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2013年12月 3日 (火)

日本が滅びる・73

愛、あざやかに永遠であれ(14)・『古事記』序が語る歴史を知る方法の解説()

◆前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・72」にて――『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献(たてまつ)る歌一首 仙人(やまびと)の形(かた)を詠む」という題詞が付く和歌は、伊耶那美崇拝派の忍壁(おさかべ)皇子が知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任して『古事記』を作成する歴史局の総裁になったと示すものであることを証明した。というのも、知太政官事は天皇政治の中心となる役所である太政官の長官であるとともに歴史局の総裁をも兼務したからである。
 『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献る歌」は――知太政官事に就任した忍壁皇子が中国絵画の孔子と並ぶ有名な思想家の老子のような形(姿)になった――と詠むものである。
 『老子』第25章は――「天下の母の名は、吾れその名を知らず」と述べながら、老子が「天下の母」と表現する母なる存在は「“漢字の始祖”と崇拝される倉頡(そうきつ)が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕のことであることを知っていた。というのも、「吾れその名を知らず」という文の後に続く末尾までの文章で、老子は「倉頡が発明した〔鳥獣の足跡〕はすべての漢字は銀河の形状から作成するように定めた。このため、すべての漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」――と指摘しているからである。
 老子は中国王朝が暴露した者は即刻死刑にすると厳重に定めた【漢字の秘密】を伝える方法を、『老子』第25章で〔真実に反することを述べながら、真実を語る表現方法〕を開発した。この表現方法は「反実仮装(はんじつかそう)」と呼ばれる。
 編纂スタッフが後世になんとしても伝えたかった【日本建国の〔愛〕の理念】は『古事記』の上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話において「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」のごとくに表現して記述された。【日本建国の〔愛〕の理念】は伊耶那美命が提唱した。だから、伊耶那岐命の黄泉国訪問神話は『老子』第25章の〔反実仮装〕という表現方法を用いて、歴史的事実を記述したことになる。

◆上記した『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献る歌」は――『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問神話は『老子』第25章にて開発された〔反実仮装〕を用いて後世に真実を伝えることになった、その歴史局の総裁に知太政官事に忍壁皇子は就任して、実に目出度ことよ――と詠む和歌である。
 『日本書紀』には「681(天武天皇10)317日、天武天皇は川島皇子以下忍壁皇子など12人に命じて帝紀および上古の諸事を記定させることにした」という記事がある。この「上古の諸事の記定」は『古事記』序の末部の元明天皇が「安万侶(やすまろ)に詔(みことのり)して、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦()む所の勅語(ちょくご)の旧辞(きゅうじ)を撰録(せんろく)して献上せよ」と命じた歴史書であった。
 「稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞」は「天武天皇が勅で命令した上の諸定させて作らんとして作ることができなかった歴史書」であった。ゆえに、忍壁皇子が知太政官事に就任した時には「上の諸定」の内の3字を選んだ『古事記』という書名が定まっていたと考えられる。
 上記したように、忍壁皇子が知太政官事に就任した時には『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は『老子』第25章の〔反実仮装〕を用いて「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」のごとく表現することも決定していたことになる。

