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2013年8月 6日 (火)

日本が滅びる・25

無敵艦隊呉軍と戦う日本軍の呪力
 

208年におきた中国の戦争史で有名な赤壁の戦いにおいて、わずか5万の呉・蜀の連合軍は80万の曹操(そうそう)が率いる魏の大軍を撃破して劇的な勝利をおさめた。呉・蜀の連合軍を勝利に導いた中心的な役割を2万の呉の水軍が担(にな)った。
 魏の曹操は水陸両軍あわせて80万の大軍を率いて、揚子江沿岸の湖北省・赤壁付近に陣を張った。『三国志』の巻五十四に引用される「江表傳」は――呉の孫権力の軍師周瑜(しゅうゆ)につかえる武将黄蓋(こうがい)と配下の兵たちは、敵から奪い取った軍船に油をかけた枯れ柴(しば)を隠し積んで乗り込み、降伏を装いながら帆をあげて敵船に近付いていった。頃合を見計らって枯れ柴に火をつけた軍船を敵陣へと突っ込ませた。折からの強い東南風にあおられた火は一気に魏の船団を呑みこんで焼き尽くし、さらに陸上の陣地まで延焼させて、魏軍を大敗した――と伝える。

◆魏・蜀・呉が並び立った三国時代(220280)の中国には、四番目の国というべき燕(えん)が存在した。この燕の首長は公孫淵(こうそんえん)であった。魏に接する隣国の燕は大国魏のために独立できず、公孫淵も燕王を名乗れず、魏の持節(じせつ)・揚烈(ようれつ)将軍・遼東(りょうとう)大守という地位で耐えていた。
 229年、呉の皇帝に即位した孫権(そんけん)は、魏の背後の脅威となる燕を呉・蜀天下二分連合国の味方に引き入れるため、ただちに校尉張剛(こういちょうごう)と管篤(かんとく)を燕地の遼東半島におもむかせ、軍事同盟の承諾を取り付けてくるように命令した。ところが、その説得を淵は拒否した。というのも呉との軍事同盟が魏に知れたならば、燕は魏と東夷の大国の倭軍の挟み討ちにあって滅亡すると淵は考えたからである。
 翌230年、魏を倒して中国を統一するためになんとしても燕を味方に引き入れたい孫権は、倭軍が燕の背後の脅威にならないための作線を立てた。この作線は――倭の背後の東鯷人国(とうていじんこく)に呉の水軍を遠征させれば、倭は大軍を東鯷人国の防衛に派遣するにちがいないから魏が燕討伐の協力を要請しても倭は燕地に大軍を出兵することができなくなると考えるものであった。この孫権の作線のもとに、将軍衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が率いる1万の遠征軍は日本列島に所在する東鯷人国へ目指した。しかし、呉の東鯷人国遠征は大失敗となった。というのも、紀元前1世紀にシナ天文が完成して〔天の北極〕を最も重視することになったために、呉の遠征軍は大海を渡ることが出来る唯一の方法である〔[]をキャッチする眼力と技〕を失っていたからである。海に入って間もなくして軍船は次から次へと位置(緯度)と方角(経度)が皆目わからなくなり、8割~9割の兵士たちの命は海に呑みこまれて壊滅した。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・23」にて解説したように、呉の遠征軍が目指した「東鯷人国」は「日本」と国名が改まった。日本軍は、呉軍は必ず大海を越えて襲撃してくると予想して防衛に精力をそそいでいた。
 この小国・日本の範囲は、A図に示す『万葉集』巻二十の防人歌(さきもりうた)の作者たちの出身国である東海・関東地方であった(㊟ A図に示す静岡県西部の「遠江」は倭国に属した「不呼国」であったので、小国・日本の範囲に含まれない)
 『魏志倭人伝』末部に登場する卑弥呼の宗女の13歳の壱与(いよ)が新生日本国の女王に就任した。『魏志倭人伝』の魏の正始八年(247)の記事に登場する載斯烏越(そしあお)が日本国の軍王(いくさのおおきみ)に選ばれ、壱与の夫となった。
 「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・16」で解説したように、載斯烏越は第9代開化天皇であり、『古事記』上巻に登場する伊耶那岐命である。壱与は開化帝の正妃の伊耶国(旧国の丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)であり、『古事記』上巻に登場する伊耶那美命である。

