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2013年12月12日 (木)

日本が滅びる・75

愛、あざやかに永遠であれ(16)・三貴子の分治と伊耶那岐命の終焉地とされる「淡海の多賀」の秘密を解明する

◆『古事記』上巻の三貴子の分治(ぶんじ)説話は――伊耶那岐命は天照大御神に高天原(たかまのはら)を、月読命(つくよみのみこと)に夜之食国(よるのおすくに)を、須佐之男命に海原(うなはら)を授けて、各々治めるように委任した――と記述する。
 前回のわがブログ「日本が滅びる・74」で解説したように、伊耶那岐命は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)で天下を治めた開化天皇であり、開化天皇の正妃は伊耶那美命、開化天皇の第2后は継母の天照大御神である。
 『古事記』の開化天皇紀は「正妃の竹野比売(たかのひめ╱伊耶那美命)として結婚して生んだ子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)。第2后の継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと╱天照大御神)と結婚して得た子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと╱のちの崇神天皇)。第3后の意祁都比売命(おけつひめのみこと)と結婚して生んだ子は日子坐王(ひこいますのみこ)」と記す。これゆえ、三貴子は――【天照大御神】は第2后の天照大御神・伊迦賀色許売命が生んだ【御真木入日子印恵命(崇神天皇)】、【月読命】は第3后の意祁都比売命が生んだ【日子坐王】、【須佐之男命】は正妃の伊耶那美命が生んだ【比古由牟須美命】であったことになる。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」に『古事記』上巻の伊耶那岐命の黄泉国(よみのくに)訪問説話の現代語訳を掲載したように――開化天皇・伊耶那岐命は、倭女王天照大御神が伊耶那美命の墓を作るときに決行した多数の青年と乙女たちを殺して埋葬する徇葬(じゅんそう)儀式に反対してクーデターを決行した。
 このクーデターにおいて天照大御神は捕虜となり伊耶那岐命が待機する千引石(ちびきのいわ)の前に連行され、伊耶那岐命から離縁を言い渡された。このとき――天照大御神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」と誓い、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの産道を狭くなるように呪い祟って、一日に千人ずつ胎児の頭を絞め殺すという決意を示した。伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と宣誓し、伊耶那美命が唱えた日本建国の〔愛〕の理念を受け継いで天下を治める決意を表明した。
 したがって、三貴子に分治するとき、離縁されて倭迹迹日百襲姫命╱やまとととびももそひめのみこと)と改名した天照大御神は執念深く怨み復讐の念を抱きつづけていたことになる(倭迹迹日百襲姫命が天照大御神であった証明は、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・48」にて詳細に解説した)

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・21」で詳細に解説したように――伊耶那美命は「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」という名のスキやクワの鉄製の刃先を作る製鉄事業において精錬炉が爆発する火災事故で大火傷を負い死亡した。これゆえ、開化天皇は製鉄事業を禁止した。他方、天照大御神王権はスキやクワを作る製鉄事業を推進して成功した。
 この結果、天照大御神王権は鉄製のスキやクワによって豊かな農作物を収穫して莫大な富を手に入れた。開化天皇は鉄製のスキやクワの刃先を作る製鉄事業を禁止したゆえ、豊かな農作物を収穫することができずに王朝は衰退した。
 スキやクワの刃の製鉄事業禁止によって開化天皇王朝は財力に劣り、開化天皇を憎む天照大御神王権は財力に勝った。このため、開化天皇は伊耶那美命が生んだ須佐之男命に大王の位を譲ることができなかった。というのも、須佐之男命を大王に即位させると、開化天皇王朝を敵視して憎悪する天照大御神母子がクーデターを起こして天下を二分する大乱となるにちがいからであった。
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◆開化天皇・伊耶那岐命が考えた三貴子の分治は、A図のごとくであったと考えられる。
 開化天皇は離縁した第二后の倭迹迹日百襲姫命(天照大御神)が生んだ子の天照大御神(のちの崇神天皇)に王位を与えた。この王位の授与は、天照大御神に王位を与えるかわりに“伊耶那美命の棺を略奪した熊野のクーデターにおける屈辱や怨恨(えんこん)を忘れて、人民に豊かな実りと多数の子が生まれる、日本建国の〔愛〕の理念を尊重する政事をおこなうこと”を条件にして、開化天皇が天照大御神母子に提示するものであったことになる。もしもA図に示す全土を天照大御神に譲ると、天照大御神は真っ先に須佐之男命を抹殺する動きを示すにちがいないから大乱となると、開化天皇は予測した。それゆえ、開化天皇は天照大御神の権力の弱体化をはかって全土を三分割する〔三貴子の分治〕を考えた。
 B図に示す[]の金文形を、白川静著『字統』は「人影が傾斜している形の大と、月とに従ふ」と解説する。[]の字形となる「十字の銀河」は経度軸に対して斜めとなって傾く。ゆえに、[大]の字形「十字の銀河」と「月読命」の「月」が加えると[夜]の金文の字形に一致する。C図の「鬼の横顔に似る銀河の口」は「ヒトが食物を食べる口」に観えるゆえ[(おす)]を示す。したがって、[]に[食(おす)]のイメージが加わって、小国・日本は「夜之食国」と表現されて月読命に委任することにしたのである。
 当時は、最も強力な権力基盤は夏音文字であった。次に強力な権力基盤は製鉄であった。
 C図の下部は『魏志倭人伝』に「裸()国・黒歯(こくし)国を周旋(しゅうせん)して五千余里ばかり離れた、黒歯国から転回方位の東南に船行一年にして到着できる」と記述された男鹿半島である。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・30」で解説したように、D図に示す男鹿半島東方の八郎潟南端の潟上(かたがみ)市天王(てんのう)町は名門益氏の王子(天祖)と若者たち一行が上陸した地点であり、そこから夏至の日の出の方角には国の特別史跡である大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき╱秋田県鹿角市花輪町大湯)が所在する。大湯環状列石の万座遺跡と野中堂遺跡には、現在も夏音文字の学芸知識の痕跡が明確に残っている。
 A図に示す出雲・邪馬壱(やまい)国は夏音文字の学芸に精通した倭女王卑弥呼は居住した地であり、出雲・邪馬壱国はC図・D図に示すように男鹿半島まで海原でつながり夏音文字の学芸史跡である大湯環状列石と連結していた。A図に示す対馬国から侏儒(しゅじゅ)・黒歯国まで、さらにC図に示す黒歯国から男鹿半島までの海のルートを、開化天皇は「海原」と表現したのである。

