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2013年7月26日 (金)

日本が滅びる・19

「出雲国の伊賦夜坂」の解明
 
◆前回の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「黄泉国の伊耶那岐命」の正体は「天照大御神」であることを解明した。この伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――「黄泉比良坂」は、『古事記』が完成した現在、「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と称される――と説明して終わる。
 この「出雲国の伊賦夜坂」は現在の和歌山県新宮市に所在する「神倉神社の参道」であると指摘する学者はほとんどいない。しかし、神倉神社が所在する地域はじめとする熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が所在する熊野一帯は、『古事記』が作成された8世紀初頭において「出雲国」と呼ばれていた確かな証拠が存在する。
◆『万葉集』に最も優れた数々の作品が収められた歌人は柿本人麻呂である。
 人麻呂の作品の中で、制作年次のあきらかなものの下限は、70110月の紀伊行幸に供奉(くぶ)して作ったという結びの松の歌である。
 時の持統上皇は「国家は権力なり」の律令体制を推進し、3世紀に権力の強大化をはかって大和王朝の基礎を築いた天照大御神を崇拝して皇祖と定め、頻繁に吉野宮へ行幸した。持統女帝の最後の行幸は、701629日に出立し、710日に還幸(かんこう)している。
 この行幸に、人麻呂も参加した。
 人麻呂は吉野の里で、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命の歴史の抹殺をはかる上皇に抗議して川に身を投げて溺死した乙女たちと遭遇した。
 この乙女たちの亡骸を火葬した時、人麻呂は〔熊野〕が「出雲国」と呼ばれていたことを証言する『万葉集』429番と430番の和歌を作った。
◆溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首
 山のまゆ 出雲の児()らは 霧なれや 吉野の山の 嶺(みね)にたなびく(429)
〔呉の水軍が倭国の隣国である東鯷人国(とうていじんこく)に遠征した。このために、東鯷人国が新生・日本国となり、この小国・日本を防衛するために女王に就任して赴任した13歳の伊耶那美命は呉軍の呪的(じゅてき)な能力を奪う媚蠱(びこ)つまり眉(まゆ)であった。この呉軍との戦いにおける犠牲(いけにえ)でもあった媚蠱(まゆ)の出雲国の那智大社の主神の伊耶那美命を慕う乙女たちが吉野川に入水(じゅすい)して、伊耶那美命の歴史を葬らんとする上皇に抗議して溺死した。この乙女たちは、那智の滝の水飛沫(みずしびき)のような霧の精霊なのだ。彼女たちの死体を焼く煙は、まるで咽(むせ)び泣くように、吉野山の嶺にたなびいている。〕(「東鯷人国」は伊耶那美命が赴任した「小国・日本」であった証明は、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「9・日本建国の〔愛〕の理念」にて解説した)

八雲(やくも)さす 出雲の児らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ(430)