◆「壱与」と「載斯烏越」という夏音名(夏音文字による名)は、B図に示す銀河各部の形状から作られた。
 呉軍は赤壁の戦いで強風を利用した火攻めで、魏の大軍に勝利した。ゆえに、日本軍は呉軍を〔強風の呪的(じゅてき)な戦力を有する赤い火の軍〕と見立てることにした。
 それゆえ、日本軍は自らを〔大雨を降らす雷の呪的な戦力を有する青い水(洪水や大きな滝)の軍〕と定めた――雷鳴が轟いて降る大雨ならば、強風にあおられて天を焦がすほどに燃えた火で勝利した呉の無敵艦隊の呪的な戦力をも消滅できて勝てるという訳である。
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★C図に示すように、〔「十字の銀河」と「鬼の姿に似る銀河」の背景の銀河〕の形状は「強風」のごとくに観える。燃える火のように真っ赤な「北アメリカ星雲」は、C図の右下に示すように図案されて[]の字(字源・字形・字義)となった。ゆえに、「強風の銀河」と「北アメリカ星雲」は呉軍の呪的な戦力を表現するものとなった。
 「十字の銀河」は「日輪の銀河」の上にあるゆえ「載()る」、すなわち[]の字となった。左手に武器の弓・剣を持つ姿に観える「十字の銀河」はD図に示す「落雷して柝()ける木」に見立てられて[]とされた。ゆえに、「載斯」となる。というのも、『説文解字』は[]の字源を「柝くなり」と解説するからである。この「柝くなり」は「落雷して木が裂け、側撃雷で人が死ぬ」と示すものとなるので「呉軍の兵士たちを大量に殺す」と意味するものとなる。「青黒く輝く激流の銀河」が「載斯烏越」の「烏越(あお)」をあらわした。「激流の銀河」は「強風であおられた火を消す大雨による洪水や大量の水が高所から落下する大滝」のごとくに観える。このように、小国・日本の軍王「載斯烏越」は〔強風の呪的な戦力を有する赤い火の呉軍に勝利する呪力をそなえる名〕であった。

★E図に示すように、「十字の銀河の子宮」が日本国の女王名「壱与」の[]をあらわした。「十字の銀河の子宮」は〔すべての文字を生む子宮〕であったゆえ「一即多、多即一」となる漢字作成理論をあらわして[]の字義は「一」となり、また「十字の銀河の子宮」は〔雨乞いして、雷鳴轟き大量の雨が降ってくる天頂〕に見立てられた。白川静著『字統』は「与」の字源を「正字は與。上下左右の手で四方からものをもつ舁()と、与とに従う。四方より与をかつぐ形である。」と解説する。つまりE図に示すように、[()]の金文形は「十字の銀河」・「鬼の姿に似る銀河」・「東と西の二連菱形の銀河」を「上下左右の手、四方からかつぐ人々」に見立てて、[()]の中央部の[][]は「長方形の暗黒天体部北部の正方形の銀河」を図案するものであった。
 「長方形の暗黒天体部北部の正方形の銀河」には〔大量の雨が降って氾濫する洪水や大量の水が高所から落下する大滝」に観える「青黒い激流の銀河」が重なる。この「青黒い激流の銀河」の水の源は[]の字となる「十字の銀河の子宮」である。だから、「壱与」という名もまた〔赤い火の呉軍の強風の呪的な戦力を奪って勝利するための魔力〕をあらわす名であったことになる。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・19」で指摘したように、万葉屈指の歌人柿本人麻呂が作った『万葉集』429番・430番の和歌は持統上皇の吉野宮行幸が最後となった時の作品である。持統上皇の吉野宮最後の行幸は、701629日に出立し、710日に還幸(かんこう)している。(持統帝は、翌70212月に死去する)
 この行幸に参加した人麻呂は、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命の歴史の抹殺をはかる上皇に抗議して吉野川に身を投げて溺死した出雲国の乙女たちと遭遇した。701年当時、那智の大滝や『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の舞台となった熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)や熊野速玉大社が所在する〔熊野〕は「出雲国」と呼ばれていた。人麻呂が作った429番と430番は、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に登場する「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」が「現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社の参道」であると証明できる確かな根拠となる貴重な資料となる。
★溺れ死にし出雲の娘子(おとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首
 山の眉 出雲の児()らは 霧なれや 吉野の山の 嶺(みね)にたなびく(429)
〔呉の水軍が日本列島へ遠征したとき、13歳で小国・日本の女王に即位した伊耶那美命は呉軍の呪的な戦力を奪う眉(まゆ)であった。伊耶那美命によって呉軍の呪的な戦力を奪われた呉軍は大海を渡ることができずに壊滅した。夏音名が「壱与」であった伊耶那美命は、呉軍を壊滅させた「眉」の呪力をあらわして、現在は那智の大滝の精霊となる。この伊耶那美命を崇拝して慕う熊野・出雲国の乙女たちが、吉野川に入水(じゅすい)して、伊耶那美命の歴史を葬らんとする上皇に抗議して溺死した。この乙女たちは、那智の大滝の水飛沫(みずしびき)のような霧の精霊なのだ。彼女たちの死体を焼く煙は、まるで咽(むせ)びなくように、吉野山の嶺にたなびいている。〕

