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2013年10月12日 (土)

日本が滅びる・54

『播磨国風土記』「阿菩の大神」説話の吉備国討伐の記述

◆『魏志倭人伝』は晋の陳寿(ちんじゅ)が著作した史書『三国志』のうちの「魏書東夷伝」の末尾にある約2000字で構成される「倭人伝」のことである。
 古代史研究家の古田武彦氏が、『三国志』全体に記される[]()86個、[]()56個1字ずつ調べた結果、[][]と書く誤記が一例もないことを発見した。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が居住した王国に名を「邪馬壱(やまい)国」と明記する。ゆえに、「邪馬台国」なんて国は最初(はな)から存在しなかったウソ八百であったのである。


◆『魏志倭人伝』には「倭の易に用いる卜辞の文字は令亀(れいき)の法の如く」という説明があり、「令亀の法の如き文字」は「中国の殷代の亀の甲羅に刻む甲骨文字のような文字」ということになる。わがブログでは、「甲骨文字」を「契文(けいぶん)」と称する。
 わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)10頁で「わが国の国語として残されている字音が、いま残されているもののなかで、最も古い時期のものであることが明らかになった。」と指摘する。だから、殷代(紀元前1300~同1050)よりも古い夏代初頭(紀元前2050年ころ)に伝来した「夏音(かおん)文字」の字音にもとづき、「卑弥呼」は「ヒミコ」と読む。中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝は――702年に中国に渡った日本の遣唐使は「後稍(のちやや)夏音を習う」(「習う」は「復興する」と意味する)と中国王朝に告げた――と記述するゆえ、わが国には確かに夏音文字は伝来していた。日本国の遣唐使がわが国に夏音文字が存在すると中国王朝に告げた702年より10年後の712年正月に完成した『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字が多数記載されて残った。
 したがって、『魏志倭人伝』の人名・小国名に用いられる文字は最古の漢字音を示す夏音文字ということになる。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「4・倉頡が定めた3つの掟」で――(1) 秋の銀河と夏の銀河各部の形状から文字が作られたことを暴露した者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者また消し忘れた者」には神罰が下って即刻に死刑に処せられると定められていた――と指摘した。夏音文字は“漢字の始祖”と崇拝された倉頡(そうきつ)が定めた3つの掟を厳守したため、やわらかい地面や砂場・灰の上や布などに書かれた夏音文字は消されていたので遺物として出土しないことになり、「文字の原字・銀河各部の形状」が「夏音文字」として現在の我々が実際に目で見ることができる遺物となった。

殷代後半から出現した契文(令亀の法の文字・甲骨文字)は倉頡が定めた(3)の掟を守らず破るものであったが、(1)(2)の掟は厳守した。ゆえに、文字は銀河各部の形状から作られたことが不明となり、五帝時代の書契(つまり、倉頡文字。わが国では「刻木」と称する)と夏音文字においては、「銀河各部の形状」が「文字」であった歴史的事実が学者たちに気づかれないこととなったのである。
 字源を解説する“字書の聖典”と称される2世紀初頭に完成した許慎(きょしん)著『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。この文は「考えるに文字の字源は経(医学・科学)と芸術の根本であり、倉頡が生存した五帝時代初頭から起源した王道政治の最も強大な権力基盤であり、字源すなわち銀河各部の形状は過去に起こった出来事の歴史を識る最も確かな方法である」と伝えるものとなる。

◆中国の五経の第一に挙げられる『易経』の繋辞(けいじ)下伝は漢字の起源を「仰いでは天象を観、俯しては地法を観、鳥獣の文と地宜(ちぎ)を観る。(中略)。もって万物の情に対して文字が作られた」と説明する。

上記の文中の「天象」は「文字の原字(字源)」となった「銀河各部の形状」であり、「地法」は銀河各部が東から西へ運行する反対方向に「黄河・長江の水が西から東へ移動する法。つまり、大地の法」であり、「鳥獣の文」は「鳥獣の足跡」とも称される「倉頡が発明した漢字作成原理の名称」であり、「地宜」は「平面的に図化した地図の形」となる。
 A図に示す『魏志倭人伝』が記載する34小国の地図の形が「地宜」である。A図の34小国の配置は――「銀河各部の形状」を「文字の原字(字源)」とし、「地法」と「鳥獣の文」(鳥獣の足跡)を考慮して、小国の名とその地宜が【科学】が成立するように一点の矛盾点も不合理な点も存在しないように合致させたものである。

