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2013年6月 6日 (木)

卑弥呼の金印の隠し場所・9

 学者たちの邪馬台国説の考え方に反旗をひるがえして、『魏志倭人伝』のすべての記事を忠実に読むと、日本列島地理の方角は時計の針の方向に90度ずつ転回して北→東・東→南・南→西・西→北となって、下にある上図のごとく九州が北となり、本州が南につらなる形となる。
 この日本列島の東端が南となる方位規定を立論基盤に定めると、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国の所在地が科学的に立証されて、真実の歴史を解明することができる。

 古代史学の初歩的心得・基礎原理は先人が作成した文献を忠実に読み正確に解釈することである。
 だから、〔『魏志倭人伝』を必ず忠実に読んではならない〕と定めて〔文献批判を加える考え方〕を正しいとする学者たちは、古代史学の初歩的心得・基礎原理をまったく知らない人々ということになる。
 
わが国の古代史学を除くすべての地球上における分野では初歩的心得・基礎原理を知らない人々を“ド素人”または“偽物”と蔑視して、彼らの意見や技術をわが国の邪馬台国説のごとく高く評価しない。

 過去に起きた出来事には、現代の学術や科学や思想や価値観ではかり知れない事実や事情が存在する。
 このような現代のわれわれの科学と学芸でははかりしれない科学(天文地理学)と学芸にもとづいた日本列島地理が、『魏志倭人伝』に記述されて残存したのである。
 この『魏志倭人伝』が証言する上記の90度方位が転回する日本列島地理は、738年の聖武(しょうむ)天皇の時世にシナ天文学が最も重視する天の北極を基準にして改定された。
 だから、邪馬台国説を主張する学者たちが“絶対に信用してはならない”と排除する転回日本列島地理は歴史上に実在した地理であり、この転回日本列島地理が実在した痕跡は現在でも明確に残っている。

 下にある上図に示した現在の日本列島地図の方位と90度転回する『魏志倭人伝』が「実在した」と証言する転回日本列島地理は――『魏志倭人伝』が「その国(倭国)では、もと男子を立てて王とした。七、八十年前に倭国は乱れ、何年ものあいだ国々は互いに攻めあった。そこで、一女子を立てて倭の最高位に即位させ、男王と女王が共に立つとする政権を創設した。この一女子の名は卑弥呼という」と記述する、わが国における最初の国家体制が女王卑弥呼と男王の共立政権によって起源することになった――大乱を鎮(しず)めることになったところの卑弥呼が立論した日本列島地理であった。
 当時において最も強力な権力・莫大な富・最高の名声を手に入れる方法となった学芸の体系は、下にある上図に示す「玄海灘」の〔[玄]をキャッチできる眼力と技(わざ)〕を基軸にして組織されるものであった。
 卑弥呼は最も強力な権力基盤となる学芸体系の基礎原理となる〔[玄]のキャッチ〕を用いて、転回日本列島を立論した。
 このため、〔[玄]のキャッチ〕を基軸とする学芸を修得した諸国の王や王女、氏族の長や妻、巫女や神官たちによって卑弥呼が立論した転回日本列島地理は戦争を止めなければ天と地の鬼神が神罰を下してすべてを破壊し尽くす大災害をもたらすと示していると解釈されたらしく、これゆえ倭の大乱は鎮まったようである。
 だから、転回日本列島地理を立論した卑弥呼は鬼道(鬼神の道)の学芸に最も精通する偉大な女性と尊敬されることになったので、倭国最高位の地位の女王に選ばれた。

 学者たちは〔日本列島の緯度と経度を測定する方法〕は日本列島が東に伸びていると察知できる〔天の北極を基準にする方法〕の一つしか存在しないと想定して立論する。
 しかし、〔日本列島の緯度と経度を測定する方法〕は2種類存在する。
 〔日本列島の緯度と経度を測定する方法〕は➀天の北極を基準にする方法の他に、➁4~6秒ぐらいで東から西へ平らな一直線となる天頂緯度線を測定し、天頂緯度線上にある天頂点と直角90度の方向にある北または南の目星(銀河部位や恒星)を結ぶ子午線をキャッチする方法がある。
 この➁の「天頂緯度線と子午線をキャッチする方法」は[玄]と呼ばれた。ゆえに、➁の方法を〔[玄]をキャッチする方法〕と名づける。

 ➀〔天の北極を基準にする方法〕は天の北極の高度を緯度換算する方法であるが、この方法は不精確であったので、大海に入ると直ぐに緯度と経度が皆目わからなくなって海の藻屑(もくず)となって落命し、家族が待つ家に帰ることができなかった。
 したがって、紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したため、魏と魏の出張機関の政庁がある帯方郡(たいほうぐん)の使節は〔天の北極を基準にする方法〕で下にある上図の玄海灘を渡ることができなかった。
 ➁の〔[玄]をキャッチする方法〕ならば精密に緯度と子午線が測量できたので、倭の使節と船乗りは玄海灘を往来できて魏と倭は国交を結ぶことができたので、『魏志倭人伝』はすべて事実を伝える史料となったのである。
 学者たちの“天の北極を基準にすれば日本列島地理が南に伸びるはずがない”という主張にもとづくと倭の使節は玄海灘を渡ることができなかったことになるので、魏と倭は国交を結ぶことができなかったことになる。ということは、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていないかった白紙ということになる。
 だから、「玄海等」の[玄]の1字に絞って考えると、邪馬台国学説が誤読の産物、妄想であることが簡単明瞭にわかる。

