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2013年11月18日 (月)

日本が滅びる・68

愛、あざやかに永遠であれ・『古事記』序が語る歴史を知る方法の解説()

◆江戸時代の国学者の本居宣長(17301801)30数年もの歳月をかけて1789年に注釈書『古事記伝』を完成した。現代の学者たちが使用するテキストは、宣長が研究し著した『古事記伝』を基本にする。『古事記伝』は全44巻であり、総論、序文注釈、神統譜、本文注釈からなる。この『古事記伝』は『古事記』研究のすべてにゆきわたる注釈書ではなく、不完全な注釈書である。
 というのも、中国の正史『新唐書(しんとうじょ)』日本伝には――『古事記』が完成する10年前の702年に中国に渡った日本国の遣唐使が「後稍夏音(のちややかおん)を習い、云々」と中国王朝に伝えた――という記述が存在するからである。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「3・夏音文字」や「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の28回~33回まで6回に分けて解説・指摘したように、わが国は原初漢字の夏音文字が伝来し、『魏志倭人伝』の人名・小国名は夏音文字を示すものであった。

◆太安万侶(おおのやすまろ)が作った『古事記』の「序文」の作成目的は、今から約4050年前の夏代初頭(わが国の後期縄文時代初頭)に名門・益氏の王子と若者たち一行が中国大陸から大海を越えて日本列島を移住してもたらした夏音文字に関する解説であった。
 しかし、宣長の『古事記伝』の序文注釈にもとづき、学者たちは――『古事記』の序文の作成目的は、日本語を文章化するための各種の工夫・表記法を説明するためのものであった――と考える。
 しかし、事実は『古事記』の序文の作成目的は夏音文字を説明することであった。
 
 『古事記』上巻の随所に〔音〕という注が付く1字1音読みの学者たちに“字音仮名”と呼ばれる音文字が今から約4050年前に日本列島に伝来した夏音文字である。
 
 原初漢字の夏音文字はA図に示す「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」を「文字」とした。夏音文字とともに用いられる漢文体に使用される楷書の字源・原義も「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」であった。
 
 ゆえに、『古事記』の序文は――夏音文字と漢文体に用いられる漢字の字源・原義は同じA図の銀河各部の形状イメージであるゆえ、「銀河の形状」が「文字」となる夏音文字を漢文体と同じ漢字で表記した。それというのも、夏音文字はもちろん、漢文体に用いられる漢字も、その字源・原義を解明すると、『古事記』上巻の日本神話に秘められる歴史を正確に識()ることができる――と説明することが目的で設けられたのである。

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◆“字書の聖典”とされる2世紀初頭に完成した許慎(きょしん)が著作した『説文解字』の序には「けだし文字は経芸の本、王政の始め、前人のもって後人に垂れるところ、後人のもって古(いにしえ)を識()るなり」という文がある。この文は「考えるに、文字は科学(医学・天文地理学などの学術)と芸術の根本であり、王道政治は“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が万物の情に類する文字を作成できる漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明した五帝時代初頭の黄帝時代から始まり、倉頡の〔秋の銀河と夏の銀河の各部の形状を文字とする発明〕によって前人たちがおこなった事績や過去の出来事すなわち歴史を識ることができるようになった」と意味する。これについては、わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「1・漢字」、「2・秋の銀河と夏の銀河」、「4・倉頡が死刑と定めた3つの掟」、「5・漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」に解説した通りである。

◆上記したように夏音文字についての解説が作成目的であったがために、『古事記』の序文は「古事記上巻 并(あわ)せて序」となった。というのも『古事記』は上巻、中巻、下巻の3巻から成立するが、〔音〕という注が付く1字1音読みの夏音文字は『古事記』上巻のみに記載されているからである。夏音文字についての説明が序の作成目的であることを示すと「古事記上巻 并せて序」となる。
 現存する最古の『古事記』の写本は国宝「真福寺本」である。真福寺本は1372(応安5)の南北朝時代に愛知県・真福寺の僧によって書写された。祖本は平安末期から鎌倉時代にかけての写本とされる。真福寺本は「古事記上巻 序并」と表記する。

