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2013年6月28日 (金)

日本が滅びる・5

◆下にあるA図の「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』が著作された時代と同じ3世紀後半に作成された。この1千万坪の巨大な「卑弥呼」の地上絵は現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域をあらわす地図の形として現存する。
「卑弥呼」の地上絵は『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に記載される「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」が作成した。遠江の豪族・建比良鳥命とその子孫は、A図下部に「龍潭寺(りょうたんじ)」と記した地区の井伊谷(いいのや)に居住した。
 1010年、引佐町井伊谷に住む建比良鳥家は武家の井伊家を創設し、井伊氏は引き続いて「卑弥呼」の地上絵を守って保存した。

◆この井伊氏は徳川幕藩体制の譜代大名の筆頭の地位についた。
 
関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、徳川家康の命令のもとに井伊氏は現在の滋賀
県彦根市に移住し、同市の行政区域を表示する地図の形として現存するB図に示す3千万坪の鳰(にお)の地上絵を1603年に着工し20年後の1622年に完成させた。

◆なにゆえ家康は彦根藩主の井伊氏に3千万坪の鳰の地上絵の作成を命じたかと言えば、家康は『古事記』上巻のテーマとなる「日本建国の〔愛〕の理念」を復興することに一生を賭けるものであったからである。また、この家康の胸に秘めた心願は織田信長の一生を賭けた心願でもあった。
◆1562年1月、29歳の織田信長と21歳の松平元康(のちの徳川家康)は世にいう“清洲同盟”を結んだ。江戸時代の幕臣の木村高敦(たかあつ)が著した『武徳編年集成』は――清洲同盟で信長は「和議早速御許諾 欣然(きんぜん)タリ 此上ハ両旗ヲ以て天下一統スベシ 今ヨリ水魚の思(おもい)ヲナシ互ニ是ヲ救ン事 聊(いささか)モ偽(いつわ)リ有ベカラズ」と書く起請文(きしょうもん)を作った。そして、信長は小さな紙に[]という字を書いて、それを三つにちぎり、信長と元康と同名を斡旋(あっせん)した信元(元康の母の兄)の三人で茶碗に浮かべて飲んだ――と記述する。
 この[]という字を書く小さな紙をちぎって飲んだ水魚の儀式は、伊耶那美命と伊耶那岐命を祭る熊野那智大社の牛王神璽(ごおうしんじ)に誓う血盟であった。熊野三山(那智大社・本宮大社・速玉大社)では年の初めに牛王を刷る神事が今も残り、那智大社の牛王神璽祭が最も古式を伝える。伊耶那美命と伊耶那岐命は3世紀半ばに生存したが、当時、天頂(観察者の頭上)に「牛の顔の形に似る銀河」にめぐってきたので、この「牛の顔に似る銀河」が「牛王神璽」となった。
 また、「水魚」というのは「愛知」という地名を示す暗号であった。信長の生地の尾張と元康(家康)の生地の現在の県名は「愛知」であるが、この「愛知」の古訓は「あゆち」であり、現在の愛知県の県都の名古屋市南区の低地から天白川(てんぱくがわ)河口に至る海岸は「年魚市潟」と表記して「あゆちがた」と読む。B図の彦根の鳰の地上絵の南端を「愛知川(えちがわ)」としたのは、「水魚」の誓いの「愛知」の暗号にもとづくものであった。
 
『日本書紀』は「花の窟(いわや)は伊耶那美命が葬られた地」と伝える。花の窟神社(三重県熊野市有馬町)とE図の愛知川河口の西にある沖島(おきのしま)は東経136度5分で同経度である。沖島の東方に河口がある川の名は“愛を知る川”の「愛知川」である。
 B図に示すように、彦根城の南南東には伊耶那美命と伊耶那岐命を主神として祭る多賀大社が所在する。だから、清洲同盟は〔信長と家康が天下を統一して、伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を伊耶那美命の死後に守ると伊耶那岐命が誓った日本建国の〔愛〕の理念を復興すると誓った同盟〕であった。
 
