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2013年6月29日 (土)

日本が滅びる・6

もしも、新井白石(16571725)が古代史学の初歩的心得をまもって〔先入観をいっさい排除して、忠実に読解する方法〕をおこない――なぜ、実際と異なって『魏志倭人伝』は日本列島が南に伸びると説明するのであろうか? これら各部の記事は互いに矛盾せず相集まって一個の統一すなわち「日本列島は南に伸びる」という論理を完結して一ヵ所も理に反する記事が存在しないのはなにゆえであろうか――という疑問を提示していたならば、邪馬台国畿内説と同九州説は否定されて卑弥呼は山陰出雲に居住していたことになる。
 学者たちが主張する邪馬台国説の誤りは、約280年前の新井白石が取り入れた西欧近代の合理思考の〔傲慢の単純化〕という欠点から生まれた〔文献批判〕から始まる。
◆白石より後に生まれた伊能忠敬(17451818)は地球を球体として子午線の長さを決定して、正確な地図を作った。1809年に幕府に提出した地図には子午線が表示されている。
 この伊能忠敬が測量した子午線を注目すると――地図は〔天頂点と真北あるいは真南の目星(銀河部位または恒星)を結んで子午線をキャッチする方法〕で作成されることを知ることができる。
 
この地図の作成方法を学者たちが簡単にあらわす言葉や文字を辞典・字書で調べると、[]という漢字の1字であらわすことができることに気づく。
 []は「天頂点を通過する天体部位(銀河部位または恒星)46秒の軌道となる天頂緯度線と子午線のキャッチ」である(上記に「子午線」については説明した)
◆伊能忠敬の正確な地図の作成方法を注目しなくても、字書や辞典で[]の字の秘密を知ったならば、学者たちは『魏志倭人伝』が「南に伸びる」と説明するのは〔[]のキャッチ〕によって卑弥呼王朝が錯覚の地理を制定したことに気づくことができた。
◆下に示すD図の「玄海灘」の[]は要するに「天頂緯度線の測定と子午線のキャッチ」であり、この〔[]のキャッチ〕が原因して『魏志倭人伝』は「日本列島は南に伸びる」と説明するものである。
 このブログの627日の3回と628日の4回で説明したように――卑弥呼が生存した3世紀、〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕は権力と富と名声を手に入れる方法であったために、倭国では〔[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が栄えていた。
 〔[]のキャッチ〕によって、日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島が同緯度(北緯3415)であることは測量できた。西の沖ノ島では冬に雪が降るが、東の亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない。この気候区の様子を要約すると〔西冷東暖〕となる。
 中国の海岸線地域の華北地方は冷たい気候区であり、華南地方は暖かい気候区であるので、中国の海岸線地域の気候区の様子は〔北冷南暖〕となる。
 だから、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕が合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕が合致するので、D図に示すように卑弥呼王朝は「日本列島は中国の海岸線の南の方に伸びる」と錯覚したのである。
◆その証拠に、『魏志倭人伝』は「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」と記事がある。
 D図に示すように、卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理は『魏志倭人伝』の「当(まさ)に会稽・東治の東に在る」という記事に合致するが、実際の日本列島地図は会稽・東治の東北にあるので矛盾して不合理となる。
 『魏志倭人伝』が証言する卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理に則ると、卑弥呼が居住した王国は旧国出雲(現在の島根県東部)であったことになる。この転回日本列島地理・女王国出雲説は『魏志倭人伝』のすべての方位を示す記事と合理となって一点の矛盾点も一ヵ所の不合理も存在しないので、論理が完結して科学が成立する。
 『魏志倭人伝』が「卑弥呼以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩(直径約150m)。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記述する卑弥呼の墓は、島根県簸川郡大社町に所在する出雲大社の円墳の形となる裏山(八重山)の直径に合致し、出雲大社の境内は前方墳の形に相似する。ゆえに、出雲大社の裏山と境内は奴(18歳くらの青年)と婢(13歳くらいの乙女)を百余人も殺して埋めた徇葬儀式が憎悪されて破壊された卑弥呼の墓(前方後円墳)の跡地に出雲大社を建てて、後人が卑弥呼の墓であることに気づくようにしたものと考えられる。
7月の下旬に発刊されると予定される朝日新聞出版の週刊『新発見! 日本の歴史』の第8号「邪馬台国は畿内説が最有力」の場合、『日本書紀』崇神天皇紀が「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と明確に記す箸墓古墳(奈良県桜井市箸中に所在する)を卑弥呼の墓であると主張する意見が理由・根拠となろう。
 D図にて証明した南に伸びる転回日本列島地理にもとづくと、箸墓が在る畿内・大和を女王国と定めると『魏志倭人伝』が記載する方角記事に10以上の矛盾が生じる。こんな多数の記事が矛盾する科学に反する意見を根拠にして、『日本書紀』が「倭迹迹日百襲姫命の墓である」と明記する箸墓の記事を強引に卑弥呼の墓と曲解することは絶対にできない。