◆正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』は――持統上皇と文武天皇は7021010日から1125日まで、舎人皇子がたばねる武士たちが住む東海道と東山道を行幸して主君の舎人皇子を裏切って朝廷の命令にしたがって舎人皇子を討伐するように説得する行幸をおこなった。しかし、この行幸は年老いた持統上皇には強行スケジュールであったので、1213日に重病となって、9日後の22日に上皇は崩御した。
 持統上皇が死去してから1ヵ月後の翌703年1月20日、文武天皇は舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派の勢力に脅(おび)えて要求を飲み、忍壁皇子を新設した知太政官事に任命した。上記したように、この時点で、『古事記』と書名と『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は『老子』第25章にて開発された〔反実仮装〕を用いて「天照大御神」を「黄泉国の伊耶那美命」のごとくに表現することが決定されていた。
 また、〔反実仮装〕の技法が開発された『老子』第25章は「すべての文字の字源と原義は銀河の形状である」という真実を説明する。この『老子』第25章と同様に、『古事記』序も「すべての文字の字源と原義は銀河各部の形状である」と説明するゆえ、すべての漢字を字源・原義を示す銀河各部の形状に直すと、『古事記』の記述は真実の歴史を明確に示す仕組みになっている。この『古事記』の歴史解明方法も、703年1月20日の忍壁皇子の知太政官事就任の時点で決定されていたことになる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話は〔反実仮装〕と〔文字の字源・原義を銀河各部の形状に変換する方法〕を用いて現代語訳した。そうすると、『古事記』の序の指示に従うわが解釈は日本建国の〔愛〕の理念を高らかに掲げるものとなるが、現在出版されている『古事記』の序の説明を無視して著者たちが独自の考え方で読解したすべての書物の解釈は日本建国の〔愛〕の理念を削除するものとなって、両者はまったく異質の解釈となる。

7055月、忍壁皇子が没した。

4ヵ月後の9月、伊耶那美崇拝派の穂積(ほづみ)皇子(天武天皇の子にあって皇位継承順位が第五位・舎人皇子の異母兄)が知太政官事を引き継いだ。
 7076月、伊耶那美崇拝派の勢力に脅(おび)える心労が祟(たた)り、25歳の若さで文武天皇は没した。天皇は生母の阿閉(あえの)皇女が天皇に即位することを願って息を引き取った。
 阿閉皇女は息子の遺志を継ぎ、天皇に即位した。これが元明天皇である。
 元明天皇は持統帝の妹でもあったので、舎人皇子を姉と息子の死を早めた憎い敵と怨み、次々と舎人皇子を報復する政策を着手した。舎人皇子が33歳となった7083月、元明天皇は律令体制を推進するため、朝廷が軍事で最も頼りとする石上麻呂(いそのかみまろ)を左大臣に、藤原不比等を右大臣に就任させて天照大御神崇拝派を強化して、舎人皇子を頭領とする伊耶那美崇拝派と対立した。
 710310日、平城京に遷都した。
 『古事記』の序の末部に記載されているように、711918日、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に「稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦()むところの勅語(ちょくご)の旧辞を撰録(せんろく)して献上せよ」、つまり「天武天皇が『上古の諸事を記定せよ』と命じた『古事記』を完成せよ」という詔(みことのり)をもって、伊耶那美崇拝派に挑戦状をつきつけた。この時の歴史局の総裁の知太政官事は穂積皇子であったゆえ、天皇が献上せよと命じるべき相手は穂積皇子であった。しかし、天皇は安万侶が舎人皇子を君主と仰ぐ親しい人物であることを知っていたので、安万侶に『古事記』の献上を命じた。なぜならば、元明天皇は息子・文武帝と姉・持統帝の仇(かたき)を討つために、『古事記』献上を安万侶に命じる必要があったからである。
 舎人皇子討伐に失敗して伊耶那美崇拝派に“殺される”と脅えた亡き文武天皇が、知太政官事を新設して『古事記』は作成されることになった。これゆえ、『古事記』は天皇政治の中心となる太政官の長官である知太政官事の穂積皇子が監修するという名目のもとに作られた。ゆえに、穂積皇子に献上を命じると『古事記』献呈を承認して正史に認めたことになりかねないことになるので、『古事記』献呈を拒否するとひと悶着があってことが面倒となる。だから、穂積皇子に『古事記』献上を命じることを、元明天皇は避けた。実際には『古事記』は天皇が仇と怨む舎人皇子が指揮して作られるものであったので、『古事記』の献呈をきっぱりと拒否するには舎人皇子に親しい安万侶に献上を命じるべきことになる。もしも舎人皇子に『古事記』献上を命じれば、天皇の仇を討って報復する魂胆が見え見えになるため、『古事記』は何かの理由をつけて献上されないにちがいない。他方、安万侶に命ずれば先の天武帝以来念願であった歴史書の完成は元明天皇が自分の事績となって後世に賞賛されることになるので、『古事記』の完成を待ち焦がれて舎人皇子に近い安万侶に命じたのであるまいかと舎人皇子はじめ穂積皇子と編纂スタッフは推理して油断するにちがいないと、元明天皇・石上麻呂・藤原不比等が知恵を絞って決めた策略だったのである。

