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2013年10月 7日 (月)

日本が滅びる・52

〔愛〕を掲げて誕生した日本建国史の解明(7)

 

◆万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)は日本建国の〔愛〕の理念を詠む和歌を多数作った。憶良の代表作『万葉集』803番の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」は明確に日本建国の〔愛〕の理念を詠む作品である。
 前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・51」にて、憶良が作った『万葉集』巻五の892番「貧窮問答の歌」と893番の反歌は“日本建国の〔愛〕が失われた”と怒り悲嘆するものであったと指摘した。というのも、893番の反歌の末尾に「頓首謹上す」と記して憶良の怒りと悲嘆を訴えて差し出した相手は、舎人(とねり)皇子(676735)であったからである。


◆舎人皇子は718年に一品(いっぽん)となり、720年に天皇に次ぐ地位の知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任した。「太政官」は「政務を総理し、中央の全官庁および諸国を総括して国家を治める、天皇政治の中心となる役所」である。この「太政官の長官」が「太政大臣」であり、この「太政大臣の役目と歴史局の総裁を兼務する」のが「知太政官事」であった。正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は「これより先に一品の舎人親王は、勅をうけて日本紀(にほんぎ)の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀(編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上した」と記載する。この「日本紀」は、720521日に完成した。今日において『日本紀』は『日本書紀』と呼ばれる。舎人皇子は『古事記』『日本書紀』編纂を指揮し、『万葉集』編纂を企画した。

◆『続日本紀』は舎人皇子について「天武天皇の第三皇子」と記す。
 つまり、舎人皇子は多数の天武天皇の子にあって、皇位継承順位が第三番目の皇子であった。天武天皇の第一皇子は持統天皇が生んだ皇太子となったが689年に没した草壁皇子である。天武帝は第二皇子を設けなかった。第三皇子に686年に天武帝の皇后
野讃良皇女(うののさららのひめみこ╱のちの持統天皇)の陰謀によって謀反の罪を負わされて処刑された大津皇子と、そして舎人皇子であった。
 したがって、舎人皇子は実質的に天武帝の第二皇子という身分の高い皇族であった。しかし、名の「舎人」の[]に手偏を加えると「捨てる」の[]となるので、皇子は「捨て子皇子」と名乗っていたことになる。「舎人」には「天皇や皇族を警護する武士」という意味もある。舎人皇子は60歳の生涯のうち、前半の378歳までは庶民として過ごし、後半の223年間が皇族であった。

◆壬申の乱がおきたとされる672624日の朝、大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)は女性と子供と舎人を含んでわずか50人足らずで吉野を出発して東国へ逃れた――その日の朝、A図に示す甘羅村(かんらむら)の要衝(ようしょう)、すなわち現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原町(はいばら)の榛原駅の辺りの要衝で大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)一行が出迎えた。
 現在の榛原駅の直ぐ東方は交通の要衝となる。A図に示すように、東に向かうと伊賀に至る国道165線となり、西に向かうと桜井市・橿原市に至る国道165線であり、南に向かうと伊勢に至る国道369号線となり、北に向かうと奈良に至る369号線となる。
 『日本書紀』巻第二十八の天武天皇紀は当日(672624)の朝、大海人一行は「菟田(うだ)の安騎(あき)に到着した」と記述する。A図に示すように、吉野から出発した大海人皇子一行は現在の国道370号線を甘羅村の要衝を目指して一路北上した。その途中に、菟田の安騎(奈良県宇陀町)がある。
 大伴連大国一行が大海人皇子一行と必ず会える場所は、A図に示す東西南北に道が分かれる甘羅村の要衝であった。だから、その要衝で大伴連大国一行は大海人皇子一行を待機していたのである。

