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2013年11月 5日 (火)

日本が滅びる・65

愛、あざやかに永遠であれ(6)・伊耶那岐命と天照大御神の離縁について

◆学界が正しいと定める邪馬台国説と日本神話虚構説は〔誤読〕の空論である。この事実は、A図に示す私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた史跡によって証明される。
 A図の「卑弥呼」の地上絵はちょうど1千万坪の大鳥の形をしているので自然の造形によって偶然に成立したものではなく、『魏志倭人伝』と人名・小国名と『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く原初漢字・夏音(かおん)文字の全貌が解明できる仕組みになっている。ゆえに、先人が作成したと証明できる史跡である。夏音文字については、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】の「3・夏音文字」を参考にしていただいきたい。

◆ある刑事事件で容疑者が逮捕され、刑事達が先入観で容疑者を真犯人であると思い込むと、容疑者が“犯人ではない”と必死に訴える言葉は刑事たちにとっては〔ウソ〕に聞こえる。しかし、事件の目撃者があらわれて事件の状況にすべて合致する証言をおこない、この証言にもとづいて科学的に完璧に証明できる確かな証拠が発見されると、真犯人でない容疑者が述べた言葉は事実を語っていたことになる。過去におこった事件は、刑事たちが独断的な先入観を抱くと事実に反する妄想で捏造(ねつぞう)する冤罪事件がおきる。
 『魏志倭人伝』は280289年ころに著作され、A図の「卑弥呼」の地上絵は260290年に作成されたので、両者は同時代に作成された。
 「卑弥呼」の地上絵を調査すると『魏志倭人伝』のすべての記事は歴史的事実を語っていることが【科学】が成立して証明される。したがって、「絶対に『魏志倭人伝』のすべての記事は事実を語るものではない」と断定して立論する邪馬台国説は、〔誤読〕の空論であることが確実となる。
 上記の〔真犯人でない容疑者の言葉〕を〔『魏志倭人伝』の全記事〕に見立てれば、〔邪馬台国説〕は〔冤罪〕と同じで虚偽・妄想となる。なぜならば、刑事事件も歴史も共に過去に起こった出来事であり、事件の目撃者が事件の状況にすべて合致する証言の基に科学的に証明できる確かな証拠が発見されたならば、容疑者や目撃者は事実を述べていることになるからである。〔古代に著作された確かな文献史料〕は上記の〔容疑者と事件の目撃者〕に相当する。したがって、史実を証明する決定的な法則は古代の文献史料の記述がすべて合致して【科学】が成立する史跡・遺跡・遺物を発見することである。
 だから、『魏志倭人伝』のすべての記事は正しいと証明できるA図の「卑弥呼」の地上絵によって邪馬台国説と日本神話虚構説は〔誤読〕の空論であることが決定的となる。
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A図の「卑弥呼」の地上絵は――倭女王伊耶那美命は国作りの柱を〔愛〕と定めた。しかし、天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して祟った――と日本国誕生史を後世に伝えるために作成された。
 
 前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・64」にて詳細に解説したように、『古事記』の伊耶那美命の死説話は「伊耶那美命は火之迦具土神の製鉄製錬炉の爆発による火災事故によって大火傷して、香山(かぐやま╱天の香具山)の畝尾(うねお)の木本(このもと)に所在する泣沢女神(なきさわめのかみ)で息を引き取った――と記述する。
 伊耶那美命の臨終地の泣沢女神は、B図上部に示す奈良県橿原(かしはら)市木之本(このもと)町に所在する、現在の哭沢(なきさわ)神社である。哭沢神社の古称は「畝尾都多本(うねおつたもと)神社」であり、『古事記』の「香山の畝尾の木本に坐す泣沢女神」という記述に合致する。

