G-T0XYQT12LL 日本が滅びる・56: 卑弥呼の逆襲

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2013年10月16日 (水)

日本が滅びる・56

伊耶那岐命と伊耶那美命の二度の結婚の秘密解明(2)

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命と伊耶那美命神話は、淤能碁呂島(おのごろしま)の聖婚(せいこん)説話から始まる。前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・55」において――当時は原始的な木製のスキやクワの刃先で農地を耕すために雨が降って堅い地面が淤(どろ╱泥)のように柔らかくなることを人々は願い、卑弥呼王朝が日本列島は東ではなく南に伸びると転回日本列島地理を制定していたので、[]と「碁呂(ころ╱転)がる」から「淤能碁呂島」と言った――と説明した。
 この「淤能碁呂島」の説明は大まかで正確性に欠ける。もう少し正確性を加えると、前回(55)の「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」で解説した「伊耶那岐命と伊耶那美命が二度結婚した〔船を覆せた形〕に見立てられた2ヵ所の地域」が「淤能碁呂島」ということになる。A図の播磨平野と淡路島は、二度目の聖婚における淤能碁呂島である。

◆「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・25」で解説したように――『魏志倭人伝』の末部に「卑弥呼の宗女の壱与(いよ)13歳で王となった女性を倭女王に立てた」と記述される「壱与」は「伊耶那美命」であり――「開化天皇の正妃であった伊耶(いや)(丹波)出身の竹野比売(たかのひめ)」である。また、『魏志倭人伝』の末部に登場する「載斯烏越(そしあお)」が壱与・伊耶那美命と結婚した「伊耶那岐命」であり後の第9代「開化天皇」である。
 「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・23」で解説したように、伊耶那美命が女王となって就任した小国は「日本」であった。
 208年におきた中国の戦争史で有名な赤壁(せきへき)の戦いにおいて、わずか5万の呉・蜀(しょく)の連合軍は80万の魏軍を撃破した。この劇的な大勝利の中心的な役割を、2万の呉の水軍が担った。
 『三国志』呉書孫権伝は「呉の黄竜2年(230)、皇帝の孫権(そんけん)は将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に夷州(いしゅう)と亶州(せんしゅう╱澶洲)に分かれる東鯷人(とうていじん)国への遠征を命じた。このときの武装兵は一万であった」と記述する。2万で80万の魏軍を撃破した呉の1万の水軍は40万の魏軍に匹敵するので、この呉の無敵艦隊の遠征を知った東鯷人国王はまったく勝ち目がないと考え、卑弥呼が統治する隣国・倭国に服属するかわりに、東鯷人国の防衛を取り付けた。

◆当時は敵軍の戦力を奪う呪力が最も優るのは13歳の乙女であると信じられていたので、卑弥呼が率いる巫女界を代表して13歳の壱与・伊耶那美命が東鯷人国改めて新生・小国日本の女王に選ばれた。また、呉軍との戦いを指揮する軍王(いくさのおおきみ)に載斯烏越・伊耶那岐命が選ばれた。当時は18歳くらいの青年が最も強い武力・武運を有していると信じられていた。ゆえに、軍王の名にある「烏越(あお)」は「青」すなわち「青年」を意味したので、伊耶那美命と結婚した伊耶那岐命は18歳であったと考えられる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「9・日本建国の〔愛〕の理念」で解説したように、旧東鯷人国、新生日本国の女王となった伊耶那美命は国の柱を〔愛〕と定めて、人民に熱心に〔愛〕を尊ぶように説いた。

◆中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝と『新唐書(しんとうじょ)』日本伝にある「小国の日本が倭国の地をあわした」という文は「小国・日本の軍王伊耶那岐命が千引石(ちびきのいわ)の前で倭女王の天照大御神に離縁を言い渡した後に、小国・日本と倭国を併合した大王の開化天皇である」と説明するものである。
 この千引石の前における伊耶那岐命の絶妻(ぜっさい)の誓いは、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話の末部に記載されている。「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の現代語訳したので、参照していただきたい。

