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2013年12月 2日 (月)

日本が滅びる・72

愛、あざやかに永遠であれ(13)・『古事記』序が語る歴史を知る方法の解説()

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・52」で解説したように――672年におきた壬申の乱の始まりは、近江朝が大海人(おおあま)皇子(のちの天武天皇)を暗殺するにあたって、邪魔になると考えた当時における最も強力な武将であった大伴朴本連大国(おおとものえのもとのおおくに)を討伐する計画から始まった。
 この陰謀をいちはやく知った大伴連大国は20人余りの配下を率いて、大海人皇子一行が吉野を出発して東国へ逃れた672624日の朝、吉野方に合流した。このため、吉野軍は近江軍に大勝利することができた。
 壬申の乱の最高の武勲者であった大国は、武家の名門大伴連家・大伴家の宗家の頭領であり、彼は東海道・東山道の武士たちをまとめる武将であった。大海人皇子一行が東国へ逃れたとき、大国は東海道・東山道の武士(軍兵)たちが大海人皇子一行に合流するように手配していたので、壬申の乱は吉野軍が近江軍に大勝利した。伊耶那美命を崇拝する大国は――大海人皇子が天皇に即位したならば伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊ぶ政事をおこなうであろう――と期待して、大海人皇子を支援した。
 大海人皇子は天皇に即位すると、従来の天智天皇・近江朝の天照大御神を崇拝する政策を受け継いただけでなく、近江朝よりも増して天照大御神崇拝を明確にして天皇の権力を絶対視する政策を推し進めた。
 支援したことが水の泡(あわ)となった政治に失望した大国は天武王朝に参加せず、菟田(うだ)高屋(たかや)すなわち現在の奈良県宇陀(うだ)郡榛原(はいばら)町高星(たかへ)で庶民として暮らした。

◆大伴連大国の期待を裏切った天武天皇は大国が近江朝の残党と東海道・東山道の武士を集めておこす反乱をおそれ、4年後の676年に誕生したわが子を大国の養子として与え、この捨て子に「第三皇子(皇位継承順位が第3番目の皇子)」という高い地位をさずけて東海道・東山道の武士たちの壬申の乱の労をねぎらって怒りをおさめた。
 天武帝はもしも将来に日本建国の〔愛〕の理念を掲げて東海道・東山道の武士たちが反乱をおこした時、大国の後継者となって強力な武将となったわが子が反乱をおこす武士たちを説得するか、あるいは説得できなければ武力で反乱を制圧するにちがいないと目論(もくろ)んだのである。
 この実父の天武天皇が生まれるや捨てて大国に与えた第三皇子は、舎人(とねり)皇子(676735)である。
 『日本書紀』――「681(天武天皇10)3月17日、天武帝は川島皇子以下忍壁(おさかべ)皇子など12人に命じて「帝紀および上古の諸事を記定」させた――と記述する。この『日本書紀』の記事における「上の諸定」の3字から『古事記』という書名が作られたと指摘する学者たちがいる。この681年、舎人皇子は6歳であった。
 この時の天武天皇の歴史書作成の命令は、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を排除して天照大御神を崇拝するために都合の悪い歴史は削除する偽書の作成を計画するものであったにちがいない。この偽書は作成されなかった。なぜならば、日本建国の〔愛〕の理念を削除する歴史の隠蔽(いんぺい)は、大伴連大国が憤激して反乱をおこすにちがいなかったからである。もしも大国が近江朝の残党と東海道・東山道の武士たちを率いて反乱を起こしたならば、天武王朝軍は必ず勝利するとはかぎらなかった。また、たとえ天武王朝軍が勝利したとしても、必ず歴史に残る大規模の戦争となるゆえ、大国は日本建国の〔愛〕の理念を葬ることができなかったので反乱をおこした原因が後世へと語り継がれることになる。このような結果を考えると、天武帝にとって天照大御神を神格化するための偽書は作成目的を成就するものとならないので無意味となった。ゆえに、後年に『古事記』という書名となった681年の「上古の諸事を記定」させる歴史を隠蔽(いんぺい)する偽書は作成されなかった。