B図の彦根の鳰の地上絵は、家康が信長と約束した清洲同盟の誓いを果たすものであった。ゆえに、彦根の鳰の地上絵には信長と家康とA図の「卑弥呼」の地上絵を約1300年も守った井伊氏の伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を復興せんと願った燃える火のように激しい胸の奥に秘めた熱き心が表示されることとなった。
 信長と家康が一生を賭けた願望は、『古事記』上巻のテーマとなった「日本建国の〔愛〕の理念の復興」であった。

◆『魏志倭人伝』の末部に武将の「載斯烏越(そしあお)」が登場し、わが国の古代漢字研究の第一人者とされる故・白川静博士は著書『字統』(平凡社)で「載はおそらく兵車を祓う儀礼で、これによって軍行が開始されるであろう」と解説する。この解説にある「始」からして、「載斯烏越」は名に[]の字がつく第9代化天皇であったと考えられる。
 『古事記』は「開化天皇は、春日の伊耶河宮(いざかわのみや)にいらっしゃって、天下を治めた。天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された。また、継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されて崇神(すじん)天皇を生んだ」と記述する。
 「伊耶那美命」と「伊耶那岐命」の先頭2字と開化天皇が居住した宮殿名の先頭2字は共に「伊耶」で同じである。だから、開化天皇が伊耶那岐命にして載斯烏越となる。
 開化天皇の正妃の竹野比売が伊耶那美命にして、『魏志倭人伝』の末部に登場する13歳で小国・日本の女王に就任して後に倭女王となった壱与(いよ)であった。壱与の出身地の“霧の丹波”と言われて有名な「丹波」の小国名を『魏志倭人伝』は「伊耶国」(「伊耶」の意味は「霧深き山里」となる)」と表記する。ゆえに、「丹波出身の竹野比売」は人民たちに「伊耶那美命」と呼ばれて敬愛されたのである。
 また、開化天皇の第二后にして崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命が天照大御神ということになる。
 このような証明は、A図の「卑弥呼」の地上絵とB図の彦根の鳰の地上絵に保存されているので、学術調査すれば詳細に科学的に証明することができる。

◆大和朝廷の基礎を築いた第10代崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命・天照大御神は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問神話に記述された八の雷神(やくさのいかづちがみ)、すなわち多数の18歳ころの青年と13歳くらいの乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に埋める残忍きわまりない徇葬(じゅんそう)儀式を決行した。この徇葬は小国・日本の国作りの柱と定めた〔愛〕の尊さを人民に熱心に説いた伊耶那美命の遺志に反すると怒った小国・日本の軍王・伊耶那岐命(載斯烏越)は配下の日本兵を率い熊野の戦士たちの協力を得て、伊耶那美命を葬る陵墓(熊野本宮大社の旧社地・大斎原)から棺を奪うクーデターをおこし、倭の政府軍の大軍を罠(わな)にはめて現在の熊野速玉大社の境内となる地で倭の政府軍を撃破した。
 『古事記』編纂スタッフは皇室が崇拝する至上神の皇祖・天照大御神を黄泉国訪問説話でそのままの名で表記すると『古事記』の献呈が拒絶されて焚書(ふんしょ)される。それゆえ、編纂スタッフは敬愛する「伊耶那美命」を利用して〔天照大御神〕を「黄泉国の伊耶那美命」と解釈できるような技法を用いた。編纂スタッフは真実の歴史をなんとしても後世に残さんとして高度のテクニックの〔反実仮装(はんじつかそう)〕つまり〔事実でない表現で真実を伝える方法)〕を用いた。

 伊耶那岐命の第2后の天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は捕虜となり、伊耶那岐命が待機する速玉大社の南にある黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞ぐ千引(ちびき)の石(いわ)の前に連行された。この千引の石は現在の和歌山県新宮市磐盾(いわたて)町に所在する神倉神社の御神体であるごとびき岩である。
 千引の石の前で伊耶那岐命が離縁を言い渡すと、怒った天照大御神は「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしら・くび)り殺さむ」という祟(たた)りを誓った。この祟りの誓いは「伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重するあなたたちの人民の母親の産道(子宮頸部)が狭くなるように呪(のろ)って、必ず一日に千人の胎児の頭が狭い産道で絞められ殺すようにする」と意味した。
 ゆえに、伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋立てむ」と述べ、「吾は人民に亡き妻が提唱した〔愛〕の理念を尊重するように説き、必ず一日に千五百人の胎児が出産する政事(まつりごと)をおこなうことにする」と誓って、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の継続を誓った。

