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2013年7月 3日 (水)

日本が滅びる・7

◆邪馬台国論争で有名な『魏志倭人伝』は、陳寿(ちんじゅ)が西晋(せいしん)の歴史編纂官であった280289年に作成した『三国志』魏書東夷伝の末部にある「倭人伝」のことである。『三国志』という書名は、後代に付けられたもので、もともとは『魏書』、『蜀書』、『呉書』というふうに独立した三部の著述に分かれていた。『三国志』という書名は「後漢が滅んだのち、魏・蜀()・呉の三国が並び立った三国時代(220280)の歴史」と意味する。
『三国志』魏書東夷伝倭人伝つまり『魏志倭人伝』は2世紀末~3世紀半ばまでの西日本に女王・卑弥呼が治める正式名「倭人国」(略称“倭国”という国)が存在した日本列島の様子を記述する。

◆下にあるA図の1千万坪の「卑弥呼」の地上絵は、『魏志倭人伝』が作成された同時代の3世紀後半(260290)に作成された。この「卑弥呼」の地上絵は、現在、日本地図上に描かれ、静岡県浜松市北区細江(ほそえ)町の行政区域を表示する地図の形として現存する。
この「卑弥呼」の地上絵は、『魏志倭人伝』のすべての記事は真実を伝えるものであることを科学的に証明することができる極めて重大な史跡である。いいかえると、学者たちが“『魏志倭人伝』の「(1)実際と異なって日本列島は南に伸びる (2)倭には文字があった」と説明する記述を絶対に信用してはいけない”と定めて、この考え方を立論基盤とする〔文献批判〕の実体は〔誤読〕であることが科学的に証明できる貴重な史跡である。
このブログ「日本が滅びる」の626日の2回と628日の4回で指摘したように――“地上絵”で有名な世界遺産「ナスカの地上絵」における最大の鳥の地上絵は全長が300m、翼長が90mである。これに対し、A図に示すように「卑弥呼」の地上絵の単位は「m」ではなく「km」と比べものできないほど大きく、その全長は約8.5km、翼長約9kmとはるかに巨大である。「卑弥呼」の地上絵を全長8.5cm、翼長9㎝に縮小する同じ倍率でナスカの最大の鳥の地上絵を縮小すると、その全長は0.3cm(3mm)、翼長は0.09cm(0.9mm)となる。
 このような巨大な「卑弥呼」の地上絵の作成方法は、〔天の北極〕で緯度と子午線を測量する方法では絶対に作成することができない。「卑弥呼」の地上絵は、ただ一つ現在の国土地理院の精密日本地図の作製原理と同じ方法ならば作成できる。つまり、天頂緯度と子午線を測量して経緯度原点を定め、この経緯度原点を基に三角形の網や鎖を形作る三角測量のよって、原画とおりの大鳥の地上絵を作成することができる。
 この精密地図の作成原理における「天頂緯度線と子午線の測定」は漢字1字であらわすと、[]となる。ゆえに、〔天頂緯度線と子午線のキャッチ〕を〔[玄]のキャッチ〕と言い換えることにする。
 B図に示すように、「卑弥呼」の地上絵には経緯度原点と三角測量が明確に残る。
