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2013年6月 1日 (土)

卑弥呼の金印の隠し場所・6

  前回(2013年5月31日)のブログで解説したように、『魏志倭人伝』のすべての方位に関する記事は卑弥呼王朝が「日本列島の東方は南のほうに伸びる」と錯覚した転回日本列島地理を証言するものである。
 だから、歴史上に実在した錯覚の日本列島地理論であったことになる。
 この実在した錯覚の転回日本列島地理を、学者たちは“天の北極を基準にすれば、今日の日本地図が示すように日本列島は東に伸びると必ず考える。だから、『魏志倭人伝』の記事を絶対に忠実に読解してはならない。個々の記事に必ず批判を加えなければならない”と否定する。
 これゆえ、学界は卑弥呼が居住した王国の所在地を新井白石以来約280年も〔誤読〕を駆使して考えるゆえ、真実からほど遠い迷妄(めいもう)・虚偽から目覚めることができない。

 『魏志倭人伝』のすべての記事に学者たちの専売特許である「文献批判」という名の「誤読」を1ヵ所も加えないで、すべての記事を忠実に読解すると、個々の記事が互いに関連しあって合理が成立するようになり、さらに全体的にも合理で統一されるようになって、一点の矛盾点も不合理の点もなくなる。
 上記の『魏志倭人伝』に〔誤読=文献批判〕を1ヵ所も加えない定める方法で、1億2千万の人々が考えると、一点の矛盾点も不合理の点もなく全体的にも合理が成立する卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国は山陰出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆)に所在したことになり、その中心地は出雲(島根県東部)であったことになる。

 このように新井白石以来約280年間も、学者たちは〔誤読〕を駆使して、卑弥呼が居住した王国の名を勝手に「邪馬台国」と決め込み、荒唐無稽(こうとうむけい)の空理空論をデッチ上げていたことになる。
 この学者が主張する邪馬台国説が誤読の空理空論であることは、[玄]の字の秘密の一点に絞って考えると簡単に証明することができる。
 古代史学の最も権威ある歴史学者が“邪馬台国学説は誤読の空理空論でない”と擁護しても、[玄]の字の秘密の一点に絞ると邪馬台国学説が真っ赤なウソッパチであることは弁解ができない絶対的事実であることが明白となる。

 
 [玄]の字の上部の[亠(とう)]の下の[一]は「4~6秒間くらいでキャッチする天頂緯度線」をあらわし、[一と直角に交わる短い縦線]は「天頂緯度線上の天頂点と直角90度となる北または南の目星(銀河部位または恒星)を結ぶ子午線」をあらわす。
 だから、[玄]の字の[亠]は「天頂緯度線と子午線」をあらわす。

 [亠]の下の[幺(よう)]について字書の聖典『説文解字』は「小なり。子の初生の形に象(かたどる)」と解説する。
 この[幺]の字源解説は「最初の出産期となった小さな胎児を象る(図案する)」と説明するもので、言い換えると「子宮口が開いたときの出産最初(第1期・開口期)の胎児」を説明していることになる。
 つまり、[幺]の字源は「分娩が始まると、母体の子宮頸部(しきゅうけいぶ)の子宮口がすっかり開いたときの胎児」のことである。

 医術が未発達な古代においては、胎児が通過する子宮頸部の子宮口が狭いと胎児は頭は絞められて死産した。
 ゆえに、「子宮頸部の子宮口」は胎児にとって無事に誕生するか死産するかの運命が決定される“命の瀬戸際”であった。
 これゆえ、[亠]の下に[幺]が加わる[玄]の字は「子宮頸部の子宮口」をあらわした。
 大海を渡る人々は[亠]の「天頂緯度線と子午線」をキャッチすれば精密に緯度と子午線を測量できたので命を落とさずすんだ。
 しかし、「天頂緯度線と子午線」がキャッチできなければ海の藻屑(もくず)となって命が消滅した。
 したがって、大海を渡る人々にとって「天頂緯度線と子午線のキャッチするかキャッチできないか」は「頭が子宮頸部の子宮口を通過して誕生するか死産するかの胎児[幺]」と同じ運命の分かれ目の“命の瀬戸際”となった。
 この結果、「頭が狭い子宮口を通過する胎児の生死を分ける“命の瀬戸際”」と「大海を渡る人が天頂緯度線と子午線をキャッチできるかできないかで生死を分ける“命の瀬戸際」の両方は同義であると定められた。
 だから、大海を渡る人々が命を委(ゆだ)ねた[亠]の「天頂緯度線と子午線」と[幺]の「子宮頸部の子宮口を頭が通過する胎児」は合体して[玄]の字となり、[玄]は「天の北極の高度を緯度換算する方法よりも精密に測量できる[玄]のキャッチ」をあらわすこととなった。
 

 学者たちは、〔緯度と子午線の測定方法〕は――➀[玄]のキャッチと、➁天の北極の高度を緯度に換算する方法の――この二つの方法が存在することをまったく知らない。
 これゆえ、学者たちは緯度と方位を測量方法は➁天の北極を基準にする方法のみしか存在しないと断定して、『魏志倭人伝』が証言する卑弥呼王朝が「日本列島の東端は南に伸びるにちがいない」と制定した錯覚の転回日本列島地理を闇に葬って抹殺(まっさつ)する。
 言い換えると、卑弥呼王朝の政権基盤が〔[玄]のキャッチ〕であったことに気づかない学者たちは「卑弥呼王朝は➁天の北極を基準にすれば日本列島が東に伸びる事実を絶対に誤るはずがない。『魏志倭人伝』の方位記事は著者の陳寿(ちんじゅ)の誤った地理観である」と断定する。

