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2013年12月 7日 (土)

日本が滅びる・74

愛、あざやかに永遠であれ(15)・伊耶那岐命・開化天皇の王宮の秘密 

◆本格的な漢字の歴史は、今から約5000年前の五帝時代初頭の黄帝に仕えて史官の倉頡(そうきつ)が漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明し、万物の情(イメージ)に類似する「秋の銀河と夏の銀河の各部の形状」を「文字」と定めて起源した。
 すべての字源・原義を知ることができる漢字の基本字は1400字前後である。
 A図に示すように、5000年前の〔天の北極〕にはりゅう座α星が接近し北極星となったが、それは〔点〕であって万物の情に類似する形を有するものではない。5000年前に中国の天頂にめぐってくる秋の銀河には形がある。ゆえに、秋の銀河から倉頡は漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕を発明したゆえ、万物の情に類似する多数の文字が作られることになった。
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◆〔天の北極〕の高度を緯度に換算する測量方法だと、緯度(位置)が不正確に測量される。このため、〔天の北極〕を基準にして旅をすると道に迷って命を落とした。
 他方、B図に示す〔[]をキャッチする方法〕ならば精密に緯度と子午線が測量できるので遠くの地を旅しても大海を渡る旅も迷わずに命を落とさずに家族が待つ家に帰ることができた。
 中国において〔天を北極〕を最も重視するようになったのは、シナ天文が完成した紀元前1世紀であった。それ以前はB図に示す〔[]のキャッチ〕が最も重視されていた。
 わが国において〔天の北極〕を重視するようになったのは、『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼王朝が〔[]のキャッチ〕を基に【日本列島西端の九州の沖ノ島を北、東端の伊豆諸島の神津島を南と定めた転回日本列島地理】の誤りに気づき、シナ天文を導入した738(天平10)が最初である。ゆえに、738年より以前はB図に示す〔[]のキャッチ〕が最も重視され、〔[]のキャッチ〕を基盤とする天文地理学が最も強力な権力基盤であった。
 
 今から約4050年前の中国の夏代初頭、2代帝王・益の孫の王子(天祖)と若者たち一行が〔[]をキャッチ〕して大海を渡り日本列島の東北地方・八郎潟東岸に移住して、夏音文字の学芸をもたらした。益氏が伝えた夏音文字の学芸は〔[]のキャッチ〕を基軸にして組織されるものであったので、縄文人は〔[]のキャッチ〕で命を確保して生活し、しかも日本列島では天頂を通過する秋の銀河から現代の芸術家も感歎の声をあげる芸術性に優れた土器・土偶を作っていたので、益氏が語る夏音の言葉はまったく理解できなくても縄文の芸術家たちによって夏音文字の学芸と〔[]のキャッチ〕を基軸として体系づけられた天文地理学が習得された。益氏は代々約200年間も「虞()」という官職について精密な中国海岸線地図の作製に従事していた。ゆえに、わが国において中国における最先端の学術が習得され益氏が作製した中国精密海岸線地図がもたらされた。卑弥呼は益氏が伝えた夏音文字の学芸知識と中国精密海岸線地図に精通していたので、わが国で最初に国家が創設された時に女王に選ばれたのである。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:【用語の解説】」の「4.倉頡が死刑と定めた3つの掟」で解説したように――倉頡は自らが考案した文字が最も強力な権力、莫大な富、最高の名声を手に入れる方法であることに気づき、もしも反体制側の人々が文字の学識を入手して革命に利用したならば王朝は容易に滅亡するにちがいないと考えた。そこで、倉頡は(1) 秋の銀河と夏の各部の形状から文字が作られたことを暴露した者 (2)文字を容易に習得するために、文字となる銀河各部に名称を付けた者 (3)書いた文字が用済みになったならば、文字を直ちに消さない者消し忘れた者 これらの3つの掟を破った人物には神罰が下って即座に死刑に処すると定めた。
 したがって、今から約4050年前のわが国に伝来した夏音文字は倉頡が死刑と定めた3つの掟を厳守するものであったので、いったん文字を書かれても必ず消されていたので、その結果「銀河各部の形状」が「文字」となった。
 中国では今から約3300年前の殷代(いんだい)後半に倉頡が定めた掟のうち、(3)の規則を破る契文(甲骨文字)が出現した。『魏志倭人伝』は倭で書かれていた夏音文字について「倭の占いの卜辞に用いる文字は令亀(れいき)の法の如く」と記述して、「殷代の亀の甲羅に刻む契文(甲骨文字)の如くであった」と証言する。
 夏音文字は『魏志倭人伝』の人名・小国名として残り、『古事記』上巻の〔音〕という注が付く1字1音読みの文字(字音仮名)として残り、『万葉集』にも万葉仮名として残る。この現存する夏音文字は楷書を崩した草書で筆記されて残されたが、楷書の字源・原義は夏音文字の字源・原義となる「銀河各部の形状」であったゆえ、草書で書き残された夏音文字は実在したことになる。言い換えると、字源・原義を解説する2世紀初頭の文字学者・許慎(きょしん)が著作した『説文解字』は「漢字の字源・原義は銀河各部の形状である」と解説する字書の聖典である。紀元前5から同4世紀に生存した孔子と並ぶ二代思想家の老子は37の章で構成される『老子』上篇(道経)で――倉頡が発明した漢字作成原理〔鳥獣の足跡〕の発明と、そして「銀河各部の形状」が「文字」であった――と今日に伝える。
 だから、「銀河各部の形状」は「文字」となった。