 3世紀の弥生人は天頂点をキャッチして「A地」の経緯度原点を設定し、A地と同緯度となる一等三角本点となる滝峯不動尊を測量することができた。このA地から滝峯不動尊までの同緯度地域は、平地ではなく、森林が生い茂る山地であるので高度が低い〔天の北極〕は樹林に隠れてキャッチできない。しかし、樹木の間の隙間から見える頭上・天頂の[玄]はキャッチできる。だから、〔[]の天頂緯度線をキャッチする方法〕でしか同緯度であることは測量できない。
 B図に示される大きな三角形は、A地と滝峯不動尊にて〔[]のキャッチ〕すなわち〔天頂緯度線上にある天頂点と真北あるいは真南の目星(銀河部位や恒星)を結ぶ子午線が精密にキャッチ〕がおこなわれたことが示され、A地と滝峯不動尊における子午線(経度軸)に対して29度の傾きを有する線が交わる八幡宮が一等三角本点となる。
 以上のごとく、〔[]のキャッチ〕がなされ、さらに三角測量がおこなわれて、原画とおりの1千万の「卑弥呼」の地上絵が図化されたことが明確に科学的に証明される。
◆実際の日本地図は東に伸びるのに対し、『魏志倭人伝』は最も多くの記事で「日本列島は南に伸びる」と事実と異なる、卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理を説明する。
 この錯覚を明確に示す一例が「その道理を計る当(まさ)に会稽(かいけい)・東治(とうじ)の東に在るべし」という記事である。C図に示すように、〔南に伸びる転回日本列島地理〕は中国の会稽・東治の東に存在する。しかし、学者たちが主張する邪馬台国説の立論基盤となる〔実際の日本地図〕は東北に伸びるので矛盾する。
 〔[]のキャッチ〕によって、日本列島の西端の沖ノ島と東端の伊豆諸島の神津島は同緯度(北緯3415)であることが測量できた。西の沖ノ島では冬に雪が降るが、東の亜熱帯地区の神津島は冬になっても冬に雪が降らない――この気候区の様子を要約すると、C図に示すように〔西冷東暖〕となる。
 C図に示すように、中国の海岸線地域の華北地方は冷たい気候区であり、華南地方は暖かい気候区であるので、中国の海岸線地域の気候区の様子は〔北冷南暖〕となる。
 これゆえ、中国の〔北冷〕と日本列島の〔西冷〕が合致し、中国の〔南暖〕と日本列島の〔東暖〕が合致するので、C図に示すように卑弥呼王朝は「日本列島は中国の海岸線の南の方に伸びる」と錯覚したのである。
 沖ノ島が浮かぶC図に記入した「玄海灘」は「[]をキャッチして往来した灘(風波が荒い大海原)」と意味することになる。
 ●(1)〔天の北極〕による緯度と子午線の測量は不正確であるゆえ、〔天の北極〕を基準にしてA図の「卑弥呼」の地上絵は絶対に作成することができない ●(2)また、〔天の北極〕の緯度と子午線の測量は不正確であるので、玄海灘を往来することはできなかった。紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文が完成したため、卑弥呼が生存した3世紀になると〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕を失った魏と帯方郡の使節と船乗りは玄海灘を往来することができなかった。しかし、●(3)[]をキャッチする眼力と技を鍛錬する習慣〕が存続する倭の使節と船乗りは玄海灘を往来することができた ●(4)〔天の北極〕を基準にすると、日本列島は東に伸びていることが察知できた
 