◆『魏志倭人伝』が倭女王の卑弥呼が居住した王国とする邪馬壱国は、A図のごとく出雲地方(旧国の石見・出雲・伯耆、現在の島根県と鳥取県西部)であったことになる。
 B図は卑弥呼が生存していた2世紀末から3世紀中ごろの、邪馬壱国の中心部の出雲の地宜である。B図左上の「神門水海(かんどのみずうみ)」は経度・緯度の両軸に対して「邪(なな)め」となる「馬の姿」に見える。[]の字源は「フタコブラクダ」である。だから、「神門水海」は「邪馬」と示す地宜となる。
 C図に、「邪馬壱国」の[]の字となる地宜を示した。
 D図に示すように、[]の字源銀河は倉頡が〔すべての文字を生む子宮(鳥獣の足跡)〕と定めた「十字の銀河の子宮」である。「十字の銀河の子宮」は「十字の銀河の右足」と重なる。ゆえに、C図に示すように〔人の右足の形に相似する古代宍道湖〕は「十字の銀河の右足」に見立てられて、[]の字源に相当する箇所が存在することになった。
 以上のごとく、倭女王の卑弥呼が居住した「邪馬壱国」の中心は、地宜が「邪馬壱」と表示する出雲(現在の島根県東部)であったことになる。
Image

◆E図に[]の字源「方位が時計回り90度転位する方位規定」を示した。
 白川静著『字統』は[]について「軍門の象形とイネ()の穂が垂れた形のもとの形象は異なるが、のち同形の字とされ、一字にして別義のある字である」と解説する。F図の南に穂が垂れる「イネ」の象形は「イネの生育に適するのは揚子江付近の中国の南部であった」と示すものであり、北に穂が垂れる「軍門」の象形は「倉頡がつかえた五帝王時代初頭の黄帝の軍門は黄帝陵がある黄河中流地域の中国北部」であったと示すものである。
 G図のように、〔禾(イネ)の穂を「十字の銀河」の南に向けて、西へ稲穂が垂れるようにする〕図案はE図に示す[]の字源「南→西の時計回りの90度の転回方位」となった。
 『魏志倭人伝』の方位に関するすべての記事は、現在の地図の方位規定と異なり、E図・G図に示す時計回りに90度転回する[]の字源となる方位規定に則る。だから、卑弥呼が統治したA図に示す「西日本」の国名は「倭」となり、正式名は「倭人国」となった。後ろにあるL図・N図に示す「長方形の暗黒天体部」は[]の字源であった。この[]の字源の「長方形の暗黒天体部の中央部分」は卑弥呼が生存した2世紀末から3世紀半ばの天頂緯度線が貫通する箇所となったため、正式名は「倭人国」となったのである。

2009年の5月下旬ころから、朝日新聞は「奈良県桜井市に所在する箸墓は卑弥呼の墓であろう、ゆえに纏向(まきむく)遺跡が邪馬台国であろう」と報道した。しかし、箸墓卑弥呼の墓説・纏向遺跡邪馬台国説は〔誤読〕を自由自在にあやつって捏(でっ)ちあげた荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想である。
 これまで解説してきたように、『魏志倭人伝』――倭女王卑弥呼が居住した王国の名は「邪馬壱国」であり、A図に示すように――『魏志倭人伝』は箸墓と纏向遺跡が所在する大和の小国名はA図に示すように「邪馬(やま)国」であったと明記する。
 