また卑弥呼が居住した邪馬壱国・出雲のタタラ製鉄事業は有名で、出雲はわが国におけるタタラ製鉄事業の発祥の地と指摘される。これゆえ、天照大御神王権に対抗して、倭女王卑弥呼が居住した出雲は製鉄事業が栄えていた。
 したがって高天原・邪馬国・大和の天照大御神王朝に対抗できるのは邪馬壱国・出雲地方であったので、開化天皇は須佐之男命に海原を与えて天照大御神王朝に命を奪われないように考えたのである。

◆『古事記』の三貴子の分治説話に続く須佐之男命の啼きいさち説話と須佐之男命の昇天説話には――須佐之男命は父開化天皇が委任した海原ではなく母の伊耶那美命の墓・花の窟(いわや)が在る熊野に居住したいと望んで激しく泣いたため、伊耶那岐命(開化天皇)は激怒して須佐之男命を追放した――と記述する。
 伊耶那岐命・開化天皇が激怒したのは――須佐之男命の昇天説話の後ろに続く照大御神と須佐之男命の誓約説話に記載された天照大御神母子王朝を倒して須佐之男命を大王に即位させようとする王たちのクーデターが計画されている――ことを、須佐之男命から報告されたからである。このクーデター計画を知って伊耶那岐命・開化天皇は激怒した。