◆哭沢神社で死去する以前、『古事記』は「伊耶那岐命と伊耶那美命は淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮の地で二度目の淤能碁呂(おのごろしま)の結婚をした」と記述する。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・60」から「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・63」のまでにて、C図の淡路島における伊耶那岐命と伊耶那美命の二度目の結婚は〔愛〕の国作りを目指して誓うものであったことを証明した。
 二人が誓った〔愛〕の国作りの政治目標は、C図に示す「諭鶴羽(ゆずるは)山地」という地名で現在に伝えられる。山地名「諭鶴羽」はD図に示す「雌雄がたがいに羽をひろげあって求愛するように国作りに努める」とあらわすものであった。
 倭女王伊耶那美命は魏の出張機関の帯方郡の使節の長官・張政が軍事同盟の約束事であると告喩(こくゆ)する卑弥呼と素(もと)より不和であった狗奴(くな)国討伐を拒絶して、狗奴国とは話し合いで平和的に解決することを優先すべきであると主張した。そこで、急遽、倭王朝は伊耶那岐命の第二后の天照大御神を倭女王の代役に立てて、狗奴国を討伐して滅亡させた。天照大御神と倭王朝は伊耶那美命が倭女王の責務を放棄したゆえ退位すべきでありまた伊耶那岐命と離縁すべきであると強く迫ったが、伊耶那美命の退位に反対する人民の要求に助けられて伊耶那岐命は伊耶那美命を擁護し、伊耶那美命を諭して二度目の結婚をしたので「諭鶴羽山地」という地名が現存することになったのである。

◆『魏志倭人伝』は「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩。葬に徇(じゅん)ずる者は奴婢(ぬひ)百余人」と記述する。「奴」は「18歳くらいの青年」、「婢」は「13歳くらいの乙女」を意味した。E図に示す狗奴国(現在の広島県東部と岡山県)の「奴」はF図に示す「ジャコウウシ」をあらわした。
 []の字源となった「ジャコウウシ」は〔非常に強い力を有する聖獣〕とされ、〔18歳くらいの太い腕と筋肉隆々の青年たちは堅い土でも耕作できる強い力の持ち主である〕ので「奴」と言われるようになり卑弥呼の墓に殺されて埋められる犠牲(いけにえ)となった。
 E図下部に示す鳴門の渦潮の潮流は時速20km以上になることもあり、世界でも最高級の速度であるといわれており、轟々とすさまじい音響を立てて豪快に渦巻く渦は直径20m以上に達するものもある。この地軸を画きまわすかのごとく巨大な渦を巻く潮の力は〔非常に強い力〕を示すゆえ、「鳴門の渦潮」は「奴」をあらわすことになった。これゆえ、E図に示すように、「現在の愛媛県と香川県」は「奴国」と名づけられた。四国高知県に所在する浦戸湾は烏(樹木の空洞やがけの穴を巣とするカワセミ・ヤマセミ)の姿や巣の穴に相似するゆえ「現在の高知県と徳島県」の小国名は「烏奴(あな)国」となった。
 『魏志倭人伝』はすべての方位記事は「西→北・東→南」となる時計回りに90度ずつ転位する、E図に示す転回方位に則る「転回日本列島地理を卑弥呼王朝は制定していた」と記述する。『魏志倭人伝』は「奴国の南に狗奴国有り」と記す。現在の日本地図は奴国の中心地の松山市の東に狗奴国の中心地の岡山市が所在するが、『魏志倭人伝』のすべての方位記事が示すE図のような転回日本列島地理に則ると奴国の小国都の松山の南に狗奴国の小国都の岡山が所在するので、『魏志倭人伝』の記述は【科学】が成立して合理となる。
 淡路島の二度目の結婚後、伊耶那美命は「奴」が「徇葬の犠牲(いけにえ)となった18歳くらいの青年」を意味することを嫌った奴国・烏奴国の人民の要望に応えて、『古事記』国生み説話は――G図に示すように、伊予国・讃岐国・粟国・土左国の4ヵ国に分け、それぞれ4ヵ国の祭神をも定めた――と記述する。この時、倭女王を退位しないと決意して新たな〔愛〕の国作りを始めた伊耶那美命は伊予国の祭神を「愛比売(えひめ)」と定めた。この「愛比売」の3字は現在「愛媛」の2字に変わったが、伊耶那美命が目指した〔愛〕の国作りの理念を示す史料となって現存する。だから、「愛媛」という県名は伊耶那美命が歴史上人物であったことを明確に証明するものとなる。
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◆伊耶那美命が国作りの柱とした〔愛〕の理念を、天照大御神は侮蔑し憎悪して祟った。
 伊耶那美命の亡き後、天照大御神が倭女王に即位した。
 天照大御神は伊耶那美命の墓を、H図に示す熊野本宮大社の旧社地の大斎原(おおゆのはら╱和歌山県東牟婁郡本宮町)に築いた。大斎原は北緯3350分であるので、G図に示す伊耶那美命の国作りの柱となる〔愛〕を表示する愛比売を祭神とする伊予国の中心地の松山の北緯3350分と同緯度である。
 当時の倭地では、〔天の北極〕で地理の緯度と方位を測量しなかった。夏音文字の学芸の基軸となった、I図に示す〔[]のキャッチ〕すなわち〔天頂緯度線と子午線のキャッチ〕で緯度と経度を測量したので、精密に緯度と子午線(経度・方位)が測量できた。ゆえに、愛比売・伊予国の中心地の松山と大斎原が同緯度であると計測できたのである。