〔吉野の川に身を投げて、上皇に抗議した出雲国の乙女たちの霊魂よ。吉野川の沖となる熊野那智大社の精霊である那智の滝へと漂(ただよ)ってゆくがよい。黒い岩壁を落下する飛瀧菩薩(ひろうぼさつ)伊耶那美命・黒神(くろかみ)のもとへ、故郷の出雲国・熊野へ乙女たちの黒髪が漂着するように、人麻呂はひたすら願っている………〕
◆人麻呂は、この名もない乙女たちの命を捨てての激しい抗議に遭遇し、彼女たちの亡骸を火葬しながら、霧がかかったような涙でさえぎられて潤(うる)む眼で吉野の山の嶺をながめ――激しい怒りにふるえて、体制側の横暴や不正や日本建国の〔愛〕の理念を葬らんとする卑怯な陰謀などを見て見ぬふりをして身をまもって、朝廷につかえる臣下となり宮廷歌人の席にしがみつく自分がどうしてもゆるせなくなり、深く恥じた。
 この二首は人麻呂が持統上皇と国家権力を批判し、抵抗を示す和歌となった――人麻呂は、溺死した出雲国の乙女たちを吉野で火葬する時に作った二首で、天照大御神を至上神と崇拝して「国家は権力なり」の政策をおこなう上皇は誤っていると批判して抗議した。
 このように701年に反抗を示した人麻呂を、上皇は702年に石見国(現在の島根県西部)へ流した。人麻呂は石見国で死去した。
 人麻呂が作った430番の和歌で「吉野の川の沖は熊野の那智の滝であり、那智の滝の水は黒い岩壁を落下するものであるから那智の滝の精霊となる伊耶那美命は黒神である」と詠んだ。
◆吉野に住む歌人の前登志夫(まとしお・19262008)氏は、『探訪神々のふるさと 4 熊野から伊勢へ』(小学館)44頁の「わが日常の熊野」という随想文で下記のごとく記述する。
 「わたしの棲んでいるこのあたりの山道を歩いていると、いつでもその道は熊野へ続いていると実感する。村里を離れていくにつれて、ほのぐらい樹林に特有な空気に触れる。すると、ここは熊野の中なる吉野だとおもう。大和国原からみれば、吉野の山間部は古くから隈(くま)なる地であったのはいうまでもないが、吉野が、永らく日本人の魂のふるさとであったのは、吉野の奥処に熊野があるからだとおもう。」

人麻呂が作った430番の4句と結句の「吉野の川の 沖…」と前氏の「吉野の奥処に熊野がある」という表現は共通する。ゆえに、「吉野の川の沖は那智の滝」ということになる。したがって、吉野の川に入水して溺死した「出雲国の娘子(乙女)たち」は「熊野に住む乙女たち」であったことになる。だから、人麻呂が石見国に流された702年の10年後に完成した『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記載された「出雲国の伊賦夜坂」は「熊野の神倉神社の参道」であったことになる。
◆『古事記』上巻の伊耶那美命の死と火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)説話に「伊耶那美命は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺の比婆之山(ひばのやま)に葬った」と記載される「出雲国」は「熊野」であり、「伯伎国」は「吉野」であると思われ、「比婆之山」は「熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)に築造された伊耶那美命の陵墓」であったにちがいない。

