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2013年10月 6日 (日)

日本が滅びる・51

〔愛〕を掲げて誕生した日本建国史の解明(6)

 

◆『万葉集』は『古事記』上巻に代わって作成された遺産である。だから、歴史の秘密を解明できる史料にもなる。
 『万葉集』は『古事記』上巻のテーマ「日本建国の〔愛〕の理念」と重大な政治基盤と古代日本の科学と文字と芸術の基盤となった「夏音文字の学芸」を伝える和歌集である。したがって、『万葉集』の第一巻から最終の第二十巻までには〔愛〕を詠む和歌が多数収められ、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に「後稍(のちやや)夏音を習う」と記載された夏音文字が記載されることとなった。
 『新唐書』日本伝は「後稍夏音を習う。倭の名を悪(にく)み、あらためて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し、ゆえに名となすと。あるいはいう、日本はすなわち小国、倭の并(あわ)すところとなる。」と記述する。
 日本列島の日が出ずる東端に所在する小国・日本は、女王伊耶那美命が国作りの柱を〔愛〕と定めて建国された。伊耶那美命の夫の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命は倭女王天照大御神の多数の青年男女を殺して伊耶那美命の墓に埋める徇葬(じゅんそう)に反逆するクーデターを決行し、千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市磐盾町の神倉神社のご神体の“ごとびき岩”)の前で伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の継承をあらわして「吾一日に千五百の産屋立てむ」と宣誓した後、大国倭(西日本)と小国・日本を併合した。これゆえ、千引石の前の誓いとその後の日本建国の〔愛〕の理念を継承する政事をおこなった事績にもとづき、彼の天皇名は「開化」とされた。
 A図に示すように「開化」の[]の字源は「母体の子宮で育つ胎児[]180度回転する様子」である。B図に示す「頭が誕生する娩出期(べんしゅつき)の新生児」が[]の字源となる。C図に示す[]の契文・金文の両字形に相似する「女性の骨盤と大腿骨」は[]の字源となった。[]の字源はこの世に生きる人の形となる第一歩のD図に示す「頭が誕生する娩出期の新生児」であった。ゆえに、千引石の前で天照大御神が行った徇葬を憎悪して「吾一日に千五百の産屋立てむ」と誓った伊耶那岐命の天皇名は「開化」となった。

『古事記』上巻と『日本書紀』神代紀には小国・日本がどこであったか明示されていない。このため、『万葉集』巻二十の43214436番までの116首の防人歌で、小国・日本はE図に示す防人たちの出身国であったと表示された(ただし、D図の左下の「遠江(静岡県西部)」は倭国に属する小国「不呼(ふこ)国」であった)
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◆“皇祖・天照大御神が残虐な徇葬を決行した歴史を削除するために、この史実が明白となる日本建国の〔愛〕の理念の歴史を抹殺するなんてことは絶対に許されるものではない! 真実は葬ることはできない”という情念と信念のもとに、万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)は多数の和歌を作った。
 憶良が作った作品で最も有名な和歌は、下記の『万葉集』803番である。
「銀(しろがね)も 黄(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも」
 この「子どもが最も優れる宝」と詠む和歌は明確に日本建国の〔愛〕の理念を表現するものとなる。

◆中国の正史『新唐書』日本伝が「後稍夏音を習う云々」と記述する――この702年に派遣された日本国の遣唐使の最下位の幹部は、山上憶良であった。
 憶良が遣唐使として中国に滞在した時に作った和歌は「山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)、大唐(もろこし)に在る時に、本郷(もとつくに)に憶(おも)ひて作る歌」という題詞がつく下記の『万葉集』63番である。
「いざ子ども 早く日本へ 大伴の 三津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ」
 この和歌は「さあ遣唐使と船乗り諸君、国号が“倭”から“日本”へと生まれ変わった本国へ、早く帰ろうではないか。難波の港を出帆する時に見えた大伴氏の所領である三津の浜に生える松の木もさぞや待ちわびているであろう」と意味する。

