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2013年9月30日 (月)

日本が滅びる・48

〔愛〕を掲げて誕生した日本建国史の解明(3)

 

◆『魏志倭人伝』末部の魏の正始八年(247)の記事に「激(げき)を為(つく)り之(これ)を告喩(こくゆ)せしむ」という文と、さらに後ろに「また卑弥呼の宗女の壱与(いよ)、年十三で王となりしを立てて、国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す」という文がある。
 この二度にわたって帯方郡使の張政(ちょうせい)が檄文(軍書)を作って、『魏志倭人伝』が「倭女王の卑弥呼と素(もと)より和せず」と記述する狗奴(くな)国討伐を倭女王・壱与に告喩したと伝える――この秘密については、前々回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・46」にて、一度目は倭女王・壱与は伊耶那美命(伊耶那岐命・のちの開化天皇の正妃)を告喩するために作った檄文であり、二度目は倭女王・壱与は伊耶那美命の代役をつとめた天照大御神(伊耶那岐命・のちの開化天皇の第二后╱伊香色謎命・倭迹迹日百襲姫命)を告喩するために作った檄文であることを証明した。

◆前回の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・47」のブログで、卑弥呼と素より不和であった倭の敵国の狗奴国の範囲は、A図に示す現在の広島県東部(旧国の備後東部)・岡山県(旧国の備中・備前・美作)・香川県の小豆島(しょうどしま)であると指摘した。
 B図に示す〔児島半島〕は、天敵のオオカミに襲撃されて逃げるC図の「ジャコウウシの後ろ姿」または「子どもを中心に隠して円陣を組む端となるジャコウウシ」に見立てられた。D図右図に示すように、ジャコウウシのオス同士は突進して角をつきあわせてものすごい力で争う。D図左図に示す胎児の頭はものすごい母体の腹圧のものすごい力で、狭い子宮口を通過する。狗奴国討伐がおこなわれた247248年当時、わが国では鍬(くわ)や鋤(すき)の刃先は原始的な木製で、製鉄がおこなわれておらず鉄製の刃先ではなかった(伊耶那美命が没した260年ころ、製鉄に成功して鉄製の刃先が作られた)。ゆえに、[]は「木製の鍬や鋤の刃先でも堅い地面を耕すことができる、ジャコウウシのごとくものすごい力を有する太い腕と屈強な肉体の持ち主の働き盛りの18歳くらいの若者」を意味した。[]の字源「ジャコウウシ」は[][]の字源でもあり、中国の五帝時代ではジャコウウシは天地の鬼神に祈願する際の完全なる犠牲(いけにえ)とされた。わが国には[]の字源の「ジャコウウシ」は生息していなかったので、同じく[]の字源となる「ものすごい力を有する18歳くらいの青年」が卑弥呼の墓を作る時の犠牲となった。
 B図の「小豆島」の地宜(ちぎ╱地図の形)[]、「児島半島」の地宜は「ジャコウウシの後ろ姿」に類似すると見立てられて[]、「児島半島より北側の岡山県東部の範囲」は「ジャコウウシの円陣」に見立てられて[]、「児島湖・児島湾」はE図の「女性の生殖器の側身形」に見立てられてD図左図の「狭い子宮口を通過することができる母体の腹圧のものすごい力」を連想して[]となった。
 だから、B図の「小豆島と岡山県の地宜」は「狗奴国」の中心部であったことになる。

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661年、斉明天皇は船団を組んで、新羅・唐と戦う百済の要請を受けて朝鮮半島遠征を決意して九州へ向かった。この船団が印南国原(いなみくにはら)の南方の播磨灘を通過する時、皇太子の中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智天皇)は天照大御神が考えた狗奴国討伐の呪術儀式を題材にする『万葉集』13番の大和三山(天の香久山・畝傍山・耳成山)を詠む和歌と14番・15番の反歌を作った。
 「印南国原」は「現在の兵庫県加古郡および加古川市から明石市にかけての一帯」であったといわれる。加古川市と明石市の南の播磨灘の西方には小豆島が所在する。
 「印南国原」は『古事記』中巻の孝霊天皇紀に「針間(はりま╱播磨)の氷河(ひかは)の前に忌瓮(いはひへ)を居()えて、針間を道の口として、吉備国の言向(ことむ)け和(やは)したまひき」と記述された、天照大御神が考えた狗奴国(吉備国)討伐の呪術儀式に因む地域一帯をいう。つまり、「印南国原」は「ジャコウウシが生息する厳寒のツンドラ(凍土)地帯」に見立てられた地域であった。ゆえに、『古事記』孝霊天皇紀に記載された狗奴国討伐儀式の忌瓮が据えられた場所は「氷河」(現在の兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘の下を流れる加古川は氷河岬といわれていた)という[]という字が名に付く地が選ばれた。

