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2013年8月11日 (日)

日本が滅びる・27

いつ邪馬台国論争は決着がつくのか 

201386日に発売された朝日新聞出版発行の週刊『新発見! 日本の歴史』8号の最初の46頁の3頁は、関西大学教授の西本昌弘(まさひろ)氏が執筆する。この西本教授の論題は「邪馬台国論争、決着はいつか?!」である。西本教授が論ずる46頁のうちの後半(6頁の上部)に、下記のごとく指摘する箇所があり、この指摘の文を〔Ⅰの文〕と〔Ⅱの文〕に二つに分けた。
★〔Ⅰの文〕――まず方位については、九州説が優位とされる。邪馬台国は不弥国の「南」に位置したとあるので、邪馬台国は福岡県北部から南方の九州内に存在したことになるからである。ただし、たとえば末盧国の中枢から伊都国の中枢への方位は実際には「北東」であるのに、「魏志倭人伝」では「東南」としているように、90度近い誤差を想定することが可能である。

★〔Ⅱの文〕――中国では古くは、倭国(日本)は南北に連なる島々の集まりと考えられていた。こうした地理観は明確に示す古地図として、明(みん)の建文(けんぶん)4(1402)に朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」があり、ここでは日本列島が九州を北、本州以下を南に転倒した形で描かれている。こうした伝統的な地理観に制約されて、魏使は不弥国を出航したあと「東」へ向かっているのを、「南」へ向かっていると錯覚したものと考えられる。

◆A図は、南へ伸びて90度転回する日本列島地図を描く「混一疆理歴代国都之図」の概略図である。この転回日本列島地図を、西本教授はじめすべての邪馬台国学者たちは「古くからの中国人の誤った地理観である」と断定する。
 しかしわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・26」で解説したように、【科学】が成立するように考えると「転回日本列島地理は、玄海灘を往来できた〔[]のキャッチ〕を権力基盤とする卑弥呼王朝が制定した錯覚の日本列島地理観であった」と証明される。
 したがって、古代史学は【科学】が優先される学問であるからして、上記の西本教授の〔Ⅱの文〕冒頭の「中国では古くは、倭国(日本)は南北に連なる島々の集まりと考えられていた」とする指摘は誤りとなる。だから、〔Ⅰの文〕において、現在の日本列島地図における末盧国の中枢から伊都国の中枢への90度近い誤差は、卑弥呼王朝が制定した日本列島地理の時計回りに90度ずつ移動して〔北→東・東→南・南→西・西→北〕と定める転回方位に則るものであったことになる。ゆえに、不弥国の「南」は現在方位の「東」となるので、卑弥呼が居住した王国(邪馬壱国)は現在方位にもとづくと不弥国の東の山陰出雲地方(石見・出雲・伯耆 前回・26回のブログのA図を参照)に所在したことになる。

 転回日本列島地理に則る邪馬壱国出雲地方説は、『魏志倭人伝』の全方位記事に対して一点の矛盾点も不合理な点もなく、新村出編『広辞苑』(岩波書店)が「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」と説明する【科学】が成立する。

★「混一疆理歴代国都之図」にある転回日本列島地図は卑弥呼王朝が制定した地理であったと証明されると、西本教授が「邪馬台国論争、決着はいつか?!」の5頁の下段右側で「現在、邪馬台国の候補地は関東地方から沖縄県にいたる各地に存在するが、文献史料と考古遺物にもとづく客観的な議論にたえうるのは、畿内説と九州説の二つに絞られる」と主張する意見は間違っていることになる。つまり、オセロゲームにおいてすべての白いコマが一斉に黒いコマにひっくりかえるがごとく、西本教授の主張は一切合財(いっさいがっさい)が真逆となって、現在の日本列島地図を立論基盤とする畿内説と九州説をはじめすべての邪馬台国説は〔誤読〕を駆使するところの空想であったことになる。
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卑弥呼王朝が制定した転回日本列島地理を伝える史料
 (1)
 A図の「混一疆理歴代国都之図」に描かれる日本列島地理
(2)
 『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話は『魏志倭人伝』に記述される転回日本列島地理をめぐって天照大御神と須佐之男命が不戦の誓いを結んだと伝える
(3)
 『日本書紀』崇神天皇紀にある「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を箸墓に葬った」と伝える倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻になった物語もまた、『魏志倭人伝』に記述された転回日本列島地理の〔[]のキャッチ(天頂緯度の測定)〕の秘密を素材にして作られている
(4)
 B図に示す北九州西部の松浦地方は、『魏志倭人伝』に記載される末盧国に比定される。B図における松浦地方における「北松浦・東松浦・西松浦」という地名に冠せられる「北・東・西」は時計回りに90度転回させる日本列島地理の方位規定に合致する。また、松浦地方に隣接する彼杵(そのぎ)地方においても時計回りに「北→東・南→西」というぐあいに方位は転回して、北部は「東彼杵」・南部は「西彼杵」と定められる地名が現存する。