 地図を開くと――日本列島の西端の大海原は[玄]の字が付く「玄海灘」であると表示されている。
 日本列島の西端となる玄海灘に浮かぶ〔沖ノ島〕と、日本列島の東端にある伊豆諸島の〔神津島(こうずしま)〕は同緯度(北緯34度15分)である。
 西端の沖ノ島は冬になると雪が降る。しかし、東端の亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。
 この気候区の様子を簡単に表現すると〔西冷東暖〕となる。
 中国の海岸線地域においては〔華北地方の気候は冷たく、華南地方の気候は暖かい〕ゆえ、〔北冷南暖〕と言うことになる。
 中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は〔冷〕で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は〔暖〕で合致する――ゆえに、卑弥呼王朝は〔中国海岸線の北と日本列島の西の沖ノ島の位置が合致し、中国海岸線の南と日本列島の東の神津島が合致する。だから、日本列島の東端は中国の海岸線地域の南の方に伸びるにちがいない〕と考えたのである。

 中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝は「紀元前3世紀、中国の方士の徐福一行は大海を渡って日本列島に到着して定住した。卑弥呼が生存した3世紀、徐福一行の子孫は数万家となって、卑弥呼が統治する倭国の隣の東鯷人(とうていじん)国に住んでいた。東鯷人の人民は定期的に中国海岸線の南の呉の会稽(かいけい)の港に到着して交易をしていた。しかし、中国の人々(魏・蜀・呉の人々)には東鯷人たちが往来する大海の道は遥か遠くまで続き途中で絶えてしまうので往来することができなかった」と記述して――天の北極の高度で緯度換算する航法では大海を往来できなかったが、[玄]をキャッチする航法ならば大海を往来することができたと証言する。
 中国では紀元前1世紀にシナ天文が完成した。
 シナ天文が完成しなかった紀元前3世紀の徐福一行や東鯷人がおこなった[玄]をキャッチする航法ならば大海を往来できた。
 しかし、3世紀になると中国では天の北極を最も重視するシナ天文が栄えて[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣が廃(すた)れたために、大海を往来することができなくなった。
 天の北極を羅針盤にする航法では、大海に入ると直ぐに位置(緯度)と方角(子午線)が皆目わからなくなって、命を失った――「天の北極では大海を渡ることができなかった」と証言する上記の『後漢書』倭伝の記述は科学的な絶対的な真実であったのである。

 3世紀、魏と魏の出張機関がある帯方郡(たいほうぐん)の使節は[玄]をキャッチできなかったので、玄海灘の大海原を渡ることができなかった。
 しかし、倭国においては〔[玄]をキャッチする能力〕が権力・富・名声を手に入れる方法であり、また〔[玄]のキャッチ〕が卑弥呼王朝の政権基盤であったので、倭国の使節や船乗りたちは[玄]をキャッチできる能力を有していたので玄海灘を往来することができた。
 だから、魏と倭は国交を結ぶことができて3世紀の日本列島の様子を記述した『魏志倭人伝』が280~289年に西晋の歴史編纂官であった陳寿によって著作されたのである。

 天の北極を羅針盤にして玄海灘を往来したと思い込む学者たちが主張する邪馬台国説だと――魏・帯方郡と倭の使節は玄海灘を往来することができなくなる。
 そうすると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになるので――約2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も書かれていなかった白紙であったことになる。
 このように、「玄海灘」の先頭字の〔[玄]の字〕の一点に絞って考えると、学者たちの邪馬台国説は支離滅裂(しりめつれつ)な空理空論であると断定できる。

 学者たちが“絶対に信用してはならない”と禁じる『魏志倭人伝』の方位を示すすべての記事は玄海灘を往来した航法の〔[玄]のキャッチ〕を証言するものであり、また卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理を証言するものであったのである。
 だから、上記に示したように『魏志倭人伝』は「倭女王の卑弥呼が居住した邪馬壱国は山陰出雲地方であり、邪馬壱国の中心は出雲(現在の島根県東部)であった」と明確に記載するものであったことになる。
 下の地図は出雲・現在の島根県東部の八束(やつか)郡島根町に所在する「加賀(かが)の潜戸(くけど)」である。

 加賀の潜戸には「旧潜戸」と「新潜戸」があるが、新潜戸に魏の景初2年(238年)の12月に魏の明帝が卑弥呼に授けると約束した「親魏倭王」の金印が隠されたと考えられる。
 加賀の新潜戸はいままで解説した〔[玄]のキャッチ〕の秘密を伝える地である。
 そして、加賀の新潜戸を舞台とする伝説において佐太大神(さだのおおかみ)を生んだ母神は加賀の潜戸であるにちがいないからである。
 加賀の潜戸から出産した「佐太大神」は「卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理の経度基準線」を表現するものであり、またその伝説は魏帝から授かった卑弥呼の金印の隠し場所を象徴と暗喩(あんゆ)で表現するものである可能性が大である。
 次回(7回)では加賀の新潜戸がなぜ卑弥呼の金印の隠し場所であると考えられるのかさらに深くほりさげ、8回では象徴と暗喩で表現される『出雲国風土記』に記載される「加賀の潜戸の新潜戸伝説」の秘密を解説しようと思う。
 

 

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