできなかった。魏の大軍は公孫淵を討伐するために遠征したため、魏都を守る兵力は手薄となった。ゆえに、呉の孫権が呉と蜀の両軍を率いて“千載一遇(せんざいいちぐう)の好機到来”と魏都を攻撃すれば、魏は滅亡しかねない状況に陥っていた。
 司馬懿は――東夷の大国の倭の使節一行が魏帝に朝献すると偽装をすれば、魏の明帝は元気であると見せかけることができ、また英才・孫権は慎重に中国の戦争に参加した倭の国力・兵力の調査を優先して、直ちに魏都を襲撃しないにちがいない――と企む大胆な作戦を立てたのである。
 この作戦は見事に的中して、8月24日に襄平城外で司馬懿は公孫淵の首を落とし、帰途についた魏の遠征軍は翌年の正月に魏都に到着した。この239年、明帝は死去し、太子の曹芳(そうほう)が即位して斉王となった。

◆司馬懿の作戦に則って、重病で床に伏せて立ちあがることができない明帝が倭の使節・難升米一行と面会する偽装儀式がおこなわれた。この様子を、『魏志倭人伝』は「238年の12月、魏帝は詔書(しょうしょ)を作成して、卑弥呼に〔親魏倭王〕の爵位と金印紫綬を授ける仮の約束をした」と記述する。
◆『魏志倭人伝』は「240年(魏の正始元年)、帯方郡の大守弓遵(きゅうじゅん)が建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを派遣し、(238年12月に作成した明帝の)詔書と(卑弥呼に授けると約束した)金印印授をもたせて、倭国にゆかせた。そして、帯方郡使たちは倭王に拝謁(はいえつ)して、さきの詔書をさしだし、金帛(きんぱく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいぶつ)を贈った。そこで倭王は、この帯方郡使に託して上表文をたてまつり、魏の斉王の詔書とその恩恵に謝意をあらわした」と記述する。
 この記事が示すように、金印が倭国に届けられた240年には卑弥呼は没し、倭国の最高位の大王には男王(倭王)が就任していた。

 

●卑弥呼が授かった「親魏倭王」の金印の呪力

◆呉の孫権は230年、孫権は「将軍衛温(えいおん)・諸葛直(しょかっちょく)を遣(つか)わし、甲武(武装兵)万人を将(ひきい)て海に浮かべ、夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)を求めしめ」たが、この一万の呉の水軍の遠征は、『後漢書』倭伝が呉の会稽(かいけい)の海外にある「夷州と亶州に分かれえる東鯷人(とうていじん)国」と記述する倭地の隣国に到着することができなかった。
 というのも、中国では紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したため、大海を渡る方法である旧来の〔[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃(すた)れた。ゆえに、呉の日本列島の東鯷人国遠征軍のうちの8割から9割の兵士たちは大海原で緯度(位置)と子午線(方角)が不明となってさ迷い藻屑(もくず)となって落命して、呉の遠征軍は壊滅した。
◆この呉軍の東鯷人国遠征は定期的に会稽で交易していた東鯷人が知ったのか、それとも魏から倭へ伝えられて東鯷人国王が知ったのか不明であるが――魏を滅亡させるために孫権は倭の背後の東鯷人国の占領を企てて再度呉軍を出兵させるにちがいないと東鯷人国王は予測した。ゆえに、東鯷人国王は卑弥呼が統治する倭国に服属することを決意して、卑弥呼に東鯷人国の防衛を取り付けた。
◆ここに東鯷人国は倭国に属することになり、国名は「日本」と改められた。この小国・日本の女王に、『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三なるを立てて王と為(な)す」と記される女性が就任した。
 この呉軍の再度の襲撃を予想した新生・日本国の誕生は234年ごろであったであろう。
 卑弥呼の金印を倭王が受け取った240年当時、呉の遠征軍の再度の襲撃にそなえて倭の兵力は小国・日本に割かれ、『魏志倭人伝』が「倭の女王の卑弥呼と狗奴(くな)国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)は素(もと)より和せず」と書く敵国が、好機到来とばかりに卑弥呼の没後に倭を攻撃していた。
 