大伴連大国は20人余りの配下と美濃国の王(豪族)を率いていた。大伴連大国は身分を「猟師である」と名乗った。しかし、彼は武家の名門の大伴連家と大伴家の宗家(そうけ)の頭首であり、東海道・東山道の武士をたばねる棟梁で強力な武将であった。
 A図に示す高屋・現在の奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町高星(たかへ)に、大伴大国は居住していた。この高屋は、B図に示す現在の和歌山県新宮市新宮に所在する熊野速玉大社、新宮市磐盾町の神倉神社の参道、神倉神社のご神体の“ごとびき岩”と同経度(東経13559)である。『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本」は「現在の速玉大社の境内」、「黄泉比良坂」は「現在の神倉神社の参道」、「千引石(ちびきのいわ)」は「現在の神倉神社のご神体の“ごとびき岩”」である。
 当時、最も強力な武将であった東海道・東山道の武士を束ねる大伴連大国は、伊耶那岐命が「吾一日に千五百の産屋立てむ」と誓った千引石と同経度の高屋に住む、日本建国の〔愛〕の理念を提唱した伊耶那美命の崇拝者であったのである。
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◆吉野に住む大海人皇子を護衛する兵の舎人(とねり)はわずか20人余りであった。だから、近江朝が100人や200人の兵を吉野に向けるならば、大海人皇子を討つことができた。しかし、A図に示すように、近江朝が放つ暗殺部隊は大伴連大国が居住する甘羅村の要衝を通過しなければならなかった。そこで、近江朝は大国に近江方に従うようあるいは暗殺部隊の通過を黙認するように求めたのであろう。しかし、天智天皇・近江朝は天照大御神の千引石の前で述べた「葦原中国(あしはらのなかつくに)日本国の人民を一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」という誓いに則って小国・日本の東国の人々を防人(さきもり)に任命して苦しめ、また東海道・東山道の武士・兵士・農民たちも天照大御神の祟りのもとに迫害されて貧窮していた。だから、大国は近江朝の要求をはねつけた。
 ゆえに、大伴大国を討てば20人余りの舎人が護衛する大海人皇子はいつでも暗殺できるので、近江朝は最初に大伴連大国を討伐することにしたのである。
 つまり、壬申の乱は大海人皇子一行が東国へ出発する以前の、大伴連大国討伐の準備から始まっていたのである。

◆近江朝の大伴連大国討伐の陰謀は、『日本書紀』巻第二十八の〔大海人皇子の挙兵決意〕の条の冒頭にて下記のごとくに記述されている。
 ――天武天皇元年(672)6月、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)は大海人皇子に「私が使用で一人美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に『亡くなった天智の山陵(陵墓)を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりました。この徴集した人夫に武器をもたせております。私が思いますには、人夫の徴集は山陵を造るためでなく、これは必ず変事があるということであると考えられます。もし速やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう」と報告した。
 上記の記事は「美濃・尾張両国の国司が徴集した人夫は、大伴連大国が束ねる配下の武士たちであり、近江朝は美濃と尾張の国司の指揮のもとに人夫たちに強引に裏切らせて棟梁の大国を殺害させると計画した陰謀であった」と伝えるものであったのである。
 この近江朝の陰謀に気づいた美濃国の王は棟梁・大国が住む高屋に駆けつけて報告していたので、大国は近江朝と戦う指図を伝える使者を東海道・東山道の各地に放ち、さらに大海人皇子が吉野から逃れる情報をキャッチして甘羅村で待機していたのである。
 大国がいちはやく吉野方に合流したために、大海人皇子が率いる吉野軍は大友皇子(弘文天皇)が率いる近江軍に大勝利した。

◆大海人皇子は天皇に即位すると、大伴連大国が期待した日本建国の〔愛〕の理念を復興する政事を着手せず、天智帝・近江朝の天照大御神を崇拝する政策を受け継ぎ、より天照大御神崇拝を明確にして天皇の権力を絶対視する政策を推し進めた。
 天武帝に「猟師である」と名乗って身分を明かさず裏切られることも予想していたにちがいない大国は、壬申の乱の最高の功績者であるが天武王朝には参加せず、高屋で庶民として暮らした。
 しかし、天武帝は大国が近江朝の残党と東海道・東山道の武士を集めておこす反乱を恐れた。そこで、天武帝は大国が反乱を決意する芽を摘むために、誕生したばかりのわが子を大伴連大国の養子として与え、この捨て子に「第三皇子」という高い地位をさずけて東海道・東山道の武士たちの労をねぎらって怒りをおさめることにした。天武帝は、もしも将来に日本建国の〔愛〕の理念を掲げて東海道・東山道の武士たちが反乱をおこした時、大国の後継者となって強力な武将となったわが子が反乱をおこす武士たちを説得するか、説得できなければ反乱を武力で制圧するにちがいないと目論(もくろ)んだのである。
 この実父の天武天皇に生まれるやいなや捨てられ、養父の大伴連大国に育てられた子が舎人皇子である。
 大伴連大国に育てられた舎人皇子は成長すると実父天武帝の目論見(もくろみ)は大誤算となり、皇室と律令体制に盾突く日本古代史上希代(きたい)の反逆児となった。
 『万葉集』117番は、舎人皇子が18歳ころに作ったと推定される作品である。
 下記に示すように、この和歌で舎人皇子は伊耶那美命への熱烈な憧れを表現する。