◆上記したように、漢字の学芸はB図に示す〔[]のキャッチ〕を基軸にして組織される。
 ところが、中国では紀元前1世紀に〔天の北極〕を最も重視するシナ天文を完成させて〔[]をキャッチする眼力と技(わざ)〕を鍛錬する習慣が廃(すた)れた。〔[]のキャッチ〕を日々鍛錬して修得されるものであったので、にわか仕込みの訓練で身につけることが出来なかった。その証拠に――208年の中国の戦争史上で最も有名な赤壁(せきへき)の戦いで80万の魏の大軍と立ち向かった5万の呉・蜀連合軍を大勝利に導いた中心的役割を2万の呉の水軍が担(にな)い、22年後の230年に呉の黄帝・孫権(そんけん)は1万の呉の水軍に卑弥呼が統治する倭国の隣国の東鯷人(とうていじん)国に遠征を命じたが、〔[]をキャッチする眼力と技〕を有していない呉の軍船は台湾から大海に入ると間もなくして迷い漂流することになり8割から9割の兵士の命は藻屑(もくず)となって消えて壊滅した。
 C図に示すように、卑弥呼、伊耶那美命、天照大御神が生存した2世紀末~3世紀半ば、中国と日本列島の天頂に「長方形の暗黒天体部の中央部」がめぐってきた。「長方形の暗黒天体部」は[]の字源銀河における「肢(あし)の部分」となる。ゆえに、〔が「長方形の暗黒天体部」の所にる〕ように観えるので、わが国では[]の字源銀河の「長方形の暗黒天体部」と「天頂緯度線」の形は“鳥居”と呼ばれる「神社の入り口に立てる門」となった。
 