◆このように倭には狗奴国という敵国があり、呉軍の再度の襲撃におびえて、倭国全体が今直ぐにも大乱の戦場と化すのではないかと心配する不安定な状況であった。
 
 卑弥呼が授かった「親魏倭王」の金印は、魏が滅亡しかねない窮地を救った威力が秘められていた。
 
 ゆえに、魏の滅亡を救った「親魏倭王」の金印は、倭国が平和となる呪力(じゅりょく)をも有するものと倭王朝は考えたにちがいない。
 この平和への願い、倭国の安定を祈った情念を表現したものが、『出雲国風土記』に記載されて残った「加賀の新潜戸伝説」であったにちがいない。

●「加賀の新潜戸伝説」の解説

◆魏の明帝から卑弥呼に与えられた金印は平和をもたらす呪力があると信じられて、加賀の新潜戸に隠されて保存された。
 「卑弥呼の金印は加賀の新潜戸に隠した」と具体的に表現すると盗掘されることになるので、「加賀の新潜戸伝説」は現在の象徴詩人が作る詩のごとく、象徴と暗喩(あんゆ)を使用して、下に図示する天頂にめぐってきた銀河の形状を基に表現されることになったのである。

◆「加賀の新潜戸伝説」は下記のごとくである。
 ――加賀の神崎(かんさき)に岩窟がある。高さは十丈ほどあり、周囲は五百二歩ほどである。その洞窟は東西に抜け、また北へも抜けている。ここは、いわゆる佐太大神が産まれた場所である。佐太大神が生まれようとする時に、弓箭(ゆみや)を亡くした。その時に、親神の神魂命(かむむすひのみこと)の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと)は「わたくしの御子が、もしも麻須羅神(ますらがみ・雄々しい神)の御子であるなら、亡くなった弓箭は出てこい」とお願いされた。その時に、角(つの)の弓箭が洞窟の流れにしたがって流れ出てきた。その時に、母神が弓を手に取って詔(の)りたまわったことには「この弓はわたくしの弓箭ではない」と述べて、角の弓箭を投げ捨てられた。また、今度は、金の弓箭が流れ出てきた。金の弓箭が出てくるのを待っていた母神は、早速、手に取って坐って「なんて暗い岩窟でしょう」とおしゃって、その箭で岩窟を射通(いとう)した。そして、そのまま、母神の支佐加比売命(きさかひめのみこと)の社は、ここに坐すことになった。今の人がこの岩窟のあたりを行く時の掟は、必ず大声を反響させて行かねばならないことになっている。もしも静かに行くと、鬼神があらわれて旋風(つむじかぜ)がおこり、乗っている船は必ずひっくりかえることになっている。

