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2013年9月26日 (木)

日本が滅びる・46


〔愛〕を掲げて誕生した日本建国史の解明(1)

◆わがのブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・16」で解説したように、『古事記』上巻に登場する伊耶那岐命は第9代開化天皇である。
 伊耶那岐命・開化天皇は、『魏志倭人伝』末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」である。伊耶那岐命・載斯烏越はA図に示す小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)であった。
 開化天皇・伊耶那岐命の夏音名(夏音文字の名)が「載斯烏越」であった証明は「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・25」にておこなった。また、伊耶那岐命が結婚した伊耶那美命の夏音名が『魏志倭人伝』の末部に登場する壱与(いよ)であることも証明した。
 伊耶那岐命の正妃は『古事記』に登場するA図の小国・日本の女王であった伊耶那美命であり、竹野比売(たかのひめ)である。
 これゆえ『古事記』開化天皇紀は下記のごとく記載する。
 「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。この天皇が丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売と結婚されてお生みになった子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)である。また継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)と結婚されてお生みになった子の御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)である。」

開化天皇は伊耶那岐命であったゆえ、開化天皇が居住した宮殿は「伊耶那岐命」の先頭2字「伊耶」が配される「伊耶河宮」と名づけられた。したがって、正妃の竹野比売は伊耶那美命であったことになる。伊耶那美命・竹野比売が生んだ比古由牟美命は、『古事記』に登場する須佐之男命である。この証明は、後日おこなう。
 第二后の伊迦賀色許売命から生まれた御真木入日子印恵命は第10代崇神(すじん)天皇である。このブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・37」にて、崇神天皇の「御真木入日子印恵」という諱(いみな)は、『説文解字』の[]の字源解説の「箸なり」と合致して同義となることを証明した。したがって、崇神天皇の諱は奈良県桜井市に所在する「箸墓古墳」の[]をあらわす。これゆえ、崇神天皇の生母である伊迦賀色許売命は『古事記』に登場する天照大御神であったことになる。このブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて解説したように、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は伊耶那岐命に千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市磐盾町に所在する神倉神社のご神体の巨岩)の前で離縁された――と記述する。離縁されて戸籍を失ったため、天照大御神・伊迦賀色許売命は崇神天皇の祖父・孝霊天皇の娘の名を襲名して倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)を名乗った。『日本書記』崇神天皇紀は「倭迹迹日百襲姫命は箸墓に葬られた」と明記する。にもかかわらず、幾人かの学者たちは〔誤読〕に〔誤読〕を重ねて「箸墓は卑弥呼の墓である。だから、奈良県桜井市に所在する纏向(まきむく)遺跡を邪馬台国であった」と荒唐無稽(こうとうむけい)の空論を吹聴(ふいちょう)し、朝日新聞社はこの空論のお先棒を担(かつ)ぐ。
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◆『魏志倭人伝』末部の247(魏の正始八年)ころの様子を伝える記事が容易に理解できるように、敵国・狗奴(くな)国の動向や『魏志倭人伝』に記述されていない小国・日本の誕生の状況を挿入して現代語訳すると下記のごとくになる。
 「卑弥呼はすでに死んだ。大きな墓を作る。円墳部の直径は百余歩(150)。奴(ぬ╱18歳ぐらいの青年)と婢(ひ╱13歳ぐらいの乙女)の百余人を犠牲(いけにえ)にするために殺して卑弥呼の墓に埋める徇葬(じゅんそう)をおこなった。卑弥呼の後に男王が大王に就任したが、百余人の青年と乙女たちを殺した徇葬は野蛮で残酷すぎると憎悪する人民たちが反乱をおこして大王に服従しなかった。そこで倭王朝は武器を持って戦う千余人の反乱者たちを殺した。
 (この大乱に乗じて卑弥呼と不和であった狗奴国が戦争を仕掛けてきたので、国家・王朝は滅亡の危機に瀕することとなった)