◆F図の中央図に示すように、「鬼の横顔に似る銀河の首(アゴと後頭部)に付く両目」は〔怒る目〕のごとくに観える。「鬼の姿に似る銀河と北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「又」の字となり、「鬼の姿に似る銀河の周辺」はF図左図に示す「女性の生殖器」に見立てられて[]の字となって[]の字が生まれ、さらに[]の下に〔心臓〕の[]が加わる[]の字も生まれた。この[]の初文は「胎児が出産するときの母体がいきみ・きばる怒責(どせき)」をあらわした。母体におこる怒責はD図に示す〔雷鳴〕のごとき大声を出す。
 G図に示すように、E図に示す「激流の銀河」は〔雷鳴が轟き大雨が降って氾濫する河川の激流〕に見立てられ、またG図に示す「激流の銀河」は「ジャコウウシの角(つの)」に見立てられた。ジャコウウシはオス・メス共に頭頂部を覆う湾曲した角を有する。この「ジャコウウシの角」見立てられた「激流の銀河」は[]の字となった。『説文解字』は[]の字源を「震ふなり。三月、陽气(ようき)動き、雷電振ふ。民の農時なり。物皆生ず」と解説する。ゆえに、[]の字となった「ジャコウウシの角の銀河=激流の銀河」は「春雷が鳴り響き大雨が降って河川が氾濫したために、堅い土が泥のように柔らかくなって原始的な木製の刃先のスキやクワでも耕作しやすくなった威力」を示すものとなった。この威力をもとに、G図に示すように「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は「ジャコウウシの目()」に観えるので、「ジャコウウシの角」は「目の上にある毛である、眉」に見立てられた。この「眉」は「戦いにあって、敵の呪的戦力を奪う巫女」をあらわすことになった。

◆持統女帝は32回も吉野宮に行幸している。このように持統女帝が頻繁に行幸したのは、夫の天武天皇と共に吉野宮にこもって半年余を過ごし苦楽を分かちあった当時を追憶するためであったとは考えられない。それというのも、夫の天武帝は吉野宮に一度しか行幸していないからである。吉野の丹生川上神(にうかわかみのかみ)は雨乞い神で有名である。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話では持統女帝が崇拝する「天照大御神」は「黄泉国の伊耶那美命」と記され、天照大御神が決行した徇葬の犠牲者は「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」と表記される。「八の雷神」すなわち「多数の18歳くらいの青年や13歳くらいの乙女たちを殺して豊かな実りを祈願する雨乞いの犠牲(いけにえ)」にした天照大御神の霊力を衰弱させないために、持統帝は雨乞い神の郷である吉野へ頻繁に行幸して祈りをささげて奉仕していたにちがいない。ところが、熊野の乙女たちが吉野川に入水して那智の大滝の精霊の伊耶那美命の呪力が栄えるように願う邪魔をした。これゆえ、持統女帝は乙女たちを火葬にせよと命じて、彼女たちの霊が那智の大滝に似つかわしくない煙にして吉野の山に空しくたなびくように処置した。
 ところが、人麻呂は429番の和歌を作って持統帝に逆らい乙女たちの霊に加勢した。だから、翌702年に人麻呂は旧国の石見(現在の島根西部)へ流されたのである。

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