712年1月28日に安万侶が献上すると、元明天皇は『古事記』を献呈拒否し、知太政官事の穂積皇子の監修のもとに作られていた『古事記』を正史として認可しなかった。
 下記の『万葉集』3816番には「右の一首は、穂積皇子が宴会の日、酒盛りがたけなわになった時に、よくこの歌を口ずさみ、いつも座興とされたといわれている」という添え書きが付く。
 「家にありし 櫃(ひつ)に鍵(かぎ)刺し 蔵(おさ)めてし 恋の奴(やっこ)が つかみかかりて」(『万葉集』3816)
 上記の和歌を現代語に訳すると「不倫されまいと家に閉じ込めていた妻(大伴坂上郎女╱おおとものさかのうえのいらつめ)が色仕掛けによってものすごい力を有する恋におちいり、『古事記』上巻に仕組んだ後世に真実の歴史を伝える仕掛けのすべてを洩らしてしまった。このため、『古事記』は陛下に献上拒否されて反古(ほご)となってしまった」となる。
 穂積皇子の妻の大伴坂上郎女は、大伴安麻呂(おおともやすまろ)の娘である。持統上皇・文武天皇王朝の重臣であった大伴御行(みゆき)701年に没した。御行の後を弟の安麻呂が継いだ。安麻呂は兄の御行と違って朝廷に反発し、大伴家の宗家である大伴連家の後継者である舎人皇子を君主に仰ぎ忠誠を誓った。持統上皇が亡くなる半年前の702624日、安麻呂は兵部省(ひょうぶしょう)の長官に任命された。兵部省は武官の人事や兵器の調達管理する役所である。
 その2ヵ月後の816日、文武天皇は朝廷の軍事で最も頼りとなる石上麻呂を太宰帥(だざいのそち╱九州の太宰府の長官)に任命した。これゆえ、持統上皇が没した702年の年末(1222)、石上麻呂は都から遠く隔たる九州に居住していた。石上麻呂に次いで朝廷が軍事のたよりにした大伴安麻呂は舎人皇子の配下となっていた。
 このような状況であったため、持統上皇の遺志を継いで文武天皇が石上麻呂と大伴安麻呂の協力を得て舎人皇子を討伐しなければならない703年1月、朝廷の軍事権は崩壊して舎人皇子を討つどころか天皇の軍事力はまったく無力であり、天皇の命は風前の灯であった。これゆえ、天皇は舎人皇子が率いる伊耶那美崇拝派に屈服して知太政官事を新設して忍壁皇子を任命したのである。
 穂積皇子は妻の父は舎人皇子に忠誠を誓う大伴安麻呂である。ゆえに、穂積皇子は妻に――『古事記』は朝廷が至上神と祭りあげる天照大御神を神格化する偽書ではなく、後世に伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を伝える真実の歴史を伝える書物であり、『古事記』を正史にするための様々な工夫や仕掛け――を日々、事細かに語ってしまった。
 穂積皇子の妻の大伴坂上郎女が作った和歌は才気にあふれ、娘婿の大伴家持(やかもち)の作歌生活に大きな影響を与えた。このような良識があると思われた妻が無分別にも、あろうことか藤原不比等の四男の麻呂と恋におちいったのである。朝廷に抵抗して真実の上古史を記述する『古事記』の秘密は麻呂から麻呂の父・右大臣の藤原不比等へ、そして左大臣の石上麻呂へ、また元明天皇に伝わっていたことになる。
 穂積皇子没後、坂上郎女は藤原麻呂の妻となる。不倫によって、日本人の命と魂の根元を伝える『古事記』がゴミクズと化したことは両人とも人間として最も恥ずべき行為と内心思ったことであろうから、坂上郎女も麻呂も夫婦となって虚勢をはって気にしないようにみせかけて罪悪感にさいなまれる人生を送るしかなかったにちがいない。
 こうした陰謀や経緯があったゆえ、元明天皇は知太政官事の穂積皇子に『古事記』献上を命令せずに、『古事記』の序に書かれているように舎人皇子に信頼される太安万侶に『古事記』献上を命令した。『古事記』序の末尾は「和銅五年正月廿八日 正五位上勲五等太朝臣安万侶」と記す。本来ならば末尾の名は「太朝臣安万侶」ではなく、「穂積皇子」でなければならなかった。というのも、穂積皇子は『古事記』を監修して作った歴史局の総裁である知太政官事であったからだ。その証拠に720年に完成した『日本書紀』は知太政官事に就任した舎人皇子が作ったこととされる。この『日本書紀』の例からしても、『古事記』は知太政官事の穂積皇子が作ったことにすべきことになるので、『古事記』の献上は穂積皇子に命じるのが道理となる。しかし、元明天皇は仇の舎人皇子が指揮して作る『古事記』を憎み焚書(ふんしょ)抹殺する策略をめぐらすものであったから、穂積皇子には『古事記』献上を命令しなかった。