 ――倭王朝は前年(234年ころ)、卑弥呼が率いる巫女界の代表として13歳の壱与(伊耶那美命・竹野比売)を小国・日本の女王に選んで赴任させていた。というのも、呉の皇帝・孫権が230年に1万の水軍を東鯷人(とうていじん)国への遠征を命令したために、この防衛にそなえなければならなくなったからである。紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文が完成したため、中国では古代中国科学体系の基軸となる〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛錬する習慣が廃(すた)れた。これゆえ、呉の遠征軍は大海に入った途端に迷い、8割から9割の兵が海に消えて壊滅した。呉軍の遠征の情報を入手した東鯷人国王は呉軍が古代中国科学体系の基軸となる〔[玄]をキャッチする眼力と技〕を失っていたことをまったく信じることが出来ず、必ず呉軍は再度来襲してくるにちがいないと思い込んだ。東鯷人国王は呉軍と戦ってもまったく勝ち目がないと判断して倭に服属することを決意し、再度来襲する呉軍にそなえる防衛を卑弥呼に要請した。卑弥呼も呉が古代中国学芸の基軸である[]をキャッチする能力を失っているということをまったく考えもしなかったので、倭の背後となる東鯷人国が呉軍に占領されることは倭国存亡の危機となって絶対に許すことはできなかったので、東鯷人国の防衛を承知した。これゆえ、234年ころに東鯷人国は「日本」という国名に改められて誕生した。現在においても13歳ぐらいの乙女は暗い銀河の箇所も観える最も澄んだ瞳の持ち主である。このため、当時、13歳の乙女は最も強い呪力(じゅりょく)を有すると信じられていた。ゆえに、強い呪力で呉軍の戦力を奪う役目の魔女の巫女(みこ)13歳の壱与が選ばれて、新生・小国日本の女王に就任した。

 壱与・伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。この日本建国の〔愛〕の理念の提唱については、「卑弥呼の逆襲・日本が滅びる・24」にて解説した。国家・王朝が滅亡の危機に瀕したゆえ、倭王朝は、この危機を救えるのは小国・日本で〔愛〕を人民に説く壱与・伊耶那美命・竹野比売以外にいないと白羽の矢を立てた。
 かくして小国・日本の女王の壱与が倭女王に就任すると、倭王朝が期待したとおりに、ついに反乱は鎮(しず)まって倭国は安定した。」

◆上記したように、『古事記』開化天皇紀は壱与・伊耶那美命・竹野比売について「丹波の大県主の由碁理の娘である」と記す。B図に示すように、旧国・丹波(現在の京都府中部と兵庫県の一部)は倭国の一員の伊邪(いや)国であった。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる白川静博士が著作する『字統』(平凡社)[]の字について「もと邪より分化した字。耶はその異体の字」であると指摘する。また、『字統』は――『説文解字』は[]について「琅邪(ろうや)郡」の字とする――と指摘する。中国の正史『後漢書(ごかんじょ)』倭伝の末部は伊耶那美命が女王として赴任したA図の東鯷人国(小国・日本)について「秦の始皇帝の時代(紀元前246-同210年在位)の方士(天文地理学者)の徐福(じょふく)一行が中国に帰還せずに日本列島の定住した地であり、3世紀において徐福一行の子孫たちは数万家になっていた」と記述する。この徐福は『説文解字』が[]を「琅邪郡」の字とした琅邪郡(現在の江蘇省連雲港市金山郡徐福村)の人である。この「琅邪郡」をあらわす[]の字を有する「伊邪」の国出身の壱与・竹野比売が徐福の子孫たちが住む東鯷人国(小国・日本)の女王となったので、『古事記』は「伊耶那美命」と[]の字を[]に代えて表記したにちがいない。
 方士(天文地理学者)の徐福が率いる一行の日本列島移住は中国古代学術の基軸となる〔[]のキャッチ〕を失う原因となったシナ天文が完成する紀元前1世紀より以前の紀元前3世紀であったので、徐福一行は無事に大海を渡ることができた。〔[]のキャッチ〕で大海を渡って移住した徐福一行の子孫が居住する東鯷人国へ呉軍は遠征しようとしたゆえ、当然、卑弥呼や東鯷人国王はじめ倭王朝をささえる王族や要人たちや巫女や神官などの学識者たちは、呉軍が古代中国学術体系の基軸となる〔[]のキャッチ〕を失って海上で壊滅するなんてまったく考えられなかった。だから、〔愛〕の理念を掲げる伊耶那美命を女王とする日本国が3世紀初頭に誕生したのである。
 

