« 卑弥呼の金印の隠し場所・12 | トップページ | 卑弥呼の金印の隠し場所・14 »

2013年6月19日 (水)

卑弥呼の金印の隠し場所・13

●転回日本列島地理の真実

 日本列島は東へ伸びる。
 しかし『魏志倭人伝』は最も多い記事をもって「日本列島は南に伸びる」と説明する。
 この『魏志倭人伝』が説明する転回日本列島地理は卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理であった。
 卑弥呼王朝は〔天の北極〕を基準とする天文地理学が確立されていなかった。だから、日本列島は東に伸びると断定することができなかった。
 卑弥呼が統治する倭国においては原始以来の〔[玄]のキャッチ〕が栄えていた。
 この〔[玄]のキャッチ〕を詳しく説明すると〔4~6秒ぐらいの寸秒で測定する天頂緯度とこの天頂緯度線上の天頂点と90度の方角にある北の目星を結ぶ子午線のキャッチ〕ということになる。

 〔天の北極の高度を緯度に換算する方法〕は精密に測量できない。
 他方、〔[玄]をキャッチする方法〕は精密に緯度と子午線を測量できる。

 日本列島の西端に所在する沖ノ島と日本列島の東端にある伊豆諸島の神津島は北緯34度15分で同緯度である。
 沖ノ島と神津島が同緯度であることは、精密に緯度を測量する〔[玄]をキャッチする方法〕ならば測量できる。
 日本列島の西端の玄海灘に浮かぶ沖ノ島は冬に雪が降るが、日本列島の東端にある亜熱帯地区の神津島は冬に雪が降らない――ゆえに、この日本列島の気候区の様子を一言で表現すると〔西冷東暖〕となる。
 中国における華北地方の海岸線地域の気候は冷たく、華南地方の海岸線地域の気候は暖かいので、中国の海岸線地域は〔北冷南暖〕となる。
 これゆえ、卑弥呼王朝では〔中国の北冷と日本列島の西冷が合致する。中国の南暖と日本列島の東暖が合致する〕ので、「日本列島は[暖]の気候で一致する中国の海岸線地域の南のほうに伸びているにちがいない」と、錯覚の日本列島地理を制定したのである。

◆〔天の北極〕の高度で緯度換算する方法は不精確であるため、大海に入った途端、緯度と方角が不明となるため、人々は家族が待つ家に帰還できず落命した。ゆえに、紀元前1世紀に〔天の北極〕をもっとも重視するシナ天文が完成したため、旧来の〔[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕が廃絶された魏と帯方郡の使節は玄海灘を渡ることができず日本列島に到着できなかった。
◆卑弥呼が統治する倭国では、〔[玄]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が存続して栄えていたので、倭の使節が〔[玄]をキャッチする方法ならば往来できる灘〕という名の「玄海灘」を渡って帯方郡政庁や魏都に到着できた。だから、倭と魏は国交を結ぶことができて、『魏志倭人伝』が著作されることになった。
◆学者たちは〔天の北極を基準にすれば、日本列島は東に伸びると断定できる。これゆえ、「日本列島は南に伸びる」と説明する『魏志倭人伝』の転回日本列島地理を全面的に否定せよ〕と立論基盤を定める。このように新井白石以来の学者たちの邪馬台国研究は――魏・帯方郡と同様に倭の使節もまた〔[玄]をキャッチする方法ならば往来できる灘〕であった玄海灘を渡ることができなかったことになる。ゆえに、学者たちの邪馬台国説は魏と倭は国交を結ぶことができなくなかったことになるので、『魏志倭人伝』は著作されず、約2000字で構成される『魏志倭人伝』には1字も文字が記されていなかった白紙であったことになる。
◆したがって、「玄海灘」の[玄]の字の秘密である〔[玄]のキャッチ〕に論点を絞って考えると、学者たちの邪馬台国説は〔誤読〕の空理空論であることが決定的となる。

