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2013年7月13日 (土)

日本が滅びる・13

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◆“わが国が漢字を始めて習得したのは、56世紀である”という――この定説は『隋書』倭国伝の「文字無し」というインパクトの強い語句を歴史学者・古代史研究家・歴史愛好家たちがが真っ先に想起して早合点(はやがてん)したところの〔誤読〕の空論であったのである。

  『隋書』倭国伝の「無文字」の3字の真意は後ろに続く文章をキチット読むと「仏教の経典に用いられる楷書が無し」であって、倭の使節は隋王朝に『魏志倭人伝』に記述された「夏音文字や魏に用いられていた楷書が有る」と報告していたことになる。
 だから、学界が定める漢字習得説は根底から成立しない〔誤読〕の空論となる。
 
◆『隋書』倭国伝の「無文字唯刻木結縄敬仏法於百済求得仏経始有文字知卜筮尤信巫覡」の29字を書き下すと、「文字無し、唯(ただ)刻木(こくぼく)・結縄(けつじょう)のみ、仏法を敬い、百済(くだら)に於いて仏経を求得し、始めて文字有り。卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もっと)も巫覡(ふげき)を信ず」となる。
 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』は――“漢字の始祖”と崇拝された聖人・倉頡(そうきつ)は三皇時代の結縄に代えて書契を考案した――と伝える。この倉頡が考案した「書契」は「木に文字を刻む」と意味することになるので、遣隋使は「木に文字を刻む」を略して「刻木」と称したのである。つまり、「刻木」は「書契」の別称であった。
 ゆえに、A図には五帝時代の漢字を「書契(刻木)」と記した。
 上記の『隋書』倭国伝の29字で構成される文章の全体論的にとらえて整合すると「わが国には、仏教の経典に用いられる文字(楷書)は無い。ただ五帝時代に考案された刻木と三皇時代の結縄が有るのみ。仏教を敬うようになり、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入し、始めて仏教の経典に用いられる文字を有することになった。中国の卜筮(易卜)を知るため隋で完成した楷書を習得するために、巫女と覡(かんなぎ・神官)が刻木(夏音文字)3世紀の魏に用いられた楷書の知識を基にして仏教の経典に用いられた楷書を解読した。これゆえ、仏教の経典に用いられた楷書を解読した偉業を成し遂げた巫女と神官たちは、倭国では最も信用されて尊敬された」と現代語訳しなければならないことになる。
◆前回の712日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・12」で指摘したように――倉頡は天頂を通過した女体に相似して子宮部を有する銀河すなわち「十字の銀河」を〔銀河各部の形状を万物の情(イメージ)に類似するように作った文字が生まれる母体〕に見立てる漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。前回のF図に示したように、三皇(包犧氏・女媧氏・神農氏)の本拠地となった半坡(はんぱ)・姜寨(きょうさい)・柳湾(りゅうわん)3集落の天頂には「十字の銀河の頭部」がめぐってきた。この「十字の銀河の頭部」の形状は、このブログのB図に示すように「縄を四つの輪の形」(B図の「年輪」と記した部分は三皇集落の天頂であったゆえ、「輪」の形に数える)に観えるということで、三皇時代の易に用いられた記号(陶文)は「結縄」と名づけられた。前回のブログのG図で示したように、五帝時代初頭の黄帝の遠征軍は揚子江付近まで遠征したので、黄帝の本拠地(黄帝陵)から揚子江までの各地の天頂には、このブログのB図における「十字の銀河の頭部より南となる身体部となる銀河」がめぐってきたことになる。だから、このブログのB図に示すように、「十字の銀河」を〔木・(切り株)〕に見立てて、倉頡が考案した原初漢字は“木に文字を刻む”から中国では「書契」、わが国では「刻木」と称されることとなったのである。
 「刻木」という名の由来となった「十字の銀河」は、このブログのA図に示す秦代まで、中国の首都の天頂をめぐってきた。だから、「夏代の夏音文字・殷代の契文(甲骨文字)・周代の金文と大篆・秦代の小篆・隷書」も「刻木」であったことになる。ゆえに、遣隋使は『魏志倭人伝』の人名と小国名となった「夏音文字」を「刻木」と呼称したのである。