 
 C図に示すように銀河の形状で[][]の字源を調べると、[]は「十字の銀河」を「険しい山道を、杖を持って歩く人」に見立てる図案である。[]の字義は「ななめ」であるので、[]の字は「十字の銀河」の斜(なな)めにある「氾濫する川のように見える銀河」(激流の銀河)を指していることになる。C図の銀河の形状イメージにもとづくと、「伊邪国」は「川や地面から立ち上る霧の深き山里の国」であったことになる。竹野比売の出身地は“霧の丹波”といわれて有名な山里の国である。したがって、「伊邪国」は「丹波」であったゆえ、「伊邪()国の美しい女王」を略して人民は「伊耶那美命」と愛称したことになる。
 〔愛〕を熱心に説く小国・日本の女王・伊耶那美命は倭国に属する伊邪国の人であったゆえ、倭国の人々は彼女を誇りとして敬愛した。また、徇葬を憎悪した倭国の反乱者たちも伊耶那美命・竹野比売を敬愛するものであったゆえ、倭王朝が期待したとおり、反乱に参加した人民は倭女王伊耶那美命は必ずや残虐な徇葬を禁止するにちがいないと信じて武器を捨てた。ゆえに、倭国の反乱は鎮まったゆえ、『魏志』倭人伝は「国中遂に定まる」と記載する。

◆この「壱与(伊耶那美命・竹野比売)が倭女王に就任して反乱が鎮まった」と説明する記事の前に、呉軍との戦いを指揮するために壱与と結婚した載斯烏越(伊耶那岐命・開化天皇)が登場する。この記事は徇葬を憎悪する反乱に乗じて倭国に戦争を仕掛けた狗奴国を討伐する戦いを載斯烏越が倭軍と日本軍を指揮することになった事情を伝える。
 上記したように狗奴国討伐の経緯が容易に理解できるように、『魏志倭人伝』に幾つかの補足説明を加えて現代語訳すると下記のごとくなる。

――正始七年(246)ころに、朝鮮半島の馬韓(ばかん)の首長たちの反乱で魏の出張機関の帯方郡の大守・弓遵(きゅうじゅん)が戦死した。倭国は徇葬を憎悪する反乱と狗奴国との争いで、魏と軍事同盟を結びながら魏軍・帯方郡を支援する軍を出兵できなかった。そこで倭国は正始八年(247)に赴任した帯方郡太守・王頎(おうき)になにゆえ軍事同盟をまもることができなかったか、その事情を説明するために日本国の軍王の載斯烏越・伊耶那岐命を正使とする使節を派遣した。載斯烏越は倭女王・卑弥呼と素(もと)より不和の狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)と倭軍との戦況を説明してわびた。

 帯方郡太守の王頎の主な役目は魏の背後の脅威となる朝鮮半島の反乱をおさえて安定をはかることであった。この安定をはかるために、魏は朝鮮半島・諸韓国にとって背後の脅威となる東夷の大国・倭と国交を結んだ。魏は倭との軍事同盟を極めて重視した。その証拠に、魏の明帝は重病で倭の使節と面会できなかったにもかかわらず、景初二年(238)十二月、明帝は倭の使節と面会して詔書(しょうしょ)を発したという偽装をおこなってまでして、卑弥呼に「親魏倭王」という爵位を与えた。この称号は229年の西域の大国であった大月氏国(だいげっしこく)に与えた「親魏大月氏王」と、卑弥呼に与えた二つだけである。「親魏某王(ぼうおう)」の称号は、魏が外国の王に与えた最高の爵位である。このような爵位をさずかったにもかかわらず、馬韓の首長たちが反乱を起こしたときに倭は軍兵を派遣して支援しなかった。
 そこで王頎は再び朝鮮半島で反乱が起きた時に軍事同盟の約束をはたすことができるようにするため、載斯烏越に狗奴国征討を約束させた。この狗奴国討伐を確認させるために、王頎は帯方郡使の塞曹掾史(さいそうえんし)を務める張政(ちょうせい)一行を載斯烏越一行が帰還する船に便乗させて倭に派遣した。
 卑弥呼に金印紫綬(しじゅ)を授けると約束した明帝は239年に死去して、魏帝は斉王が受け継いだ。帯方郡の使節・張政一行は魏帝・斉王の詔書と魏軍の軍旗である黄幢(こうどう)を景初二年(238)に魏都に到着した倭の外相の難升米(なしめ)に、狗奴国討伐が成就するまでのあいだ仮に授けることにした。そして、張政は「東夷諸国が安定するためには狗奴国討伐は必要不可欠である」と告げ喩(さと)す檄(げき)・軍書を作って狗奴国討伐の開始を倭女王の壱与・伊耶那美命に求めた。
 しかし、壱与・伊耶那岐命は狗奴国討伐に反対し、狗奴国と交渉して平和的に解決すべきであると主張して、張政の檄文の告喩に従うことを拒絶した。