『古事記』の献上者が太安万侶であることは、舎人皇子を息子・文武帝と姉・持統帝の死を早めた憎い仇とする元明天皇の報復の策謀によって『古事記』は正史にならなかった何よりも明確な証拠となる。

◆『万葉集』1682番の「忍壁皇子に献る歌」の次は、下記の1683番と1684番の「舎人皇子に献る歌二首」である。この二首の和歌は、舎人皇子が37歳であった712年、太安万侶が舎人皇子から『古事記』の序の作成を指名されたと詠む和歌であるにちがいない。

「妹(いも)が手を 取りて引き攀()ぢ ふさ手折(てお)り 我がかざすべく 花咲けるかも」(1683)
 現代語に訳すると「『古事記』編纂を指揮した舎人皇子は、木の枝から折って取った花を妻の頭の髪に刺すがごとく、花で象徴される伊耶那美命が〔愛〕の理念を掲げた日本国誕生史を伝える『古事記』の頭となる序を作る役目を指名してくださった」と解釈できる。 

「春山は 散り過ぎぬとも 三輪山は いまだ含(ふふ)めり 君待ちかてに」(1684)

現代語に訳すると「春山の春や花で象徴される伊耶那美命の歴史を記述した『古事記』は元明天皇の献呈拒否で散ってしまいましたが、皇子がお住みになられる高屋から西の三輪山の桃の花はいまだ蕾(つぼみ)です。わが家に伝わる『多氏(おおのうじ)古事記』は、いまだ世に出ていません。この『多氏古事記』を利用して新しい歴史書を作成しようではありませんか。われ多=太(おおの)安万侶は舎人皇子のご到来を切に切にお待ち申しあげています。」となる。
 2012226日発行の高橋伸幸編集人発行人『一個人』(KKベストセラーズ)の【保存版特集】『古事記』編纂1300年記念号の46頁は――「弘仁私記序(こうにんしきじょ)」という文書には、日本書紀の編纂に、太安万侶が舎人親王と共に携わったと記されている。――と指摘する。
 『多氏古事記』は現存しないが、『日本書紀』の最古の注釈書『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』が引用する『土左国風土記』の逸文(いつぶん)は「『古事記』とは別書の『多氏古事記』が存在した」と記述する。
 ゆえに、上記の『万葉集』1683番と1684番は太安万侶が『多氏古事記』を基に『日本書紀』の編纂を舎人皇子に進言した和歌であったことになる。
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 太安万侶は多氏の一族であったとされ、多氏の祖の神八井耳命(かむやいみみのみこと)は神武天皇の皇子である。神八井耳命は、A図に示す三輪山の西の多(おお)神社のあたりに住んでいたと伝わる。上記した『万葉集』1683番と1684番の「舎人皇子に献る歌二首」からして、多()安万侶も多神社のあたりに住んでいたと考えられる。多神社は舎人皇子が住んだ高屋から約18km離れ、三輪山から6km西に所在する。
 『古事記』は712年の陰暦1月28日に元明天皇に献上された。この陰暦128日をグレゴリオ暦に換算すると現代暦の318日になる。318日に咲く花は桃の花である。したがって、1683番の「花」は「桃の花」であったことになる。
