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2013年9月20日 (金)

日本が滅びる・43

孔子にも学識の誤りが有る

◆中国の五経の第一に挙げられる古典『易経』は、「周易(しゅうえき)」とも称される。
 新村出編『広辞苑』(岩波書店)は「周易」を「三易の一。中国古代、伏羲氏の画した卦()について周の文王がその総説をなして卦辞といい、周公がこれの六爻(りくこう)について細説して爻辞といい、孔子がこれに深奥な原理を付して十翼を作った。」と説明する。
 十翼を孔子(紀元前552-同479)が作成したという説は、司馬遷著『史記』孔子世家(せいか)の「孔子晩にして易を喜び、韋編三絶」という記述によって、漢代・唐代においては疑う人がいない定説となった。

◆孔子の教えを伝える『論語』述而篇は「子曰く、我に数年を加()し、五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」と伝える。
 前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・42」では、『老子』第1章を解説した。この『老子』第1章の「名の名とすべきは常の名の名に非ず」という文の「名」は倉頡(そうきつ)が考案した「文字」のことであった。わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」に示したように、「文字」に関する個人的研究は即刻に死刑に処せられる大罪であった。
 「易」の研究には倉頡から起源した「文字」の学識が不可欠であった。だから、孔子が十五歳からおこなった学問の修養は死刑にはならない「文字」以外の研究であったことになる。これゆえ、孔子は「五十になれば、易と密接に関わる文字の研究をして即刻死刑になっても大きな誤りとはいえない」という人生観を抱いていたことになる。

◆老子は孔子よりも年上で、孔子は老子に教えを受けた。しかし、孔子より百年ほど後に生存した老子もいる。これは「老子」と呼ばれる人物は一人ではなく、今日の歌舞伎役者が先代の名を受け継いで襲名するように、「老子」という名は代々襲名される名であったと考えるべきことになる。
 ゆえに、孔子が生存した時代の初代・老子も実在した人物であったことになる。
 孔子は即刻死刑になる文字を若い時から研究する者は無謀な愚か者であると考えた。ゆえに、彼は「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」と弟子に説いた。この孔子の教えは、文字の研究に若い時から一生を捧げ、貧窮のどん底にあえぎ役人につかまって死刑になるのをおそれて日々住所不定の逃亡者となる老子は愚か者であると批判することになった。

◆老子は怒った。下記の『老子』第20章は、上記の『論語』にある孔子の「五十にして以て易を学べば、以て大過なかるべし」という教えの怒りの反論である。
 「学を絶てば憂い無し。唯()と阿()と、相()い去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と、相い去ること何若(いかん)。人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからず。荒(こう)として其れ未だ央()きざるかな。衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享()くるがごとく、春、台に登るがごとし。我れ独(ひと)り泊(はく)として其れ未だ兆(きざ)さず、嬰児の未だ孩(わら)わざるがごとし。纍纍(るいるい)として帰()する所無きがごとし。衆人は皆な余り有りて我れ独り遺(とぼ)しきがごとし。我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶悶(もんもん)たり。澹(たん)としてそれ海のごとく、
(りゅう)として止まる無きがごとし。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして鄙()に似る。我れ独り人に異なりて食母(しょくぼ)を貴(たっと)ぶ。」