◆中国の正史『後漢書』倭伝末部の記事を現代語に訳すると、下記のごとくなる。
 ――呉の会稽(かいけい)の海外に、東鯷人国がある。分かれて二十余国となる。また、この二十余国は夷州と澶洲の二つに大きく分かれる。昔から「秦の始皇帝(紀元前246~同210年在位)が方士(天文地理学者)の徐福(じょふく)を遣(つか)わし、徐福は童男女(青年と乙女)数千人を率いて大海に入り、蓬莱の神仙の不老長寿の霊薬を手に入れてくるように徐福に命じたが探すことができなかった。徐福は死刑を畏(おそ)れて帰還せず、ついにこの洲に定住した」と伝承される。徐福とともに洲にとどまった青年男女たちの血は互いに受け継がれ、今日(3世紀)では数万家となる。東鯷人国の人民は定期的に呉の会稽港に到着して交易をする。中国の会稽の東冶の県人が海に入って暴風に遭遇して漂流して澶洲に到着した者がいる。しかし、東鯷人国は遥かに遠くに所在し、その大海の道は途中で絶えてしまって、東鯷人たちには往来できても中国の人々には往来することができない。
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◆B図に示す[](天頂緯度線と子午線)をキャッチできれば、大海を渡ることができた。しかし、中国では紀元前1世紀に天の北極を最も重視するシナ天文学が完成した。このため、紀元前3世紀に徐福一行が日本列島に渡ることができた〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)を鍛錬する習慣〕は、3世紀になると中国では廃(すた)れていた。したがって、〔玄〕をキャッチできなかった呉の遠征軍は台湾→与那国島→石垣島→宮古島までは到着できても、宮古島から硫黄島までの約1,650㎞も隔たる広大な太平洋に入ると、位置と方角がまったく不明となったために8割から9割の兵士たちは海の藻屑(もくず)と化して落命した。これゆえ、呉の遠征軍は広大な太平洋を渡れず壊滅した。

◆呉の遠征軍が到着できなかった旧東鯷人国、女王伊耶那美命と軍王伊耶那岐命が赴任した新生小国・日本の範囲は、C図に示す『万葉集』巻二十の4321番から4436ばんまでの116首の防人歌(さきもりうた)の作者の出身国で表示された(ただし、C図左下の遠江は倭国に属した不呼国であった)
 日本軍は、徐福一行が[]をキャッチして日本列島に移住できたから呉の遠征軍も必ず[]をキャッチできるちがいないと判断して、必ず南の海上に呉軍があらわれて襲撃してくると考えていた。これゆえ、D図に示す東海道・関東地方の海岸地域が呉軍との戦場となると考えて、日本軍は防衛の陣容をかためていた。
 『日本書紀』神武天皇紀には「伊耶那岐命が『日本国は浦安(うらやす)の磯輪上(しわかみ)の細戈(くわしほこ)の袍図莽国(ほつまのくに)』と言った」と書く記事がある。
 D図に示すように、日本軍が防衛する磯は輪の形となる駿河湾・相模湾・東京湾の三つの輪が連なり、この輪の形をした磯に呉軍は上陸し、また日本の軍王伊耶那岐命は〔南の海を上・陸地を下〕にして防衛戦略を組み立てるものであったので「磯輪上」となった。
 「細戈の千足る」は「勇猛果敢な精兵が多く十分にそろっている」と意味する。
 呉軍は日本国(東鯷人国)の首都を目指して、東か西に進路を決める。その呉の船団が決めた進路は、神奈川県の地から相()える。ゆえに、「呉の船団が進む模様(様子)を相る」を略して「神奈川県」の旧国名は「相模(さがみ)」となったと考えられる。呉の船団が東に首都があると判断して浦賀水道から東京湾へと進入すれば、隠れ潜んでいた日本軍の船団が狭い浦賀水道に何重にも列を作って並べば東京湾を閉じることができる。日本軍の船団が浦賀水道を閉じてしまえば、呉の船団は“袋の中のネズミ”となるので日本軍は有利に戦える。それゆえ、東京湾の西海岸地域に多数の武士(ますらお)を蔵(かく)して配備した(『説文解字』は[]の字源を「匿(かく)すなり」と解説する)。よって、この地域は武士の[][]とで「武蔵」(現在の東京都・埼玉県と神奈川県北東部)という地名になったと思われる。