A図とB図の巨大な鳥の地上絵は、『古事記』に「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と反実仮装を用いて記述された歴史を正確に伝えるために作成されたのである。
 だから、B図が示すように伊耶那美命と伊耶那岐命を祭る多賀大社の西側に鳰の地上絵は作成され、多賀大社の祭神の伊耶那美命と伊耶那岐命は離婚せずに合祀され、千引の石が御神体となる神倉神社の主神・天照大御神について『熊野権現垂迹起(くまのごんげんすいじゃくき)』は速玉大社の主神の伊耶那岐命に離婚されたと伝える内容となっている。
 クーデターで奪還した伊耶那美命の亡骸が埋められた花の窟と同経度の沖島の東側に河口がある“愛を知る川”の愛知川をB図の彦根の鳰の地上絵の南の境界線とするのは、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話に登場する「黄泉国の伊耶那美命」は「伊耶那美命であらず天照大御神である」と伝えるためである。

◆E図に示すように、織田信長の居城であった安土城の北方に図B図の彦根の鳰の地上絵は作成された――これは、信長と家康が清洲同盟で“日本建国の〔愛〕の理念を復興するために、二人で天下を統一しよう”と誓いあった、この誓いをあらわして彦根の鳰の地上絵が設計されたと示すものだったのである。
 B図の彦根の鳰の地上絵の東のグニョグニョと蛇行する境界線上に記すAからaまでの曲線は、E図における信長の居城であった安土城の真西の近江八幡市の宮ヶ浜から日野川河口の鳰の海(琵琶湖)の湖岸の形を復元するものであり、aからCまでの曲線は彦根藩主・井伊氏の故郷であるA図の「卑弥呼」の地上絵が所在する浜名湖の北岸(大崎半島の先端から都田川の河口付近までの湖岸)の形を復元するものである。
 そして、〔Aからbまでの直線距離〕を〔宮ヶ浜から日野川河口までの湖岸の直線距離〕に見立てると、〔bからCまでの直線距離〕は〔浜名湖の北岸の大崎半島先端から都田川の河口の西隣まで直線距離〕に合致するように設計されている。
 ゆえに、〔Aからaまでの境界線・AからBまでの直線距離〕は〔織田信長〕、〔aからCまでの境界線・bからCまでの直線距離〕は〔井伊氏〕をあらわし、〔Aから北側の鳰の頭部の境界線〕は〔徳川家康〕をあらわす。(6月28日の前回(4回)のブログの末部で――徳川家康に生地の三河(愛知県東部)の「渥美半島はハジロカイツブリの美しい飾羽(かざりばね)がある顔と首、渥美半島より北側の三河の地図の形はハジロカイツブリの胴体の形に相似する」とあらわすものとなる。また、B図の彦根の鳰の地上絵の頭部はハジロカイツブリの頭部の形に相似するように設計される――と指摘した)
 このように、A図の「卑弥呼」の地上絵とB図の彦根の鳰の地上絵には●『魏志倭人伝』のすべての記事は正しく史実を伝える、●学者たちが〔文献批判〕を用いて排除した『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀の記述から歴史上の事実を科学的に客観的に解明できる方法が保存され――信長・家康が一生を賭けた心願と約1300年ものあいだ真実の歴史をまもった井伊氏の心願が設計されている。
 A図とB図の大鳥の地上によって「『魏志倭人伝』の記述はすべて正しく真実の歴史を伝える」ことが科学的に証明される。
ゆえに、来る7月下旬に発行される予定の朝日新聞出版の週刊誌『新発見 日本の歴史』8号の「邪馬台国は畿内説が最有力」とする意見の立論基盤となる〔文献批判〕の実体は〔誤読〕である。学者たちは古代史学における「先入観を排除して、文献史料を忠実に読解しなければならない」と定まる初歩的心得・原則を徹底的に無視し、〔誤読〕が実体であるウソ八百に〔文献批判〕という美名をつけるために国民はすっかり騙(だま)され、一点も〔誤読〕を加えなければ真実が明らかになることを後世に伝えるB図の彦根の鳰の地上絵に表示された織田信長と徳川家康と井伊氏の一生を賭けた心願を抹殺する。

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