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2013年7月14日 (日)

日本が滅びる・14

◆前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・13」にて指摘したように、『隋書』倭国伝の「文字無し。ただ刻木・結縄のみ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。卜筮(ぼくぜい)を知り、もっとも巫覡(ふげき)を信ず」という記事を全体的に考えると――この文中にある「文字」は「仏教の経典に用いられた楷書」であったことになる。だから、上記の書き下し文は「倭には仏教の経典に用いられる楷書は無い。ただ、刻木すなわち五帝時代の書契と夏代初頭の夏音文字と三皇時代の結縄が存在する。仏教を敬い、朝鮮半島の百済から仏教の経典を輸入し、始めて仏経に使用される楷書を有することができた。中国の卜筮(易卜)を知ろうとした巫女と覡(かんなぎ・神官)たちが仏経に用いられる最新の文字・隋代に完成した楷書を解読した。この偉業によって倭国では彼等を最も信頼して尊敬している」と現代語訳すべきことになる。したがって、「文字無し」という3字の文は「倭には文字があった」と意味するものとなる。
 というのも、「文字無し」の文の後に――大業三年(607年、推古天皇15)(中略)、使者を遣わして朝賀す。使者いわく「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。(中略)」。その国書にいわく「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。云々」。帝(隋の煬帝・ようだい)は、これを覧()て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい・現在の外相)にいっていわく「蛮夷の書、無礼なる者あり、また以て聞するなかれ」と。明年、上、文林郎の裴清(はいせい)を遣わして倭国に使せしむ――という記事が存在するからである。
 隋の煬帝は早合点して「日没する処」という語を「歿する」と誤訳した。しかし、彼は若い時に学業に励み文字知識が深かった。ゆえに、煬帝は隋の楷書の字形は今から約5000年前に生存した“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕に則って〔秋の銀河と夏の銀河(わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・8」末部に掲載)の各部の形状を類似するように図案する文字〕であることを知っていた。煬帝は楷書の字形が作られた銀河の形状を仰ぎ見て、「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す」と書く倭の国書の文は「中国の天子より下位の日出ずる処の大王(推古天皇)が、書を日没する上位の天子(煬帝)に送り届けます」と意味することに気づき、「日没する処」とみずからが早合点した「歿する」の両者は同意ではなくまったくの反対語であると確信した。
 楷書は隋代において完成した。この隋の楷書は倉頡が考案した刻木と変わらず、〔秋の銀河と夏の銀河各部の形状に類似するように図案された文字〕であった。今日のわが国の当用漢字の字形は、隋の楷書の字形をわずかに変えてそのまま受け継ぐような文字である。だから、当用漢字は〔秋の銀河と夏の銀河各部の形状を図案する文字である〕と言える。
 
◆『魏志倭人伝』は「倭の易卜における卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」と記述し、「倭には令亀の法の如き、つまり殷代の亀の甲羅に刻む契文(甲骨文字)の如き文字が存在した」と証言する。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――702年に派遣された遣唐使が「後稍(のちやや)夏音(かおん)を習う」と中国王朝に伝えた――という文があり、『魏志倭人伝』に「令亀の法の如き」と記載される文字は今から約4080年前から始まる夏代に用いられた夏音文字であった。この夏音文字は『魏志倭人伝』の卑弥呼はじめとする人名・小国名として残存する。
 『魏志倭人伝』が著作されたと同時代の3世紀後半に作成された、現在の静岡県浜松市北区の細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する1千万坪の大鳥の地上絵は夏音文字が伝来したと科学的に証明できる史跡である。この大鳥の地上絵を、私は“「卑弥呼」の地上絵”を名づけた。「卑弥呼」の地上絵は、「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の1(625)7(7月3日)のA図に示した。
 『魏志倭人伝』に記載される夏音文字と「卑弥呼」の地上絵によって、倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の全貌が科学的に解明され、また倉頡は――(1)秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から文字が作られたことを暴露する者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者――には神罰が下って即刻死刑に処せられると3つの掟を定めたことが解明される。ゆえに、(3)の掟によって『魏志倭人伝』の人名・小国名として現存する夏音文字はわが国の史跡からも、中国の史跡からも出土しない。
 『魏志倭人伝』には――卑弥呼が書く文書の夏音文字を、倭の伊都(いと)国の港において魏の都・魏の出張機関がある朝鮮半島の一角の帯方郡・諸韓国で用いる楷書(隷書に近い弥完成の楷書)に正しく変換できた――と証言する記述がある。前述した隋の煬帝と同じく、楷書と夏音文字となった秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を観察したゆえ、伊都国の港において夏音文字を魏の楷書に変換できた。だから、学界の「わが国が最初に漢字を習得したのは、5世紀あるいは6世紀である」という定説は〔誤読〕の空論だったのである。

