9・日本建国の〔愛〕の理念
●【日本建国の〔愛〕の理念)】
◆『万葉集』と書名は『日本書紀』の天平8年(736)11月11日の箇所にある橘氏の賜姓しせいに関する上表文に記された「万歳に窮きわみなく、千葉に相伝へむことを」という文から定められた。この〔万葉(万代)まで先人たちが伝えようとした、日本人が失ってはならない最も重大なもの〕は【日本建国の〔愛〕の理念】だったのである。
◆日本建国の〔愛〕の理念は、『万葉集』最終巻の巻二十に収められる東国の防人さきもりたちが作った4321番から4436番までの116首の和歌で具体的に表示された。
この116首のうちの110首(95%)ぐらいは、妻子や両親や恋人を思い気づかう愛の和歌である。つまり、これら95%の和歌は、東国の防人たちが小国・日本の女王伊耶那美命が国作りの柱にして人民に熱心に説いた〔愛〕の理念をまもって、妻や子どもや両親や兄弟姉妹や恋人のために兵役につとめていたと示すものとなる。
116首のうちの4370番の「霰あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍士すめらみいくさ 我は来きにしを〔鹿島の神に祈りつづけて、天皇の兵士として、おれは来たのだ〕」と、4373番の「今日けふよりは かへりみなくて 大君おほきみの 醜しこのみ楯たてと 出で立つわれは〔今日からは、故郷を振り返らないで、大君のつたない護りとして、行くのだおれは〕」の2首だけが、天皇への尊敬を示す。天皇への尊敬を示す2首と圧倒的に多い110首の〔愛〕を詠む和歌をもって、日本は〔愛〕の理念を高々とかかげて建国されたと示す。
◆A図は、巻二十の防人歌の作者たちの出身地をあらわす。
A図に示す防人たちの出身国は、『後漢書ごかんじょ』倭伝に記載された「東鯷人国とうていじんこく」であった。東鯷人国は、『魏志倭人伝』に列記される卑弥呼が統治する倭国に属する最後の33番目国の黒歯国こくしこくの次に、倭国に属することになった。『魏志倭人伝』の末部に登場する13歳の壱与いよが女王として東鯷人国に赴任して、小国・日本が誕生した。壱与は夏音名(夏音文字の名)、彼女は人民に敬愛されて「伊耶那美命」と呼ばれた。本名は「竹野比売たかのひめ」で第9代開化天皇の正妃である。
したがって、開化天皇は若き日に「伊耶那岐命」と愛称され、彼の夏音名は『魏志倭人伝』末部に記載される「載斯烏越そしあお」、小国・日本の軍王いくさのおおきみであった。
◆『古事記』『日本書紀』そして『万葉集』が作成された万葉時代の防人たちは、A図の旧東鯷人国・小国日本の地に住む人々が徴発ちょうはつされた。彼らは故郷から遠い筑紫・壱岐・対馬と北九州の守備に当たった。なにゆえ、筑紫・壱岐・対馬に近い西国の人々が防人の兵役につとめずに、遠い東国の人々が防人として徴発されたからといえば――【用語の解説】の「8・千引の石とごとびき岩」にて説明したように、万葉時代の皇室と律令体制の至上神・皇祖天照大御神が千引きの石の前で「汝いましの国の人草ひとくさ、一日に千頭ちがしら絞くびり殺さむ」と誓ったからである。A図に示す東国は天照大御神が「汝の国」と呼ぶ国であったゆえ、天照大御神の祟たたりにもとづき東国の人々が防人の任務につくことになった。
◆中国の正史『旧唐書くとうじょ』倭国日本伝の「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となす云々」という記述と、正史『新唐書しんとうじょ』日本伝の「倭の名を悪にくみ、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国出ずる所に近し、ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭のあわす所となる云々」と記述する日本国を日本地図上に示すとB図となり、B図はA図と合致する。
A図の東国が日本国、A図より西方の西日本が倭国であった。
小国・日本は〔愛〕を掲げて建国されたゆえ、702年に中国に渡った遣唐使は「日本国は倭国の別種なり」と説明した。また倭国は卑弥呼と伊耶那美命が死去したときに多数の若者と乙女たちを殺害して国家繁栄の犠牲いけにえにする残酷な徇葬を決行したので、遣唐使は「倭の名を憎む」と説明した。小国・日本の軍王であった伊耶那岐命・後の開化天皇が小国日本と大国倭を併合したので、遣唐使は「日本はすなわち小国、倭のあわす所となる」と中国王朝に説明したのである。
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コメント
驚きました!東国が日本国とは!
実は二荒山と赤城山の神の戦いの昔話を最近読んだのですが、二荒山の神が鹿島の神に助けを頼んだところ、「お宅の子孫・猿丸が山形か福島にいるからそちらに頼め」と言われたこと等から、もしかして卑弥呼は日光の人だったのではないか等と妄想していたところでした。
奈良には「西の日光」という所があり、栃木県鹿沼市「奈良部」という所がありますす。
投稿: 齋藤定雄 | 2019年9月13日 (金) 17時37分