(5) B図に示す松浦地方より東方に所在する岩戸山古墳は、森貞次郎氏の詳細な研究によって、『筑後国風土記』に記述された筑紫君磐井の墓であることが明らかにされて定説となる。『筑後国風土記』は磐井の墓の規模を「南北各々六十丈、東西各々四十丈」と記す。森貞次郎氏によれば、『筑後国風土記』の磐井の墓の規模の数字は正確に一致しているが、ただ方位の記述の東西と南北が入れちがっているという。この東西と南北の入れちがいもまた『魏志倭人伝』に記述される日本列島地理の転回方位と合致する。
(6)
 C図は静岡県浜松市北区細江町の行政区域を表示する地図の形として現存する3世紀後半に作成された丁度1千万坪の巨大な鳥の地上絵である。この大鳥の地上絵を、私は「卑弥呼」の地上絵と名づけた。「卑弥呼」の地上絵は、上記の(2)の『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話末部に登場する「遠江国造(とおとうみのくにのみやつこ)の先祖の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)」が作成した。山尾幸久(やまおゆきひさ)著『魏志倭人伝』(講談社)は「『三国志』の成立は、晋の武帝の晩年である太康年間(280289)、陳寿の著作郎時代という以上には限定できない」と指摘する。この「『三国志』魏書東夷伝末部の倭人伝」の通称が『魏志倭人伝』であるので、「卑弥呼」の地上絵と『魏志倭人伝』は同時代(3世紀後半)に作成されたことになる。
 週刊『新発見! 日本の歴史』の27頁には「滝峯(たきみね)の谷」について――浜松市旧細江町の「滝峯の谷」では突線鈕式銅鐸6点が狭い範囲から近接して出土している――と説明する。前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・26」のF図における「卑弥呼」の地上絵の胸部が6口の銅鐸が出土した「滝峯の谷」である。「卑弥呼」の地上絵を調査すると、『魏志倭人伝』に「南に伸びる」と記述された日本列島地理は〔[]のキャッチ(精密な天頂緯度の測定)〕を権力基盤とした卑弥呼王朝が制定した錯覚の地理であったことが科学的に証明される。

◆西本教授はじめ邪馬台国説学者たちの主張にもとづくと、上記したわが国に存在する6つの転回日本列島地理の史料は以下のごとくであったと考えなければならないことになる。
 (1)の「混一疆理歴代国都之図」にある転回日本列島地図は古くから抱いていた中国の人々の誤った地理観を示すものであるから、(2)の『古事記』上巻の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に登場する転回日本列島地理の秘密は中国の古い地理観を反映したものとなる。また、(3)の『日本書紀』崇神天皇紀に挿入された倭迹迹日百襲姫命と大物主神が結婚した物語は中国の地理観にもとづいて創作されたことになる。また、(4)の松浦地方や彼杵地方に現在まで残存する転回方位を示す地名は昔々中国人が指導して定められたものであったことになる。また、(5)の磐井の墓における南北と東西の入れ違いは『筑後国風土記』を編纂する時に中国人が加えた入れ知恵であったことになる。さらに、(6)の「卑弥呼」の地上絵に残存する転回日本列島地理の秘密は遠江の豪族・建比良鳥命が中国人から教わった知識を設計したこととなる。
 しかし、このような根拠や理由を証明できる確たる証拠がまったく存在しない。ゆえに、転回日本列島地図に対する邪馬台国学者たちの「古くからく中国人が抱いていた誤った地理観によるもの」という見解は空想であったことになる。

