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2013年7月27日 (土)

日本が滅びる・20

箸墓は卑弥呼の墓ではない
 
4年前の2009131日に朝日新聞は「邪馬台国の有力候補地は奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡である」と報道した。続いて4ヵ月後の529日、朝日新聞とあさひテレビは「纏向遺跡内にある箸墓(はしはか)古墳はやっぱり卑弥呼の墓?」と報道した。この意見にNHKテレビまでも賛同して
騒ぎ立てた。
 『日本書紀』崇神天皇紀は「箸墓に倭迹迹日百襲姫命(やまとととびものそひめのみこと)を葬った」と記載する。だから、箸墓が卑弥呼の墓であるはずがない。
◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・16」で解説したように、『魏志倭人伝』末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」は『古事記』上巻に記載される「伊耶那岐命」で、後の第9代開化天皇であり、正妃の「竹野比売(たかのひめ)」が「伊耶那美命」となる。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。天皇は丹波の大県主(おおあがたぬし)で名は由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売と結婚した。継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚して生まれた御子が崇神天皇である」と説明する。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字の「伊耶」と「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字は同じ「伊耶」である。ゆえに、正妃の「竹野比売」が「伊耶那美命」となる。そして第二后の「伊迦賀色許売命」は、「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて解説したように「天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)」である。
 『日本書紀』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の姑(おば)である」と記載する。伊迦賀色許売命は和歌山県新宮市の神倉神社の御神体のごとびき岩(千引の石)の前で、伊耶那岐命(のちの開化天皇)に離縁された。このため、伊迦賀色許売命は崇神天皇の生母であるものの、崇神天皇にとって「姑」のような立場となった。というのも、『古事記』崇神天皇紀には――天皇が「建波邇安王(たけはにやすのみこ)は我が庶兄(まませ・異母兄)である」と指摘する箇所があるからだ。建波邇安王の父は、開化天皇の父の孝元天皇である。伊迦賀色許売命は孝元天皇とも結婚しているゆえ、崇神天皇は孝元天皇と伊迦賀色許売命の間に出来た子で開化天皇の養子にして、崇神天皇は開化天皇の弟でもあった。ゆえに、伊迦賀色許売命の立場は「崇神天皇の姑」と呼ばれることになったにちがいない。
 だから、『日本書紀』崇神天皇紀が「崇神天皇の姑」と記載する「倭迹迹日百襲姫命」は伊耶那岐命に離縁された「天照大御神(伊迦賀色許売命)」であったことになる。
◆『魏志倭人伝』と『古事記』『日本書紀』からして――卑弥呼の後に男王が倭王となり、倭王の後に壱与(いよ)・伊耶那美命が後を継いで倭女王に即位し、壱与・伊耶那美命の没後に天照大御神が倭女王に即位した。だから、『日本書紀』崇神天皇紀が「倭迹迹日百襲姫命を葬った」と記載する「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」であるはずがない。
 箸墓は東経13550分であり、倭迹迹日百襲姫命(天照大御神)が離縁されて祀られる神倉神社と千引の石は東経13559分である。ゆえに、箸墓は神倉神社・千引の石よりわずか9分だけ西寄りに立地されたことになる。この状況からして、箸墓古墳は『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の末部で「道反之(ちかえしの)大神」「黄泉戸(よみどの)大神」と名づけられた千引の石をモデルにして築造されたにちがいない。
 A図に示す天照大御神を祀る神倉神社の御神体の千引の石の前で、天照大御神は「汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓った。この祟(たた)りが天照大御神の精霊となるものが「道反之大神」「黄泉戸大神」と呼ばれた千引の石であるから、箸墓は千引の石のごとく頑丈(がんじょう)に築造されたことになる。その証拠に『日本書紀』崇神天皇紀は「箸墓は大坂山(奈良県北葛城郡二上山の北側の山)の石を運んで築造した」と記載する。だから、天照大御神の祟りの不滅を願って、箸墓は千引の石のごとく石で堅牢(けんろう)に固めて築造した墓であったことになる。

◆『魏志倭人伝』を読解するにあたって、学者たちが“文献批判”と名づける〔誤読〕をすべて排除すると、古代史学において最も重大な【科学】が成立する。

 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の27回と10回・11回で詳細に解説して証明したように――『魏志倭人伝』のすべての方位に関する記事にもとづくと、B図のごとく“卑弥呼王朝は「日本列島は南に伸びている」と錯覚した転回日本列島地理を制定した”と考えるべきことになる。『魏志倭人伝』には「その道里を計るに当(まさ)に会稽・東治の東に在るべし」という記述があるので、B図のごとく“日本列島は南に伸びている”と考えれば合理となる。倭の使節は玄海灘を往来して魏と国交を結ぶものであったので、倭では「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「7[]のキャッチ」で説明する〔精密に天頂緯度線と子午線をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が栄え、卑弥呼王朝では〔天の北極で緯度と子午線を測量する方法〕はまったく確立されていなかったことになる。したがって、C図に示す〔[]のキャッチ〕によって日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島が同緯度であることが測定され、両島の気候の様子から日本列島は〔西冷東暖〕ということになり、中国の海岸線地域の〔北冷南暖〕に適合させるとB図に示すような転回日本列島地理が成立する。
 学者たちの立論するとおりに正しい日本列島地理を定めることができる〔天の北極を最も重視する学術〕を卑弥呼王朝が確立していたとすると、魏・帯方郡の使節も倭の使節も〔[]をキャッチする方法〕ならば渡ることができる玄海灘を渡ることができなかったことになる。したがって、魏と倭は国交を結ぶことができなかったので約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった白紙となる。だから、邪馬台国説は【科学】がまったく成立しない〔誤読〕の空理空論・妄想であったことが簡単明瞭に証明できる。 
 卑弥呼が居住した王国の所在地は――〔[]のキャッチ〕を基に考えると『魏志倭人伝』の方位に関するすべての記事が一点の矛盾点もなく一点の不合理な点も無く論理が完結して【科学】が成立する。これゆえ、B図に示す転回日本列島地理を立論基盤にして考えなければ空理空論・妄想となる。この結果、卑弥呼が居住した邪馬壱国の中心地は山陰地方の島根県東部の出雲であったことになる。
◆だから、「大和(奈良県桜井市)に所在する箸墓は卑弥呼の墓であるから、纏向遺跡は邪馬台国であった」と主張する学者たちの意見は【科学】と正反対の〔誤読〕の空理空論となる。ゆえに、箸墓・卑弥呼陵説を提唱した学者たちとこの空論を信じて報道した朝日新聞とNHKテレビは、国民・国家・皇室に謝罪すべきことになる――なぜならば、箸墓・卑弥呼の墓説は日本人の命と魂の根元を徹底的に愚弄(ぐろう)するものであり、日本国家の尊厳を侮蔑して日本国滅亡の原因となり、皇室の最大の神事である大嘗会(だいじょうえ)において天照大御神の政策は間違っていたと明確に示して、即位する天皇の頭上に差し上げる王冠・菅蓋(かんがい)の意匠で日本建国の〔愛〕の理念を讃えるからである。
 
◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼すでに死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者、奴婢(ぬひ)百余人」と記述する。
 卑弥呼の墓()の円墳の直径は「百余歩」つまり「約150メートル」であった。
 私は現地に行って実際に目撃したが、D図に示す出雲大社の裏山(八重山)は円墳の形となる。地図で調べると、裏山の直径は『魏志倭人伝』の記述に合致して約150メートルぐらいである。素鵞(そが)川が流れる出雲大社の境内の西側(D図の左下)は末広がりの前方墳の面影を残す。境内の吉野川がある東側が末広がりの形になれば、前方墳の形となる。

出雲大社はかつて卑弥呼の墓であった。しかし、卑弥呼の墓が破壊された時、あるいは出雲王朝が大和の天照大御神王朝に征服されて大国主神が国譲りして出雲大社の前身である天日隅宮(あめのひすみのみや)を建造した時、前方墳の東側が削られて末広がりの形が失われたのではなかろうか。
◆裏山の南側にして本殿の後方にある、瑞垣の外にある大社造の素鵞社(そがのやしろ)1738(延享5)に造営された。素鵞社は出雲大社の主神の大国主命の父(大国主命の妻の父)の須佐之男命(すさのおのみこと)を祀るため、本殿より一段と高い地にある。
 素鵞社に祀られる須佐之男命は高天原(たかまのはら)の大和から追放されて山陰出雲に移住した。ゆえに、須佐之男命と配下たちが、百余人の奴婢を殺して葬った卑弥呼の墓を破壊したにちがいない。というのも、須佐之男命の生母は徇葬に反対する、〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命であったからである。
◆須佐之男命は伊耶那美命と伊耶那岐命の間に生まれた。したがって、『古事記』開化天皇紀に「竹野比売が生んだ比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」が「須佐之男命」ということになる。須佐之男命はE図に示す熊野本宮大社の主神となる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」で解説したように、熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)は八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)つまり多数の奴婢を殺して葬った伊耶那美命の墓であった。この熊野本宮大社の旧社地は1889(明治22)の大洪水で社殿が流失して、現在地に移された。
 E図の写真は山本殖生(しょくせい)構成『熊野――冥界への旅』(平凡社)に熊野本宮大社の旧社地の大斎原を画いた「熊野本宮大社の古絵図」(江戸時代、熊野本宮大社蔵)である。この大斎原の古絵図における幾棟もの社殿が立ちならぶ境内外側の森が連なる部分は、円形状となって後円墳部の面影を残す。そして、幾棟もの社殿が立ちならぶ境内の上側の森の部分は、方形の墳墓部をちょん切った未完成の前方墳の形状を示す。ゆえに、「熊野本宮大社の古絵図」に画かれる大斎原の絵は、後円墳が完成して前方墳を築造している時に、伊耶那岐命と日本兵が伊耶那岐命の棺を略奪したため未完成の前方後円墳となった敷地を示すものとなる。
 E図の大斎原は前方後円墳の丘陵ではなく、平地となる。ということは、母の徇葬反対の遺志を継ぐ息子の須佐之男命が配下を連れて伊耶那美命の墓であった大斎原の丘陵を崩壊して平地にして熊野本宮大社の前身を起源させたために、須佐之男命が熊野本宮大社の主神として祀られることになったのではなかろうか。このような熊野本宮大社の起源の秘密を『古事記』上巻の須佐之男命の啼きいさち説話は伝えるものではあるまいか。

中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は――『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った遣唐使が「倭国自らその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと」と伝えた――と記載し、正史『新唐書(しんとうじょ)日本伝は――遣唐使が「倭の名を悪み、あらためて日本と号す』と述べた――と記載する。
 倭国は卑弥呼の陵墓と伊耶那美命の陵墓を築造する時に、18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女の多数を殺した徇葬をおこなった。ゆえに、わが先人たちは徇葬を憎悪して卑弥呼と伊耶那美命の陵墓は破壊した歴史を誇りとして命と魂の根元にし、「倭」から「日本」への国号の改変を皇室と律令体制に欲求して抵抗していたのである。だから、このような人民の声に背中を押された編纂スタッフは「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」と〔反実仮装〕して後世の真実の歴史を伝える『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話を著作したのである。

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