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2013年7月10日 (水)

日本が滅びる・11

◆7月8日のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・10」では――(1)日本列島の西端の玄海灘に浮かぶ沖ノ島と同緯度(北緯3415)の東端の伊豆諸島の神津島の気候区の〔西冷東暖〕と中国海岸線地域の華北地方と華南地方の気候区の〔北冷南暖〕を適合する地理観、(2)「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」に描かれる転回日本地図、(3)末盧(まつろ)国に比定される松浦地方や彼杵地方に現存する「東松浦」「北松浦」「西松浦」と「東彼杵」「西彼杵」という方位名を冠する地名、(4)『筑後国風土記』に記載される岩戸山古墳の「南北各六十丈、東西各四十丈」という記事は――『魏志倭人伝』が最も多くの記事で「日本列島は南に伸びる」と説明することが歴史的事実である、つまりこれらの4つの事柄が確かな証拠となって卑弥呼王朝は転回日本列島地理を制定した史実をつきとめた。
 だから、学者たちは“日本列島は南に伸びる誤った地理は、絶対に信用してはならない”と主張して、この歴史的事実である転回日本列島地理を排除・無視して加える〔文献批判〕の実体は〔誤読〕であったのである。
◆今回は、『魏志倭人伝』に記載される●「対馬国」と「一大国」の字源となる銀河と●末盧国から不弥(ふみ)国までの転回方位を基に考えて――卑弥呼が居住した王国・邪馬壱(やまい)国は前回同様に山陰出雲地方であった、すなわち『魏志倭人伝』の全方位記事が一点の矛盾点も存在せずに合理で統合されて【科学】が成立する証明をおこなうことにする。


75日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」において――今から約4050年前にわが国に伝来した夏音文字も3世紀に中国で用いられた楷書も「秋の銀河(の西部)と夏の銀河」から作られたと指摘し、この銀河全域の写真と銀河各部の名称を8回の末部に掲載した。

今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝につかえた史官にして“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)は自らが考案した漢字が最も強大な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学識を手に入れて革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと考えた。ゆえに倉頡は下に列記する3つの掟を破った人物は神罰が下って即刻に死刑に処せられると定めた。
●倉頡が死刑と定めた3つの掟
 
(1) 「秋の銀河(の西部)と夏の銀河」から文字が作られたことを暴露した者
(2)
 文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者
(3)
 書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者
 
 上記の(3)の掟は、今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に出現した甲骨文字によっ
て破られた。しかし、甲骨文字は(1)(2)の掟は厳重に守った。だから、(1)の掟によって「文字は銀河から作られた」ことが現在においても解明されない。(2)の掟によって銀河各部の名称は現在においても存在しない。ゆえに、これから登場する銀河各部の名称はわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」における資料Bの銀河各部にもとづく。だから、銀河各部の名称は、天文学で定まっている名称ではなく、私が定めた名称である。
 
 『魏志倭人伝』の人名・小国名に用いられ『古事記』上巻の随所に〔注〕が付く1字1音読みで現存する夏音文字は甲骨文字より約750年前の原初漢字であった。だから、夏音文字は(1)(2)はもちろん(3)の掟をも厳重に守ったために、中国でも日本でも遺跡から出土しない文字となった。なお、これからは「甲骨文字」を「契文(けいぶん)」と表記する。
 