 
欧米において日本の至る所に立つ〔鳥居〕は「日本」を象徴する文化とする。〔鳥居〕は中国では見られない。しかし、C図に示す「鳥居の形をした銀河」は最も多くの漢字が作られた中心部であった。呉軍が大海で迷って壊滅したように、23世紀において中国においては「鳥居の形をした銀河」を観測して[]をキャッチする習慣が廃れていたために「鳥居」は中国では普及しなかった。ゆえに、今日、欧米では〔鳥居〕は「日本」を象徴する文化だが、漢字の原郷である「中国」を象徴するものではないと認識されることとなった。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・23」において、1万の呉軍が遠征しようとした東鯷人国は234年ころに国名が「日本」と改められて、卑弥呼が治める倭国に属することになった。『魏志倭人伝』の末部に登場する夏音名の「壱与(いよ)」は13歳の時に小国・日本国の女王に選ばれた。来襲する呉軍との戦いを指揮する軍王(いくさのおおきみ)は『魏志倭人伝』末部に登場する夏音名の「載斯烏越(そしあお)」である。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の24回と25回で「壱与」は『古事記』上巻に記載される「伊耶那美命」であり、伊耶那美命は小国・日本の国作りの柱を〔愛〕と定めた。また、「載斯烏越」は「伊耶那岐命」である。「伊耶那美命」と「伊耶那美命」は人民に敬愛されて呼ばれた愛称である。
 伊耶那岐命は後の第9代開化(かいか)天皇である。『古事記』中巻の開化天皇紀は「天皇は春日(かすが)の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して、天下を治めた。この天皇が、丹波の大県主(おおあがたぬし)の由碁理(ゆごり)という方の娘である竹野比売(たかのひめ)と結婚された」と記述する。ゆえに、開化天皇の正妃の竹野比売が国民に敬愛されて“伊耶那美命”と愛称された小国の女王にして、247年頃に倭女王となった壱与であった。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」にて、『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉(よみの)国訪問説話を現代語訳したように、載斯烏越・伊耶那岐命・開化天皇は壱与・伊耶那美命・竹野比売が提唱した日本建国の〔愛〕の理念の遺志を継ぎ、千引石(ちびきのいわ)の前で「吾(あれ)一日に千五百産屋(うぶや)立てむ」と宣誓した。
 千引石(現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社の御神体の“ごとびき岩”)の前において伊耶那美命の遺志を継ぐ日本建国の〔愛〕の理念を表示する宣誓をおこなった以後、伊耶那岐命は小国・日本と倭国を併合する大王(天皇)となった。この歴史は、702年に中国に渡った遣唐使が中国王朝に伝えた言葉として残り、中国の正史『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本伝は「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり」、『新唐書』日本伝は「日本はすなわち小国、倭国の并(あわ)す所となる」と記述されている。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・48」で解説したように、中大兄(なかのえの)皇子(のちの天智天皇)が作った『万葉集』の13番の「香具山は 畝傍(うねび)雄男(おお)しと 耳梨(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にしあれこそ うつせみも、嬬(つま)を 争ふらしき」と詠む長歌は、載斯烏越・伊耶那岐命が倭女王伊耶那美命の反対を押し切って第二后の天照大御神が倭女王・壱与の代役となり、『魏志倭人伝』末部に記載される狗奴(いぬ)国を討伐した歴史を伝えるものであった。
 この和歌を現代語訳すると「軍事同盟を結ぶ朝鮮半島の一角に所在する魏の出張機関の帯方郡政庁の使者・張政(ちょうせい)は東夷諸国を安定するために狗奴国を討伐しなければならないと告げ喩(さと)す檄文(げきぶん╱軍書)を作ったが、天の香具山で象徴される倭女王の伊耶那美命は張政の檄文の告喩(こくゆ)を拒絶して狗奴国の男王と話し合いによる平和的解決を最優先すべきであると主張した。しかし、畝傍山で象徴される夫の伊耶那岐命は武力で征服すると主張し、耳梨山で象徴される伊耶那岐命の第二后の天照大御神もまた狗奴国を討伐しなければならないと主張して争った。結局、伊耶那美命の代役をつとめて天照大御神が狗奴国討伐の魔女となって、伊耶那岐命が日本軍と倭軍を指揮して討伐して狗奴国は滅亡した。伊耶那美命は“夫は雄々しすぎる”と言って悲しみ嘆いた。このように昔から男女の三角関係の争いは絶えないものであって、今も吾と弟の大海人(おおあま╱のちの天武天皇)は額田王(ぬかだのおおきみ)を妻にしようと争っている。」となる。