◆『魏志倭人伝』の人名・小国名に用いられる全ての文字の字源・字形・字義は、このブログのC図に示す銀河範囲の各部の形状から成立するものであった。だから、『魏志倭人伝』が明確に示すように、「倭には文字があった」ことになる。
 倉頡はD図に示す[]の字源・字形・字義となった「十字の銀河の子宮」を「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状に類似するように作ったすべての文字が生まれる子宮」と定めた。
 そして、E図に示すように、「十字の銀河」は[]の字源・字形・字義となり、C図における「鬼の姿に似る銀河」が[]の字源・字形・字義となった。だから、すでに五帝時代初頭に「文字」という語や名称は確立されており、今から約4050年前の夏代初頭にわが国に伝来した夏音文字においても「文字」は確立されていたことになる。
 これゆえ、7世紀初頭の遣隋使が述べた「文字無し」は「仏教の経典に用いられる、隋王朝が完成させた楷書は無い」と意味するものであったことになる。
 われわれは隋代の仏教の経典に用いられる漢字を「楷書」と呼ぶが、当時の遣隋使は仏教の経典に用いられる文字を何と呼ぶべきかわからなかったゆえ、「文字」という通称を用いたのである。29字からなる文章全体を考えれば「文字無し」は「仏教の経典に用いられる文字すなわち隋代の楷書は無い」と意味することになる。だから、『魏志倭人伝』と『古事記』上巻に夏代初頭に伝来した夏音文字=刻木が存在したので、『隋書』倭国伝の「無文字」から始まる29字の文は「倭には文字有り」と伝えるものであったことになる。
◆仏教の経典には画数が多い難解な楷書が次から次へと並び、この楷書で綴る文は深い思想・哲理をも含むものであるゆえ、定説のごとく文字素養がまったく無い巫女と神官たちが解読することは絶対に不可能である。その証拠に、漢字をまったく知らない外国の大学生たちを一堂に集めて仏教の経典の楷書を解読する実験を行えば、彼等はまったく解読することができないにちがいないので、「文字無し」を「倭には漢字の学識が無かった」という解釈は事実を誤認するものであることが証明される。
 『魏志倭人伝』は「卑弥呼が文書に書く夏音文字を、倭の伊都国の港では魏都、帯方郡、諸韓国が用いる楷書に正しく変換できた」と記述するゆえ、巫女と神官たちは夏音文字と3世紀の楷書の知識を用いて、難解きわまりない仏教の経典に用いられていた7世紀初頭の楷書を解読したのである。
 すべての漢字が作られた銀河の全範囲となる「秋の銀河と夏の銀河」は、75日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」の末部に掲載した。7世紀初頭の隋代に完成した楷書は当時において最も進化した漢字であったが、そのすべての楷書の字源・字形・字義は「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」から成立するものであったから、巫女と神官たちは仏教の経典に用いられる楷書の全字解読に成功したのである。
◆「無文字」から始まる29字で構成される文の後に、『隋書』倭国伝には――大業三年(607年・推古天皇十五年)、(中略)、使者を使わして朝貢す。使者いわく「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興(おこ)すと。(中略)」。その国書にいわく「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」。帝(隋の煬帝・ようだい)は、これを覧()て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい・現在の外相)にいっていわく「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり、また以て聞くなかれ」と。明年、上、文林郎(ぶんりんろう)の裴清(はいせい)を遣わして倭国に使せしむ――と記述する文章がある。
 この文中にある「天子」という語の「天」の字源・字形・字義は倉頡が〔全ての漢字を生む母体〕と定めた「十字の銀河」であり、[]の字源・字形・字義はE図に示す「鬼の横顔に似る銀河・鬼の身に相当する銀河(C図に示す「鬼の姿に似る銀河」)」である。