◆前回同様に、A図は卑弥呼が居住した王国・邪馬壱国までの旅程図である。

邪馬台国畿内説と九州説はじめ私もまた、「対馬国」はB図に示す「現在の長崎県北部の上県(かみあがた)郡と下県(しもあがた)郡からなる対馬」と考える。
 『魏志倭人伝』は「倭には馬は無し(生息していなかった)」と記述し、C図に示すように[馬]の契文形は「十字の銀河」を「フタコブラクダ」に見立てて図案する――ブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」の左上にある「十字の銀河」は、五帝時代・夏代・殷代・周代・紀元前3世紀の秦代(しんだい)まで、中国と日本の天頂を通過した。D図に示す〔胎児の頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)〕における「子宮の形」は「フタコブラクダのフタコブの形」に似ていると見立てられて、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を象徴する聖なる獣となった。『魏志倭人伝』には対馬国より「南の一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰()う」と記述があり、この「瀚海」は「ゴビ砂漠」を意味する。“砂漠の船”といわれた家畜のフタコブラクダは瀚海・ゴビ砂漠を往来した。B図の「上県郡」を「フタコブラクダの正面形」に類似し、「下県郡」は「ゴビ砂漠を歩くに都合よくできているフタコブラクダの足の形や足跡」に類似する。わが国にはフタコブラクダが生息していなかったゆえ、[]の字源はC図に示すように「フタコブラクダ」であって「ウマ」ではなかった。
◆E図に示すように、倉頡は五帝時代に天頂を通過した「十字の銀河」が〔女体のように乳房に似る箇所〕を有し、〔南の乳房〕の部分は「女性の子宮・産道・骨盤からなる生殖器」に見立てることができるので、「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」から作られるすべての文字は「十字の銀河の生殖器」から生まれると考えた――E図の「十字の銀河」の乳房と重なる肉眼で見える明るい散開星団の「M39」と「生殖器」(鳥獣の足跡)に見立てる銀河部は「鳥や小鳥()の形」に観え、C図に示す「フタコブラクダ」の聖獣、E図に示す「十字の銀河」は「東に向かって歩く人の姿」にも観えるので「足跡」を連想して、倉頡が発明した漢字作成原理は「鳥獣の足跡」と呼ばれるようになったのである。
◆E図の「十字の銀河」は五帝時代から秦代まで中国の〔天頂〕にめぐってきたので、[]の字源・字形・字義・字音をあらわした。ゆえに、字源を解説する字書の聖典『説文解字(せつもんかいじ)』は[]の字源を「至高にして上なし。一大に従う」と解説する。「至高にして上なし」は「それ以上に高い箇所が存在しない最も高い箇所」と意味する。ゆえに、「天頂」は〔天頂より高い天体部が無い、最も高い天体部〕であるので、[]の字義は「天頂」となった。「一大に従う」という字源解説のごとく[]の下に[]の字を加えると[]の字となる。
 F図に示すように、現在の長崎県の北部の対馬の南に所在する「壱岐」が「一大国」となる。F図に示す壱岐の180度転回して南を上・北を下にすると、壱岐の地宜(ちぎ・平面的に図化した地図の形)[]字形のごとくになり、E図に示す「十字の銀河の生殖器」(私が「鳥獣の足跡」と名づけた銀河部)[][]の字源・字形・字義となった。ゆえに、「壱岐」の小国名はその地宜の形にもとづいて「一大国」となった。
◆A図では一大国の南に末盧国が在るように図示したが、実際には『魏志倭人伝』は「又、一海を渡る千余里」と記して、一大国・壱岐から末盧国までの方位を記さない。『古事記』では「末羅県(まつらのあがた)」とあり、この末羅県は現在の長崎県松浦市、佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)町や鎭西(ちんざい)町、唐津市の地域であったと伝わる。ゆえに末羅県が末盧国であったと考えられるので、末盧国の旅程基点は玄海灘に面する現在の長崎県松浦市か佐賀県唐津市であったと思われる。というのも、『魏志倭人伝』は「末盧国の東南五百里、伊都(いと)国に至る」と記述する通り、転回方位に則ると松浦市・唐津市の東南に『日本書紀』に記載される伊都県(いとのあがた)に比定される地域が所在するからである。