◆しかし、『後漢書』倭伝が「秦の始皇帝は徐福に蓬莱の神仙(の霊薬)を得るように命令した」と記述するように、昔から中国では“東鯷人国は蓬莱の神仙郷が所在する地”であると伝えられていた。ゆえに、呉の船団は蓬莱の神仙郷へ目指すと考えられるので、富士山を目標にして駿河湾へ進入する可能性のほうが高い。「蓬莱の神仙」は「空高く隆起した、仙人が住む美しい山」であるゆえ、日本国の海岸線よりはるか遠くの伊豆諸島から「蓬莱の神仙」にふさわしい〔富士山〕が眺望できる。ゆえに、呉の船団は駿河湾を北上し、伊豆半島の付け根にある静岡県東部の沼津市の海岸地帯へ上陸する可能性が大となる。
 現在は地名だけ残っているが、3世紀当時、三島市西部・沼津市・富士市東部の海岸寄りの地域一帯は、D図に示す「浮島沼(うきしまぬま)(「浮島原」ともいう)と呼ばれた湖底や湖岸が沼地で占められる葦が群生する湖であった。この旧浮島沼の南側の一角は駿河湾に出入りできる湖口となっており、呉の船団が進入する湖口は浦賀水道よりも狭かった。これゆえ、東京湾よりさらに増して容易に呉軍を“袋の中のネズミ”にすることができた。浮島沼のどこが深くどこが浅くまたどこが沼地になっているか、日本軍は勝手を知った地の利を得て戦うことができた。ゆえに、呉の巨大な遠征船を沼地へ追い込んで立ち往生させた日本軍の船団が雨霰(あめあられ)のごとく矢を一斉射撃することも、あるいは火矢を放って呉船を次から次へと火炎の餌食にすることができた。このように、旧浮島沼は呉の船団を“袋の中のネズミ”にすることができる完璧に近い〔袋〕の形になっていた。
 これゆえ、伊耶那岐命は浮島沼の東方の現在の三島市に本陣を設け、呉軍との浮島沼の決戦にそなえた。ゆえに、三島市には三嶋大社が所在し、富士宮市の富士浅間神社より格上の伊豆の一の宮となり「大社」と称された。[][]の初文であるゆえ、もしかしたならば「伊豆」という地名は「伊耶那岐命は日本軍の頭領であった」の略称かもしれない。

◆湖口が狭く防衛範囲が少ない浮島沼のほうが東京湾よりも日本軍は有利に戦うことができる。だから、浮島沼の東岸に日本国の軍王伊耶那岐命は居住した。
 もしも東京湾側に都があると判断した呉の船団が進入する場合にもそなえて、浮島沼の湖口よりも広い浦賀水道と広い面積の東京湾には多くの武士()たちを蔵する作戦を立てたので「武蔵」という地名が生まれたのである。
 E図に示すように、伊豆半島の南端は石廊崎(いろうざき)である。石廊崎は岩窟が自然の砦のようになっており、見張りが伊豆諸島を北上してくる呉の船団をいち早くキャッチできる。遠くはるかかなたの海上にあらわれる呉の船団の影をとらえれば、見張りは“敵、来襲!”と知らせる狼煙(のろし)を上げると、日本軍はいち早く戦闘体勢に入ることができる。呉の船団が伊豆半島に近づいて駿河湾を北上する様子をキャッチすれば、狼煙で知らせることはできないが各所に配備される伝令が草原を全速力で疾走するイヌやオオカミのごとく駈けてリレーして軍事拠点に伝えれば、日本軍は呉の船団を浮島沼へと誘導する作戦配備につくことができる。また、伝令の報告は東京湾を防衛する陣営にも伝わり、兵士たちは一斉にイヌやオオカミのごとく走って武蔵から浮島沼へ駈けつけるので日本軍の兵士たちは浮島沼に多数集結できる。あるいは、呉の船団が東京湾へと向かえば、大将の伊耶那岐命と浮島沼軍の兵士たちは多数の兵士(武士)たちが戦って時間稼ぎするその数日間にイヌやオオカミのごとく走って東京湾へ到着することができる。
 このように、日本国は浮島沼と東京湾の[]つまり「衣の中に包む」言いかえると“袋の中のネズミ”にする[](はかりごと╱作戦)を立てる、[]の字が「イヌやオオカミのように草原を疾走する」と意味するところの精兵を具備する国であった。ゆえに、D図に示すように、伊耶那岐命は「日本国は磯輪上の細戈の千足る袍図莽国」と表現したのである。