 H図に示す出雲大社は、破壊された卑弥呼の墓の跡地に築造されたにちがいない。
 I図に示す出雲大社の裏山(八雲山)の直径は、『魏志倭人伝』の「径百余歩(150)」という記事に合致して百余歩である。出雲大社の境内は完全なる前方墳の形にはなっていないが、その面影を残す。『魏志倭人伝』は「卑弥呼の墓を作る時に百余人の奴婢を殺して埋める徇葬を憎悪して人民が反乱して、倭王朝は千人の反乱者を殺した」と記述する。だから、当然、徇葬墓の卑弥呼の墓は破壊された可能性大となる。ゆえに、出雲大社の裏山と境内こそが、卑弥呼の墓であったにちがいない。箸墓は破壊されていないだけではなく、『日本書紀』は「倭迹迹日百襲姫命を箸墓に葬った」と明確に記す。
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◆J図に示すように、邪馬壱国の鳥取県西部には孝霊山がある。孝霊山の北麓に連なる丘々には前方後円墳や円墳が分布し、山陰でも有数の古墳密集地帯である。
 『魏志倭人伝』末部に「卑弥呼の後を継いで男王が倭の大王となったが、百余人の奴婢を犠牲(いけにえ)にした徇葬を憎悪する人民は倭王に服従せず反乱となった」と記述された倭の大王は第7代孝霊天皇こそが適合する。ゆえに、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が、徇葬を指揮したと考えられる。
 『播磨国風土記』に「阿菩の大神」説話があり、現代語に訳すると下記のごとくになる。
 「上岡(かみおか╱現在の兵庫県龍野市神岡町)は、もと林田の里に所属していた。地味は中の下の等級である。出雲の国の阿菩(あぼ)の大神が、大和の国の畝火山で象徴される伊耶那岐命、香具山に象徴される伊耶那美命、耳梨山に象徴される天照大御神が吉備国討伐をめぐって争っていると聞いて、これを諫(いさ)め止めようと思い、上って来られたときに、ここまで到着すると、争いが終わったと聞いて、阿菩の大神は乗っている船を覆()せて鎮座した。ゆえに、神阜(かみおか)と名づけた。阜(おか)の形が、船を覆せた形に相似しているからである。」
 『説文解字』は「大陵を阿と曰()ふ」と解説する。ゆえに、[]の字源は「大きな陵墓」と意味する。「出雲の阿菩の大神」は、「邪馬壱国・出雲の[]である大きな陵墓」を作った[]すなわちG図の「南→西」の転回方位規定の「稲穂」すなわち[倭]の字源をあらわす大神となる。ゆえに、「出雲の阿菩の大神」は「邪馬壱国・出雲に居住した卑弥呼の墓を作った時に徇葬をおこなった倭迹迹日百襲姫命が天に召された霊魂」と解釈できる。

◆G図は、「倭迹迹日百襲姫命」の先頭字の[倭]の字源解説図である。
 『説文解字』は[迹]の字源を「歩む處なり」と解説し、「十字の銀河の両足」は「歩む處」となる。ゆえに、K図に示す「倭迹迹日百襲姫命」の「迹迹」は「十字の銀河の両足」となる。K図の「日輪の銀河」が「倭迹迹日百襲姫命」の[日]の字源となる。K図の「激流の銀河の西端」は[]の形に定められて、L図に示す[命]の上部の[]をあらわした。だから、契文の下部に[]が加わる[百]の字源は、K図に点線で示したように「激流の銀河・鬼の横顔に似る銀河」を図案するものと考えられる。[]は「襲撃」の意に用いるので〔水に潜る龍の顔〕や〔押し寄せて襲いかかる高潮〕に相似する「激流の銀河の西部」が[]の字源部となる。

