日本が滅びる・23
●日本国誕生の解明
◆『万葉集』48番は柿本人麻呂が作った和歌である。
「東之炎 立所見而 反見為者 月西渡」という原文を「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」と読む。
この和歌にある「かぎろひ」の[炎]と「たつ」の[立]の契文(甲骨文字)の字形は[大]の字形に相似する。ゆえに、[炎]と[立]の字源は、A図に示す[大]字形の「十字の銀河」である。字源を解説する字書の聖典『説文解字』は[東]の字源を「動くなり。木に従ふ」と解説するゆえ、「木」の形に類似すると見立てられた「十字の銀河」が[東]の字源であったことになる。その証拠に、『説文解字』は[東]の字源を「日の木中に在るに従ふ」と解説して「日が東方にある木の中(背後)から昇る形」と説明する。「十字の銀河」が「木」、「三つ輪の銀河」を「夏至と春分・秋分と冬至の日(太陽)」に見立てて、『説文解字』は[木]に[日(太陽)]が重なって[東]の字(字源・字形・字義)が成立したと解説する。
人麻呂が生存した7世紀末~8世紀初頭、「十字の銀河」は東から50度・北から40度の北北東の地平線から昇った。『魏志倭人伝』が最も多くの記事で説明する卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理の方位は時計回りに90度転位して「北→東」と定める。これゆえ、「十字の銀河」が昇った北北東は〔北〕となり、この〔北〕は「東」に転位するものであったから「東の 野に炎(かぎろひ)の……」と詠んだのは誤っていないことになる。
また、“〔北北東〕も「東」と言える。ゆえに転回日本列島地理は成立しない”と反論されたとしても、『日本書紀』の成務五年の記事にある下記の文によって、その反論は成立しないことになる。
「東西をもって日縦(ひのたて)とし、南北をもって日横(ひのよこ)とした。山陽を影面(かげとも)といい、山陰を背面(そとも)という。」
「東西」は「緯度」となるゆえ[緯]は「よこ(横)」と読み、「南北」は「経度」となるゆえ[経]は「たて(縦)」と読む――これに対し「横」となる「東西」を「日縦」、「縦」となる「南北」を「日横」と定めるので、「東西をもって日縦とし、南北をもって日横とする」という文は、現在方位と90度相違する転回日本列島地理の方位規定を定義するものとなる。他方、「山陽を影面といい、山陰を背面という」は「山の陽(みなみ)を影面といい、山の陰(きた)を背面という」とも読む。そして、「背面」の[背]は[北]の初文であるゆえ「山の陰(きた)は北面(背面)という」となり、「山陽地方は南(影面)、山陰地方は背面」となって現在方位と一致する――つまり、倭王朝は「中国の海岸線地域と比較すると、日本列島は東ではなく、南に伸びる」と日本地理を錯覚したが、倭国内だけに限ると現在方位と同じ「山陽を南、山陰を北」と定めて――国外用と国内用の二本立ての方位規定を設けていた。
だから、人麻呂が作った『万葉集』48番は、『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理を否定する証拠にはならない。
◆柿本人麻呂が生存していた702年、中国に渡った遣唐使がおこなった〔小国・日本〕についての説明が中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に記載される。
『旧唐書』倭国日本伝は「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にちへん)にあるをもって名となす。あるいはいう、倭国みずからその名の雅(みやびやか)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」と記述する。
『新唐書』日本伝は「後稍夏音を習い、倭の名を悪み、あらためて日本と号す。使者みずから言う、国日の出ずる所に近し。ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の并(あわ)す所となる」と記述する。
このように「日辺」にあり、「日の出ずる処に近い」地域であった小国・日本は、B図に示す日本列島の東端にある「東国(東海・関東地方)」となる。また小国・日本の範囲は、C図に示す『万葉集』巻二十の防人歌(さきもりうた)の作者の出身国であったことになる。
わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の18~22回(前回)まで解説してきたように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「天照大御神」である。天照大御神は天の神に豊かな実りを祈願して、多数の青年と乙女たちを殺して伊耶那美命の墓に葬る徇葬(じゅんそう)を陣頭指揮した。これゆえ、日本兵と熊野に住む戦士たちの協力を得て、伊耶那岐命は愛妻・伊耶那美命の亡骸をおさめる棺を奪うクーデターを決行し、伊耶那岐命軍は倭の大軍を撃破して勝利した。この説話の末部は、伊耶那岐命に離縁を言い渡された天照大御神は「汝(いまし)の国の人草、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と呪い誓ったと記載する。この天照大御神に「汝の国」と呪われた国が小国・日本だったのである。
小国・日本の人民は伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念を尊重し、卑弥呼の陵墓と伊耶那美命の陵墓を築造するときに倭国が威信をかけておこなった徇葬を憎悪した。だから、『旧唐書』倭国日本伝は「日本国は倭国の別種なり」と記し、『新唐書』日本伝には「倭の名を悪(にく)み」と記されたのである。
◆『旧唐書』倭国日本伝には小国・日本について「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなす」と説明する記事がある。
D図に示すように、現在方位の小国・日本の場合は、「西界」は「大海」ではなく〔静岡県西部の遠江やさらに西隣の愛知県三河の陸地〕となる。ゆえに、「西界は大海である」という記述に矛盾する。
E図に示す転回方位の小国・日本は、「西界」は「大海となる太平洋」、「南界」も「鹿島灘がある大海となる太平洋」であるゆえ、「西界南界は咸な大海に至る」という記述に矛盾しない。小国・日本の転回方位の東(現在の北)界には〔三国山脈や日光の山々や関東山地〕があり、北(現在の西)界には〔富士山や赤石山脈〕がある。ゆえに、「東界北界は大山ありて限りをなす」という記述にも合致する。
以上のごとく、「西界は大海である」と指摘した遣唐使の言は現在方位だと矛盾する。しかし、『魏志倭人伝』が最多の記事で説明する転回日本列島の方位規定だと合理となる。
転回日本列島地理は738年の国郡図作成の命令と796年の再度の国郡図の重訂(ちょうてい)の命令で改められた。というのも、724年に東北地方の経営の拠点として多賀城(宮城県中部の多賀城市に古跡が残る)が築かれ、卑弥呼王朝が立論した転回日本列島地理だと多賀城が所在する東北地方は大和の〔南〕となるが、シナ天文が最も重視する天の北極を基準にすると東北地方は大和の「北」となる。だから、738年に国郡図作成の命令で、初めて『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼王朝が錯覚した転回日本列島地理が改定されたことになる。
◆この改定によって、転回日本列島地理の立論基盤である〔[玄]をキャッチする方法〕で玄海灘を往来していた遣唐使船の航法は船乗りたちに誤りではないかと疑問視されることとなったために759年と762年には遣唐使の派遣は中止され、船乗りたちが〔[玄]をキャッチする航法〕で大海を往来することにすっかり自信を失ったために894年には遣唐使の派遣は廃止されることになった。
◆中国の正史『三国志』呉書の孫権伝(そんけんでん)は――230年(呉の黄竜2)、呉の黄帝孫権が、将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかっちょく)を派遣して、1万の武装兵を率いて、夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)を求めしめた――と記述する。
この呉の1万の遠征軍が目指した夷州と亶州は、『後漢書(ごかんじょ)』倭伝末部に「夷州および澶洲(せんしゅう)あり」と記載される「東鯷人国(とうていじんこく)」であった。
208年、中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いで、80万の魏の大軍は2万の呉の水軍の活躍で大敗した。この呉の1万の無敵艦隊が東鯷人国に目指して遠征した。