 道果が1381(永徳元年)に書写したものが、真福寺本に次いで古い。道果が作った写本は「古事記上巻 并序」と表記して、真福寺本の「序并」に対して[][]の字の順序が逆となる。
 本居宣長が著作した注釈書『古事記伝』は道果が作った写本と同じく「古事記上巻 并序」と表記する。
 いずれにしても、『古事記』の序文は「古事記 序」ではなく、『古事記』上巻の序文は――〔音〕という注が付く夏音文字の日本列島伝来と『説文解字』の字源解説はA図の「秋の銀河と夏の銀河の形状イメージ」を解説するものであるから、漢文体に用いられる楷書の字形は「秋の銀河と夏の銀河の形状イメージ」を最も表記の短縮化がはかられて最も象形性がうすめられて図案されたものであり、字源・原義は夏音文字の「文字」となった「秋の銀河と夏の銀河の形状イメージ」である――と説明するために作ることが目的であったので、「古事記上巻 并(あわ)せて序」となったのである。
 もしも学者たちが主張するように、『古事記』の序文の作成目的が――字音仮名と漢文体の文字を混合する文章表記のためにあった――としたならば「古事記 序」と表記すればよいことになる。それを「古事記上巻 并せて序(序并、または并序)」と表記した秘密は、上巻に記載された〔音〕という注がつく夏音文字を説明するものであったからである。
 したがって、『古事記』の序文は――上巻に記載された夏音文字はA図の「秋の銀河と夏の銀河各部の形状」が「文字(字源・原義・字形)」であることを指摘して、「漢文体に用いられる漢字」の字源・原義もまたA図の「銀河各部の形状」であることを伝えて、夏音文字に限らず7世紀の隋代に完成した楷書も含めるすべての漢字を字源・原義となるA図の「銀河各部の形状」に変換すれば正確に歴史が解明できる――という歴史の解明方法を説明するために作成されたことになる。
 本居宣長は、『古事記』の序文が正しい歴史解明方法を伝えるために作られたことにまったく気づかなかった。

 
◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の2833回の6回に分けて解説したように、今から約4050年前の後期縄文時代初頭の国の特別史跡・大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき╱秋田県鹿角市に所在する)の万座遺跡と野中堂遺跡には夏音文字の学芸が伝来した痕跡が現在も明確に残る。この事実は、『魏志倭人伝』と同時代の3世紀後半に作成された、C図に示す私が“「卑弥呼」の地上絵”と名づけた1千万坪の巨大な鳥の形に設計した地上絵(静岡県浜松市北区細江町の行政句区域を表示する地図の形)を調査すると科学的に証明される。
 今から約4060年前ころ、夏王朝の2代帝王となった益氏の首長は、“夏の始祖”の帝禹()の3年の喪が終わると、禹の子の啓(けい)に帝位を譲って箕山(きざん)の南の地に居住した。そして益は、帝禹の遺志である五帝時代の氏族共同体制を新天地・日本列島にて継続することを決意した。というのも、帝啓は父の禹の多数の氏族から最も優秀な人物を帝王に選び国家を樹立しない氏族共同体制の継続に反対し、特定の家(禹や啓の家)が代々帝位に就いて国家を樹立する世襲国家体制を強く望んだからである。これゆえ、帝禹は政事を裨益(ひえき╱補佐)した益に天下を与さずけた。しかし、諸侯は禹の遺志である氏族共同体制の継続に反対して帝益のもとを去って啓のもとに入朝した。このため、益は中国では氏族共同体制は継続できないことを知り、新天地の日本列島にて禹の遺志である氏族共同体制の継続を決意した。しかし、益は年老いていたので、小舟を漕いで大海を越える体力を失っていた。そこで、禹の遺志を継ぐ事業は幾日も小舟を漕いで大海を越えることができる体力の持ち主の益の孫の王子と益氏の若者たちによっておこなわれたのである。
 したがって、名門益氏の日本列島移住によって夏音文字の学芸が伝来した。
 この益氏の王子と若者たちの日本列島の歴史は、『日本書紀』巻第三の神武天皇紀初頭にある天祖(益氏の王子)降臨説話となる。
 中国が世界に誇る司馬遷著『史記』の陳杞世家(ちんきせいか)が「帝王になった益の子孫は、どこに封ぜられたかは不明である」と記述するように、益氏を受け継ぐ若者たちが日本列島に移住したために中国から忽然と消えた。
 3世紀後半に著作された『魏志倭人伝』には「古(いにしえ)より以来、その使中国に詣(いた)るに皆みずから“大夫”と称す」という記事がある。この「大夫」は万葉時代では「ますらを」と読み、現在の【ますらお】は「益荒男」と表記する。この「益荒男」という語は〔益氏の王子と若者たちが荒波逆巻く大海をこえて日本列島に移住した歴史〕に由来するものであるので、「益氏の王子と若者たちのように勇ましく雄々しい男子」と意味する。だから、『魏志倭人伝』の「古より以来、その使中国に詣るに皆みずから“大夫”と称す」という文は「中国に到着した倭の使節は皆みずから“大夫”と称して、太古の天祖(益氏の王子)一行のごとく荒波逆巻く大海を越えてきた」と言って誇示していたと伝えるものであるからして、益氏が日本列島に移住したことは確かな歴史的事実であったことになる。