「大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども 鬼(おに)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり」
 現代語に訳すると「武士たる者、片恋するなんてみっともないことだが、吾は上古の伊耶那美命に片恋する鬼の益卜雄だ。吾は鬼道(きどう)の夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興に命を捧げて守らんとする男(ますらお)だ。」となる。

◆現在、学者たちが『古事記』上巻に加える〔文献批判〕という名の考え方の実体は〔誤読〕である。
 この〔誤読〕を自在にあやつる空想の産物である日本神話虚構説によって『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『万葉集』が伝える舎人皇子の一生はこととごとく排除される。つまり、舎人皇子の一生を調べれば、1961年に88歳の生涯を終えた早稲田大学教授・津田左右吉(そうきち)によって確立された日本神話虚構説は直ちに妄想であると断定できる。
 舎人皇子は「日本建国の〔愛〕の理念は絶対に滅ぼしてはならない」という信念を抱き、強大な皇室と律令国家体制に立ち向かい、後世の源頼朝・足利尊氏はじめとする武士たちの理想像となり、織田信長と徳川家康の生きざまに大きな影響をあたえ、日本古代史に大きな足跡を残した国民的英雄であった。
 舎人皇子は『古事記』『日本書紀』編纂を指揮し、『続日本紀』聖武天皇紀の天平八年(736)1111日の記事となっているように――天平五年(733)に『万葉集』編纂を企画・命令して2年後の天平七年に死去した。舎人皇子は天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の治世を生きた、皇室と律令国家体制に弓引く反逆児であった。だから、時の聖武天皇は舎人皇子の葬儀に皇族の男女すべてを参列させて、天皇と国家に反逆すればその報いはいかに惨めか――舎人皇子の墓の築造を許可しないという報復を示して皇族全員が肝に銘じるようにした。この舎人皇子の墓の築造を許可しない方法で舎人皇子を徹底的に侮辱する仕打ちには、もうひとつ重大な魂胆があった。
 舎人皇子の墓の築造を許可したならば、その墓記には必ず「皇子の実父は天武天皇なり。養父は菟田の高屋の住人大伴朴本連大国なり。皇子は誕生以来『古事記』が完成した和銅五年まで高屋に住む庶民であった云々」と刻まれる。この墓記によって、後世の歴史家や学者たちは舎人皇子の生きざまを知り――皇室と律令国家体制は皇祖天照大御神の聖性を守るために、〔愛〕の理念を掲げて誕生した日本建国史の抹殺に躍起になった――事実が明らかになる。だから、聖武天皇は舎人皇子の墓の築造を許可しなかったのである。
 したがって、『日本書紀』『続日本紀』『万葉集』から舎人皇子の一生に関する記事を抜き書きにして墓記となる資料を作成すれば、戦後に確立された日本神話虚構説は〔誤読〕を自由自在にあやつって捏造する空想・妄想であると断定することができる。

◆元明天皇は72112月7日に没する約40日前の1024日、伊耶那美命崇拝派の頭領・舎人親王の権力を奪うために、藤原房前(ふささき)を天皇の仕事を助ける内臣(うちのおみ)に就任させて、房前の命令は知太政官事の舎人親王よりも勝ると定めた。
 これゆえ、聖武天皇と房前は7294月の太政官処分で「舎人親王が朝堂(ちょうどう╱平城京の大内裏の政庁で、八省百官が政務を執行するところ)に入る時、諸司は親王のために座席をおりて、敬意をあらわすに及ばない」と定めて、舎人親王を役人たちに軽侮させるさらし者にして、国家権力に逆らえばいかに惨めになるか骨の髄まで思い知らせて、親王がすがりついて服従することを期待した。しかし、このような卑怯卑劣な仕打ちでへこたれるような親王ではなかった。親王は378歳まで片田舎の高屋に住む庶民であったゆえ、役人たちに蔑(さげす)まされる経験は慣れっこであったゆえ、天皇と房前の期待は空振りとなった。

◆憶良は舎人親王を自分の命よりも大切な主君と敬愛していた――このことは733年の6月以後において、憶良が74歳前後であったと思われる人生最後の作品とされる『万葉集』978番の和歌で表現された。
 この和歌で、憶良は7294月の太政官処分以来、役人たちに侮辱される主君の境遇を救えず慰めることもできずに、重病で床に伏す自分の不甲斐無(ふがいな)さに涙を流して下記のごとく悲嘆する。