◆『万葉集』13番 中大兄皇子の三山(みつやま)の歌一首
 「香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄男(おお)しと 耳梨(みみなし)と 相争(あひあらそ)ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」
 F図に大和三山を示した。『古事記』上巻の伊耶那美命の死と火之迦具土神(ひのかぐちつちのかみ)説話は、伊耶那美命の臨終場所を「香山(かぐやま)の畝尾(うねび)の木本(このもと)に坐(いま)す、名は泣沢女神(なきさはめのかみ)」と記述する。この文は「伊耶那美命は多武峰の山並みがつづく端山となる天の香久山の麓の畝尾(北端)に近い泣沢女神社で臨終した」と意味する。この「泣沢女神」は天の香久山の麓の北端の東北にある奈良県橿原市に所在する「哭沢神社」であったと考えられる。
 『古事記』上巻の伊耶那美命の臨終場所「香山の畝尾の木本に坐す、名は泣沢女神」と記載する文から、「香具山」は「伊耶那美命」を象徴し、「畝傍山」は「伊耶那岐命」を象徴することになった。
 『日本書紀』崇神天皇紀は天照大御神・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)について「聡明で、よく未然(みえざること)()りたまへり(よく先々の事を予知された)」と記述する。白川静著『字統』(平凡社)[]の字について「聡明とは、耳目の明察なるをいう」と解説する。
 G図の右図の「北アメリカ星雲・ペリカン星雲」は〔ジャコウウシの角〕に類似すると見立てられ、「長方形の暗黒天体部」は〔ジャコウウシの目や頬の部分〕に見立てられて、「鬼の横顔に似る銀河の後頭部に付く目の銀河」は、左図の「ジャコウウシの耳」に相当すると定められて[]の字源となった。だから、右図の「目」が左図の「耳」に相当すると定められたので、この字源の秘密を知らなくても白川静著『字統』は「聡明とは、耳目の明察なるをいう」と解説することになったのである。
 冬に近づくと、ジャコウウシの群れは雪の浅い、風で雪が吹き飛ばされた地表の露出した餌場(えさば)へと向かう。G図の右図の「長方形の暗黒天体部」は「餌場」に見立てられた。大吹雪になると、見晴らしの良い高台に移動して、天敵オオカミの接近を事前に察知できるように備えてジャコウウシは聡明である。
 これゆえ、『日本書記』崇神天皇紀が「聡明で、未然を識りたまへり」と記載する文から、「耳梨山」は「天照大御神(伊香色謎命・倭迹迹日百襲姫命)」を象徴することになった。

◆上記の中大兄皇子が作った『万葉集』13番を現代語に訳すると下記のごとくなる。
 「帯方郡の使者張政は檄文をもって告喩したが、天の香具山で象徴される伊耶那美命は張政の檄文の告喩を拒絶して狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を主張した。しかし、畝傍山で象徴される夫の伊耶那岐命は武力で征伐すると主張し、耳梨山で象徴される皇祖・天照大御神もまた狗奴国討伐を主張した。結局、伊耶那美命の代役をつとめて天照大御神が狗奴国討伐の魔女になって、伊耶那岐命が日本軍と倭軍を指揮して狗奴国を討伐して滅ぼした。伊耶那美命は“夫は雄々しすぎる”と言って悲しみ嘆いた。このように昔から男女の三角関係の争いは絶えないものであって、今も吾と弟の大海人(おおあま╱のちの天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようと争っている。」

13番の長歌の14番の反歌は、下記のごとくである。

「香具山と 耳梨山と 相(あひ)し時 立ちて見に来()し 印南国原」

現代語に訳すると「狗奴国と平和的解決を欲求する伊耶那美命(香具山)と狗奴国を壊滅すべしと強く願った天照大御神(耳梨山)が争った時、この状況を心配した出雲の阿菩(あほ)の大神が見に来たという有名な印南国原が、いま、眼前に見える!」
 『播磨国風土記』揖保(いいほ)郡上岡里の条は「出雲の阿菩の大神が三山の争いを心配して印南国原に来る途中に、争いがやんだと聞いた」と伝える。
 このブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」シリーズにおいて、幾度となく指摘したように――『魏志倭人伝』は倭女王の卑弥呼が居住した王国の名を「邪馬台国」と記さず、「邪馬壱(やまい)国」であったと書く。このように先入観を一切排除して『魏志倭人伝』に「邪馬台国」はじめとする〔誤読=文献批判〕を一点も加えなければ、一点の矛盾点も不合理な点が存在しないで完全なる【科学】が成立する。この【科学】が成立する卑弥呼が居住した「邪馬壱国」は「出雲地方の島根県と鳥取県西部(旧国の石見・出雲と伯耆)」であり、邪馬壱国の中心地は出雲(島根県東部)であったことになる。そして「卑弥呼の逆襲・日本が滅びる・20」にて、出雲大社の裏山(八重山)の直径は『魏志倭人伝』の「卑弥呼の墓の円墳部の直径は百余歩(150)」という記事に合致するので、後円墳の形となる出雲大社の裏山と前方墳の形に相似する境内が卑弥呼の墓の跡地であったと推定した。