◆『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)の訪問説話は――天照大御神は伊耶那美命の墓に多数の奴婢を殺して埋める徇葬を指揮した。この徇葬に小国・日本の軍王(いくさのおおきみ)の伊耶那岐命が怒り、倭女王天照大御神の徇葬墓築造に反逆するクーデターを決意して配下の日本兵とともに伊耶那美命の墓の玄室(げんしつ)から棺を奪って、H図の速玉大社の境内に目指して逃走した。このクーデターは深夜におこなわれた。これゆえ、伊耶那美命の棺を輿(こし)に載せて担ぐ日本兵たちが真っ暗な足元が見えない熊野路を転ばないために松明(たいまつ)の灯で道を明々と照らす日本兵たちも従った。この松明の灯は追跡してくる倭の政府軍を速玉大社の境内に誘導する罠(わな)でもあった。現在の速玉大社の境内となった広場には、日本軍の本隊と熊野に住む戦士たちが伊耶那岐命一行と追跡してくる倭の政府軍を待機していた。倭の政府軍は熊野速玉大社の境内で日本軍・熊野軍に撃破されて敗走した。驚いたことに“夫を許さじ”と怒りと怨念(おんねん)の修羅(しゅら)の妄執(もうしゅう)の炎と化した天照大御神が伊耶那岐命一行の後を追ってきて日本軍の兵に捕らわれ、そのときに伊耶那岐命が居た現在の神倉(かんのくら╱H図下部にある)神社の社殿が建つ巨大な岩の前の洞(ほこら)に連行された――と記述する。

◆『古事記』が作成された時、天照大御神は絶対に聖性を汚してはならないと皇室が崇拝する至上神・皇祖であった。これゆえ、『古事記』を正史にして後世に日本建国の〔愛〕の理念を何としても伝えようと願った編纂スタッフは、自分たちが崇拝し敬愛してやまない伊耶那美命の名を利用して、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話における「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」であるかのごとくに表現した。
 というのも、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝に――『古事記』が完成する10年前の702年に派遣された日本国の遣唐使は「後稍夏音(のちややかおん)を習う」と中国王朝に伝えた――と記述されているように、朝廷は編纂スタッフに――天照大御神の事実にもとづく歴史を稍々(やや)少しだけ復興して、つまり多数の奴婢を殺して埋める徇葬を指揮したことや伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し祟ったことなどの天照大御神の聖性を汚す事績のすべてを削除して、夏音文字に精通して聡明であったことを強調して天照大御神を讃える偽書を作れ――と欲求していたからである。
 なんとしても伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えなければならないと考えた編纂スタッフは、「事実に反する方法で真実を伝える方法」の「反実仮装(はんじつかそう)という技法で賭けに出た。つまり、一見すると「黄泉国の伊耶那美命」は「伊耶那美命」のごとく解釈できるが、慎重に読むと「黄泉国の伊耶那美命=天照大御神」と真実が解釈できるようにすれば、朝廷の「後稍夏音を習う」という欲求に沿うことになるであろうと賭けに出て、『古事記』を元明天皇に献上した。ところが、元明天皇は『古事記』編纂スタッフの企みを見抜き献呈を拒否して、『古事記』抹殺に躍起となった。このため、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は『古事記』に関する全ての記述を削除して、『古事記』が著作されなかったように偽装された。ゆえに、後世、“『古事記』は偽書ではないか”と幾人かの学者や研究者たちによって疑われることになった。