◆もとより天照大御神母子は開化天皇・伊耶那岐命が決行した熊野のクーデターに対する怨みを忘れるはずもなく、崇神天皇の母の天照大御神は百余人の青年と乙女たちを犠牲(いけにえ)にして殺して卑弥呼の墓に葬る徇葬(じゅんそう)儀式をおこなった倭迹迹日百襲姫命の名を受け継ぎ、開化天皇を憎悪して復讐しようとしていた。ということは天照大御神が生んだ子(後の崇神天皇)に譲位しても天照大御神母子は根に持ち怨みつづけ、憎悪し侮蔑する伊耶那美命が掲げた日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐはずもなかった。
 『古事記』中巻の開化天皇紀では「崇神天皇は開化天皇が継母の伊迦賀色許売命と結婚して生まれた子である」と記述する。しかし、『古事記』中巻の崇神天皇紀にある建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆の箇所では、崇神天皇が建波邇安王を「わが庶兄(まませ)と呼んだ」と記載する。ゆえに、崇神天皇は開化天皇の父孝元天皇と伊迦賀色許売命(倭迹迹日百襲姫命・天照大御神)との間に生まれた開化天皇の異母弟の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)であったことになる。
 これゆえ、崇神天皇は日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐはずがなかった。
 したがって、須佐之男命が母の日本建国の〔愛〕の理念を受け継がねばならなかった。その須佐之男命は熊野に居住せんと欲した。しかし、熊野は夏音文字の学芸が栄える地でもなく製鉄事業が盛んな地でもなかった。これゆえ、熊野須佐之男命王権は邪馬国(大和╱A図参照)天照大御神母子王朝に太刀打ちできず“愚か者め! 命を粗末にするな”と激怒したのである。また、三貴子の分治を不服として須佐之男命の大王にせんとする王たちのクーデター計画を知って、日々無事平和を願う開化天皇は激怒した。
 須佐之男命は父にうち明けた天照大御神と須佐之男命の二神説話に示されている伊耶那美命崇拝派の王たちのクーデター計画を叱責(しっせき)されて悲嘆するものではなかった。須佐之男命の悲嘆は崇神天皇に譲位すれば父開化天皇の陵墓を崇神天皇が築造するはずもなく、また父の意見に従って山陰出雲に赴けば自らも父の陵墓を作ることができない。父に熊野の居住を否定されただけでなく、父の陵墓が作れなくなるという事情があったので――須佐之男命は父が臨終する枕元で悲嘆し号泣した――と表現するものであったことになる。
 以上のごとく、三貴子の分治に続く須佐之男命の啼きいさち説話は開化帝の臨終際における須佐之男命が悲嘆する様子を伝えるものであったことになる。
 天照大御神母子の復讐によって自分の陵墓が築造されないことを覚悟した伊耶那岐命・開化天皇は「わが霊魂はわが国最大の淡海(琵琶湖)の多賀の地の鬼神(きじん)となる」と須佐之男命に遺言して死去した。ゆえに、須佐之男命の啼きいさき説話の末尾は唐突に「伊耶那岐大神命は淡海の多賀に坐()すなり」という文で終えている。
 
 その証拠に、奈良県奈良市本子守町に所在したと伝わる伊耶河宮(いざかわのみや)から北北西の奈良市油坂町に在る開化天皇陵(前方後円墳)は伊耶那岐命が生存した3世紀に築造されたものではなく、5世紀末から6世紀初頭の時期に作られたと推定されている。

 
◆結局、開化天皇は大乱を回避するためと息子須佐之男命の命を天照大御神母子王朝から守るために、須佐之男命には海原の国を与えた。ゆえに、開化天皇の遺言をまもって須佐之男命は海原・出雲邪馬壱国に居住したと『古事記』と『日本書紀』の両史書は記述する。
 『古事記』上巻の須佐之男命の啼きいさち説話の末尾は、上記したように「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐()すなり――と記述する。
 この「淡海の多賀に坐すなり」という記事を、学者たちは伊耶那岐命の終焉地を記したものと思い込む。ゆえに、「淡海の多賀に坐()すなり」という記述は「伊耶那岐命は滋賀県犬上郡多賀町多賀の多賀大社に鎮座されている」と解釈されている。また、『日本書紀』および『古事記』も道祥本・道果本は「淡海」を「淡路」と記載するゆえ、この「淡路」はE図右上にある「兵庫県淡路市多賀の伊弉諾(いざなぎ)神宮」と解釈されている。