 現代語訳にすると「銀河から作られた文字を研究する学問をやめてしまえば屈託なく生きることができる。孔子はハイと答えるのとアアと返事するのは格段の相違があると説くが、両者にはどれほどの差があるのというのだ。孔子が区別する善と悪にはどのような違いがあるのだ。人が畏れる死刑は、我も畏れざるをえない。逃亡生活は荒涼として、ああ際限がなく続く。人々は浮き浮きとして、まるで最高級の御馳走を受けているごとく陽気で、春の日に高台に登った物見客のように人生を楽しむ。しかし、我ひとりひっそりとして心が浮かれる状況にはなれず、いまだ笑うことを知らない嬰児のように過ごす。逃亡生活に疲れて元気なく、まるで宿無しのイヌのようだ。人々はみな裕福であるのに、我ひとり貧窮のどん底にいる。我は愚か者の心を有して、間抜けで融通のきかない頑固者(がんこもの)なのだ。世間の人々はハキハキしているのに、我ひとりうすぼんやりとして行く先どうなるのかまったく見えない。世間の人間は明快に割り切って先が見えないことは断念するが、我ひとり失われてゆく字源・原義を憂えて悶々として研究を止める決心がつかない。ゆらゆらと揺れ動く海のようにいつも心は不安定で、ヒューと吹きすぎる風のように止まることがない逃亡生活を続けている。人々は皆それぞれ役目をもって社会の一員となるのに、我ひとり頑固な田舎者のように社会からはみ出す。我ひとり人々と異なって、滅びゆく字源や原義を貴んで乳母(うば)となって守っている……。」
 司馬遷著『史記』孔子世家に「纍纍として喪家(そうけ)の狗(いぬ)のごとし」という文がある。「喪家の狗」は「宿無しのイヌ」と意味するので、『老子』第20章にある「纍纍として帰する所無きがごとし」という文は「まるで宿無しのイヌのようだ」と訳した。
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  末尾にある「食母」の意味は「乳母」である。『説文解字』は「文字」の[]の字源を「乳するなり」と解説する。A図に[]の字源銀河と契文形を示した。B図に[]の字源銀河と金文形を示した。C図に[]の字源銀河と金文形を示した。[]の上部は[(べん)]、下が[]である。[]は〔万物の情(イメージ)に類似すように作ったすべての文字を生む母体〕と定められた「十字の銀河」、また[]は〔すべての文字を生む子宮〕と定められた「十字の銀河の子宮」の図案でもある。C図の[]の字源「鬼の姿に似る銀河」を「乳児」に見立てて、A図の[]の契文形は「十字の銀河の乳を飲む乳児」を図案するものである。老子が生存した当時の王朝は倉頡が定めた掟をまもり個人的に文字を研究してはならない必ず死刑に処すると定めて厳重に独占管理していた。このため、老子・孔子が生存した当時(紀元前5、4世紀ごろ)、多くの文字の字源・原義が滅びあるいは不明になった。この現状を見過ごすができずに憂える老子は古代文字を研究した。ゆえに、老子は役人につかまって死刑になることを畏れて逃亡生活をつづけながら、弟子を募って正しい字源と字義とそして文字が示す真理や哲理を教えた。この境遇は「“文字”という子を慈しみ守る乳母」のごとくであるゆえ、老子は「食母」と表現した。
 “漢字の始祖”と定められた倉頡の伝説は「倉頡は鳥獣の足跡を考案し、はじめて文字を作り、古来(三皇時代)の結縄に代えたので、天は祝福して穀物を降らせた」と伝える。A図のおける「十字の銀河の子宮」から食べる穀物は雨のごとく降って〔地上に住む人〕に見立てられた〔鬼の姿に似る銀河の口〕に入る。だから、食べる穀物が降ってくる源となる「十字の銀河の乳房」が「食母の乳房」となり、その乳房から「食母」は「乳母」を意味することになったと考えられる。

◆孔子が作った「十翼」は「彖伝(たんでん)上・下、象伝(しょうでん)上・下、繋辞(けいじ)上・下、文言伝(ぶんげんでん)、説卦伝(せつかでん)、序卦伝(じょかでん)、雑卦伝(ざつかでん」」の十篇を一書としたものである。
 この十翼の内の『易経』繋辞下伝に、孔子は下記の漢字起源記事を残した。
 「古者包犧氏(いにしえほうぎし)の天下に王たるや、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観、近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸に物に取る。ここにおいて始めて八卦(はっけ)を作り、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して結縄(けつじょう)を作った。」
 上記の孔子が説明する漢字起源記事は矛盾の産物であり不合理きわまりないものであった。孔子は多くの字源・原義を失った当時の文字知識を多く有するものではあったが、彼は古代文字知識に精通していなかった。だから、孔子は「包犧氏が漢字を作った」と誤った学識を有した。
 包犧氏は易に用いる僅か(おそらく30種未満)の記号を考案したが、人名も地名はじめとする万物の情に類する文字作成原理を発明するものではなかった。万物の情に類する文字が作られるようになったのは、倉頡が漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明したからである。倉頡がつかえる黄帝は女性生殖器の研究をおこなった。ゆえに、倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明することができた。
 包犧氏は女性生殖器の研究をしていない。このように文字の起源に関する基本原則となった女性生殖器の研究について考えれば、包犧氏が考案した結縄では万物の情に類する文字は作れなかったと断定できる。したがって、孔子が『易経』繋辞下伝に「包犧氏が万物の情に類する結縄を作った」という誤った学識を残したのは、キーポイントとなる〔黄帝の女性生殖器の研究〕という基本知識を排除したのが原因となった。

◆上記の文中の「天象」は、その各部の形状がすべての文字の字源・字形・原義となった「万物の情に類する秋の銀河と夏の銀河」である。
 D図に示す黄河の水が河口に向かう前方にはE図に示す〔山東半島と廟島(びょうとう)列島〕が所在する。〔山東半島〕を〔鹿の横顔〕に見立てると、〔廟島列島〕は〔オス鹿の角〕に観える。また、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」シリーズの前回(42)で証明したように、〔山東半島〕は[]の字源「水鳥(カンムリカイツブリ)の横顔」に相似すると定められた。ゆえに、黄河の水は〔鹿と鳥の横顔に似る山東半島に向かって去る〕ことになる。「地法」の[]の正字は[]となった。[]は「黄河の水」の[三水偏]、「鹿の横顔」の[鹿]の下に[]、さらに下に〔水が去る〕の[]を加えられて作られる。だから、「地法」は天象の東から西へ向かっての運行と逆向きとなる「黄河と長江の西から東への水の移動」を指していることになる。
 「鳥獣の文」は、B図の[]の字源「十字の銀河」を〔すべての文字を生む万物の母〕に見立て、「十字の銀河の子宮」を〔すべての文字が生まれる子宮〕と定めた、倉頡が発明した漢字作成原理「鳥獣の足跡」の別称である。(わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」を参照)
 「地宜」は、D図・E図のような「平面的に図化した地図の形」である。

