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2013年10月26日 (土)

日本が滅びる・61

愛、あざやかに永遠であれ(2)・伊耶那美王朝の王都中心部を考える 

◆『古事記』上巻の伊耶那美命の死説話は――火の神を生んだために死去した。伊耶那岐命は「愛するわが妻の命を、どうして一つの発明(子の一つ木)に易()えることができようか」と言って、そのまま伊耶那美命の枕方(まくらもと)に腹這いになり、足方に腹這いになって哭()いた時に、この涙になった神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に鎮座する泣沢女神(なきさわめのかみ)である。そして、崩御した伊耶那美命は、出雲国と伯岐(ははきの)との境界にある比婆之山(ひばのやま)に葬った――と記述する。
 伊耶那美命の亡骸が葬られた陵墓は、現在の和歌山県東牟婁郡本宮町に所在する熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら)に築造された。熊野本宮大社の旧社殿は、1889(明治22)の大洪水で流失して現在地に移された。この旧社地は、『古事記』が完成した712(和銅5)において、『古事記』が記載するとおり、出雲国と伯伎国の堺(さかい╱境界)であった。ゆえに、当時、旧社地の大斎原に建てられた熊野本宮大社は「比婆之山」と呼ばれていたことになる。
 「大斎原」が「比婆之山の跡地」であったことは、わがブログ「日本が滅びる・19」にて『万葉集』の429番と430番の「溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」を注目すれば証明できることを解説した。

◆『古事記』編纂スタッフは伊耶那岐命と伊耶那美命神話における淤能碁呂島(おのごろしま)説話や伊耶那岐命の黄泉国訪問説話はじめとする記述で、皇室が最も崇拝する至上神の皇祖天照大御神の聖性を汚す歴史的事実を後世に伝えた。
 この『古事記』の史実の暴露に怒った元明天皇は、『古事記』完成の翌713(和銅6)52日に全国(畿内・七道諸国)の郡郷の名を改めるように風土記の編纂を命じた。元明帝は――(1)郡・郷の地名は好き字の二字に改めて表記すること (2)山川原野などの地名の由来 (3)古老たちが伝える古き時代の伝承や珍しい話などを「史籍(風土記)に載せて言上せよ」――と命令した。つまり、元明帝の風土記作成の命令は、『古事記』上巻が――伊耶那美命が〔愛〕の理念を提唱して日本国は起源し、この日本建国の〔愛〕の理念を天照大御神・纏向王朝が憎悪し祟(たた)って栄えたが、日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ河内王朝の出現によって大和王朝は衰退した――という記述を後世の人々が理解できなくするために歴史的事実を伝える地名を抹殺する対策であった。
 『古事記』が伊耶那美命の陵墓を「出雲国と伯伎国との堺にある比婆之山」と記載したように――『古事記』が完成した当時、伊耶那美命と伊耶那岐命に関する歴史は郡・郷の名や山川原野などの地名で伝えられ、また古老たちの古伝承や珍しい話で伝えられるものであった。これゆえ、『古事記』上巻に記述された皇祖・天照大御神の聖性を汚す歴史を抹殺するために、元明天皇は風土記編纂を命令したのである。