『説文解字』は「大陵を阿と曰()ふ」と解説する。「卑弥呼の墓」は、まさに[阿]の字源「大陵(大きな陵墓)」である。だから、「出雲の阿菩の大神」は「卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢を殺して埋葬する徇葬を指揮した巫女の女王」であったにちがいない。
 邪馬壱国の伯耆(鳥取県西部)の西伯郡大山(だいせん)町と淀江(よどえ)町の境に孝霊山があり、山麓は古墳の密集地である。『古事記』孝霊天皇紀には、『魏志倭人伝』末部に記載される狗奴(吉備)国討伐記事がある。そして、伊耶那岐命の祖父の第7代孝霊天皇は長寿であり、伊耶那岐命の父の第8代孝元天皇は短命であった。ゆえに、『魏志倭人伝』が「卑弥呼すでに死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇ずる者奴婢百余人。更に男王を立てしも国中服さず。更に相誅殺(ちゅうさつ)す。時に当たりて千余人を殺す」と記載する卑弥呼の没後の後を継いで徇葬を憎悪する反乱がおきたために倭王の座を退いた大王は、老齢の孝霊天皇であったにちがいない。ということは、孝霊天皇が倭の大王を即位した時代に卑弥呼の墓が作られたので、徇葬を指揮した巫女の女王「出雲の阿菩の大神」は孝霊天皇の娘の「倭迹迹日百襲姫命」であったことになる。
 
 「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・37」で解明したように、伊耶那岐命の第二后の天照大御神は崇神天皇の生母の伊香色謎命であり、彼女は『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話で伊耶那美命の墓を作る時に多数の奴婢を殺す徇葬を決行して、千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市の神倉神社のご神体の“ごとびき岩”)の前で離縁を言い渡されて戸籍を失った。

上記したように、「出雲の阿菩の大神」は「孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命」であった。吉備(狗奴)国討伐の時に天照大御神と伊耶那美命との争いを心配して阿菩の大神が見に来たので、出雲の阿菩の大神と同様に徇葬を決行したために伊耶那岐命に離縁された天照大御神・伊香色謎命は阿菩の大神の「倭迹迹日百襲姫命」という名を受け継いだのである。

◆『万葉集』13番の長歌のもう一つの反歌の15番の短歌は、下記のごとくである。
 「わたつみの 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日(いりひ)さし 今夜(こよい)の月夜(つくよ) さやけりこそ」
 現代語に訳すると、「吉備(狗奴)国討伐された時に翻(ひるがえ)った魏軍の軍旗・黄幢(こうどう)のように、播磨灘の入日が刺すたくさんの旗雲は金色に輝く。この豊旗雲を眺めていると、[]の字源のジャコウウシが入日となる夕刻の薄明(うすあかり)の中でスゲや地衣を食べて脂肪の蓄積に精を出す神秘的な光景が連想される。今夜の月はさぞやさわやかであるにちがいない。」となる。
 15番の短歌の3句目の「入日さし」は「入日がさす夕方の薄明の中で動き回って働くジャコウウシの習性」を詠むものである。
 『万葉集』15番の短歌には「右の一首の歌は、今考えてみるに、反歌らしくない。ただし、旧本ではこの歌を反歌として載せている。それで今もやはりこの順序で載せておく。また『日本書紀』には「皇極(こうぎょく)天皇の四年、天智天皇を立てて皇太子とされた」という注が添えられる。
 中大兄皇子の生母の第35代皇極天皇(642645在位)は、新羅・唐と争う百済の要請を受けて朝鮮半島遠征を決意して九州へ向かった後の第37代斉明天皇(655661在位)である。皇極天皇4(645)614日、中大兄皇子は皇太子を即位した。
 『万葉集』15番の注にある「旧本」は「『万葉集』の原典や古い時代の写本」ということになる。だから、『万葉集』もまた『魏志倭人伝』と『古事記』上巻と同じく「漢字は銀河から作られた」、「わが国には夏音文字が伝来していた」と伝える文献史料でもあったのである。

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