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2013年12月16日 (月)

日本が滅びる・76

愛、あざやかに永遠であれ(17)・須佐之男の「昇天説話」するのは誤り、「都へ上る説話」とするが正しい

◆前回のわがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・75」において――『古事記』上巻の三貴子の分治説話は死期が迫ったと感知した伊耶那岐命・開化天皇が、伊耶那岐命の父孝元天皇と継母にして伊耶那岐命の第2后の天照大御神(伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命)との間に生まれた異母弟にして第2王子の天照大御神(御真木入日子印恵命・のちの崇神天皇)に譲位して、高天原(たかまのはら)を治めるように委任した。また、伊耶那岐命と第3后の意祁都比売命(おけつひめのみこと)の間に生まれた第3王子にして息子の日子坐王(ひこいますのみこ)に夜之食国(よるのおすくに)である小国・日本を治めるように委任した。そして、伊耶那岐命・開化天皇は正妃の伊耶那美命(竹野比売)との間に生まれた第1王子にして息子の須佐之男命(比古牟須美命)に海原(うなはら)・山陰出雲地方を治めるように命じた――ことを明らかにした。
 A図に、三貴子の分治の範囲を示した。
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◆また、前回のわがブログにおいて――三貴子の分治説話に続く須佐之男命の啼きいさち説話は伊耶那岐命・開化天皇が天下を治めた伊耶河宮(いざかわのみや╱現在の奈良県奈良市本子守町に所在した)で臨終する際に、須佐之男命が母の伊耶那岐命が埋葬された陵墓がある熊野に居住して天照大御神王朝を倒すために五人の王たちがクーデターを計画していることを報告すると、伊耶那岐命は激怒して「多くの子が生まれ、多くの農作物が収穫される、日々無事平安である政事(まつりごと)をおこなえ」と意味する「多賀」という語をもって、クーデター計画の中止をするように命令して息を引き取った――と伝えるものであったことを解説した。
 伊耶那岐命が天照大御神の生んだ天照大御神すなわち崇神天皇に譲位するならば、その譲位された崇神天皇が伊耶那岐命の陵墓を作るべきことになる。しかし、伊耶那岐命は崇神天皇の母・天照大御神(伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命)が伊耶那美命の陵墓に多数の青年と乙女たちを犠牲(いけにえ)にして殺して埋葬する徇葬(じゅんそう)を憎悪するクーデターを決行して、倭女王・天照大御神から天下を奪い取った。だから、熊野におけるクーデターを怨み憎んで祟らんとする天照大御神母子が伊耶那岐命・開化天皇の陵墓を築造するはずがなかった。また、須佐之男命が父・伊耶那岐命の分治の命令にしたがって海原・山陰出雲に移住すれば、これまた伊耶那岐命の陵墓を築造することができない。そして、月読命も財力と権力に勝る天照大御神母子王朝に逆らって、伊耶那岐命の陵墓を築造するはずもなかった――このように、三貴子の分治によって父・伊耶那岐命の陵墓は築造されないことになる事態を悲しみ嘆き、須佐之男命は啼きいさち(号泣)した。
 伊耶那岐命の陵墓である開化天皇陵は伊耶河宮から北北西の奈良市油坂町に所在する。しかし、開化天皇陵は伊耶那岐命が亡くなった3世紀後半に築造されたものではなく、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推定されている。したがって、開化天皇陵は譲位された天照大御神・崇神天皇が築造したものではなく、また須佐之男命あるいは月読命が作ったものでもないことになる。

◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」に掲載した『古事記』の伊耶那岐命の黄泉国訪問説話の現代語訳で明らかにしたように――千引石(ちびきのいわ╱現在の和歌山県新宮市に所在する神倉神社のご神体“ごとびき岩”)の前で、崇神天皇の母・天照大御神(黄泉国の伊耶那美命)は伊耶那岐命に離縁を言い渡された。その時、伊耶那岐命のクーデターを怨み憎んで天照大御神は「汝(いまし)の人草(ひとくさ)、一日に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」(伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を尊重する人民の母親たちの産道を狭くなるようにして、一日に千人の胎児の頭を絞め殺す)と誓った。一方、伊耶那岐命は「吾(あれ)一日に千五百の産屋立てむ」と誓い、伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を受け継ぐ決意を表明した。このため、天照大御神王朝を倒さんと計画する五人の王たちは伊耶那美命が葬られた熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)が所在する熊野に伊耶那美命が生んだ息子の須佐之男命が居住することを願った。ゆえに、須佐之男命は熊野に住むことを父・伊耶那岐命の許可を求めた。
 『古事記』の須佐之男の啼きいさち説話は――須佐之男命が「僕()は妣(はは)の国、根之堅州国(ねのかたすくに╱大斎原)に罷(まか)らむと欲(おも)ふがゆえに哭()く」という文章で――伊耶那岐命・開化天皇の陵墓が作れなくなった事情と天照大御神母子王朝を倒さんとするクーデターが計画されたと今日に伝えている。また、クーデターを計画した五人の王たちの名は『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に列記されている。

◆クーデターを計画した五人の王たちが登場する天照大御神と須佐之男命の誓約説話の前の説話は、学者たちによって「須佐之男命の昇天説話」と名づけられた。この昇天説話でも譲位された天照大御神王朝は父・伊耶那岐命の陵墓を築造しないにちがいないと悲しみ怒る須佐之男命と五人の王たちの嘆きを須佐之男命は「僕は妣の国に往()かむと欲ひて哭くなり」と述べた。この須佐之男の言は上記したように「母伊耶那美命の陵墓が築造された熊野をクーデターの拠点にして天照大御神母子王朝を倒して父・伊耶那岐命の陵墓を作りたい」と意味するものであった。
 須佐之男命の昇天説話冒頭の――そこで須佐之男命は「然(しか)らば、天照大御神に意見を申すために行くことにしよう」と言って、天に参上(まいのぼ)る時、山や川がことごとく鳴りひびき、国土皆揺れた――という記述は、伊耶那岐命の没後、須佐之男命がおそらく開化天皇が築造された奈良市油坂町の一角に伊耶那美命の亡骸を埋める小さな墓を作った後、須佐之男命が兵士たちを率いて住んでいた伊耶河宮から新しく遷都された崇神天皇・天照大御神が居住する磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)の方へ目指して行進して上った時、いよいよ須佐之男軍が大胆にも都に攻め入るクーデターを勃発(ぼっさつ)させるのかと人民が心配してにわかに騒々しくなった状況を表現するものであったと解釈すべきことになる。このクーデターが勃発するのかと人民が心配した様子は「山川悉(ことごと)に動(とよ)み、国土(くにつち)皆震(みなゆ)りき」という文で表現される。
 早稲田大学教授であった故・津田左右吉(18731961)はじめ日本神話虚構説を唱える学者たちは「天に参上(まいのぼ)る」という文を、「須佐之男は(鳥のごとく)、実際に天に昇った」と本気で解釈する。このように解釈すると、この文は荒唐無稽(こうとうむけい)で事実でありえないことになる。ゆえに、彼等は「『古事記』の日本神話は虚構(作り物)ゆえに、歴史を語るものではない」と断定した。しかし、「天に参上」という文は「須佐之男命一行が新都となった磯城の瑞籬宮が在る地に向かって上った」と表現するものであった。
 だから、今日の多くの書物において須佐之男命の昇天」と記される説話名は誤りとなる。「須佐之男命が都へ上る」が正しい説話の名称となる。
 
