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2013年7月25日 (木)

日本が滅びる・18

◆中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝には――702年に中国にわたった遣唐使が「倭国みずからその名の雅やかならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」と中国王朝に報告した――という記述がある。また、正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝にも――遣唐使が「倭の名を悪み、あらためて日本と号す」と中国王朝に報告した――という記述がある。このような遣唐使の言は「3世紀後半に卑弥呼と伊耶那美命が死去したときに、倭国がおこなった徇葬(じゅんそう)を人民が憎悪した。これゆえ、人民は〈倭〉から〈日本〉へ国号の改変を要求した」と伝えるものであったのである。

 

◆前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・17」で解説したように、『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓に殺されて葬られた百余人の徇葬者たちを「奴婢(ぬひ)」と記す。他方、「後稍夏音を習う」と報告した702年に日本国初の遣唐使が中国に渡った10年後の712年に完成した『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話においては、伊耶那美命が死去したときの徇葬の犠牲者は「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」と記載された。この「奴婢」と「八の雷神」はともに「18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち」であった。
◆『古事記』が作成された702年~712年当時、皇室と律令体制は伊耶那美命が死去したときに徇葬を決行した天照大御神を崇拝して、皇室の至上神・皇祖と定めた。というのも、3世紀後半に生存した天照大御神は権力の強大化をはかって大和朝廷の基礎を築いたからである。したがって『古事記』が作成された8世紀初頭、天照大御神の聖性は絶対に汚してはならないと禁止され、ましてや天照大御神が伊耶那美命の遺志を無視して残虐な徇葬を決行したという歴史を伝えることは厳重に禁止されていた。
 ところが、『古事記』編纂スタッフは、皇祖天照大御神が徇葬を陣頭指揮行した歴史を後世に伝えようとした――そのため、編纂スタッフは「天照大御神」が「黄泉国の伊耶那美命」と解釈できる〔反実仮装(はんじつかそう)〕すなわち〔皇室の欲求とおりに、事実に反する記述をしたかのようにカムフラージュして真実の歴史を伝える〕という方法を用いた。編纂スタッフが熱烈に憧れる伊耶那美命を皇室は敵視し憎悪していた。そこで、「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」のごとく解釈できるようにすれば、皇室の欲求すなわち“天照大御神が徇葬をおこなった歴史はじめ天照大御神の聖性を汚す事績のいっさいを削除して、夏音文字を稍々(少し)記載して天照大御神が夏音文字の学芸に精通した聡明で偉大であったことが察知できる歴史書を作成せよ”という欲求にかなうことになろうと考えた。この〔反実仮装〕の方法が成功すれば、天皇献呈が承認されて『古事記』は正史になり、後世に天照大御神が徇葬を決行した歴史を伝えることができると彼等は企んだ――しかし、元明天皇は編纂スタッフの企みに気づいて直ちに『古事記』献呈を拒否した。その後『古事記』は“反逆の史書”の烙印を押されて代々の天皇は抹殺をはかったが、編纂スタッフの熱き情念で作成された真実の歴史を伝える『古事記』は滅びずに現存することとなった。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・16」で解説したように、「伊耶那岐命」はのちの第9代「開化天皇」にして『魏志倭人伝』に記載される夏音名「載斯烏越(そしあお)」であり、小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった。
 「伊耶那美命」は開化天皇の正妃の『魏志倭人伝伊』に記載される伊耶(いや)国・丹波出身の「竹野比売」で、『魏志倭人伝』末部に記載される夏音名は「壱与(いよ)」である。伊耶那美命・竹野比売・壱与は『魏志倭人伝』末部で記載するように「13歳のときに卑弥呼の宗女(卑弥呼が率いる巫女界を代表する女性)」となって小国・日本の女王となった。わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「9・日本建国の〔愛〕の理念」で説明するように、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定め、人民に〔愛〕を最も大切にして尊重するように熱心に説いた。
 開化天皇の第ニ后にして崇神(すじん)天皇の生母である「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」が伊耶那美命の没後に倭女王に就任した「天照大御神」である。天照大御神・伊迦賀色許売命は“国家は強大な権力によってのみ栄える”と考え、伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念は〔強大な権力国家を否定して弱体化させる〕と敵視して憎悪した。