F図に示すように燕(えん)は、魏の背後に所在した。この燕を治める公孫淵(こうそんえん)を呉・蜀中国二分連合国側に引きいれようとして、孫権は密使を送って説得させた。しかし、公孫淵は魏と倭にはさまれて燕が滅びるのを心配して孫権の説得をことわった。というのも、当時、魏と卑弥呼が治める倭は軍事同盟を結んでいたので、東夷の大国・倭は燕の背後の脅威となったからである。そこで、孫権は魏を倒して中国を統一するためになんとしても燕を味方に引き入れようとして、倭の背後の東鯷人国へ呉の水軍を遠征させて戦わずに威嚇(いかく)した後に帰還するという作戦を立てた。この作戦によって倭は東鯷人国に大軍を送りこむことになるので燕の背後の脅威にならないと説得すれば、公孫淵は呉・蜀中国二分連合国側につくにちがいないので、前面から呉・蜀が攻撃し、背面から燕軍が攻撃すれば、魏を倒すことができると孫権は考えたのである。
この呉軍の1万の遠征の情報は魏が察知して倭国に報告されて東鯷人国王に届いたのか、あるいは『後漢書』倭伝が「定期的に呉の会稽(かいけい)の港に東鯷人がやってきて交易していた」と記述する東鯷人によって東鯷人国王は呉軍の遠征を知ったのか不明である。いずれにせよ、その情報に入手した東鯷人国王は呉の1万の無敵艦隊と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して、倭に服属するかわりに卑弥呼から倭軍の派遣を取り付けた。よって、『魏志倭人伝』末部に登場する卑弥呼の宗女(巫女界を代表する女性)として13歳の壱与(いよ)・伊耶那美命・竹野比売(たかのひめ)が小国・日本の女王に即位し、夫の載斯烏越(そしあお)・伊耶那岐命・開化天皇が軍王(いくさのおおきみ)となって赴任した。
ここに、東鯷人国は新生・日本国となって誕生したのである。
◆東鯷人国へ目指した呉の1万の遠征軍は、紀元前1世紀にシナ天文が完成して〔天の北極〕が最も重視されることになったために、大海を往来できる方法の〔[玄]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕を失っていた。これゆえ、呉の遠征軍は大海に入ると間もなくして8割から9割の兵を失って壊滅した。この遠征は大失敗であった。
◆G図に示すように、呉から日本列島へ至るルートは二つしかない。
その一つは、台湾→与那国島→石垣島→宮古島→北大東島・南大東島が所在する広大な太平洋→火山列島の南硫黄島・硫黄島→小笠原諸島→伊豆諸島→東海・関東地方に到着する海の道である。この海の道を、G図に記すように「伊豆諸島ルート」と名づける。
もう一つのルートは、台湾から東北へ進む、つまり台湾→南西諸島→九州南部に到着する海の道である。このルートを「南西諸島ルート」と呼ぶことにする。
★南西諸島ルートの場合、呉軍は南九州の海岸を上陸することになる。そうすると、呉軍は倭各地の小国の軍と激戦を交しながら倭地を突破し、倭の奥に位置する東鯷人国に到着して戦うことになり、さらに帰路でも倭各地の小国の軍と戦いながら帰還することになる。このような作戦は常に敵軍に包囲されて戦わなければならないので兵士の消耗ははなはだしく、このような愚劣きわまりない作戦を中国史上最高の軍事戦略家と評された諸葛孔明(しょかつこうめい)と互角にわたりあった英才孫権が考えるはずがない。
★伊豆諸島ルートならば、呉軍は敵地を通過しないで直接目指す国に到着できる。だから、伊豆諸島ルートの終着地の東海・関東地方が東鯷人国にして新生・日本国であった。
◆地図を開くと、宮古島と硫黄島は同緯度で北緯24度45分である。
H図に示すがごとく、〔[玄]をキャッチする眼力と技〕を日々鍛錬していた東鯷人たちは、約1650kmも遠く離れる宮古島・硫黄島間の太平洋上で天頂緯度線と子午線をキャッチして、呉の会稽と東鯷人国を結ぶ伊豆諸島ルートを往来していた。だから、『後漢書』倭伝末部にある「所在遠絶にして往来すべからず」という文は――東鯷人たちが往来した海の道は呉の遠征軍にはあまりにも遠く道は途中で絶えてしまい往来することができなかったと証言するものとなる。シナ天文によって〔[玄]をキャッチする眼力と技〕を失った呉の遠征軍には東鯷人が往来した海の道(伊豆諸島ルート)は往来できなかったのである。
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