 G図の左上に示す「三つ輪の銀河」は上記の文中にある「日出ずる処」の語源である。[]の金文は――「十字の銀河」を先ず〔垂直に木の柱〕に見立て、「日輪の銀河」を〔木の柱に背後に隠れる、正午に南中する太陽〕に見立てる。さらに〔右手に持つ聿(いつ・筆)で日々の正午の南中高度を記録する様子〕をデザインする[][](「日輪の銀河」の図案)が加わって――形成される。だから、「日輪の銀河」の東にある「三つ輪の銀河」は「朝に出ずる日(太陽)」をあらわすことになる。「三の輪の銀河」は「夏至、春分と秋分、冬至の地平線から出ずる日の方角」を表示し、また「三つ輪の銀河」は「海の水」のイメージに合致するので[]の字源・字形・字義となった。
 そして、G図に示す「日輪の銀河」の西にある円形の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔夕日〕に見立てられて[]の字源・字形・字義となった。また、「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔上弦の月、下弦の月、満月〕に見立てられて、[]の字源・字形・字義となった。「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔渦巻き〕に観えるので、H図の[][]の篆文(てんぶん)上部の[渦巻き]に図案された。したがって、G図に示すように「日没する処」の語源は「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」であった。
◆煬帝は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文章を、仏教の考えにもとづき「日出ずる処の天子が書を死歿する処の天子に届けます」と誤訳したのに気づいた。煬帝は暴君で名高いが、若い時に学業に励み学力にすぐれていた。彼はみずからが早合点したことに気づき、「日没する処」と「歿する処」の意味はまったく違うと解釈できたのである。倭の国書は中国の上古の文字学識に則って「中国の天子より下位の日出ずる処の大王が、書を日没する上位の海西の菩薩天子に届けます」と表現するものであった。
 C図に示す東の「十字の銀河」は〔黄帝〕に見立てられて[]の字(字源・字形・字義)となり、西の「鬼の姿に似る銀河」は〔倉頡が跪(ひざまず)いて黄帝を敬う〕に観えるので[]の字となった。ゆえに、〔東の日出ずる処の倭の天子(推古天皇)〕が〔黄帝〕に見立てられ、〔西の日没する処の隋の煬帝〕が〔倉頡〕に見立てられるため、〔煬帝〕のほうが〔下位の天子〕に解釈できる。しかし、この《「十字の銀河」は〔上位〕・「鬼の姿に似る銀河」を〔下位〕》とする解釈は[][]の字源・字形・字義となった。この[][]の字源を倭王朝は知っているにちがいなく、倭と隋は大海で隔てられるために倭の国書は「海西の菩薩天子」と表現して「大海より西の隋の煬帝のほうが東の推古天皇よりも上位である」と明確に示す。
 さらにI図に示すように、「倭の国書」をあらわす[]の金文形上部は東の「十字の銀河」を図案するであるゆえ「日出ずる処の推古天皇」をあらわし、[]の金文形下部の西の[]は「長方形の暗黒天体部」をデザインするものゆえ「日没する処の煬帝」をあらわした。I図の「鬼の姿に似る銀河」は〔東向き〕となるゆえ〔中国大陸を西から東に向かって水が流れる黄河と長江〕(C図参照)に見立てられて「地法」をあらわした。この「地法」となる「鬼の横顔に似る銀河」の南に隣接してG図「日輪の銀河」の西に隣接する「流れる水のごとき銀河」は〔西向き〕であるので〔東の地平線から昇って西の地平線へと向かって移動して没する銀河〕に見立てられた。この〔西向き〕の「銀河」をあらわす銀河のほうが上位で、〔東向き〕の「地法」をあらわす銀河のほうが下位と定められていた。したがって、I図における「流れる水のごとき銀河」に見立てられる「煬帝」のほうが上位で、「地法」に見立てられる「書を書く、鬼の姿に似る銀河」に見立てられる推古天皇のほうが下位となる。このように考えることができる文字学識が深い煬帝は「日没する処」と早呑みこみした「歿する」は意味がまったく違う、倭の国書は礼節に徹する深い学識にもとづく文章を書くものであり、倭には原初漢字の刻木(夏音文字)があることに気づいた。
 だから、翌年に隋の使者として文林郎・裴清を倭国に派遣したのである。

以上のごとく、『隋書』倭国伝の「無文字」から始める29字からなる記事は「倭には文字が有った」と証言するものであるゆえ、「文字無し」を「倭には文字が無かった」と解釈する現代語訳は誤っている。ということは、「文字無し」という記事は学界が「わが国が最初に漢字を習得したのは5世紀あるいは6世紀である」と断定する漢字習得説を真っ向から否定するゆえ、定説は29字からなる文章を〔誤読〕する空論であったことになる。

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