◆E図に示すように、浮島沼の北側は壁のように続く愛鷹山(あしたかやま)の山麓地帯である。この愛鷹山の標高160mくらいの中腹からは、駿河湾を北上してくる呉の船団を目撃することができる。
 1978年に静岡県沼津市教育委員会によって発掘調査されて、愛鷹山の中腹の3つの尾根から84軒の竪穴住居趾が発見された。この住居趾は「八兵衛洞(はちべえぼら)遺跡」と名づけられた。この遺跡は伊耶那美命・伊耶那岐命が生存した3世紀の集落遺跡である。愛鷹山麓の高所には伊耶那美命・伊耶那岐命が生存した3世紀の集落遺跡が多数存在するが、なぜこのような農地とならない生産性の低い高地に短期間しか使用されなかった大規模の集落群が存在することになったのか謎とされる。つまり、この高地集落群は呉の遠征軍は必ず来襲してくると予想した日本軍が迎え撃つ軍事施設であったのである。
 伊耶那美命と伊耶那岐命が日本国に赴任したのは多分234年ころであったであろう。『魏志倭人伝』は「247(魏の正始8年)、載斯烏越・伊耶那岐命は倭の使節団の長官となって帯方郡政庁を訪問した」と記述するので、伊耶那美命は245年ころに小国・日本を去って、邪馬(やま)国・大和に居住して倭女王に即位していたことになる。
 ゆえに、愛鷹山の中腹に多数分布する軍事施設は10年間くらいの短期間しか使用されず、呉軍は[]をキャッチできなかったので戦闘が一度も無かった集落群となった。ゆえに、日本国誕生史の秘密を解明するに重大な遺跡でありながら、謎深い遺跡となったのである。
 また、E図に示す浮島沼の低湿地帯には伊耶那岐命・伊耶那美命が生存した3世紀の竪穴住居41軒、高床倉庫(掘立柱の建物)3棟、湧水構(井戸?)、溝、多数の土坑の中規模の集落遺跡が発掘されている。この遺跡は「雌鹿塚(めがづか)遺跡」と名づけられた。この雌鹿塚遺跡は駿河湾を北上する呉の船団を見張るための軍事集落であったと考えられる。この他にも浮島沼の低湿地帯から3世紀に属する軍事集落と思われる遺跡が沼津市教育委員会によって幾つか発掘されている。

◆「浮島沼」の[]は「船が浮かぶ」と言う時に用いられ、淤(どろ)の湖の浮島沼は呉軍の船を転覆させて日本軍が勝利するための決戦場であった。北岸(旧江戸・東京の海岸地帯)が淤の干潟となる東京湾も呉軍の船を転覆させて日本軍が勝利するための決戦場であった。
 「転覆する」は「碁呂、すなわち180度転回させる」と解釈できる。だから、日本軍が有利に戦う作戦を立てた浮島沼と東京湾は「淤能碁呂島」と称されたのである。
 A図上図に示した「船を覆せた形」の播磨平野一帯は、淤の地ではなかった。
 『古事記』下巻の仁徳天皇紀における仁徳天皇が作った「淤能碁呂島」が登場する和歌は、A図下図の淡路島を「淤能碁呂島」と詠む。この淡路島も淤の地ではない。
 伊耶那岐命と伊耶那美命が最初に結婚した磯輪上の細戈の千足る袍図莽国は呉の船団と有利に戦える聖なる淤の浮島沼と東京湾を有する「淤能碁呂島」であったので、淡路島も「淤能碁呂島」と呼ばれることになったのである。
 A図の播磨平野と淡路島は「船の覆せた形」に見立てられた。だから、「碁呂」という語は「船を転覆させる」と解釈できることになるので、浮島沼は駿河湾から見たときに「180度転回した、呉の船が転覆する形」に見立てられていたにちがいない。

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