 

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76日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・9」のブログに記載したように――20095月、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)がA図に示す奈良県桜井市に所在する箸墓(はしはか)古墳が築造された時期の土器とされている「布留0式」を放射性炭素年代測定すると240260年と算出された。この240260年は『魏志倭人伝』の「卑弥呼は240年ころに死去した」という記述と重なるので、にわかにA図に示す奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国であるとする意見が脚光を浴び、ある新聞社は“邪馬台国説の真打ち!”などと持ち上げ、朝日新聞社は「邪馬台国は畿内説が最有力」と太鼓判を押す。

しかし、時を同じくして200964日に釈放された菅家利和さんが真犯人とされた1990年に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された「足利事件」を基に考えると、朝日新聞社の箸墓卑弥呼陵説・邪馬台国纏向遺跡説は、菅家さんが無罪を主張する言よりもDNA型鑑定を優先・重視して冤罪(えんざい)事件をデッチあげた栃木県警が犯した冤罪事件と同じことになる。というのも、朝日新聞は菅家さんが釈放された22日後の626日のメディア衆論「科学報道を科学的に検証する」という特集で足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】とを同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括したからである。
 朝日新聞の“放射性炭素年代測定によって箸墓は卑弥呼の墓であると考えられる。ゆえに、邪馬台国は纏向遺跡であったにちがいない”という意見は、〔科学的手法〕と【科学】を同一視した思い込みによるものであると断定できる。
◆『魏志倭人伝』は卑弥呼が旧住した王国の名を「邪馬壱国(やまいこく)」と記載して、一ヵ所も「邪馬台国」と表記しない。『魏志倭人伝』はB図に示すように〔邪馬壱国までの旅程〕の方位・距離を記載する。
●1億2千万人が先入観を一切排除して、『魏志倭人伝』が記述する〔邪馬壱国まで旅程記事〕を忠実に読解して一点の矛盾点も不合理な点も存在しない邪馬壱国を求めると、1億2千万人全員はB図に示したごとく邪馬壱国は出雲地方であったと答えることになる。この邪馬壱国出雲地方説は【科学】が成立する意見となる。なぜならばB図の邪馬壱国出雲地方説は、新村出編『広辞苑』(岩波書店)の【科学】の「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」の説明に合致するからである。他方、邪馬台国畿内説は全面的に合理とならないため【科学】が成立しない。●『魏志倭人伝』の「女王国より以北は、その戸数・道里は略載を得べきも、その余の旁国(ぼうこく)は遠絶にして詳を得べからず」という記述はB図における「北の旁国」が合理となるゆえ、邪馬壱国出雲地方説は【科学】が成立する。しかし、この記述に邪馬台国畿内説は合致する地域が存在しないゆえ【科学】が成立しない。●『魏志』倭人伝は「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国有り。皆倭種なり」と記述するように、B図における邪馬壱国より東の海上に所在する隠岐群島が合致するゆえ【科学】が成立する。しかし、この記述に合致する群島や諸島が存在しない邪馬台国畿内説は【科学】が成立しない。●『魏志倭人伝』は「その道里を計るに当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」と日本列島の位置を記述するとおりに、C図に示すように邪馬壱国出雲地方説の立論基盤とする転回日本列島地理は東に位置するゆえ【科学】が成立する。一方、邪馬台国畿内説は会稽・東治の東北に所在する今日の東に伸びる実際の日本列島地図を立論基盤とするゆえ【科学】が成立しない。●邪馬台国畿内説は〔天の北極〕を基準にすれば卑弥呼王朝は“日本列島は東に伸びている”と断定するゆえ、『魏志倭人伝』の“「日本列島は南に伸びる」という記事は、絶対に正しいと信用してはならない”と主張する。