◆この「日本が滅びる」のブログの626日の2回~628日の5回までで解説・指摘したごとく、C図に示すように、A図の1千万坪の「卑弥呼」の地上絵はナスカの最大の鳥の地上絵よりもはるかに大きい。この巨大なA図の「卑弥呼」の地上絵とB図の3千万坪の彦根の鳰の地上絵は、「日本列島は東に伸びる」と察知できる〔天の北極〕を基準にする方法では絶対に作図することができない。A図とB図の巨大な大鳥の地上絵はただ一つ〔[]をキャッチする方法〕ならば作成することができる。
◆A図の「卑弥呼」の地上絵は『魏志倭人伝』と同じ3世紀後半に作成され、現在の静岡県浜松市北区細江町の行政区域をあらわす地図の形として現存する、『魏志倭人伝』・『古事記』上巻・『日本書紀』神代紀に記述された歴史が科学的に解明できる古代史跡である。
 A図の「卑弥呼」の地上絵は、A図下部の「龍潭寺」と記した土地・引佐(いなさ)町井伊谷(いいのや)に居住した井伊氏の子孫が守って保存した。
 井伊氏は徳川幕藩体制の譜代大名の筆頭につき、関ヶ原合戦の4ヵ月後の1601年正月、徳川家康の命令で現在の滋賀県彦根市に移住し、同市の行政区域を表示する地図の形として現存するB図に示す3千万坪に鳰の地上絵を1603年に着工し20年後の1622年に完成させた。この20年を費やして完成させた彦根の鳰の地上絵は、1562年1月に29歳の織田信長と21歳の徳川家康が清洲同盟を結んだときの“天下を統一して、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を復興しよう”と誓った約束をはたすものであった。これについては、このブログの628日の5回のブログで解説した。
◆『古事記』編纂スタッフは日本国誕生史の真相を後世に伝えると決死の覚悟で、彼等が敬愛する「伊耶那美命」の名を用いて、卑弥呼の墓を作った時と同じく多数の青年()と乙女()を殺して伊耶那美命の墓に葬る残虐な徇葬を決行した「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と解釈できる〔反実仮装〕(事実でない表現で真実を伝える技法)をもって、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話を著作した。
 徇葬を決行した天照大御神は皇室が崇拝する至上神の皇祖であったので、黄泉国訪問説話の企み(「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と解釈できるようにして、天照大御神の聖性をまもったとする企み)を元明天皇は認めず献呈を拒絶した。ゆえに、『古事記』は正史になれず反逆の史書という烙印がおされ、皇室は『古事記』を抹殺することに躍起となった。しかし、『古事記』は真実の歴史を記載するものであったので滅びなかった。
◆幾人かの学者たちが“卑弥呼の墓”と注目する箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲姫命は晩年の天照大御神であった。
 伊耶那美命に憧れて日本建国の〔愛〕の理念を復興に一生を賭けると決意する織田信長の天照大御神・倭迹迹日百襲姫命への憎しみは白熱化して狂気のごとくであった。
 清洲同盟から9年後の1571年、信長は比叡山を焼き打ちにして山上山下の僧侶から老若男女まで数千人を殺した。天台宗総本山の比叡山は「天照大御神は天台宗の本尊・大日如来である」という神仏習合をとなえて日本国誕生史の消滅をはかり、皇室から多大な庇護を受けて日本宗教界を君臨していた。ゆえに、伊耶那美命に熱烈に憧れる信長の“真実をまもるべき宗教が真実の歴史を葬って自らの利益を貪(むさぼ)る所業はあまりにも醜悪”と怒る怨念は凄(ささ)まじく、比叡山を容赦なく焼き打ちした。
 明智光秀は信長の命令にしたがって比叡山を焼き打ちした。その後、光秀は比叡山東方の坂本城(滋賀県大津市)を居城とした。ゆえに、光秀は日々坂本城から比叡山をながめて、なぜ信長の命令に反対して比叡山の焼き打ちを拒まなかったと後悔して、信長を次第に憎悪したために天正10年・158262日の未明、本能寺の変で光秀は信長を討ったのではないかと――私は考えた……
 ところが、611日に発刊された朝日新聞出版の『新発見! 日本の歴史』の創刊号の結論を要約すると――本能寺の変があった7日後の天正1069日付細川幽斎(ほそかわゆうさい)・忠興(ただおき)宛光秀自筆覚書(「細川家文書」)で光秀は本能寺の変が突然の思いつきであり、自分に野望がないと述べている。「近畿管領」として織田家臣団で一、二を争う地位にいた光秀は当時67歳、突然目の前にぶら下がった天下餅に思わず手を伸ばしてしまったのではないだろうか――となる。
 光秀に討たれたときの信長の最後の言葉は「是非に及ばず」であったと伝えられる。この言葉は「比叡山の焼き打ちを怨んで謀反をおこす光秀よ、自分だけが正義だと思うな! 吾とて、正義じゃ! 残虐非道な徇葬を決行した天照大御神の本来の姿は大日如来であったと戯言(ざれごと)をほざいて歴史の真実を葬らんとする比叡山に報復した吾もまた正義じゃ。これが正義でこれが正義では非ずと、どうして決めることができるのだ! 光秀よ」という思いを、信長は「是非に及ばず」という短い言葉で表現したのではなかろうか。
 信長は比叡山の焼き打ちを後悔して苦悩して光秀の謀反に理解を示したが、光秀は突然に天下を手に入れることができるチャンスが到来したと考えた思いつきで本能寺の変をおこしたということであろうか。
 しかし、家康はB図の彦根の鳰の地上絵を作成させて、信長は伊耶那美命に熱烈に憧れていたために比叡山を焼き打ちして本能寺で討たれたと後世に伝えるようにした。
 以上のごとく、朝日新聞出版『新発見! 日本の歴史』8号における「邪馬台国は畿内説が最有力」という意見は、比叡山の神仏習合説と同様の虚偽説であり、残虐非道な徇葬を決行した天照大御神・倭迹迹日百襲姫命の墓を卑弥呼の墓とこじつけて古代史出版界をリード君臨しようとする、日本人の命の根元を闇に葬り、日本国の尊厳を凌辱(りょうじょく)し、日本を滅ばさんとする悪魔のささやきであることは否定できない事実となる。

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