 B図に、天照大御神母子が居住した「磯城の瑞籬宮」(奈良県桜井市金星)を表示した。

◆C図に示すように、天照大御神が生存した3世紀、磯城の瑞籬宮の天頂に「長方形の暗黒天体部」がめぐってきた。
 D図に示す「激流の銀河」は〔〕と〔()〕に見立てられ、「長方形の暗黒天体部北部の正方形の銀河部」は〔敵の襲撃を防御する(垣根)が周囲する〕に見立てられて、天照大御神母子が居住する宮殿は「磯城の瑞籬宮」と名づけられた。
 『古事記』中巻の崇神天皇紀は「磯城の瑞籬宮」を「師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)」と表記する。「瑞籬宮=水垣宮」であるゆえ、「瑞籬宮」という名が作られたD図の「激流の銀河と長方形暗黒天体部北部の正方形の銀河部」が「水垣宮」ということになる。
 E図に示す「樹木の形に相似する銀河」にある「長方形の暗黒天体部」にもとづき師木という名が生まれた。E図の「長方形の暗黒天体部」は〔木の葉や枝の隙間から見える天頂の夜空〕に見立てられた。この解釈によって[]の字源・原義が成立し、また「師木」という宮殿名となった。したがって、「師木」の「木」は「天頂の夜空が見える木の葉や枝の隙間」ということになる。
 夜、人里離れた立木の木蔭は真っ暗闇となる。ゆえに、木蔭の下に入ると人の瞳孔の直径は最大(78mmくらい)に拡大されるので、暗い銀河部や暗い星までも見えるようになる。『説文解字』が[]の字源を「二千五百人を師と為()す」と解説するように、[]の字源・原義は「二千五百人の師団の長官が修得しなければならなかった精密に天頂緯度と子午線をキャッチする眼力と技(わざ)」であった。「長方形の暗黒天体部」は〔師団長が修得していなければならない能力(眼力と技)〕に見立てられた。だから、「長方形の暗黒天体部」は[]の字源となったので、白川静著『字統』は[]の字義を「いくさ」と定める。
 F図は、わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の37回・38回で字源解説した[]の字源銀河解明図である。[]の金文形下部は[]であり、この[]の字源銀河は「長方形の暗黒天体部」である。「長方形の暗黒天体部」は〔師が子弟に文字を教える時に、文字を書いた地面や平らにした灰の面〕に見立てられた。契文(甲骨文字)以前の夏代の夏音文字と五帝時代の刻木(こくぼく)は“漢字の始祖”の倉頡(そうきつ)が定めた掟を厳守して、用済みになった文字は必ず消されていた。このため、「長方形の暗黒天体部」は〔書いた文字が必ず消されていた、師が文字を書いたやわらかい地面や平らにした灰の面〕に見立てられた。これゆえ、[]の字義は「せんせい(先生)」となった。
 以上のごとく、E図に示す長方形の暗黒天体部」は「師木」をあらわす。だから、天照大御神母子王朝が天下を治めた宮殿名は、『日本書紀』では「磯城の瑞籬宮」、『古事記』では「師木の水垣宮」と表記された。

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◆G図に示すように、「十字の銀河」は[]の字源となり、「鬼の姿に似る銀河」は[]の字源となった。そして〔精密に天頂緯度と子午線をキャッチするために師団長が視界の中に明るい光が入らなくするための木蔭の暗闇〕に見立てられた「長方形の暗黒天体部」は[]の字源となった。
 H図に、「長方形の暗黒天体部」が[]の字源であることを示した。
 G図の[]にH図の[]を加えると、[]の字となる。したがって、[]の字源銀河は「長方形の暗黒天体部」である。
 また、G図右上の[]の契文形に合致するように、G図を90度回転させた[]の字源「鬼の姿に似る銀河」の形状は〔天頂点をキャッチして観測地点の緯度と子午線を精密に測量する人や王や師団長〕に見立てられた。なお、「十字の銀河の子宮」が〔天頂点〕に見立てられたことになる。
 G図に[]の字源「長方形の暗黒天体部」が「女陰」であると記入したように、『説文解字』は[]の字源を「女陰なり。象形」と解説する。
 I図に示すように、[]の字源において「子宮と胎児」と「長方形の暗黒天体部」が[]の字源「女陰」をあらわす。[]の字源解説図は「天頂点をキャッチして精密に緯度と子午線を測量して命を確保するには、産道を通過する胎児のように無心無欲にならなければならない」という天頂緯度を測定する時の心得を示す。
 J図の左上の[]の契文形頭部は〔長方形〕である。この[]の契文形頭部の〔長方形〕の字源はI図の左端に配した「長方形の暗黒天体部の90度の転回形」である。ゆえに、J図の左上に配する[]の契文形はI図の[]の解説図が示す「天頂点をキャッチして精密に緯度と子午線を測量して命を確保するには、産道を通過する胎児のように無心無欲にならなければならない」という心得を図案したものとなる。
 J図左上の[]の契文形頭部の〔長方形の図書〕は「夏音文字の学芸においては、天頂緯度=観測地点の緯度であった」と表示するものとなる。というのも、「長方形の暗黒天体部」は〔天頂点をキャッチする観測地点〕に見立てられ、夏音文字の学芸においては「天頂緯度の度数=観測地点の緯度の度数」と定義したからである。