 古代史学の初歩的心得を守って先ず『魏志倭人伝』の全文章を忠実に読解して“倭女王卑弥呼が居住した王国は邪馬壱国であり、邪馬壱国は山陰出雲地方であった”と考えれば古代史学が最も優先しなければならない【科学】が成立する。さらに前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・26」で解説したように、「玄海灘」の先頭字[]の字の一点に絞って考えれば壮大な超合理の【科学】が成立し、すべての邪馬台国説が空想であることが明らかとなる。だから、邪馬台国論争の決着がつく時は――『魏志倭人伝』の全文章を忠実に読解すると【科学】が成立するという意見が市民権を得た時である。「誤読」が実体である〔文献批判〕を正しい考え方であると頑(かたく)なに信じる邪馬台国説学者たちが空想に夢中になっているかぎり永久に決着はつかない。また、空想のまま強引に決着は付けたならば日本古代史は死滅する。

◆紀元前1200年前後におこったトロイ戦争を紀元前850年ごろに生存したギリシャの詩人ホメロスは英雄叙事詩『イリアス』に記述した。学者たちは〔文献批判〕を用いて『イリアス』に記述されたトロイ戦争はホメロスが創作した空想であると決めつけて「歴史ではない」と断定した。しかし、ドイツのシュリーマンは『イリアス』に記述されたとおりの土地を発掘して、トロイの遺跡を発見した。したがって、学者たちの〔文献批判〕による意見こそが空想であったと証明された。

2009529日、朝日新聞は箸墓古墳が「やっぱり卑弥呼の墓?」という記事を報じた。この記事の根拠は、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の箸墓の堀や堤から出土した「布留0式」と呼ばれる土器の表面についていた煤を放射性炭素年代測定すると240260年であると算出したことである。そして、卑弥呼は魏の正始八年ころに没したと『魏志倭人伝』は記述し、この正始八年は西暦247年であるから「布留0式」の放射性炭素年代測定の240260年と重なるゆえ、『日本書紀』崇神天皇紀が「倭迹迹日百襲姫命を箸墓に葬った」と書く記事は無視できて「卑弥呼の墓?」であろうと、朝日新聞は報じた。
◆この報道があった日から丁度1週間後の64日、朝日新聞は1990年に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された「足利事件」の犯人とされた菅家利和受刑者が17ぶりに釈放されたと報道した。栃木県警はDNA型鑑定で女児の着衣に付着していた体液と菅家さんの体液が一致したとして、菅家さんを殺人と死体遺棄の疑いで逮捕した。菅家さんは無罪を主張したが、彼の言は無視され、2000年に最高裁で無期懲役判決が確定した。しかし、菅家さんの再審請求によって、東京高検は以前のDNA型鑑定は再鑑定の結果誤っていたと証明されたと表明して、200964日に菅家さんは釈放された。
 事実誤認・冤罪の根拠となった〔DNA型鑑定〕を“箸墓は卑弥呼の墓である”という意見の根拠となった〔放射性炭素測定の算出年代〕に見立てて、また〔菅家さんの無罪を主張した言葉〕を〔『魏志倭人伝』の全記事〕に見立てれば、『魏志倭人伝』は【科学】が成立する全文で「箸墓が所在する大和は卑弥呼が居住した邪馬壱国ではない」と明記しているので、箸墓を「やっぱり卑弥呼の墓?」と報道した朝日新聞は学者たちの空想に騙されたことになる。
2009626日の朝日新聞のメディア衆論「科学報道を科学的に論証する」という記事は足利事件に対する栃木県警と最高裁と新聞報道の在り方を反省して「足利事件は〔科学的手法(DNA型鑑定)〕と【科学】とを同一視した思い込みによって成立するものであった」と総括した。したがって、『新発見! 日本の歴史』8号の8頁・9頁の見開きの箸墓古墳を卑弥呼の墓と考えるのは空想となる。

 『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作成されたC図の「卑弥呼」の地上絵によって、『魏志倭人伝』の全文は歴史的事実を記述するものであることが科学的に証明される。このように先人が著述した文献史料の全文の内容が同時代に作成された史跡に保存されて両者が一致する状況こそ、歴史や刑事事件はじめとするすべての過去におこった出来事の真相が解明される時が到来すると定まっている。邪馬台国畿内説や九州説のように『魏志倭人伝』の文章と幾つかの点で矛盾して【科学】が成立しないままの考えを“文献批判にもとづいて正しい”と正当化するのは明らかに空想である。

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