◆わが国の古代中国文字研究の第一人者とされる故・白川静博士が著作した『字統』(平凡社)は、「多賀」の[]の字源について「声符は加。加は耜(すき╱力)を祓(はら)い清めて、その生産力を高めるための儀礼。貝も生産力を高め、魂振(たまふ)り的な呪能をもつとされるので、両者を併せて、生子儀礼や農耕儀礼に用いる字である」と解説する。
 ゆえに、多賀」は「多くの子が生まれ、多くの農作物が収穫される
」と意味することになる。開化天皇・伊耶那岐命は「国中が戦乱とならずに日々無事平安で、国中に多くの子が生まれ、多くの農作物が収穫される」ことを願った。だから「多賀」は開化天皇・伊耶那岐命が大乱を回避して多くの子が生まれ、多くの農作物が収穫できる政事を行えと願った遺言を示すものであったことになる。
 E図の四国・伊予二名島(いよのふたなのしま)のうちの、伊予国・愛比売(えひめ)は明確に日本建国の〔愛〕の理念をあらわす。ゆえに、粟国(あわのくに)・大宜都比売(おおげつひめ)という女神は〔多くの子が生まれる祭神〕をあらわすものであったにちがいない。また、讃岐国の飯依比古(いいよりひこ)の祭神名にある[]の字からして飯依比古は〔多くの農作物が収穫される祭神〕をあらわし、土左国の建依別(たけよりわけ)も「多くの農作物を生産する、強健な霊がつく土地神」をあらわしていると考えるべきことになる。
 また淡路島・淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)[]は「稲や粟の穂」を意味するから、「農作物」をあらわす。F図に示すように、〔淡路島の地図の形〕は〔女性の生殖器〕に類似する。ゆえに、〔淡道之穂之狭別島〕という名は〔多くの子が生まれる意〕をあらわすことになる。
 このように、E図に示す四国と淡路島の名称は「多賀」をあらわす。だから、伊弉諾神宮が坐す地の名は「多賀」となったのである。
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◆G図に示すように、〔女性生殖器〕は〔雌雄の鶴が睦まじく愛しあう姿〕に相似する。
 また、H図に示す〔淡路島の地図の形〕は〔羽をひろげるツルの姿〕に見立てられて、I図の雌雄たがいに羽をひろげあっておこなう〔タンチョウツルの求愛ダンス〕にもとづき淡路島南部に在る山地は「諭鶴羽(ゆづるは)」と名づけられた。
 『説文解字』は[]の初文の[(かく)]の字源を「高く至るなり。隹(すい)の上りて冂(けい)を出でんと欲するに従ふ」と解説する。この[]の字源解説文は「鶴が空高く飛ぶ姿」をあらわしている。
 J図の上図の右側は「鶴の羽」に相似すると見立てられたゆえ、「諭鶴羽山地」という地名となった。J図の下図の右側のほうが〔諭鶴羽山地〕よりも〔鶴の羽〕に相似して〔羽ばたく鶴の羽〕に観える。
 J図の上図の〔淡路島〕の形は〔低い空を飛ぶ鶴の姿〕に観える。他方、J図の下図の〔淡海・琵琶湖〕の形は〔多賀大社の位置よりもさらに高い空へと目指して飛ぶ鶴の姿〕に観えるゆえ[]の字源・原義をあらわす。ゆえに、「多賀大社」は開化天皇・伊耶那岐命が「多賀」と表現した高邁(こうまい)な遺言のイメージをあらわす聖域となった。だから、須佐之男命の啼きいさち説話末尾の「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」という文にある「多賀」は終焉地をあらわすものでなく、遺言であったと考えるべきことになる。
 鶴の巣は沼地や荒地などにイネ科植物などを積み重ね、一般に大きな巣を作る。雌雄で営巣・抱卵にあたる。これゆえ、鶴の繁殖習性は日本建国の〔愛〕の理念を表示するとともに、また「多くの子が生まれ、多くのイネなどの農作物が収穫される」を意味する「多賀」をもあらわす。
 だから、空高く飛ぶ鶴の姿に相似する琵琶湖の東岸に鎮座して伊耶那美命・伊耶那岐命を祭神とする多賀大社は、悲嘆号泣する息子の須佐之男命に伊耶那岐命が「吾の陵墓は作らなくてもよい。おまえは海原の国(邪馬壱国・出雲地方)に赴いて母の遺志である日本建国の〔愛〕の理念を継ぎ、大乱を回避して、多くの子が生まれ、多くの農産物が収穫できるように政事をおこなえ」という遺言となった「多賀」をあらわすことになる。
 開化天皇が居住した春日の伊耶河宮の真東は、奈良公園が広がる。奈良公園は東西4km、南北2km、総面積5.25㎢にも及ぶ大公園で、興福寺・東大寺・奈良国立博物館・春日大社はじめ若草山・御蓋山(みかさやま)・春日奥山も含まれる。この奈良公園の広々とした芝生には、“神の使者”とされる鹿が群れ遊ぶ。オス鹿はときに激しく角をおしあって戦い、角がからみあって死ぬこともある。しかし、角の大きさを比較して勝負を決めて戦わない場合もある。この「オス鹿の角の大きさの比較」は、戦わずにして帝位を譲る「禅譲(ぜんじょう)」に譬(たと)えられる。開化天皇・伊耶那岐命は「戦争の回避」をあらわす「多賀」という語を遺言にして異母弟の崇神天皇に王位を譲った。ゆえに、開化天皇の禅譲すなわち伊耶那岐大神の霊魂をあらわし、奈良公園で群れ遊ぶ鹿は“神の使者”と言い伝えられることになったと考えられる。
 以上のごとく、三貴子の分治説話、須佐之男命の啼きいさち説話、須佐之男命の昇天説話は、須佐之男命の昇天説話に続く天照大御神と須佐之男命の誓約説話に日本建国の〔愛〕の理念を尊重する五人の王たちのクーデター計画が記載されていることに気づかないと正しく読解することはできない。

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