◆J図左上の[]の契文形頭部の〔長方形の図書〕は「長方形の暗黒天体部」を図案するものであるゆえ、G図に示す[]の字源となった「長方形の暗黒天体部」は[]の字源でもあったことになる。つまり、「長方形の暗黒天体部」は「観測地点の緯度を示す数値は天頂緯度となる数値は同じであると定める」という法則をあらわす。
 この考えは、現在の位置天文学の「赤緯(せきい)」の法則と一致する。赤緯は〔天の赤道と天の赤道が天頂点となる土地(赤道)の緯度を0度〕と定め、〔赤道より北の北半球を+(プラス)、赤道より南の南半球を-(マイナス)〕とし、〔各地点における天頂点の緯度を天の赤道からの距離となる度数〕であらわす。つまり、〔北緯3425分の土地の緯度〕の赤緯は〔+3425分〕と定めるように、天と地の緯度の度数は同じである。したがって、夏音文字の学芸における天文緯度の度数は今日の位置天文学の赤緯と共通する。
 K図の[]の字源解説図と契文・金文の字形は、上記した夏音文字の学芸における「天頂緯度の度数と観測地点の緯度数は同じ」と定めた、今日の〔赤緯〕に共通する〔緯度の度数〕の法則を表示する。その証拠に、『説文解字』は三水偏に[]が加わる[]の字源を「疾(はや)く流れるなり」と解説する。つまり、K図の「激流の銀河」の形状が「疾く流れるなり」をあらわす。だから、[]の契文と金文の字形は、K図の[]の字源「十字の銀河」と[]の字源「長方形の暗黒天体部」をもって「天頂緯度の度数と観測地点の緯度数の度数は同じと定める」という法則を表現する図案であったことになる。

◆J図左上の[天]の契文形頭部は[地]の字源「長方形の暗黒天体部」を図案するものであるから、「長方形の暗黒天体部」は[天]の字源にもなった。
 C図が示すように、須佐之男命と配下の兵士たちは崇神天皇・天照大御神が住む新都の磯城の瑞籬宮・師木の水垣宮が在る地に向かって行進した。ゆえに、『古事記』は「天に参上(まいのぼ)る」(参上天)と表記した。というのも、崇神天皇・天照大御神が住む新都の名は[天]の字源「長方形の暗黒天体部」から「磯城の瑞籬宮・師木の水垣宮」と名づけられたからである。現在、出版されている全書物は、「参上天」という3字を一様に「須佐之男命は天に昇った」と誤読し、「須佐之男命は新都に向かって上った」と正しく解釈する書物は一冊も存在しない。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる」の69回と70回で解説したように――『古事記』序の初頭にある「しかれども乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化(さんしんぞうか)の首(はじめ)を作()す」という文は――今から約4050年前の後期縄文時代初頭、夏音文字の学芸が日本列島に伝来して根づいた。この夏音文字は「銀河各部の形状」が「文字」であった。また、7世紀の隋代に完成した楷書の字源・原義もまた「銀河各部の形状」であった。だから、『古事記』上巻の文に用いられる「文字」を「銀河各部の形状」に直すと、真実の歴史を知ることができる。この「文字」を「銀河各部の形状」に直す作業を怠ると【誤読】となって、誤った解釈になる――と表現するものであった。
 学者たちは、江戸時代の国学者の本居宣長の30数年に及ぶ『古事記』研究には重大な欠陥があることにまったく気づかず、宣長が著した注釈書『古事記伝』をテキストとして『古事記』の文を解釈する。しかし、太安万侶が書いた『古事記』序の初頭には――上巻・日本神話に用いられる「文字」を「銀河各部の形状」に直す作業を怠ると真実の歴史を解明できずに【語訳】となる――と、『古事記』上巻に記述された歴史を解明する時の注意・心得が記述された。
 この重大な記述に、宣長はまったく気づかなかった。だから、現在に出版される書物はすべてが【誤読の産物】であり、正しく読解した書物は一冊も著作されないことになった。

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