◆わがブログの前回「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・60」で指摘したように、伊耶那美命は魏との軍事同盟の約束事である狗奴(吉備)国討伐を拒否したため、伊耶那美命の代役をつとめて吉備国討伐の忌瓮(いわいへ)儀式をおこなった天照大御神と倭王朝は激しく非難して倭女王の退位を迫った。しかし、夫の伊耶那岐命の擁護と人民の伊耶那美命が倭女王であることを切望する声に護られて、A図に示す伊弉諾(いざなぎ)神宮で二度目の淤能碁石島の結婚をおこない、伊耶那美命は倭女王を退位せずに〔愛〕を掲げる国作りを始めた。
 伊耶那美命が小国・日本(最初の淤能碁呂島)から去り、卑弥呼の墓に百余人の奴婢(ぬひ)を殺して埋めた徇葬を憎悪する反乱を鎮めるために倭女王に即位したのは、多分245年ころであったであろう。そして、250年ころに没したと推測される。これゆえ、56年間は伊耶那美命が倭女王であったゆえ、伊耶那美王朝は56年間の短命であったことになる。
 A図に示す「譲鶴羽(ゆずるは)山地」という地名が示すように、伊耶那岐命と伊耶那美命は〔愛〕の国作りを目指す結婚式を伊弉諾神宮の地でおこなった。B図に示すように、「淡路島の南部の地宜(ちぎ╱地図の形)」を「羽をひろげるタンチョウツルの姿」に見立てて、山地名の「諭鶴羽」はC図に示す「雌雄がたがいにひろげあって求愛するダンス」をあらわす。ゆえに、伊耶那岐命と伊耶那美命の二度目の淤能碁呂島・淡路島の結婚式は国作りの柱は〔愛〕であるとあらわすものであったことになる。
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◆この回のブログの初頭にて紹介したように、『古事記』は伊耶那美命の臨終地を――伊耶那岐命が「子の一つ木に易()ることができようか」と悲嘆して泣いた涙から成れる神は、香山の畝尾の木本に鎮座する泣沢女神である」と記載する。
 D図上部に示す、天の香具山から近い東北に奈良県橿原(かしはら)市木之本町に古称が「畝尾都多本(うねおのつたもと)神社」、現在の「哭沢(なきさわ)神社」が所在する。この哭沢神社が伊耶那美命の臨終地となる。 
 『古事記』は「伊耶那美命は火の神(火之迦具神╱ひのかぐつちのかみ)を生んだが原因で神避(かみさ)り、すなわち崩御した」と記載する。この伊耶那美命の死因となった「火の神・火之迦具土神」は「鉄製の農具(スキ、クワなど)の刃先を作るために用いられた銅鐸の鋳造炉を改造した製鉄炉、またはこの製鉄・タタラ工法」のことであった。
 今から約5000年前の五帝時代初頭に生存した“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)は――E図の右図上部に配置する「十字の銀河」を「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状から作った文字が生まれる母体」、「十字の銀河の子宮」を「すべての文字が生まれる子宮」と考えれば、万物の情(イメージ)に類似する多数の文字を生む(作る)ことができる――という、漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した。そしてわが国においては「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・13」で解説したように、五帝時代の文字と夏音文字をE図の左図に示すように「十字の銀河」が「木」に観えるイメージにもとづき「刻木(こくぼく)」と呼んだ。だから、「木」は「発明」を意味することになるので伊耶那岐命が「子の一つ木に易えることができない」と悲嘆した言葉は「吾が愛する妻の伊耶那美命の命は、火之迦具土神の発明に代えることはできない」と表現するものであったことになる。
 伊耶那美命は火之迦具土神事業の製鉄炉が爆発しておこった火災事故によって大火傷を負い、上記したように古称「畝尾都多本」という神社名であった現在の哭沢神社に火傷した伊耶那美命は運ばれて臨終したことになる。