「子ども」でもない「大人の遣唐使と船乗り」を「子ども」(原文は「子等」)と表現したのは――遣唐使と船乗りたちは伊耶那岐命が千引石の前で「吾一日に千五百の産屋立てむ」と述べた宣誓が母親となって生まれた子であったからである。
 二句の「早く日本へ」は「千引石の前で〔愛〕の宣誓をした伊耶那岐命が倭と小国・日本を併合した大王は開化天皇であった」と表現することになる。
 二句の「日本」を「やまと」と読む意見が定説となる。しかし、702年の遣唐使は国号を「日本」に改めたことを中国王朝に報告して承認を得る使節であった。だから、「日本」は「やまと」ではなく、当然憶良は「日本」を「にほん」と発音して詠んだことになる。なぜならば「日本」を「やまと」と読むと、中国に派遣された遣唐使が担っていた役目が「日本(にほん)」という国号の改称ではなかったことになって矛盾するからである。
 「日本」を「にほん」と読むと皇祖天照大御神が残虐な徇葬をおこなった歴史が解明できる突破口となる。だから、憶良が作った『万葉集』63番の和歌の「日本」を「にほん」と読むことができなくなり、「やまと」と読まれることになった。この理由は明白で、初句の「いざ子ども」は――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「黄泉国の伊耶那美命」の正体は「皇祖の天照大御神」であり、天照大御神が多数の青年男女を殺して犠牲(いけにえ)にする残虐な徇葬をおこなった――と史実を伝えるものだったからである。「日本」を「にほん」と読むと皇室と律令国家体制が厳重に禁止した歴史の秘密を暴露するという罪を問われる、皇室に歯向かう反逆者となった。だから、「日本」は「にほん」と読むことができず、「倭(やまと)」と読むことになったのである。

◆『万葉集』巻五の892番の「貧窮問答の歌一首」の長歌と893番の短歌は、山上憶良の作品である。
 892番の長歌は下記のごとくである。ただし、ルビは出来るだけ省略する。ルビなしで読めない文字は図書館や購入した『万葉集』の訳本で調べていただきたい。
「風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに 然(しか)とあらぬ 鬚かき撫でて 我を除()きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) ひきかぶり 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 吟(こよ)び泣くらむ この時は いかにしつつか 汝()が世は渡る 
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾()がために 狭()くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 我()がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾()のみや然(しか)る わくらばに 人とはあるを 人並みに 吾(あれ)も作るを 綿もなき 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ 肩にうち掛け 伏せ廬(いほ)の 曲げ廬の内に 直土(ひたつち)に 藁解(わらと)き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竃(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には、蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)ぐ ことも忘れて 鵼鳥(ぬえどり)の のどよひ居()るに いとのきて 短き物を 端(はし)切ると 言へるがごとく 楚(しもと)取る 里長(そとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで、来立ち呼ばひぬ かくばかり 術(すべ)なきものか 世の中の道」

◆上記の『万葉集』892番の長歌を現代語訳すると、下記のごとくなる。
「風まじりに雨が降る夜や雨まじりに雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、堅塩を少しずつ取って食べ、糟湯酒をすすって、咳こみ鼻をぐずぐずさせて、この俺をさしおいては人間らしい人間はおるまいと威張ってみるが、非情に寒いので麻の夜具を引きかぶり、粗末な袖無し肩衣などをありったけ重ねて着ても、寒い夜はどうにもならない。それなのに、この俺よりももっと貧しいきみの父母は飢え凍えているにちがいない。きみの女房や子どもたちは泣きじゃくっているにちがいない。こんな時に、きみはどんな風に暮らしているのだろうか。
 天地は広いというが、俺のために狭くなったのか、おてんとさんやお月さんは明るいけれど、俺のためには照ってはくだらさないのだろうか。誰でもみんなこういう状況なのか。俺だけがこういう状態なのか。たまたま人として生まれて、人並みにおれも田に棉を作っているのに、その綿もない袖なし肩衣は海松(みる)のようによれよれと襤褸(ぼれきれ)となったものを肩に掛け、押しつぶされ、へし曲がった小屋のなかに、地べたに藁を解(ほど)いて敷き、父母を上座の枕の方に女房や子どもは下座の足の方に、俺を取り囲んで悲しみ愚痴(ぐち)って生きている。かまどには煙が立つこともなく、米を蒸して食べる飯を作る甑の中にはクモが巣を作る。飯を甑でふかして食べる習慣をすっかり忘れて、鵼鳥が鳴く声のように恨めしく暗く沈みこんで細々と生きていると、“とりわけ短いものを、さらにその端を切る”という諺のように、鞭(むち)を手にもった里長のヤツの大声が寝間までとどき、喜べ! お前は目出度く天皇(すめらみこと)につかえる兵士になれたぞと俺を呼ぶ。これほどまでに、どうしようもないものなのか、世の中の道というものは。」