6869月、天武天皇は崩御した。
 皇后の鸕野讃良(うののさららの)皇女は即位の式をあげずに、政務を執った。
 6901月1日、鸕野讃良皇女は即位して持統天皇となった。
 693年、舎人皇子は18歳となった。大伴連大国に育てられた舎人皇子は成長すると、実父天武天皇の目論みは大誤算となり、皇室と律令体制に盾突く日本古代史上希代(きたい)の反逆児となった。

下記の『万葉集』117番は、舎人皇子が18歳ころに作ったと推定される和歌である。

「大夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども 鬼(おに)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり」
 現代語に訳すると「武士たるもの、片恋するなんてみっともないことだが、吾は上古の伊耶那美命に片恋する鬼の益荒男だ。吾は鬼道(きどう)の夏音文字の学芸と日本建国の〔愛〕の理念の復興に命を捧げる男(ますらお)だ」となる。
 697年、持統帝は孫の文武天皇に譲位した。
 翌698年、持統上皇によって天照大御神を恒常的に祭る壮大な伊勢神宮の宮殿が創建された。この伊勢神宮の建造をもって上皇は「稍(やや)夏音を習う」すなわち「天照大御神は伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し呪い、伊耶那美命の墓に多数の青年と乙女たちを殺して埋めた徇葬(じゅんそう)をおこなったなどの事績を削除して、天照大御神は夏音文字の学芸に精通していた聡明な女性であったことを後世に伝えるために、夏音文字を稍々(やや╱少し)復興する史書を作成せよ」と欲求する上古史を隠蔽する偽書の作成を催促した。しかし、舎人皇子は持統上皇の偽書作成をゆるさなかった。
 史書編纂スタッフは大国の後を継いで東海道・東山道の武士たちの棟梁となった強力な武将である舎人皇子という心強い後ろ盾(だて)を有することになった。ゆえに、編纂スタッフは持統上皇の脅迫を無視した。
 当時、都から離れる片田舎の高屋で庶民として過ごす舎人皇子は文武天皇と同格、いやむしろ優っている正統な皇位継承者であった。『日本書紀』が「天武天皇の第三皇子」と記載する大津皇子は686年に皇后鸕野皇女(持統帝)の謀略によって死刑となり、天武天皇の第一皇子の草壁(くさかべ)皇子(生母は持統帝)687年に没し、天武天皇の皇子で最年長の高市(たけち)皇子は696年の710日に没していた。これ以後、天武帝は第二皇子を設けなかったので、正史の『続日本紀(しょくにほんぎ)』が「天武天皇の多数の子にあって第三皇子」と記載する舎人皇子が最も上位の皇位継承者となった。しかし、舎人皇子は天照大御神を嫌悪して伊耶那美命に憧れていたので、朝廷と律令体制は舎人皇子を天皇に即位するわけにはいかなかった。

702629日、「倭」から「日本」への国号の改変の承認を中国王朝から得る任務に就く第7回遣唐使が九州の港を出帆した。
 国号の改変は中国王朝の承認を得なくても自国内で片づけることができる問題である。「日本」と変えた国名を中国王朝の承認を得るという方法は、有名画家の贋作を目利きの人物から“本物である”と保障してもらう詐欺と同様になにか魂胆があるかのごとく怪しげである。実際、第7回の遣唐使は持統帝の天照大御神を神格化するための史実を隠蔽する企みを成就させるための任務に就くものであった。舎人皇子の後ろ盾を得た編纂スタッフは持統帝の欲求を無視して偽書を作成しなかったゆえ、遣唐使は手ぶらで中国に渡って交渉した。どうしても中国王朝から国号改変の承認を得たいならば歴史書を作成して中国王朝に献上すれば事は簡単に済む。にもかかわらず、遣唐使は歴史書を持たずにしかも持統帝の企みに従って中国外交官を騙(だま)して承認を得ようとする魂胆の彼等は罪悪感のために、その態度はおのずと苛立(いらだ)って横柄となった。ゆえに、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝に「日本の使節と名乗るその人は態度が尊大で、事実を語ってくれないので、中国は彼らを疑った」と記述されているように、なにゆえ「日本」と国名を変える経緯(いきさつ)の史書も作らずに手ぶらでやってきて、中国王朝の承認も得ずに自国内で片付けて事後報告すればよい国号の改変を報告しに来たのかと疑われた。
 天照大御神は「日神(にちじん)」であったので持統帝は「日本」という国号は「日神」という語に相似していることに注目して「天照大御神によって日本国が誕生した」と誤魔化すことができることに気づき、天照大御神を神格化するために歴史的事実を隠蔽した史書を作って中国王朝から国号改変の承認を得るならば、持統帝が欲求するとおり偽の歴史を後世の学者たちは“中国王朝の承認を得ているゆえ、真実であるにちがいない”と短絡的に考えて信用するにちがいないと企み遣唐使を派遣したのであった。
 しかし、遣唐使に持たせるための肝心の偽書が作成することができなかったので、中国の外交官と王朝は「日本」への国号改変の裏には何か怪しげな事情があると見抜いた。この偽書作成が阻止された原因は舎人皇子が黒幕で指示したにちがいないと考えた持統帝は、遣唐使が出帆した4ヵ月後の1010日から1125日まで舎人皇子の討伐の行幸を決行した。
 持統上皇と文武天皇の壬申の乱に参加した東海道・東山道の武士たちを説得して彼等の主君である舎人皇子を裏切って討伐せんとした行幸は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に詳細に記載されている。この行幸は年老いた持統上皇には強行スケジュールであった。これゆえ、1213日に重病となって、9日後の22日に上皇は崩御した。