●夏音文字の真実

 6月18日の12回のブログで解説したように、今から約4050年前の中国の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に、わが国に原初漢字の夏音文字が伝来していた。
 今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた倉頡(そうきつ)は“漢字の始祖”と崇拝された。
 漢字の始祖・倉頡は自らが考案した漢字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れることができる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学芸を習得して革命に利用したならば王朝に容易に滅亡するにちがいないと考えて、下記に示す3つの掟を破った人物には神罰が下って即座に死刑に処せられると定めた。
◆倉頡が死刑と定めた3つの掟
(1) 文字が〔銀河各部の形状(天頂を通過する秋の銀河の西部から夏の銀河までの各部の形状)〕から創られたことを暴露した者
(2) 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3) 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者また消し忘れた者も即座に死刑とする 

 この〔倉頡が死刑と定めた3つの掟〕は厳重に守られて、今から約5000年前から約4080年前までの五帝時代の遺跡から、また今から約4080年前から約3600年前までの夏代の遺跡から、また今から約3600年前から約3300年前の殷代前半の遺跡から、学者たちが「文字」と定義した図書や記号は現在まで一点も出土していない。
 上記の(3)の掟は、今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字によって破られた。しかし、甲骨文字は(1)と(2)の掟については厳重にまもった。ゆえに、(1)の掟によって「漢字は銀河から創られた秘密」は現在においても解明されず、(2)の掟によって銀河各部の名称は存在しない。
 日本列島に夏音文字が伝来したのは殷代後半の甲骨文字の出現より約750年前のことであったので、わが国の遺跡から夏音文字が現在まで一点も出土していない。
 しかし、「夏音文字」は「銀河各部の形状」として実在した文字であったから、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」はじめとする人名と小国名を表記して現存し、『古事記』上巻の随所に[音]という注が付く1字1音読みの夏音文字が多数記載されて現存する。

 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作して『字統』(平凡社)の9頁から10頁の初頭は〔わが国の漢字音〕と題してカールグレーンから始まった西欧の言語学・音韻学が漢字の字音にも適用することができると証明され、この方法が急速に進展して「そしてその結果、わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった」と指摘する。
 「卑弥呼」を「ヒミコ」と読む字音は中国の上古音・甲骨文字の字音よりも古い。
 というのも、甲骨文字が出現した時よりも約750年前に日本列島に伝来した夏代初頭の漢字音だったからである。
 したがって、“夏音文字はわが国に絶対に伝来していない”という意見を有する学者はじめ研究家たちが「卑弥呼」を「ヒミコ」と読むと、自らの意見や意思に反して「夏音文字は実在した」と断定すると同じことになる。

 夏音文字について、『魏志倭人伝』は「倭の易卜の卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法のごとく」と記述する。この「令亀の法のごとく」という語句は「中国の殷代の亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のような文字があった」となるので、夏音文字は確かにわが国に実在した文字であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「倭女王卑弥呼が書いた文書に用いる文字は魏の都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書と差錯(ささく・相違)していたので、倭の伊都(いと)国の港で点検して確認していた」と記述し、「倭の伊都国の港では夏音文字を楷書に変換することができた」と証言する。
 魏都・帯方郡・諸韓国が用いた楷書は短時間で筆記することができるようになった点が革命的であった。しかし、楷書もまた夏音文字と同じく「銀河各部の形状に類似するように図案する」と定めた倉頡が発明した漢字作成原理を厳守する漢字であった。
 したがって、「楷書の字形」からその字の字源となる「銀河部」が察知できた。
 このため、伊都国の港では〔文字が創られた銀河全範囲〕を字書・辞典のごとくにあつかって、卑弥呼が書いた夏音文字をを魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に正しく変換していたことになる。
 楷書は倉頡が定めた上記の(3)の掟〔用済みになった文字は必ず消さなくてはならない〕を守らなくてもよい文字であった。
 ゆえに、夏音文字は『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に楷書で表記されて残存した。
 以上のごとく、学者たちが否定して排除する『魏志倭人伝』の「倭には文字(夏音文字)があった」という記述も真実であったと証明することができる。

 ●夏音文字の学芸体系は、初頭にて説明した〔[玄]のキャッチ〕を基軸にして組織されるものであった。
 したがって、学者たちは――「(1)日本列島は南に伸びる、(2)倭には文字があった」と伝える『魏志倭人伝』の記事は絶対に信用してはならない――と禁止して排除するが、〔[玄]のキャッチ〕によって(1)の記事群も(2)の記事群も真実を伝えるものであることが科学的に証明される。
◆学者たちは「(1)日本列島は南に伸びる、(2)倭には文字があった」という二つの記事群を全面的に否定し徹底的に排除する立論方法は「文献批判」と名づけられる。
〔[玄]のキャッチ〕の一点に絞って考えれば、「文献批判」の正体は「誤読」であることが明確となる。