しかし、627日の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・3」のブログで指摘したように、〔天の北極〕を基準にする方法で立論すると、紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したためにC図に示す玄海灘を渡ることができなくなった魏と帯方郡の使節と同じく倭の使節も渡ることが出来なかったことになる。そうすると、魏と倭は国交を結ぶことが出来なかったことになり、魏と倭が国交を結ぶことができたからこそ著作された約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。このように、邪馬台国畿内説は【科学】がまったく成立しない空論である。
 卑弥呼王朝の権力基盤は倭の使節が玄海灘を往来した〔精密に緯度と子午線を測量できる[]をキャッチする方法〕であったので、錯覚の転回日本列島地理を制定した。朝日新聞が推奨する邪馬台国説畿内説は“【科学】が成立する”と錯覚するものであるからして、卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理も邪馬台国畿内説同様に錯覚の産物であったことになる。だから、『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理は歴史上に実在した地理観であったことになる。
◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼すでに死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記述する。卑弥呼の墓()の円墳の直径は「百余歩」つまり「約150メートル」であったので、邪馬台国説纏向遺跡説は円墳の直径が157メートルの箸墓古墳を卑弥呼の墓と考える。しかし、邪馬台国纏向遺跡説の実体は『魏志倭人伝』の記述にことごとく矛盾して【科学】がまったく成立しない。
 一方、『魏志倭人伝』の記述に一点の矛盾点も不合理な点が存在せずに【科学】が成立する邪馬壱国出雲地方説の中心地である出雲(現在の島根県東部)には出雲大社が所在する。E図は、㈶日本地図センターが撮影した出雲大社の航空写真にトレーシングペーパー(複写するための用紙)を載せて精密に写して図化したものである。
 私は現地に行って実際に目撃したが、F図に示すように出雲大社の裏山(八重山)は円墳の形に適合し、地図で調べると裏山の直径は『魏志倭人伝』の「径百余歩」に合致して約150メートルぐらいである。さらに、現在の出雲大社の境内は前方後円墳における前方墳の形に相似するゆえ、破壊された卑弥呼の墓の前方墳部の跡地に出雲大社が築造されたと考えられる。

 中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝の「倭国みずからその名の雅(みやび)やかならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」という記述と『新唐書』日本伝の「倭の名を悪み、あらためて日本と号す」という記述は、「多数の奴婢を殺して女王の墓に埋める倭国が決行した徇葬を憎悪した」と示唆するものとなる。これゆえ、卑弥呼の墓は出雲大社のごとく徇葬を憎悪する人々によって破壊された可能性は大となる。したがって、破壊された痕跡がまったく無い箸墓古墳は、卑弥呼の墓であるはずがない。さらに、『日本書紀』崇神天皇紀は「天皇の姑(おば)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と明確に記す。
 まったく【科学】に反する〔誤読〕を駆使して立論する箸墓卑弥呼説は『日本書紀』の記述を真っ向から否定する、あるいは〔卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であった〕と証明するつもりかもしれないが――【科学】がまったく成立しない箸墓卑弥呼陵説・邪馬台国纏向遺跡説が史実である可能性は限りなくゼロに近いというよりも、まさしくゼロであると断定すべきことになる。

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