◆A図に示すように〔愛〕の国作りを目指す結婚式がおこなわれた淡路島の伊弉諾神宮は北緯342723秒に位置し、F図に示すように天の香具山は北緯342945秒である。したがって、伊弉諾神宮と天の香具山の緯度差はわずか222秒である。
 当時の政権基盤は、G図に示す精密に緯度と子午線が測量できる〔[]のキャッチ〕であった。ゆえに、伊弉諾神社とほぼ同緯度となるD図の下部に示す天岩戸神社あたりが伊耶那美王朝の王都の中心地であったと考えられる。
 天の香具山の東北45度の地点に、H図右下に配した三輪山が所在する。G図に示すように、天の香久山における[]をキャッチする銀河部位は、三輪山が所在する東北の地点から昇る。三輪山の形は、胎児を子宮に宿る妊婦の腹部(おなか)の形に相似する。したがって、〔愛〕の国作りを目指す伊耶那美命王朝の王都の中心地は天の香具山の南の麓に所在したゆえ、『万葉集』において「天の香具山」は「伊耶那美命」を象徴(意味)することになったにちがいない。 
 F図に示すように、耳梨山は北緯343053秒である。『日本書紀』崇神天皇紀は、I図に示す「天皇は都を磯城(しき)に移した。この磯城に所在した宮殿は瑞籬宮(みずかきのみや)と言った」と記載する。伊耶那岐命のちの開化天皇が住んだ春日の伊耶河宮(いざかわのみや)から、天照大御神が生んだ子の崇神天皇は磯城の瑞籬宮に都を移した。天照大御神・纏向王朝(天照大御神・崇神天皇王朝)の中心地である磯城の瑞籬宮(現在の奈良県桜井金屋)343130秒であるゆえ、約4km西方にある耳梨山との緯度差はわずか37秒である。ゆえに伊耶那岐命に疎まれて別居した天照大御神は、磯城の瑞籬宮の旧宮殿に住んでいたにちがいない。だから、『万葉集』においては磯城の瑞籬宮とわずか37秒の緯度差がない「耳梨山」は「天照大御神」を象徴することになったと考えられる。
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◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・57」において、A図に示す「淡路島」を『古事記』が「淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)」と記す古称の秘密を解明し、先頭字の[]について――J図に示すように、[]の字源は「十字の銀河」であり、三水偏に[]を加える[]の字源・原義は「はじめ無色無臭・透明であるが、妊娠末期に胎児の皮膚などが混じるために淡く黄色になる羊水」である――と解明した。したがって、[]の字源は〔愛〕を表示するものとなる。

K図に示すように、淡路島の古称の2字目の[]の字源は「オス鹿の横顔に似る銀河」であり、「オス鹿の横顔に似る銀河」の角(つの)に相当するのは「十字の銀河」であり、「十字の銀河」は[之繞(しんにょう)][]の字源となる。
 淡路島の古称の4字目の[]は、L図中央図の「十字の銀河」の南に禾穂が垂れる「イネの象形」を表示するものである。J図に示したように[]の字源は「十字の銀河」であるゆえ、〔淡路島〕は「十字の銀河」に見立てられたことになる。ゆえに、L図左図に示すように、淡路島の古称の[]は〔淡路島の南部に「イネ」の象形の穂が存在し、この穂は鳴門海峡を隔てた西隣の四国を指差して垂れている〕ということになる。
 伊耶那美命は、『魏志倭人伝』において「奴()国」と「烏奴(あな)国」の二つの小国に分かれる現在の「四国」を「伊予二名島(いよのふたなのしま)」と名づけて、M図に示すように四つの小国に分けて各小国の名と祭神を誕生させた。「伊予国の愛比売(えひめ)」と「土左国の建依別(たけよりわけ)」は「健康で立派に育つ新生児が多数生まれる」と示す〔愛〕の祭神であり、「讃岐国の飯依比古(いひよりひこ)」と「粟(あはの)国の大宣比売(おほげつひめ)」は「豊かな作物の実り」をあらわす祭神である。
 L図の伊弉諾神宮の住所は兵庫県津名郡一宮町の「多賀」である。わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は「多賀」の[]の字について「生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。ゆえに、「多賀」は「健康で立派に育つ新生児が多数生まれ、作物が多く(豊かに)実る」と意味することになる。だから、「多賀」という地名はM図に示した伊予国・讃岐国・粟国・土左国の祭神名があらわす意味と合致する。
 したがって、淡路島の古称の「淡道之穂之狭別島」の「狭別」は「狭い鳴門海峡」を表現するものとなる。
 約1800年後の現在まで伊予・讃岐・土左(土佐)という旧国名が残り、そして伊予の「愛比売」は県名の「愛媛」で現存し、わが国は「銀河各部の形状」と「地宜」を字源・原義とした原初漢字の夏音文字が存在したことを伝えている。