◆伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「黄泉国の伊耶那美命」を「天照大御神」と改め、必要な事柄を補足し所々を省略して現代語訳すると下記のごとくになる。
伊耶那岐命の黄泉国訪問説話
 
 日本国の軍王・伊耶那岐命は、天照大御神(伊迦賀色許売命)の徇葬儀式を憎悪してクーデターを決意した。というのも、天照大御神は伊耶那美命の徇葬廃止の遺志を無視して残虐野蛮な徇葬を決行し、A図に示す黄泉国・大斎原(おおゆのはら・和歌山県東牟婁郡本宮町に所在する熊野本宮大社の旧社地)に伊耶那美命の陵墓を築造する事業を陣頭指揮していたからである。伊耶那岐命は数人の日本軍の兵士を率いて大斎原に到着すると、天照大御神が大斎原の入口で迎えた。伊耶那岐命が「吾が汝を助けておこなう国作りは何も着手されていない。この事業を指揮するのを止めて二人で国作りに努力しよう」と言うと、天照大御神は「あなたが早くここにいらっしゃらないゆえ、この事業を陣頭指揮することになって完成間近となりました。でも、あなたがここにいらっしゃったことはもったいないですから、国作りに努めようと思いますが、この事業を行う王たちと相談し説得して許可を得ることにします。それまでの間、陵墓の中に侵入することは絶対にしないと約束してください」と言って、王たちが集合する宮殿へ向かい天照大御神は姿を消した。伊耶那岐命たちは陵墓の入口に設置される湯津々間櫛(ゆつつまぐし・多数の松明を一つに束ねて火を燃やす大きな燈火台)から一本ずつ松明(たいまつ)を引き抜いて、暗い陵墓の羨道(せんどう)を進み伊耶那美命の亡骸が納まる棺がある玄室に入った。すると、無残な姿となった18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たちの徇葬者たち(八の雷神)の死体から無数の蛆(うじ)が湧きあふれ出て伊耶那美命の棺に群がっていた。この多数の若者と乙女たちの醜い姿に肝(きも)をつぶし、陵墓の外へ逃げ出して奪った伊耶那美命の棺を神輿(みこし)にして担いで逃げ出す伊耶那岐命一行を、もどってきた天照大御神がいち早く発見して「よくも私に恥をかかせましたネ」と怒り、「予母都志許売(よもつしこめ)」という名の陵墓を守る守衛たちに伊耶那岐命一行の追跡を命じた。この守衛たちは事前に用意していた作戦どおりに撒()くことができた。しかし、天照大御神は伊耶那美命の墓を守るために集結した「千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)」つまり「倭の大軍」にも伊耶那岐命一行の追跡を命令していた。伊耶那岐命一行は燃えさかる松明をかざして、A図に示す旧社地(大斎原)から現在の熊野速玉大社の境内・黄泉比良坂(よもつひらさかの)の坂本(現在の和歌山県新宮市新宮)まで、鬱蒼(うっそう)と樹木が繁る真っ暗闇の熊野路を割()いて逃走した。日本兵たちは伊耶那美命の棺を担いで逃走するものであったから、棺を担ぐ日本兵たちが転ばないように、他の日本兵たちが松明で明々と夜道を照らすことになった。この松明の灯には倭の大軍を桃の子三箇(みみつ・日本軍の兵士たちと熊野に住む戦士たち)の本隊が待機する熊野速玉大社の境内へと誘導して有利に戦う罠というもう一つの役割があった。この松明の罠にはまって速玉大社の境内に誘導された倭の大軍は伊耶那岐命の作線と指揮のもとに戦う桃の子三箇に撃破されて逃げ帰った。
 この勝利の後、伊耶那岐命は(1)熊野路を逃走した部隊・(2)速玉大社の境内で待機した日本軍・(3)熊野の戦士たちの3隊で構成される桃の子三箇を集めて「おまえたちは、吾を助けたように、葦原中国(あしはらのなかつくに)のすべての命ある青人草(あおひとくさ・人民)が苦しい目にあって憂え悩んでいる時に助けるがよい」と述べて、彼等に「意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)」という称号を与えた。