上記の4点の根拠・理由からして、『魏志倭人伝』が最も多くの記事で「南に伸びる」と説明する転回日本地理は〔[]のキャッチ〕によって成立したと断定できる。学者たちのように、〔天の北極〕によって“日本列島は東に伸びる”と察知できると考えて卑弥呼が居住した王国の所在地を実際の日本地図で立論すると魏・帯方郡そして倭の使節も玄海灘を渡ることができなかったことになる。そうすると、魏と倭は国交を結ぶことができなかったので、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は文字が1字も書かれていなかった白紙であったことになる。このように、学者たちが主張する邪馬台国説は非現実的な空論にして、不合理と矛盾だらけで論理が全く完結しない〔誤読〕の産物であることが決定的となる。

 ◆D図は〔北を上・南を下〕とする「卑弥呼」の地上絵である。ただし、D図下部に右隅にて点線であらわす部分は「卑弥呼」の地上絵の頭部の形であるが、実線の部分はE図に示す中国の山東半島の地図の形をあらわす。
◆E図は、D図の「卑弥呼」の地上絵の両翼となる境界線が東になるようにした転回図である。このE図における東半分(D図に示す都田川流域の沖積平野の西端・太線より南部の地図の形)はF図の中国大陸を洩れなく包み込む地図の形に類似する。ただし、D図と同じくE図でも「卑弥呼」の地上絵の頭部は点線で示し、山東半島の海岸線は実線で示した。
 E図の「卑弥呼」の地上絵の点線で示す頭部の鼻の部分はを向く。E図の山東半島先端の鼻の部分となる海岸線はを向く。この点線で示す鼻のから実線で示す鼻のへの方位の転回は、G図に示す[][]の字源となった「時計回りに北→東へ90度方位を転回する規定」をあらわす。この転回方位はC図の転回日本列島地理「東→南」の規定に合致するので、卑弥呼が治める国名は「倭」となった。
 『後漢書』倭伝が「建武中元二年(西暦57)に倭奴国の使人が朝貢して、光武帝が印綬(いんじゅ)を与えた」と伝える――この金印は北九州の博多湾の真正面の志賀島(しかのしま)から出土し、この金印には「漢委奴国王」と刻まれ[][]であった。ゆえに、[][]は同義にして、[]は[倭]よりも先に作られた文字であったことになる。
 G図に示す[][]の字源と相違して、「時計回りと逆反対の南→東へ90度方位を転回する規定」は[][()]の字源となった。
 E図の頭部より南側の右翼となる境界線は[][]の字源をあらわす。というのも「D図における「卑弥呼」の地上絵の右翼がある→E図における右翼がある」となり、この「南→東」の転回は[][]の逆向きとなるからである。
 C図における「会稽」を基準にすると、「東治」という地名の[]は「南→東」と表示するものとなるゆえ会稽・東治は[]の字源を示して「呉」という国の領地であった。F図に示すように、〔山東半島より南側の海岸線〕は〔虎の横顔〕に相似すると見立てられて、[][]の字が合体して[]の字となった。ゆえに、[]の字(字源・字形・字義)は「中国海岸線の地図の形」または「精密な中国海岸線の地図を作成する官職」をあらわした。
 このように「卑弥呼」の地上絵を調査すれば、『魏志倭人伝』が「倭には文字があった」すなわち「倭の易の卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」と記述する「令亀の法」つまり「倭には殷代の易の卜辞に用いられた亀の甲羅に刻んだ甲骨文字のような原初漢字が存在した」という記事は事実を伝えるものであったと科学的に証明できる。
◆漢字は銀河から作られた。その証拠に「銀河」の別称は「銀漢」である。つまり、「銀から作られた文」略して「漢字」と呼ばれた。
 中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』の繋辞下伝(けいじげでん)は漢字の起源を「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情(イメージ)に類して文字を作った」と説明する。
 この文中にある「天象」は「銀漢」のことであり、D図に示すように「卑弥呼」の地上絵における都田川流域の西端より西側は〔象の横顔と鼻の形〕に相似して「天象=銀漢」をあらわす。「銀漢各部の東から西へと移動する運行の向きと反対方向に、中国を代表する黄河と長江の水が西から東へ向かって流れる状況」を「地法」という。次の「鳥獣の文」は“漢字”の始祖と崇拝された聖人・倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理の名称である。次の「地宜」はA図からF図までの「平面的に図化した地図の形」を意味する。
 
「卑弥呼」の地上絵は『易経』繋辞下伝に記述される〔〔銀河(天象)から作られた漢字の起源の秘密〕が科学的に証明できる史跡である――わが国には今から約4050年前に原初漢字の夏音(かおん)文字が伝来していた。ゆえに、『魏志倭人伝』は「倭には文字あり」と説明し、『魏志倭人伝』と同時代に作成された「卑弥呼」の地上絵はすべての漢字の字源を知ることができる1400字前後の基本字の字源が解明できる仕組みになっている。
 しかし、『魏志倭人伝』が「令亀の法の如く」と書く甲骨文字のような夏音文字が刻まれる史料が遺跡から1点も出土していない。だから、邪馬台国説学者たちは“『魏志倭人伝』の記事は信用できない”と主張する。しかし、倭には夏音文字が伝来していた。この深い重大な歴史の秘密を次回で明らかにする。

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