◆『説文解字』は[]の字源を「一に曰く、曲がれる阜(おか)なり」とも解説する。N図に示すように、[]の字源となる「激流の銀河の西部」、つまり「水に潜る龍の鼻の両側から伸びる髭(ひげ)」に観える部分は「高波に木の葉のごとく翻弄(ほんろう)される船を覆せた形」になって曲がり、また「高波や激流に呑みこまれずに残った阜()」にも観える。ゆえに、「船を覆せた形に曲がる銀河部。龍の髭のように観える銀河部」が[]の字源となる。
 「出雲の阿菩の大神」説話の舞台となる「神阜」と号された「上岡」は、M図右側に示す「現在の龍野市神岡町」とされる。つまり、[]の字源「船を伏せた形の銀河」は「龍の髭」にも観えるゆえ、「龍野(たつの)」という地名となったのである。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・37」にて、N図に示すように「長方形の暗黒天体部の西の辺」は天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が生んだ崇神天皇の諱(いみな)「御真木入日子印恵命」のうちの「真木入日子印恵」をあらわすことを証明した。K図に示したように、「長方形の暗黒天体部の東の辺」となる「激流の銀河の北部・西部」は「倭迹迹日百襲姫命」のうちの「日百襲」をあらわす。
 天照大御神・倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇母子が居住した宮殿を、『日本書紀』崇神天皇紀は「磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)」と記載する。N図に示すように、「長方形の暗黒天体部」の東隣の「日百襲」をあらわす「日輪の銀河と激流の銀河」は西方に向かって「磯」が連想でき、「龍の髭となる銀河部と長方形の暗黒天体部の東西の辺」は「水垣(瑞籬)」をあらわす。だから、N図の銀河の形状にもとづき、天照大御神・倭迹迹日百襲姫命と崇神天皇が居住した宮殿名は「磯城の瑞籬宮」と名づけられたのである。

◆吉備(狗奴)国討伐を題材にして中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智天皇)が『万葉集唐』14番にて「香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)」と詠んだ、「印南国原」は「現在の加古郡および加古川・明石の両市の一帯」とされる。M図に示すように、播磨灘の北岸となる「印南国原」の一帯は「船首の部分」となり、「神阜・龍野市神岡町と姫路市周辺一帯は「船尾の部分」となる。だから、播磨灘から見る明石市から龍野市神岡町一帯の地宜は「船を覆せた形」となる。したがって、吉備国軍はM図の「船を覆せた形」の地域で大敗したにちがいない。というのも、F図左端に示す「軍門」の象形の[]の字源となる「十字の銀河」は東に位置し、「十字の銀河」は倉頡がつかえた常に勝利した黄帝をあらわす「勝利を約束する神の銀河」であったからである。
 ゆえに、黄帝軍の常勝の呪力(じゅりょく)を信じて吉備国軍は「十字の銀河」は[]の字源となるので吉備国より東側の「船を覆せた形」の地域を決戦場と選んだ。この吉備国の戦法に対し、伊耶那岐命の軍すなわち日本軍は吉備国の中心部(岡山・倉敷の両市一帯)の正面から攻撃したので、東の氷河(磐井(兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘の下を流れる加古川)に忌瓮(いわいへ)を据えて戦勝祈願した大吉備津日子命・若建吉備津日子命が率いる倭軍の挟み討ちにあって、吉備国軍は大敗したと考えられる。

◆以上のごとく、学者たちが〔誤読〕を自由自在にあやつって「存在しない」と断定する夏音文字は、現在の我々が実際に目で見て「確かに存在した」と断定できる「銀河各部の形状」であった。
 
[]の字源を『説文解字』は「繞(めぐら)すなり」と解説し、白川静著『字統』は「縄でまとめることをいう」と解説する。だから、遺跡名「纏向」は――L図の「日輪の銀河・激流の銀河」を「縄」に見立てて、[]の字源の[(三合)]の部分の「子宮頸部・産道」に縄をめぐらして日本人の胎児の頭を絞めつけて殺す」と意味する。また、前述したように、「長方形の暗黒天体部」は[]の字源となったので、「纏向」は「日本人の首を縄で絞めつけて殺す」ともあらわすことになった。
 つまり、「纏向」は『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に記載された天照大御神・倭迹迹日百襲姫命が「一日に日本人の胎児たちの頭を一日に千頭(ちがしら)絞め殺す」と誓った呪いをあらわす。ゆえに、「纏向」とは「ゴキブリ野郎の日本人め、なんで生きているのだ、生きるに値しない。目障りだ。一日に千人ずつぶっ殺す!」とあらわすことになる。だから、箸墓卑弥呼陵説・纏向遺跡邪馬台国説は単なるウソ八百ではなく、古代史学の初歩的心得・基本原則を知らない御仁たちが学問を鼻にかける、その鼻くそと〔誤読〕でまるめた空論をもって「一日に千人ずつ日本人を害虫やゴキブリのごとくたたき殺す」とほざく暴論である。

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