◆上記にて説明したように、卑弥呼王朝は中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕と日本列島の〔西冷東暖〕の合理を成立させて、錯覚の転回日本列島地理を制定した。この転回日本列島地理にもとづくと、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国の中心部は旧国・出雲、現在の島根県東部であったことになる。
◆卑弥呼が生存した時代、中国と日本列島の天頂に、下にあるA図の「鹿の横顔に似る銀河」がめぐってきた。
◆B図の「加賀(かか)の新潜戸(しんくけど)」は卑弥呼が居住した邪馬壱国・島根県東部の八束(やつか)郡島根町に所在する。
 B図の加賀の新潜戸が所在する半島は、A図の「鹿の横顔に似る銀河」と同じく「鹿の横顔に似る形をした半島」となる。
 A図の銀河の〔北〕→B図の半島の〔東〕、A図の銀河の〔南〕→B図の〔西〕となる。
 〔[玄]のキャッチ〕に則る『魏志倭人伝』の転回日本列島地理は〔北→東・東→南・南→西・西→北〕と時計回りに90度転回すると定められるゆえ、A図→B図の相関転回方位は『魏志倭人伝』の転回日本列島地理に合致する
 だから、加賀の新潜戸は〔転回日本列島地理の経度と緯度の秘密をあらわす子午儀〕の役目をはたした聖地となる。
◆C図の糸島半島もB図と同じく、A図の「鹿の横顔に似る銀河」の形をした半島である。
 『日本書紀』は「糸島半島」は「伊都県(いとのあがた)」であったと記載するので、『魏志倭人伝』が「卑弥呼が書いた文書の夏音文字を伊都国の港で魏都・帯方郡・諸韓国が用いる楷書に変換していた」と記述する、伊都国は伊都県であった糸島半島となる。
 C図に示す糸島半島の西海岸が、卑弥呼の文書の夏音文字を楷書に変換していた伊都国の港(津)であったにちがいない――というのも、C図の西海岸はA図に示す「鹿の横顔に似る銀河の鼻の先端」にある美しい2.6等の巨星の白鳥座ε星の位置に合致し、B図の鹿の横顔の形をした半島の鼻の先端となる新潜戸にも合致するからである。
◆C図の〔芥屋(けや)ノ大門(おおと)〕は玄海灘に突出する糸島半島の西海岸の最北端にある。花崗岩を通して噴出した玄武岩の柱状節理で、高さ約64mにも及ぶ。この玄武岩の柱状節理の芥屋ノ大門は「転回日本列島地理」を象徴する「地の鬼神の柱」にふさわしい。
  そして、芥屋ノ大門の北面には高さ10mの海食洞が口を開き、波の静かな日には遊覧船が洞窟内に入れる。したがって、伊都国の港の最北端にある〔[玄]のキャッチ〕の秘密を現在に伝える玄海灘へ突出する芥屋ノ大門の洞窟はB図の加賀の新潜戸の洞窟と共通する。
◆伊都国・糸島半島が面する博多湾の東の対岸の志賀島(しかのしま)から、中国の正史『後漢書』倭伝が「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、奉貢朝賀(ほうこうちょうが)す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜(たま)うに印授をもってす」と記述する、後漢の光武帝が与えた「漢委奴国王」と字を刻む金印が出土した。
◆以上からして、A図の天の巨星・白鳥座ε星の位置に呼応する、B図の地の加賀の新潜の西戸周辺の窟内に、『魏志倭人伝』が「魏の明帝が倭女王・卑弥呼に与えた」と書く「親魏倭王」の金印が隠されたと考えられる。

Image_3

|

« 卑弥呼の金印の隠し場所・12 | トップページ | 卑弥呼の金印の隠し場所・14 »

学問・資格」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

卑弥呼」カテゴリの記事

邪馬台国」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

漢字の起源」カテゴリの記事

ヒエログリフ(聖刻文字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 卑弥呼の金印の隠し場所・13:

« 卑弥呼の金印の隠し場所・12 | トップページ | 卑弥呼の金印の隠し場所・14 »