「士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 名は立たずして」

上記の和歌を現代語に訳すると「わが主君の舎人親王は心無い役人たちに侮辱され虚仮(こけ)にされ、ひどい恥辱(はずかしめ)を受けている! 日本建国の〔愛〕の理念を命に賭けてまもる戦いが空しく終わるのか! 皇室と国家に敢然と立ち向かって日本国誕生史の真実を守る武士(ますらお)の名は、万代まで語りつがれるべきなのに……。こんなひどい非道があってよいだろうか。天皇陛下と藤原房前公や政府がやっていることはあまりにも悪辣(あくらつ)で下劣で卑怯だ!」
 この和歌には添え書きがあり、これを現代語訳すると下記のごとくなる。
 「右の一首は、山上憶良臣(おみ)の病気が重くなったときに、藤原朝臣八束(あそみやつか)が河辺(かわへの)朝臣東人(あづまひと)を遣わして容体をたずねさせた。そこで憶良は容体を説明した後に沈黙した。しばらくしてから、涙を拭き悲嘆して、この歌を口ずさんだ。」
 内臣の房前の第3子が、添え書きに登場する藤原八束である。八束は河辺東人に憶良の容体を調べてくるように命じた。憶良は東人に容体を説明した後に沈黙して、政争に敗れた主君舎人親王の姿を思い浮かべた。この瞬間、憶良の目には涙があふれ、この涙を拭きながら、東人と八束の背後にいる房前と天皇への激しい怒りがこみあげ、この和歌が口からもれた。憶良は憶良なりに命がつきる寸前まで天照大御神を皇祖とする律令国家体制に反抗を示し、そして最後の最後まで舎人親王を敬愛し、最後の最後まで戦っていた。
 この憶良が最後に作った『万葉集』978番の和歌について学者たちはこぞって「憶良が何の名声をも手に入れることができなかったことに対する悔しさを述べている」と指摘する。この指摘は、とんでもない誤読・誤訳・誤解である。この和歌の「士(をのこ)」は憶良の主君・舎人親王を指していたのである。

◆上記の憶良の最後の作品に報いて、舎人親王は死去する2年前の733年、聖武天皇が葛城王(かつらぎおう)兄弟に母親の「橘」という姓を名乗る許可を与えるようにすると舎人親王は約束し、この「橘」を「『万葉集』を編纂する」と意味する暗号に定め、葛城王兄弟は「死を覚悟して必ずやりとげます」と誓って『万葉集』編纂は開始された。後日、葛城王は橘諸兄(たちばなもろへ)と名乗った。
 『万葉集』編纂は『古事記』作成と同様に天皇と国家に歯向かう事業であり、聖武天皇と律令体制者たちに『万葉集』作成目的が『古事記』上巻に代わる史書の機能を持たせる秘密を直隠(ひたかく)しにして用心深くおこなったために遅々として進まなかった。7535月、諸兄は『万葉集』巻十六までは編纂していたが70歳となって死期が迫っていた。しかし、いまだ舎人親王が目指した『古事記』上巻に代わって夏音文字と〔愛〕の理念が掲げられた日本国誕生史を後世の人々が知ることが出来る機能が完備されない未完成の状況であった。そこで諸兄は自分の後を継ぐ編纂者として36歳の少納言の大伴家持(やかもち)に白羽の矢を立てた。というのも、家持は優れた歌人のうえに、諸兄の主君の舎人親王は家持が受け継いだ大伴家の宗家である大伴連家の家督者であったゆえ、『万葉集』を編纂する最適任者であったからである。
 家持は『万葉集』巻二十の116首の防人歌でC図に示す小国・日本の範囲を表示する機能を加え、舎人親王が企画した『古事記』上巻に記述された〔愛〕が掲げられた日本国誕生史を伝える機能を有する『万葉集』全20巻を777(宝亀8)1月から778(宝亀9)1月までに完成させた。
 『万葉集』編纂は「なにゆえ、日本人の命と魂の根元である日本建国の〔愛〕の理念は抹殺されなければならないのか!」と朝廷と国家の強大な権力への反抗であった。ゆえに、大伴家持は〔天皇と律令体制に逆らって、謀反にかかわっているのではないか〕と3度も疑われて苛酷な処罰を受けている。

◆舎人親王は――絶対に失ってはいけない歴史がある。決して無くしてはならぬ歴史がある。なんびとにも排除されてはならない歴史がある。なんびとも奪ってはならぬ真実の歴史がある。皇室も国家も抹殺してはならない真実の歴史がある。日本人の命と魂の根元となる、伊耶那美命が提唱した〔愛〕の理念は万歳に窮(きわ)みなく千葉(せんよう)に相伝えなければならない――という信念にもとづいて強大な権力と戦った国民的英雄である。

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