 下にある上図が示すように、日本列島の西端にある玄海灘に浮かぶ〔沖ノ島〕と、日本列島の東端にある伊豆諸島の〔神津島(こうずしま)は、〔[玄]をキャッチする方法〕ならば同緯度(北緯34度15分)であると測量できる。
 西端の沖ノ島は冬になると雪が降るが、東端の亜熱帯地区の神津島は冬になっても雪が降らない――この気候区の様子は、下の上図に示したように、〔西冷東暖〕となる。
 中国の海岸線地域においては〔華北地方の気候は冷たく、華南地方の気候は暖かい〕ので――〔北冷南暖〕となる。
 中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕は〔冷〕で合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕は〔暖〕の気候で合致するので――下にある上図に示したように、九州は北に・本州は南へ伸びると立論されたのである。

 『魏志倭人伝』には「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)の東に在るべし」という記述があり、下の上図に示すように転回日本列島地理の場合は中国海岸線地域の会稽と東治の東に日本列島が存在する。しかし、現在の日本地図は会稽と東治の東北にあって矛盾する。

 『魏志倭人伝』は「女王国(邪馬壱国)の東、海を渡ること千余里にして復(ま)た国有り。皆倭種なり」という記事がある。
 転回日本列島地理の方位は〔北→東〕と定めるゆえ、下の下図にある出雲(現在の島根県東部)の加賀(かか)の潜戸(くけど)より北方40kmの日本海上に浮かぶ島々の〔隠岐群島〕が「皆倭種なり」と記述された小国となる。
 隠岐群島は知夫里島(ちぶりじま)・西ノ島・中ノ島からなる島前(どうぜん)と、その東北にある最も大きな島の島後(どうご)の4つの大島と約180の小島から構成されるので、この状況を一言で表現すると「皆」となる。だから、「皆倭種なり」と記述された小国は隠岐群島であったことになる。
 したがって、転回日本列島地理において出雲の東の海上には隠岐群島が所在するので、出雲こそが卑弥呼が居住した女王国の邪馬壱国であったことになる。

 下にある下図の「加賀の新潜戸」は卑弥呼王朝の政権基盤となった[玄]の字を示す聖域となる。
 「東戸から西戸の洞窟と北戸の洞窟」は[玄]の上部[亠(とう)]の字形と同じ形となる。
 前回(8回)の6月4日のブログで紹介したように、加賀の新潜戸伝説は「佐太大神(さだのおおかみ)が誕生した地である」と語るものであるから、〔加賀の新潜戸〕を〔女性の生殖器(子宮・産道や骨盤など)〕に見立てて、〔佐太大神〕は〔子宮口がすっかり開いて(全開大)して頭が産道を通過する胎児〕に見立てられたことになる。
 [玄]の下は[幺(よう)]であり、字書の聖典『説文解字』は[幺]の字源を「小なり。子の初生の形に象(かたど)る」と解説し、[幺]の字源は「胎児の頭が子宮頸(けい)部の狭い子宮口を通過する胎児」となる。
 [幺]の中国の周代に用いられた金文の字形は「小さな糸たばの形」に図案されるが、この図案は「小さい糸たばのように小さく狭い子宮口を胎児の頭が糸たばのようになって螺旋状(らせんじょう)に潜って誕生する」と表現するものであると考えられる――これゆえ、[糸]の字は[幺]の下に[小]が加わることになったのである。
 以上のごとく、「加賀の新潜戸」は卑弥呼が提唱した転回日本列島地理の立論基盤の〔[玄]のキャッチ〕の字源を表示する聖域となる。

 下にある下図に示すように、加賀の新潜戸の西戸の西南に馬島と桂島がある。
 新潜戸の西戸と馬島を結ぶ西南へと伸びる延長線は、出雲の佐太神社(島根県八束郡鹿島町)に到達する。
 佐太神社と四国の足摺岬は東経133度で同経度である。
 『角川日本地名大辞典』(角川書店・1982年発行)は――足摺岬は最初「佐太岬」であったが「蹉跎岬(さだみさき)」となり、その後「足摺岬」となった――と説明する。
 ゆえに、佐太神社と佐太岬を結ぶ東経133度は、卑弥呼が立論した転回日本列島地理の経度基準線であったことになる。
 卑弥呼が居住した王国の名「邪馬壱国」の[邪]の字義は「斜(なな)め」、[壱]の字義は「一」である。
 下にある下図に示す「新潜戸の西戸と馬島を結ぶ線」は[邪]の字義「斜め」に合致し、「馬島」は[馬]の字をあらわし、転回日本列島地理における「佐太神社と佐太岬(足摺岬)を結ぶ東経133度線は」は[一]の字形となるので[壱]を表示する。だから、「邪馬壱」となる。
 なお、[壱]の正字[壹]の下の[豆]は[頭]の原字で「狭い子宮口を螺旋状に潜る胎児の頭」をあらわし、[壹]の上の字部は〔壺(つぼ)〕に見立てた「子宮」である。だから、「加賀の新潜戸」は[壹]となるので、「佐太神社と佐太岬の東経133度線」もまた[壹]となる。

 以上からして、加賀の新潜戸は卑弥呼が居住した王国の「邪馬壱」という名を表示する。この加賀の新潜戸の洞内に入ってすぐ左上にある白木の鳥居がある所は「佐太大神が生まれた誕生岩」と伝わる。
 ということは、この鳥居の北の奥のどこかの岩、あるいは母神が箭(や)を射った洞窟の奥からだと「左」となる鳥居の南側となるどこかの岩の下に、魏の明帝から卑弥呼に与えられた金印は隠されたのではあるまいか。

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