◆上記の孔子が記した『易経』繋辞下伝の文を修正すると、下記のごとくなる。
 「古者(いにしえ)倉頡は、仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観、近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸を物に取る。ここにおいて始めて四正(東・西・南・北)と四隅(東北・西南・西北・東南)の八卦が定まり、もって神明の徳に通じ、もって万物の情に類して書契(わが国では「刻木」という)を作った。」
 諺に“弘法も筆の誤り”、“釈迦にも経の読み違い”とあるように、孔子は文字の起源についての基本知識を身につければ絶対に誤るはずがない重大な学識の誤りを有していた。ゆえに、『老子』第20章の「唯()と阿()と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と、相去ること何若(いかん)」という文は「へえー、孔子は倉頡が“文字の始祖”と呼ばれる常識的な根拠・理由を知っていないのだ! 文字の始祖を包犧氏とする誤りと倉頡とする正しい知識との差は、孔子が弟子たちに格段の差があると説く唯(ハイ)と阿(アア)との返事の差よりも、善と悪の差よりも、さらに上回るとんでもない大間違いだ」と皮肉っているものではあるまいか。

◆文献史料を読解する時の基本原則は先入観を排除して、文献史料を忠実に読解することである。だから、この基本原則を厳守して『魏志倭人伝』を読解すると、転回日本列島地理や文字が存在したという記述には違和感を覚えるが、一点の矛盾点も不合理な点も存在せずに倭女王卑弥呼が居住した邪馬壱(やまい)国は現在の島根県東部の出雲であったと論理が完結して【科学】が成立する。そして、F図に示す「玄海灘」の[玄]の字を注目すると、転回日本列島地理は〔[]のキャッチ〕を基軸とする夏音文字の天文地理学による錯覚の産物であることが判明する。このように『魏志倭人伝』はすべて歴史的事実を伝えていることは、『魏志倭人伝』と同時代(3世紀後半)に作成されたG図に示す史跡の「卑弥呼」の地上絵によっても証明されるので間違いないと確信できる。
 『魏志倭人伝』は文献史料を読解するときの「先ず、先入観を排除して忠実に読解しなければならない」という基本原則を必ず守らなければならない超一級の良史である。だから、この基本原則を無視する新井白石以後の邪馬台国説研究は〔誤読〕による空想・空論・妄想となった。『魏志倭人伝』はすべての記事を忠実に読むと【科学】が成立し、違和感を覚える転回日本列島地理と文字が存在したという記述についてはなぜ倭の使節は玄海灘を往来できたかと考えれば解決できる。つまり、[]の字について考えるとさらなる【科学】が成立して論理が完結するので、『魏志倭人伝』の全記事は正しいと断定することができる。
 新井白石以来の邪馬台国説研究のように〔誤読=文献批判〕を加えるから、約280年の長い年月を費やしても、多くの人々が知恵をしぼり学識をそそぎこんでも、いっこうに論理が完結せず【科学】が成立する目途(めど)がまったく立たないことになったのである。
 倭の使節はF図に示す「玄海灘」の[]である「天頂緯度線と子午線」を測量できたゆえ、玄海灘を往来して帯方郡政庁や魏都に到着して魏との国交を結んだ。学者たちは天の北極を基準にする実際の日本列島地理を立論基盤とするが、天の北極の緯度の測定は不精確であるので倭の使節も帯方郡・魏の使節も玄海灘を往来できなかったことになる。だから、邪馬台国説の主張にしたがうと倭と魏は国交を結ぶことができなかったことになるので、約2000字で構成される『魏志倭人伝』は1字も文字が書かれていなかった白紙だったという荒唐無稽(こうとうむけい)の奇妙奇天烈な結論となり、邪馬台国説は真っ赤なウソである正体が明らかとなる。これについては、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」シリーズで幾度なく解説し、前々回の41回でも解説した。

古代史学には普遍的な法則が存在し、この法則によって歴史的事実が明らかになる。この法則は【科学】の成立である。【科学】が成立しないすべての邪馬台国説は〔誤読〕を駆使する虚妄・空想であったのである。
 
 孔子は釈迦・キリスト・ソクラテスとともに“世界の四聖”と尊敬される。この孔子さえも基本を軽んじて、「包犧氏によって漢字が起源した」と思い込む誤りをおかした。
 
 ましてや、邪馬台国説学者たちは“文献批判”と呼ぶ〔誤読〕を加えることに夢中になって文献史料を忠実に読解するという古代史学の基本原則を無視・排除するゆえ、最初の段階から【科学】がまったく成立しないことになるので必ず空論・虚妄となる考え方だったのである。

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