 
「黄泉国の伊耶那美命」が「天照大御神」であることは、H図下部に示す神倉神社の主神が「天照大御神」であることと、「八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)」が「徇葬の犠牲(いけにえ)となった、多数の青年と乙女」であることや、神倉神社のご神体の“ごとびき岩”の前で黄泉国の伊耶那美命=天照大御神が呪った誓いによって証明される。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話末部に登場する「黄泉比良坂(よもつひらさか)」はH図下部に示した「神倉神社の参道」である。また、伊耶那岐命が天照大御神(黄泉国の伊耶那岐命)に離縁を言い渡した「千引石(ちびきのいわ)の中」は、J図に示す「神倉神社の社殿が建つ“ごとびき岩”の洞(ほこら)」である。
 『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――「黄泉比良坂」は『古事記』が完成した712年において「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」といわれる――という記述で終わる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・19」にて、『万葉集』の429番と430番の「溺れ死にし出雲娘子(いずものおとめ)を火葬(やきはぶ)る時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌二首」を用いて、『古事記』が完成された当時、熊野は「出雲国」であったことを証明した。ゆえに、黄泉比良坂の神倉神社の参道は「出雲国の伊賦夜坂」であったことになる。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」は、『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の現代語訳である。このブログで、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は伊耶那岐命と日本軍の兵士・熊野の戦士たちが大斎原に築造された伊耶那美命の陵墓から棺を奪還するクーデターを記述したものであることを解明し証明した。
 「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・17」にて、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する「八の雷神」は「天照大御神が指揮した徇葬によって、伊耶那美命の墓に犠牲(いけにえ)として殺されて埋められた多数の18歳くらいの青年と13歳くらいの乙女たち」であると解明した。だから、「黄泉国の伊耶那美命」のごとき女性は「天照大御神」であったのである。
 H図の熊野本宮大社の旧社地・伊耶那美命の墓に多数の犠牲(いけにえ)の青年と乙女を殺して埋めた天照大御神の行為は、伊耶那美命が国作りの柱とした〔愛〕の理念を憎悪して祟るものであり、伊耶那岐命に愛された伊耶那美命に嫉妬する復讐であった。
 伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は――千引石の前で伊耶那岐命に離縁を言い渡された天照大御神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓った――と記述する。天照大御神は「日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ人民の母親たちの産道が狭くなるように呪って、一日に千人の胎児の頭を絞め殺す」と誓った。
 伊耶那岐命は伊耶那美命の遺志を受け継ぎ「吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」と誓った。
 伊耶那岐命は、上記した中国の正史『新唐書』日本伝が「日本はすなわち小国、倭国をあわす所となる」と記述する大王となった。伊耶那岐命は『古事記』が「春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)で天下を治めた」と記述する、第9代開化天皇であった。
 開化天皇王朝は、K図に示す後年に崇神天皇の居殿となった磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきみや)の地に建てた屋敷に住む天照大御神・纏向王権と対立することとなった。
 K図の天照大御神・纏向王権は、H図の神倉神社のご神体の千引石(ごとびき岩)の前で天照大御神が「汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と誓った呪いを政権拡大の原動力とし、日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ王権勢力を敵視し征服して大和王朝の基礎を築いた。

◆年賀葉書の作成などで、ブログは10日間ぐらい休みます。次回の66回以後、邪馬台国説と日本神話虚構説によって抹殺された真実の歴史を続々と先人たちが後世に残した証拠を挙げて証明・暴露しますので、楽しみにお待ちくださるようお願い申し上げます。

 

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