 このようにクーデターは成功したが――驚いたことに、女のかよわい足で真っ暗闇の熊野路の長い距離を天照大御神が追跡してきた。彼女は捕えられて、黄泉比良坂(現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の参道)を上って神倉山へ通ずる道を行き止まりして塞(ふさ)ぐ千人の人間が綱をかけてようやく動くほどの巨大な千引(ちびき)の石(いわ)の前に連行された。
 伊耶那岐命が天照大御神と対面して夫婦離縁の言を告げると、これに怒った天照大御神は「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭(ちがしら)(くび)り殺さむ」つまり「あなたの国の人民の母親の産道が狭くなるように呪って、この狭い産道で一日に千人ずつの胎児を絞め殺す」と言って誓った。
 伊耶那岐命は「汝然為(いまししかせ)ば、吾(あれ)一日に千五百の産屋立てむ」つまり「お前がそのように祟(たた)ると言うならば、吾は一日に必ず千五百の産屋が立つように、人民に伊耶那美命が提唱した〔愛〕を最も尊重するように日々説いて、男女が愛し合って子どもを愛しむ育てることを目標とする国作りに情熱をそそぐ」と高らかに宣誓した。
 これゆえ、その「黄泉国の伊耶那美命」を名づけて「黄泉津(よもつ)大神」という。また伊耶那岐命一行を追いついたことで「黄泉国の伊耶那美命」は「道敷(ちしきの)大神」とも名づけられたという。また、神倉神社の参道・黄泉比良坂を塞いだ千引の石は「道反之(ちかえしの)大神」と名づけ、また千引の石は「黄泉戸(よみどの)大神」ともいう。(この千引の石は神倉神社の御神体であり、神倉神社の主神は天照大御神であるゆえ、黄泉国の伊耶那美命・黄泉津大神・道敷大神は天照大御神であったことになる)なお、このいわゆる「黄泉比良坂」(神倉神社の参道)は、『古事記』が完成した現在、「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と称される。

 

◆神倉神社の御神体「千引の石」は「ごとびき岩」とも呼ばれる。この両者の名称の秘密については、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「8・千引の石とごとびき岩」にて説明した。
 天照大御神が千引の石の前で「千頭絞り殺さむ」という祟りの言葉は、B図に
示す「〔子宮頸部(けいぶ)〕を狭くして、千人の胎児の頭を狭くした子宮頸部で絞め殺す」と誓うものであった。古代は、子宮頸部が通過できずに死産した胎児が多数いた。この狭い産道が通過できれば、胎児はこの世に誕生できた。

◆『古事記』を旅行カバンに突っ込んで、熊野速玉大社と神倉神社(速玉大社から約1,000メートル南南西にある)に旅して、熊野本宮大社の旧社地のほうを眺めれば、ここは『古事記』伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された歴史の舞台であると確信できる。寒風吹きすさぶ26日の夜に行われる神倉神社の「お燈(とう)祭り」には近在の男たちが千人以上も集まり、燃えさかる松明をかざして神倉神社の参道を駆け下る。この火祭りは、伊耶那岐命一行が伊耶那美命の棺を奪って熊野本宮大社の旧社地から速玉大社まで逃走した歴史を演出して再現するとともに、伊耶那岐命が「吾一日に千五百の産屋立てむ」と宣誓した「出雲国の伊賦夜坂」という地名の秘密を伝えるものとなる。
 次回は『古事記』が完成した8世紀初頭、「神倉神社の参道」が確かに「出雲国の伊賦夜坂」と呼ばれていたことを証明する。

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