◆持統上皇が死去してから1ヵ月後の翌703120日、文武天皇は舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派の勢力に脅(おび)えて要求を飲み、知太政官事(ちだいじょうかんじ)という官職を新設した。
 知太政官事は天皇に次ぐ地位で、左大臣・右大臣よりも位が高い。「太政官」は「政務を総理し、中央の全官庁および諸国を総括して国家を治める、天皇政治の中心となる役所」である。この「太政官の長官」が「太政大臣」で、「太政大臣の役目と、加えて歴史局の総裁を兼務する役職」が新設した「知太政官事」であった。
 この知太政官事に伊耶那美崇拝派の忍壁皇子(舎人皇子の異母兄の、天武天皇の子にあって皇位継承順位が第九位)の就任を容認して、持統帝亡き後の天照大御神を崇拝する律令体制の崩壊を文武天皇は必死に食い止めた。
 忍壁皇子は上記した22年前の681年における天武天皇が「帝紀および上古諸事を記定」を命令したスタッフの2番目に挙げられた。第1番目に挙げられた川島皇子は持統天皇5年となる691年に没している。上記したように、『古事記』という書名は「上定」の3字を選んで作られたと指摘される。
 したがって、舎人皇子の討伐に失敗した文武天皇の忍壁皇子の知太政官事の就任は――完成したときに『古事記』と名づけられた歴史書を天皇政治の中心である役所の太政官の長官の監修のもとに編纂することができるようになったゆえ――舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派の脅迫に屈服したことになった。だからと言って、朝廷が崇拝する皇祖・照大御神は伊耶那美命の墓を作る時に多数の青年と乙女たちを殺して犠牲(いけにえ)にする徇葬(じゅんそう)を決行し、また伊耶那美命が掲げた日本建国の〔愛〕の理念を憎悪して呪い祟(たた)ったと具体的に記述すれば『古事記』は天皇が承認する正史にはなれない状況は変わらなかった。そこで、天照大御神の徇葬決行と日本建国の〔愛〕の理念を祟った歴史的事実の記述には『老子』第25章にて開発された〔真実と反する事柄をもって、その真実を伝えるという方法〕の〔反実仮装(はんじつかそう)〕という技法が用いられた。

◆下記の『万葉集』1682番の和歌には「忍壁皇子に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞がつく。
 「とこしへに 夏冬行けや 裘(かわごろも) 扇(あふき)放たぬ 山に住む人」
 現代語に訳すると「絶えず夏と冬とがともに行くせいか、毛皮の服と扇(うちわ)を手離せない仙人の老子のごとくに、とうとう忍壁皇子がなれた。これはまことに目出度いことよ」となる。
 題詞に添えられる「仙人の形」というのは「中国の仙人・老子を画く絵における形」を意味し、中国の仙人の姿で描かれる老子の絵は裘を着て扇を持つ形式のものが多くあった。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は、「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」のごとくに表現してある。このため、今日の学者たちは「黄泉国の伊耶那美命」を「天照大御神」と解釈せずに「死後の冥界(めいかい)の伊耶那美命」と誤訳する。このため、出版される全書物は「黄泉国の伊耶那美命」を「冥界の伊耶那美命」と定める。
 しかし、〔反実仮装〕という技法をよるものであるので、「黄泉国の伊耶那美命」は「天照大御神」であると解釈しなければ〔誤読〕となる。