◆今から約4050年前、益氏をになう王子と若者たちは日本列島に移住した。

益氏によって夏音文字の学芸が伝来した後期縄文時代初頭より約2000年前の前期縄文時代初頭、関東地方で土器と土偶による芸術革命がおこった。この前期縄文時代初頭より約1000年後から始まる中期縄文時代の土器と土偶に接した現代の芸術家たちは感歎・賞賛の声を挙げる。
 夏音文字が伝来する約950年前のから始まる中期縄文時代、日本列島においては天頂にめぐってくるA図左上の「オス鹿の横顔に似る銀河」をモデルにして現代の芸術家たちが驚き感服する優れた作品(土器、土偶)が造形されていた。この芸術作品のモデルとなった「オス鹿の横顔に似る銀河」のうちの角の部分はA図に記すように、私は「十字の銀河」と名づけた。この「十字の銀河」の上方の無数の星が3つの輪の形になって連結する銀河を、私は「三つ輪の銀河」と名づけた。
 前期縄文から後期縄文時代において、「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」が東国・関東地方の天頂にめぐってきた。
 前期と中期の縄文時代において、日本列島の天頂を通過した銀河の形状を表現する土器と土偶が関東地方の高地で作られていた。特に、中期縄文時代にはD図に示す長野県・信濃や甲斐・山梨県、そして新潟県信濃川流域において豊かな感性による芸術の花が開き、優れた土器や土偶が作られていた。
 E図は山梨県東八代郡御坂町(北緯3537)の花鳥山遺跡から出土した前期縄文時代の深鉢を絵で表示したものである。
 F図の右側は山梨県東八代郡御坂町の桂野遺跡から出土した中期縄文時代の深鉢をイラスト化したものである。F図の左側は新潟県の信濃川流域の遺跡から出土した中期縄文時代に作られた火炎土器の図である。
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◆G図に示す〔歳差〕という天文現象にもとづいて、日本列島で芸術革命がおこった約6000年前の前期縄文時代初頭と夏音文字の学芸が伝来した約4050年前の後期縄文時代初頭において天頂緯度線がどのような銀河を貫通したかを調べると――H図のごとくになる。
 新潟県の信濃川流域北部は北緯3736分である。E図とF図の左図の前期と中期の深鉢が出土した花鳥山遺跡と桂野遺跡が所在する御坂町は北緯3537分である。
 したがって、H図に示すように、前期縄文時代初頭から後期縄文時代初頭にかけてはA図の左上にある「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」が信濃川流域や関東地方の天頂にめぐってきたことになる。
 信濃川北部と御坂町の中間の緯度は、北緯36度である。
 I図に示す北緯36度における前期・中期・後期の各初頭のおける緯度線とH図の緯度線からして、中期縄文時代において芸術性豊かな土器が作られた信濃川流域と関東地方の天頂に「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」がめぐってきたことになる。
 日本最古の国宝は、J図に示す長野県茅野市の尖石(とがりいし)台地の棚畑(たなばたけ)遺跡から出土した“縄文のビーナス”と呼ばれる美しい土偶である。国宝・縄文のビーナスは尖石縄文考古館に所蔵され、その常設展示室にて見学することができる。
 縄文のビーナスは、約5000年前の中期縄文時代初頭の出土物である。縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡は北緯36度である。
 K図は約5000年前の中期縄文時代初頭の棚野遺跡の天頂緯度線が貫通した銀河図である。
 E図の前期縄文時代の深鉢とF図の左図の中期縄文時代の深鉢が作られた山梨県の御坂町と縄文のビーナスが作られた長野県の茅野市の天頂には、「三の輪の銀河」と「十字の銀河」が輝いていた。

◆D図に示す後世(西暦234年ころ)に小国・日本となった地域の天頂にめぐってきた銀河の様子と夏音文字の伝来・習得の歴史を、太安万侶は『古事記』上巻の序の冒頭で下記のような文で表現した。
 「臣安万侶言(もう)す。それ混元すでに凝()りて、気象未(いま)だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰(たれ)かその形を知らむ。しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す。」
 上記の『古事記』上巻の序の冒頭を現代語に訳すると、下記のごとくになる。
 ――臣下安万侶が申し上げます。およそ宇宙の初めにあっては、銀河の形状が示すように、混沌(こんとん)とした天地万物の根元が凝り固まりましたが(L図左上部に「最北の輪の銀河」と記した箇所は、「三つ輪の銀河」に連結する輪の形になって凝り固まりましたが)、まだ万物の生命のきざしと形は、人類にとっていまだ確かな形になってあらわれませんでした。ゆえに、何とも事物に名をつけることができず、その事物の情(イメージ)を形にする技術も存在しませんでした。ですから、誰もその宇宙の初めの天頂にめぐってきた銀河の形を知ることができません。しかしながら、「天」と感じる「三つ輪の銀河」と「十字の銀河」が地上に住む人類の頭上にめぐってきて初めて天と地に分かれることが認識できるようになりましたので、造化(造形芸術)の参神を初めて形にしてあらわすことができるようになりました。

◆『古事記』上巻冒頭の創世の神々説話は「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。」と記す。
 ゆえに、「造化の参神」は「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の参神」となる。
 L図は、造化の参神図である。つまり、L図とI図は同一となる。だから、「天之御中主神」は「前期縄文時代の造形作品(E図の土器)のモデルとなった天頂にめぐってきた銀河」、「高御産巣日神」は「中期縄文時代の造形作品(F図の土器、J図の縄文のビーナス)のモデルとなった天頂にめぐってきた銀河」、「神産巣日神」は「夏音文字が伝来した後期縄文時代の天頂にめぐってきた銀河」であったことになる。

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