◆『古事記』上巻の伊耶那美命の死説話に記載される「木本(このもと)」という地名は、D図の「木之本」という町名で現存する。この「木本」と「木之本」はE図に示す「十字の銀河」のイメージから生まれた名である。
 J図、K図、L図にて解説したように、淡路島の古称も「十字の銀河」のイメージから生まれた。
 A図に示す淡路島の伊弉諾神宮とF図に示す天の香具山の緯度はわずか122秒しか相違しないゆえ、伊耶那美王朝の王都の中心地は天の香具山の南に所在したにちがいない。
 D図に示したように、天の香具山の南の麓に「天岩戸(あまのいわと)神社」が所在する。 この神社には本殿がなく、天照大御神が隠れた「天岩窟(あまのいわや)」または「天岩戸(あまのいわと)」と呼ばれる巨石をご神体とする。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が枯れ死するという「7本竹の不思議」という伝説がある。伊耶那美命の本名は「竹野比売(たかのひめ)」である。ゆえに、天岩戸神社は竹野比売・伊耶那美命が住んだ宮殿があった場所であるゆえ、「7本竹の不思議」伝説が生まれたのかもしれない。
 〔愛〕の女王伊耶那美命が住んだ宮殿は小さな人民の家屋のようであった可能性もあるので、天岩戸神社は伊耶那美命が住んだ宮殿跡であったかもしれないことになる。
 N図に示すように、「十字の銀河」は「天の香具山」の[]の字源であり、『古事記』が記載する「香山(かぐやま)」の[]はジャコウウシが放つ「麝香(じゃこう)」をあらわすものであるにちがいない。ジャコウウシは繁殖期にあたる79月になると眼下腺(がんかせん)から匂いのある分泌液を出す。この分泌液が名前の由来となる。ジャコウウシは天敵のオオカミに襲撃されると子ども真ん中に隠して円陣を組んで防御する。そして、女性の生殖器の大半は骨盤に包囲されているので、子宮に宿る胎児の命を骨盤に守られている。〔ジャコウウシの円陣〕は〔女性骨盤〕に見立てると、〔ジャコウウシの円陣〕は〔愛〕をあらわすものとなる。ゆえに、「香山」は「眼下腺から出す分泌液が麝香の香りがするジャコウウシの山」とあらわすものであったと考えられる。

◆わが国には夏音文字が伝来していた。このため、地名や山川原野の名に歴史的事実が秘められ、「銀河各部の形状」や「地宜」(平面的に図化した地図の形)で字源・原義を解明すると史実を知ることができるようになっているのである。
 というのも、中国の五経の第一にあげられる中国の古典『易経』の繋辞下伝(けいじげでん)は「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜を観る。(中略)。もって万物の情に類して文字を作った」と伝えるように、わが国の夏音文字は天象(銀河の形状)と地宜で字源・原義が解明できる機能を有するものとなったのである。
 字源を解説する“字書の聖典”とされる『説文解字』は序で「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文で、「字源・原義を解明すれば、歴史的事実を知ることができる(前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古を識るなり)」と今日の我々に伝えている。

◆上記したように、元明天皇は『古事記』が完成した翌年の71352日に風土記の作成を命じたが、この目的は『古事記』に記載された伊耶那美命と伊耶那岐命はじめ日本建国の〔愛〕の理念を尊んだ英雄の歴史を伝える地名を抹殺することであった。しかし、朝廷は皇祖・天照大御神が残した地名や天照大御神に関する史跡の名は絶対に改めることはできないと神聖視した。だから、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・36」にて解説したように、「箸墓」の「箸」は天照大御神が千引石の前で「日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民の母親たちの産道が狭くなるように呪って、一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺すと誓った」、この「死産した胎児をはさんで産道から掻き出す箸のような医術器具」をあらわすことになったのである。ゆえに、おぞましい歴史をそのまま伝える「箸墓」のいう古墳名が現存することになった。遺跡名の「纏向」を白川静著『字統』で字源・原義を調べると「日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民の首に縄をまきつけて、一日に千人ずつ絞め殺す」と意味することになる。
 伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念に対し、天照大御神は『古事記』孝霊天皇紀に「針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいへ)を居()えて」と記載されたように、「憎悪」と[祟り]で対抗した。大和朝廷の基礎を築いた天照大御神・崇神天皇王朝が栄えた原動力は「憎悪」と「祟り」であった。ゆえに、「箸墓」や「纏向」などの“えっ! なんでこんなに残酷な歴史を伝える古墳や遺跡の名がそのまま残ったのだ。信じられない”と驚かざるをえない、禍々(まがまが)しい名が現存することになったのである。

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