◆〔反実仮装〕は『老子』第25章にある「もって天下の母となすべきも、吾れその名を知らず、これに字(あざな)して道と曰()い、強いて之が名をなして大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝()き、逝けば曰(ここ)に遠く、遠ければ曰(ここ)に反(かえ)る。ゆえに、道は大なり、天は大なり、王もまた大なり。(中略)。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」と説く文によって開発されていた。
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老子が「天下の母」と表現したのは“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が発明した「漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」のことである。
 老子が生存した紀元前54世紀においては、A図に示す[][][]の字源となる「十字の銀河の子宮」が中国の首都にめぐってきた。
 したがって、B図に示す[]の字源「オス鹿の横顔に似る銀河の角」は「十字の銀河」であるので「漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」の字(あざな)を老子は「道」と言った。
 また、C図に示すようにA図に示す[]の字源「十字の銀河」が天頂にあったと同じ時刻の翌日には円形の軌道を描いて昨日と同じ天頂に戻り、このような天頂点と重なる銀河部位で精密に緯度と子午線を測量して上古の人々は生命を確保していたので、老子は「大なればここに逝き、逝けばここに遠く、遠ければここに反る」、あるいは「人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる」と表現した。
 だから、『老子』第25章は王朝がその秘密を暴露した者は即刻死刑にすると厳重に定めた「すべての漢字は銀河の形状から作られた。したがって、すべての漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」という秘密を説明し、また「その名は知らず」と書く「天下の母」は「漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕」であることを、老子を知っていたことになる。
 ゆえに、『老子』第25章は〔真実を知っていながら、「その真実を知らず」と表現して、その直後に「すべての漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」という真実を説明する方法〕は〔反実仮装〕の技法を開発するものであった。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」で現代語訳したとおり、「黄泉国の伊耶那美命」は〔反実仮装〕の技法にもとづきその正体は「天照大御神」である。その証拠に、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は『老子』第25章の〔反実仮装〕の技法を利用するものであったので、歴史局の総裁に就任した忍壁皇子は「仙人・老子のようになった」と詠まれたのである。
 また、老子は37の章で構成する『老子』上篇(道経)は「すべての漢字の字源・原義は秋の銀河と夏の銀河の各部の形状である」と説く。
 前回・前々回のわがブログで証明したとおり、太安万侶(おおのやすまろ)が担当した『古事記』序は――(1)『老子』上篇と同じく「すべての漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」と説明し、(2)編纂スタッフがなんとしても後世に伝えたいと願った『古事記』の作成目的となった日本建国の〔愛〕の理念は『老子』第25章の〔反実仮装〕の技法を用いて、伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に記述された。
 ゆえに、上記の(1)(2)の『古事記』作成の方針と『古事記』という書名は、忍壁皇子が知太政官事に就任した703120日には既に決定していたことが、上記した『万葉集』1682番「忍壁皇子に献る歌一首 仙人の形を詠む」という和歌によって証明できる。

◆次のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・73」は、今回にて取り挙げた『万葉集』1682番「忍壁皇子に献る歌」の次の、1683番と1684番の「舎人皇子に献る歌二首」は舎人皇子から『古事記』の序を書くように命じられた太安万侶(おおのやすまろ)が舎人皇子の献上した和歌であることを立証する。
 したがって、この証明によっても現在出版されている『古事記』上巻を解釈するすべての書物は、「すべての漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」という古代学術の秘密を〔誤読〕で排除し、さらに編纂スタッフが“日本建国理念の愛、あざやかに永遠であれ”と願って『古事記』上巻に記述された真実の歴史をことごとく排除する〔誤読〕の産物であることが証明される。

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