◆『万葉集』892番の貧窮問答歌の反歌の893番は下記のごとくであり、左側には「山上憶良頓首錦上す」という添え書きが付く。
「世の中を 憂()しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」
 この反歌は「世の中は憂え悩ましいことが多く立ち去りたいと思うけれど、飛び立って世の中から離れることはできない。鳥ではないのだから。」と意味する。
 この反歌の鳥は、F図の左側に示す鳰(にお╱カイツブリ)であると考えられる。F図の右側に示す巨大な夏の銀河は鳰の姿に呼応して、日本最大の湖は古称が“鳰の海”の琵琶湖であるからだ。
 前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・50」において、岡本天皇(舒明天皇の皇后の宝皇女・のちの皇極天皇・斉明天皇)が作った『万葉集』487番の反歌「近江道(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日()のころごろは 恋ひつつもあらむ」に詠まれる「鳥籠の山」は花の窟(日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命が葬られた墓)と同経度(東経1365)の、H図に示す近江の鳰の海に浮かぶ「沖島(おきのしま)」であり、「不知哉川」は彦根市の南端の「愛知川(えちがわ)」であると解明した。
 琵琶湖が“鳰の海”と呼ばれたのは、G図に示すように〔浮巣から水中へ飛び込む鳰の親鳥の姿〕に相似するからである。また、F図右側の夏の銀河における鳰の頭・顔の形が不明確な状況に呼応して、G図に示す琵琶湖の鳰の頭・顔の部分(琵琶湖大橋より南の湖の形)が鳰の頭・顔に相当することは察知できるが鳰の頭・顔に類似しない。
 G図に示すように「野州川から彦根の大鳥の地上絵の頭部までの地域」は「浮巣」に相当する。
 鳰の雛はニワトリのように親鳥の腹の下に入ることができないので、羽の内側から背中に乗る。「沖島」は〔鳰の親鳥の背中に乗る雛〕に見立てられて「鳥籠」と表現された。
 親鳥が巣を離れるときには、すばやく巣材の一部を卵の上にかぶせて、卵を完全に隠す。すると浮巣はただの枯れた水草の塊となってしまい、巣であることはほとんど気づかれない。だから、「卵を餌にする天敵から守るため、鳰の親鳥が卵を巣材で隠して知られないようにする」の「知られないようにする」が「不知哉」という語になったのである。

◆上記した「貧窮問答の歌」に登場する貧困者は、どん底生活にあえぐ農民出身の兵士を詠むものであったにちがいない。というのも、貧しい境遇に育った憶良は筑前の国守に就任し、征隼人持節(せいはやとじせつ)将軍に任命された大伴旅人が率いる兵士たちや、難波港に集合して備前の大宰府(ださいふ)に到着した東国の防人たちと直に会っていて彼等の貧しい農民生活を知っていたからである。
 憶良は「貧窮問答の歌」と反歌で“日本建国の〔愛〕の理念が失われた”と激しく怒って悲嘆する。というのも、反歌の末尾に「頓首謹上す」と記して憶良が差し出した相手は、舎人(とねり)皇子(676735)であったからである。
 舎人皇子は、残虐な徇葬を決行した皇祖天照大御神が千引石の前で「日本国の人民を、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さん」と誓って祟った政事をおこなった歴史が明白となる〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史を後世に伝える史書の『古事記』『日本書紀』の作成を指揮し、『続日本紀』聖武天皇紀の天平八年(736)1111日に記述されているように『万葉集』編纂を企画した。このように皇室と律令体制が躍起になって抹殺しようとした歴史を舎人皇子が後世に残す事業に一生をささげた――この事実は『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『万葉集』に収録された舎人皇子に関する記事を選んでまとめると明白となる。
 舎人皇子が強大な皇室・律令体制の権力に立ち向かった反逆の一生は〔誤読〕を学術に捏造する方法から生まれた空想・日本神話虚構説によってことごとく排除されて、現在の日本国民は皆が皆知らない。
 舎人皇子の一生を調べれば、戦後に確立された日本神話虚構説は〔誤読〕を駆使して立論した妄想・空想であることが何人にも否定できない事実となる。
 
 次回は山上憶良が舎人皇子を主君と仰ぎ敬愛していたことについて明らかにする。

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