◆『古事記』序の末部に年月日が記載されているように、『古事記』は「和銅五年(712)正月廿八日」に元明天皇に献上された。天皇は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と記す〔反実仮装(はんじつかそう)〕の方法を認めず、『古事記』を“反逆の史書”と定めて即座に献呈を拒絶した。天皇は早速『古事記』の抹殺に取りかかり、翌71352日に全国に『風土記』編纂を命令し、(1)郡・郷の地名を改めて好()き字2字を選び表記すること、(2)山川原野などの地名の由来と、(3)古老たちの伝える古伝承などを記載させて、皇祖・天照大御神の聖性を汚す歴史が後世に伝わらない対策をはかった。というのも、わが国には後期縄文時代初頭(中国の夏代初頭)に中国から原初漢字・夏音文字が伝来し、“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が「書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者または消し忘れた者には神罰が下されて必ず死が与えられる」と定めた掟を徹底的に守るものであったので、「熊野」が「出雲国」であったように、地名や古老たちの伝承で歴史を残す習慣が発達していたからである。ゆえに、元明天皇の『風土記』編纂に関する(1)(2)(3)の命令は、『古事記』上巻に記載された天照大御神の聖性を汚す歴史を伝える地名を抹殺することが目的であった。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の1回~7回までのA図とした「卑弥呼」の地上絵を今回もA図とする。712年当時、この「卑弥呼」の地上絵を作った建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫が住む静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町の井伊谷(いいのや)の地名は「蟾郷(せんごう)」であった。伊耶那岐命が天照大御神に離縁を告げた神倉神社の御神体の巨石は“ごとびき岩”と呼ばれた。“ごとびき”は「ヒキガエル」と意味する。「ヒキガエル」を漢字で書くと[]となるので、「蟾郷」は天皇が好字2字に改めよと命令する地名に相当した。というのも、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「8・千引の石とごとび岩」で解説したように、【ごとびき岩】」という名は【伊耶那岐命の「吾一日に千五百の産屋立てむ」という〔愛〕の宣誓】を表現するものであったからである。建比良鳥命の子孫は朝廷に罰せられて家が滅亡したならばA図「卑弥呼」の地上絵は消滅して日本建国の〔愛〕の理念も葬られてしまうと憂慮し、天皇の命令に服従して『遠江国風土記』に「蟾郷」を改めて好字2字を選び「渭伊郷」と記した。
◆天照大御神は離縁を言い渡されたときに「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓った言は、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する母親たちのB図に示す「子宮頸部を狭くして、その狭い子宮頸部で一日に千人の胎児の頭を絞め殺す」と意味する、忌わしい祟(たた)りを述べるものであった。だから、「千引石(ちびきのいわ)」という名の[]は「千頭」を表示するものであったことになる。
◆C図に示す「ヒキガエルの姿に似る銀河」はD図の「鬼の姿に似る銀河」の部分となる。伊耶那岐命と天照大御神が生存した3世紀後半、天頂近くにめぐってきたC図の「ヒキガエルの姿に似る銀河」は地上60メートルの絶壁にそそり立つ「千引の石」に類似した。日本古来に生息した最大の蛙であったヒキガエルの一匹のメスは長い紐(ひも)状のゼリー質に包んで20008000個の卵を産む。この卵から孵(かえ)るヒキガエルの子がオタマジャクシである。これゆえ、「ヒキガエルのメスが産む卵を包むゼリー質の紐とオタマジャクシ」は伊耶那岐命の「吾一日に千五百の産屋立てむ」という〔愛〕の宣誓を象徴するものとなった。

E図に示す「熊野速玉大社の境内」は前回のわがブログで解明した「伊耶那岐命の指揮のもとに倭の大軍を撃破した黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」である。ゆえに、伊耶那岐命は速玉大社に祀られる。この速玉大社の天頂近くをC図の「ヒキガエルの姿に似る銀河」が子午線通過したとき、約1000メートル離れた南南西にあるごとびき岩よりすこし西に寄った上空にF図の「オタマジャクシに似る銀河」が見えた。「オタマジャクシに似る銀河の頭部」は「銀河系の中心部」があるG図に示す「夏の銀河の西南部の中央部」となる。
 G図の写真は藤井旭(あきら)著『透視版 星座アルバム』(誠文堂新光社)115頁の「夏の銀河の西南部の中央部」をトリミングして転載した。著者の藤井氏はG図の「夏の銀河の西南部」の形状を「わが銀河系の中心部にむらがる無数の星と、入り乱れる星間物質が、わきあがる入道雲のような迫力にみちた姿でせまる」と表現する――藤井氏が表現するように、「わきる入道」のような形に観える「夏の銀河の西南部」は【出雲】という語となったのである。
 E図に示す細い紐のようにつづく坂道の「神倉神社の参道」は「ヒキガエルの卵を包むゼリー質の紐」に見立てられ、「ごとびき岩」は「ヒキガエルの姿に似る銀河」に相似し、速玉大社からごとびき岩の方角に「オタマジャクに似る銀河」が見えたゆえ「黄泉比良坂」つまり「現在の神倉神社の参道」は「出雲国の伊賦夜坂」と呼ばれるようになった。
 以上のごとく、「出雲」は「夏の銀河の西南部」、「伊賦夜坂」の[]は「伊耶那岐命」、[]は「伊耶那岐命の〔愛〕の宣誓」、[]は「夜行性のヒキガエル」をあらわした。だから、『古事記』が完成し712年当時、神倉神社の参道の坂道は「出雲国の伊賦夜坂」と呼ばれることになったのである。

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