◆壱与・伊耶那美命は〔愛〕を人民に説く女王であった。だから、狗奴国討伐を頑(がん)として認めなかった。
 しかし、彼女の夫の載斯烏越・伊耶那岐命は狗奴国討伐を帯方郡太守の王頎と約束するものであったので狗奴国討伐を主張した。また、第二后の天照大御神も狗奴国討伐は当然であると主張した。
 『古事記』開化天皇紀は、開化天皇の妻は「(1)正妃の竹野比売(伊耶那美命)の他に、(2)伊迦賀色許売命(天照大御神)(3)意祁都比売命(おけつひめのみこと)(4)鸇比売(わしひめ)の4人いた」と記す。つまり、この4人の妻たちは呉軍との戦いは数年に及ぶにちがいないと予測して正妃の竹野比売が没しあるいは捕虜になった時に、呉軍の戦力を奪う魔女(巫女)の代役をつとめる女性たちであったことになる。
 帯方郡使の張政が檄文を作って告喩(こくゆ)する狗奴国討伐は魏との軍事同盟との約束事であったので、伊耶那岐命・竹野比売の拒絶は卑弥呼が結び載斯烏越が王頎と約束した魏との軍事同盟における約束をはたさないことになった。そこで、倭王朝は急遽(きゅうきょ)、第二后の天照大御神・伊迦賀色許売命を狗奴国討伐の倭女王「壱与」の代役に選んだ。
 このような経緯があったゆえ、『魏志倭人伝』末部は「難升米に拝仮(はいか)し、檄を為(つく)り之(これ)を告喩せしむ」という文の後にも、再度「政等、檄を以(もっ)て壱与を告喩す」と記述する。つまり、『魏志倭人伝』は「倭女王・伊耶那美命が狗奴国討伐を拒絶したため、張政は二度も檄を作る羽目になった」と説明している。
 したがって、後者の「政等、檄を以て壱与を告喩す」という文中の「壱与」は、狗奴国討伐の倭女王伊耶那美命の代役をつとめた「天照大御神」であったことになる。

◆『魏志倭人伝』末部にある「政等、檄を以て壱与を告喩す」より以後から最後までの文章を現代語に訳すると下記のごとくになる。
 ――壱与・天照大御神は、倭の大夫・率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(ややこ)等二十人を派遣して、帯方郡使の張政一行を船に乗せて帰還させた。さらに、掖邪狗一行は旅をつづけて魏都・洛陽(らくよう)に到着し、男女の生口(せいこう)三十人を献上し、白珠(真珠)五千孔、青い大きな句珠(翡翠╱ひすいの宝石)二枚、異文(いもん)の雑錦(ざっきん╱魏の楷書と異なる夏音文字を文様とする錦であろうか)の二十匹を献上した。
 この文中に登場する三十人の「生口」は狗奴国を討伐したと証明するために捕虜となった狗奴国の人々であろうか。しかし、捕虜となる狗奴国の人々は船上で抵抗して暴れあるいはスキを見て海に身を投げて自殺する人々もいたと思われるので、二十人の掖邪狗一行が三十人の捕虜を船に乗せて魏都まで届けるまでに多数の捕虜を失うにちがいないので貢物として礼を欠く不適当・不都合なものとなる。それゆえ、[生口]は逃亡することができない「討伐された狗奴国の人々の赤ん坊」であったのではあるまいか。当時、魏においても子授け祈願してまで子を欲しがる王族が多数いたと推定されるので、赤ん坊は貢物として魏では歓迎されたのではあるまいか。

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