 『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話に登場する黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本はB図に示す現在の熊野速玉大社の境内であり、「速玉大社の境内で待機して、倭政府の大軍を撃破した日本軍の兵士たちと熊野に住む戦士たち」は「桃の子三箇(みみつ)」と表記された。B図に示すように黄泉比良坂の坂本=熊野速玉大社の境内は東経13559分であり、A図の右端にある舎人皇子が住んだ高屋(現在の奈良県宇陀郡榛原町高星)もまた東経13559分で同経度である。だから、「花」は「桃の子三箇」をあらわす「桃の花」であったにちがいない。

このような経緯からしても、前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・71」で証明したように、『古事記』の序を書いた太安万侶の使命は(1)すべての漢字の字源・原義である銀河の形状に変換すれば正しい歴史を解明できる方法と、(2)『古事記』上巻は日本建国の〔愛〕の理念を後世に伝えるために作成されたことを巧妙に記述して、『古事記』が正史にすることであったことになる。

 
◆実際には、『古事記』は舎人皇子(676735)が指揮して作成された。
 『古事記』が元明天皇に献上された712年、舎人皇子は37歳であった。この37歳まで舎人皇子は高屋に住む庶民であったゆえ、正史『続日本紀』には皇子に関する記事は無い。舎人皇子に関する記事が『続日本紀』に載るのは、皇子が39歳であった71413日の「舎人皇子が二品(にほん)となった」という記事からである。これ以後、皇子に関する記事は『続日本紀』に多数記載される。これゆえ、舎人皇子が『日本書紀』を作るために庶民から皇族に転身した年は、712年の晩春から713年ころであったことになる。このような庶民と身分の高い皇族にして当時の強力な武将であった舎人皇子の一生は『古事記』『日本書紀』『万葉集』作成に直接関わっている。皇子は、日本古代史上希代の反逆児である。反逆児であったがために、舎人皇子の墓の築造を聖武(しょうむ)天皇は許可しなかった。なぜならば、舎人皇子の墓記には「皇子の実父は天武天皇なり。養父は菟田(うだ)の高屋に住む住人大伴朴本連(おおとものえのもとのむらじ)大国なり。皇子は誕生以来和銅五年まで高屋に住み云々」と記されるゆえ、このような魅力あふれる舎人皇子の一生は後世の学者や歴史家たちによって研究されるにちがいないので、朝廷と律令体制が隠蔽し抹殺せんとして皇祖・天照大御神に関する歴史が暴露されるからである。だから、朝廷にとって舎人皇子の反逆の一生は後世に絶対に知られたくなかったので、舎人皇子の墓の築造を聖武天皇は許さなかった。
 この回で『古事記』序についての解説は終了にし、次回のブログからは『古事記』の伊耶那岐命の禊祓(みそぎはらい)説話以後の舎人皇子が後世に伝えたかった“愛、あざやかに永遠であれ”と願った日本建国の〔愛〕の理念をテーマとする歴史の解説を掲載する。

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