◆D図に示す吉備地方が、狗奴国であった。伊耶那岐命は天照大御神が魔女となり呪って、日本軍と倭軍の兵士に欲求した狗奴国滅亡の残虐な殺戮(さつりく)を目撃して、伊耶那美命の主張に従えばよかったと後悔した。狗奴国の滅亡後、倭王朝と天照大御神は伊耶那美命の狗奴国討伐拒否は倭女王としての役割を果たさない無責任であると非難して、倭女王の退位を強く迫った。伊耶那岐命は倭王朝こそ倭女王伊耶那美命の言に従わない命令違反だと応戦し、伊耶那美命の話し合いによる平和的解決は正しかったと対立した。このため、狗奴国討伐は伊耶那岐命・開化天皇の事績にならなかった。伊耶那岐命の祖父で存命であった卑弥呼の没後に倭の大王となった第7代孝霊天皇の事績となった。ゆえに、『魏志倭人伝』に記述される狗奴国討伐は、『古事記』中巻の孝霊天皇紀の末部に吉備国討伐として記載されている。
 『古事記』孝霊天皇紀は狗奴国=吉備国討伐を伊耶那岐命の名を削除して「大吉備津日子命と若建(わかたけ)吉備津日子命は、二人連れ立って、針間(はりま)の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いはいへ)を据えて、針間を道の口と定めて、狗奴国を滅亡させて吉備国と名を改めて平定した」と記述する。この文中にある「氷河の前に忌瓮を据えて」という語句の「氷河」には「祟り」の[]の字源・原義が秘められ、「忌瓮」の[]の字源を『説文解字』は「憎悪するなり」と解説する。したがって、天照大御神は日本軍と倭軍の兵士たちに“祟りと憎悪の怒りの炎を燃やして容赦なく狗奴国の兵士たちを虐殺せよ”と号令し命令していたことになる(わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・58」を参照)
 伊耶那岐命は天照大御神の〔祟りと憎悪の忌瓮儀式は残虐で誤っている〕と批判し、倭王朝と天照大御神が強く迫る伊耶那美命の倭女王退位に反対して、伊耶那岐命は淡路島の伊弉諾神宮で再度結婚して日本建国の〔愛〕の理念を高らかに掲げた。この歴史は『古事記』上巻の国生み説話冒頭の淤能碁呂島(おのごろしま)の聖結儀式として記述される。
 E図に示すように、日本建国の〔愛〕の理念を掲げる聖婚儀式が行われた伊弉諾神宮は忌瓮が据えられた氷河の真南である。
 F図に示すように、淡路島の南北を転回して〔淡路島の地宜(ちぎ╱平面的に図化した地図の形)〕は〔羽をひろげたタンチョウツルの姿〕に類似すると見立てられた。淡路島南部の「諭鶴羽(ゆづるは)山地」という地名は「伊耶那岐命が伊耶那美命に倭女王を退位してはならないとして、をひろげて求愛するように二人は結婚した」と現在に伝える。
 G図に示すように、タンチョウツルは雌雄がたがいに羽をひろげあって求愛する。
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  『古事記』上巻の国生み説話は、H図に示すように四国の名を「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」、この四国を代表する伊予国の祭神を「伊耶那美命は愛比売(えひめ)と名づけた」と記述する。この祭神「愛比売」は現在の県名「愛媛」となって現存する。だから、県名「愛媛」は今から約1760年前におこなわれた伊耶那岐命と伊耶那美命の伊弉諾神宮における二度目の結婚式で日本建国の〔愛〕の理念が高らかに掲げられたことが歴史的事実であったと証明できる根拠となる。

◆I図に示すように、伊耶那岐命が日本軍と倭軍を指揮して行われた狗奴国=吉備国の中心地は岡山県東部の岡山市であった。この岡山市に所在する吉備津彦神社は備前一の宮である。吉備津彦神社の西隣に吉備津神社が所在する。吉備津神社は『古事記』の孝霊天皇紀に「氷河の前に忌瓮を据えて儀式を行った」と記述される大吉備津日子を主神とする。吉備津神社は岡山県下で最も古く、吉備路のシンボルとなる古社である。
 『古事記』に伊耶那岐命が居住したと記載される「春日の伊耶河宮」は奈良市の春日大社から約1850m真西の奈良市本子守町の率川(いざかわ)が流れる辺りに所在したとされる。率川神社は奈良市本子守町に所在し、JR奈良駅から約550mの真東に位置し、率川の岸から約60m離れる。率川神社の北北西に約300m離れて開化天皇陵が所在する。

 伊耶河宮が所在したとされる奈良市本子守町の率川が流れる辺りは、北緯344053秒である。I図に示すように、備前(岡山県東部)一の宮の吉備津彦神社は北緯344036秒で、伊耶河宮とわずか17秒の緯度差しかない。大吉備津日子を祭る吉備津神社は北緯344014秒であるので、伊耶河宮と39秒の緯度差がある。秒を切り捨てると、吉備津彦神社・吉備津神社と伊耶河宮は北緯3440分で同緯度となる。
 伊耶那岐命・開化天皇はかつて正妃伊耶那美命が“雄々しすぎる”と嘆いて悲しんだ狗奴国討伐を後悔し、B図に示す[]をキャッチして狗奴国の男王が居住した宮殿が所在した跡地の吉備津彦神社あるいは吉備津神社と同緯度の地に伊耶河宮を築いたことになる。したがって、「伊耶河宮」の「伊耶」は「伊耶那美命」をあらわし、「伊耶河宮」の「河」はE図に示した「氷」の[]であったにちがいない。伊耶那岐命は伊耶河宮において伊弉諾神宮で誓いあった伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐ政事(まつりごと)に情熱を傾けて死去したことになる。
 次回は開化天皇陵の秘密について解説する。

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