◆卑弥呼が生存した時代、A図に示す「鹿の横顔に似る銀河」が天頂にめぐってきた。
◆A図の「鹿の横顔に似る銀河」に相似するB図の「鹿の横顔に似る形をした半島」の鼻の先端となる加賀の新潜戸は卑弥呼が立論した転回日本列島地理の立論基盤となった〔[玄]のキャッチ〕の秘密をあらわす聖地となった。
◆魏・呉・蜀の三国が天下取りの争いをした三国時代、A図に示す「鹿の横顔に似る銀河」が天頂にめぐってきたので、「中原(ちゅうげん)に鹿を逐(お)う」と表現された。
 「中原に鹿を逐う」という語句は〔角が生えるオス鹿の争い〕に譬えるものであったゆえ、「加賀の新潜戸伝説」においては――枳佐加比売命は角の弓箭を「この弓箭はわたくしの弓箭ではない」と述べて、角の弓箭を投げ捨てた――という表現で戦争を否定する情念を示したにちがいない。
 B図に示す半島の「鹿の横顔に似る形」は〔争わない角が生えていないメス鹿〕をあらわす。ゆえに、「メス鹿の横顔の形をした半島」の鼻の先端に所在する加賀の新潜戸は「平和となる願いをかなえる強い呪力」をあらわす「親魏倭王」の金印を隠す場所として最適地となる。
 だから、「加賀の新潜戸伝説」に登場する「金の弓箭」は卑弥呼がさずかった「親魏倭王」の金印をあらわしていると考えられる。
◆加賀の新潜戸は洞窟である。字源を解説する字書の聖典『説文解字』は「洞窟」の[洞]の字源を「疾(はや)く流れるなり」と解説する。
 C図に全面を青色に塗った部分は、[洞]の字源「疾く流れるなり」の早瀬や急流のごとくに観える。この[洞]の字源銀河部をは、卑弥呼が生存した時代に佐太神社(北緯35度30分)の天頂緯度線が貫通する。
 この[洞]の字源銀河部を有する「長方形の暗黒天体部の北半分」は、C図に示すように「正方形」と「三角形」とで構成される。このうちの「正方形の銀河」は九州の志賀島から出土した金印の正方形に合致する。したがって、「親親倭王」の金印もまた正方形であったであろうから、「正方形の銀河」は正方形であったと推定できる卑弥呼の金印の形に合致する。
◆「加賀の新潜戸伝説」では「枳佐加比売命は金の弓箭を手にとって“なんて暗い岩窟でしょう”とおしゃって、金の箭で岩窟を射通した」と語られる。この「射通す」の[射]の金文形を、D図に配した。金文が使用された周代(紀元前11世紀~同3世紀まで)、D図に「矢」と記入した銀河が天頂にめぐってきた。
 C図に示すように3世紀、佐太神社や加賀の新潜戸の天頂を「正方形の銀河」が通過した。D図の「矢」の図書を消して、3世紀に天頂にめぐってきた「正方形の銀河」に「矢」の図書を記入すると、D図の〔弓と箭の形〕は〔箭は弓の下側を短くして上側が長くなるように番(つが)える形〕となる。ゆえに、『魏志倭人伝』は「木弓は下を短くして上を長くした」と倭人たちが弓に箭を番えた形について記述する。このように、倭では当時の「天頂緯度線」を〔箭〕に見立てて、この「箭の銀河」が「弓のごとくに観える銀河」と番える形状に合致すれば弓箭が的を射当てる呪力が増すとされていたことになる。
◆「枳佐加比売命」の[枳]の字義は「からたち」である。「枳棘(ききょく)」という語は「からたちのとげ(いばら)」を意味する。
 D図に示す[射]の金文形の〔箭を番える中央部が凹む儀式用の弓〕は桃の実の蔕(へた)の部分は凹んでいるので「桃孤(とうこ)」と称され、「棘(とげ)がある矢」を意味する「棘矢(きょくし)」が加わって、「桃孤棘矢」という4字熟語となった。
 「桃孤棘矢」は「祟りを祓う呪力がある」とされた。ゆえに、「枳(からたち)」の字を先頭に配する名の枳佐加比売命が手に持つ弓箭は「桃孤棘矢」をあらわすので、「枳佐加比売命」は「戦乱が続く祟りを祓う女神」であったことになる。からたちは春先に白い花を開き、花弁は五枚ある。この五枚の花弁の数は、D図に「五角形」と記す[五]に合致する。
◆「加賀の新潜戸伝説」では、前で「枳佐加比売命」と表記した名を「支佐加比売命」と改める。
 この表記の変更の秘密は、E図のごとくにあったと考えられる。
 『魏志倭人伝』は――魏の明帝は「倭の人民を綏(いたわ)り撫(やす)じるように」と述べて、卑弥呼に金印を授けた――と記述する。
 E図における天頂を通過したC図に示した「正方形の銀河」を、E図の女神の左手はあたかも綏り撫(な)でているかのように観える。

 E図の白鳥座ε星がある「鹿の横顔に似る銀河の鼻先」は、B図の「鹿の横顔に似る半島の鼻先」となる「加賀の新潜戸」に合致する。
 以上からして、卑弥呼の金印はB図に示した新潜戸の西戸の洞内入り口に近い・白木の鳥居が立つ場所より北寄りの奥処にある岩の下に隠されたと私は推理するが、あなたはどこに卑弥呼の金印は隠されたと推理しますか。

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