◆『日本書紀』に登場する伊都県は現在の福岡県糸島郡前原町、二丈町などに比定されるので、G図に示す福岡県の「糸島半島」が「伊都国」であったにちがいない。
 『魏志倭人伝』は「伊都国から東南百里行くと奴()国に至り、奴国から東へ百里行くと不弥(ふみ)国に至る」と記述する。『日本書紀』には儺()国が登場し、儺国は現在の福岡市にあったと考えられている。ゆえに、糸島半島の付け根にある福岡県糸島郡前原町が伊都国の旅程基点、転回方位にもとづくと前原町の東南にある福岡市が奴国の旅程基点、奴国・福岡市から転回方位の東となる宗像市玄海町が不弥国の旅程基点であったと考えられる。というのも、前原町から福岡市と福岡市から宗像市まではほぼ同距離となり、『魏志倭人伝』は伊都国から奴国までと奴国から不弥国までは共に「百里」であったからである。
◆H図に示すように、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱国の中心は現在の島根県東部の出雲であったことになる。
 『魏志倭人伝』は「不弥国の南の投馬(つま)国には水行で二十日、投馬国の南の邪馬壱国は女王の都(みやこ)する所であり、水行十日・陸行一月である」と記述する。この記事にある「水行二十日」の旅程距離は「G図に示す宗像大社辺津宮が所在する不弥国・宗像市玄海町からI図の宗像大社沖津宮がある沖ノ島を経て、投馬国・現在の山口県萩市の北西沖の孤島の見島(みしま)に立ち寄り、見島から山口県萩市の港(萩港)まで」であったと考えられる。次の「水
行十日」の距離は「萩港から島根県益田(ますだ)市まで」の距離、「陸行一月」の距離は「益田市から島根県松江市」までであったと考えられる。(この日数は、5世紀の裴松之(はいしょうし)が加えた注の〔二倍暦〕によるもので、「水行二十日」は現在の「水行十日」、「水行十日」は「水行五日」、「陸行一月」は「陸行半月」であったと考えられる)
[]の字義は「ななめ」である。H図に示すように、「神門水海(かんどのみずうみ)」の地宜は〔緯度軸・経度軸に対して(ななめ)、また(フタコブラクダ)の姿に類似する形〕をしているゆえ[][]となる。古代の宍道湖は〔右足の形〕に似ていた。ゆえに、「宍道湖」はE図に示す[]の字源となった「十字の銀河の生殖器(鳥獣の足跡)が重なる右足」に見立てられた。H図に示すように、「宍道湖の東部(現在方位)」は[]の字源を示す地域となった。だから、卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱国」となったのである。
 H図に示すように、出雲大社(島根県簸川郡大社町)の隣には[][]となった神門水海があり、佐太神社(島根県八束郡鹿島町)の隣は[]となる「十字の銀河の生殖器」に相当する「宍道湖南部」(転回方位、現在方位だと「東部」となる)であった。
 旧暦の十月は神無月(かんなづき)という。これは全国の神々が出雲に集まるからだといい、出雲では神在月(かみありづき)と呼ぶ。参集した諸国の神々を祀る祭りを、かつて出雲大社と佐太神社は張りあった。現在は新暦の1120日~25日まで、神々が佐太神社の神在社に滞在される。この佐太神社の祭りは「神在祭」と呼ばれる。
 「出雲」は卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心部であり、出雲神社の隣に[][]の神門水海があり、佐太神社の隣の宍道湖の地域は[]の字源・字義に相当した。この歴史の秘密を現在に伝えるのが佐太神社の神在祭であるにちがいない。
 このように、『魏志倭人伝』が「日本列島は南に伸びる」という説明を忠実に読解すると、卑弥呼が居住した王国・邪馬壱国は出雲(現在の島根県東部)であったことになる。
 I図に示す「転回日本列島地理論・邪馬壱国出雲地方説」は『魏志倭人伝』の全方位記事において一点の矛盾点も不合理な点も存在せず、全方位記事に対して合理が成立して【科学】の定義に合致する。したがって、学者たちが“絶対に信用してはならない。史実を伝えるものでは無い”と断定して、『魏志倭人伝』に加えるすべての〔文献批判〕の実体は〔誤読〕であったのである。
 だから、現在の日本列島地図を立論基盤として「奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓である」と考える邪馬台国畿内説はじめ邪馬台国九州説もまた〔誤読〕の空論・100パーセントのウソ八百であったことになる。
 

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