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2013年12月19日 (木)

日本が滅びる・77

愛、あざやかに永遠であれ(18)・「天照大御神は須佐之男命の姉」という定説は間違っている

◆現在、出版されるすべての書物は、天照大御神は須佐之男命の姉と定める。
しかし、この解釈は【誤読】の産物である。
『古事記』上巻の三貴子の分治説話は――伊耶那岐命は「私は多くの子を生みつづけ、
その最後に三貴子を生んだ」と述べ、三貴子に伊耶那岐命が統治した国土を三つに分けて委任した――と記述する。このように、天照大御神は男子(貴子)と表記しているので姉ではないことになる。
 『古事記』中巻の開化天皇紀は――開化天皇は春日の伊耶河宮(いざかわのみや)に居住して天下を治めた。正妃の丹波国出身の竹野比売(たかのひめ)が生んだ子は比古由牟須美命(ひこゆすみのみこと)である。第二后の継母の伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)が生んだ子は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと╱崇神天皇)である。第三后の意祁都比売命(おけつひめのみこと)の生んだ子は日子坐王(ひこいますのみこ)である――と記述する。
 開化天皇が居住した「伊耶河宮」の先頭2字は「伊耶那岐命」と「伊耶那美命」の先頭2字「伊耶」と同一であるゆえ、伊耶那岐命は開化天皇と解釈すべきことになる。
 
 したがって、第9代開化天皇の後を継いだ第10代崇神天皇の渾名(あだな)が高天原(たかまのはら)を分治された“天照大御神”であったことになる。また、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命の渾名も“天照大御神”であったことになる。

わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・37」で証明したように、崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命は伊耶那岐命に離縁されたため、崇神天皇の大叔母(崇神天皇の祖父・第7代孝霊天皇の娘)の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」の名を受け継いだ。『日本書紀』崇神天皇紀は「箸墓(はしはか)に倭迹迹日百襲姫命を葬った」と記述するゆえ、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳は崇神天皇の生母である天照大御神・伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命の陵墓であった。
 しかし、2009529日ころから、纏向(まきむく)遺跡邪馬台国説を唱える学者はじめ朝日新聞やNHK放送などの一部のメディアは“箸墓古墳は卑弥呼の墓である”と騒ぎ立てるため、最近、宮内庁が許可してその調査がおこなわれた。この調査によって、箸墓は卑弥呼の墓ではなく、『日本書紀』崇神天皇紀の「倭迹迹日百襲姫命(天照大御神)を箸墓に葬った」という記述が正しい確証が発見された。しかし、“卑弥呼の墓だ”と大騒ぎした学者たちは箸墓が卑弥呼の墓ではない確かな証拠が出土したにもかかわらず沈黙(だんまり)を決め込むため、朝日新聞・NHK・メディアも「卑弥呼の墓だという騒ぎはデマ(誤報)であった」という報道を一切おこなっていない。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・53」で解説したように――『古事記』中巻の孝霊天皇紀に「針間(はりま)の氷河(ひかは)の前(さき)に忌瓮(いわひへ)を居()えて、針間を道の口として、吉備国を言向(ことむ)け和(やは)したまひき」と記述された氷河(兵庫県加古川市加古川町大野の氷河)に忌瓮を据えて行った吉備国討伐儀式は、崇神天皇の生母・天照大御神が“吉備国の兵士たちを容赦なく殺せ”と呪い祟る儀式であった。この吉備国討伐で大きな手柄を立てた大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)は、『日本書紀』崇神天皇紀の四道将軍の箇所に登場する大彦命(おおびこのみこと)であるとされる。また、大吉備津日子命とともに吉備国討伐で大功を立てた若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は四道の一人の吉備津彦であるにちがいない。
 201386日に発売された「ここまで分かった!」または「最新発掘から見えた!」というキャッチコピー付きの朝日新聞出版が発行した週刊『新発見!日本の歴史』8号の「邪馬台国と卑弥呼の謎」の8頁は、箸墓古墳を調査すると「吉備地域の祭祀に由来する特殊器台形埴輪(とくしゅきだいけいはにわ)・壺形埴輪がこの古墳に樹立された」「前方部では底部を穿孔(せんこう)した壺形埴輪が、後円部では特殊器台と特殊器台形埴輪が出土した」という事実が明らかになったと指摘する。
 このように箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなく、最近の調査によって箸墓古墳から出土した吉備地方の祭祀に由来する特殊器台・特殊器台形埴輪・壺形埴輪の確かな証拠によって、箸墓古墳は“吉備国の兵士たちを容赦なく殺せ”と号令して吉備国軍の呪的な戦力を奪う巫女王であった崇神天皇の生母・天照大御神(伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命)の墓であったと証明することができる。なぜならば、箸墓を築造した崇神天皇王朝における重臣の四道将軍の二人は吉備国討伐において大功を立てた武将だからである。
 だから、『日本書紀』崇神天皇紀の「倭迹迹日百襲姫命を箸墓に葬った」という記述は正しかったことになる。他方、纏向遺跡邪馬台国説学者たちはみずからの調査によって墓穴を掘り“箸墓は卑弥呼の墓”とである意見は思い込みによる真っ赤なウソであったことになり、朝日新聞とNHKテレビや一部のメディアの報道は思い込みによるウソを軽はずみに信じた誤報(デマ)であったことになる。
 以上からして、最新の発掘調査によって箸墓古墳は崇神天皇の生母の倭迹迹日百襲姫命の墓であることが証明されたので、伊耶那岐命・開化天皇が高天原を分治した天照大御神は崇神天皇であったことになる。
 
 崇神天皇は“天照大御神”と呼称された生母の倭迹迹日百襲姫命を葬る箸墓を築造した。崇神天皇は生母の倭迹迹日百襲姫命と一心同体となって伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し祟り、伊耶那岐命・開化天皇が決行した黄泉国・熊野のクーデターを怨み骨髄(こつずい)に徹して開化天皇陵を築造しなかった。これゆえ、『古事記』と『日本書紀』は須佐之男命と対立した生母・天照大御神と一心同体であった崇神天皇を「天照大御神」と表記した。崇神天皇は男性であるゆえ、須佐之男命の「姉」ではない。だから、現在出版されるすべての書物は【天照大御神は須佐之男神の姉である】と断定しているが、この断定は【誤読】の空論によるもので根本的に誤っている。

 
◆わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・16」の後半部で証明したように、正妃の竹野比売の出身国の「丹波」は『魏志倭人伝』における小国「伊耶(いや)国」である。ゆえに、本名・竹野比売を人民は「伊耶国出身の那(美しい)(美しい)女王」すなわち“伊耶那美命”と愛称して敬愛した。開化天皇は伊耶那美命の夫であったゆえ人民は“伊耶那岐命”と愛称した。
 したがって、伊耶那美命・竹野比売が生んだ「比古由牟須美命」が、父伊耶那岐命・開化天皇から海原(うなはら)を分治された“須佐之男命”であったことになる。
 残る意祁都比売命が生んだ日子坐王が夜之食国(よるのおすくに)を分治された月読命(つきよみのみこと)であったことになる。

◆『古事記』の開化天皇紀は「崇神天皇は開化天皇が継母の伊迦賀色許売命を娶(めと)って生ませた御子(みこ)」と記す。この記述は「天皇が継母の伊迦賀色許売命を娶ったときの連れ子が崇神天皇である」と意味するものであったことになる。というのも、『古事記』の崇神天皇紀には「崇神天皇が建波邇安王(たけはにやすのみこ)は庶兄(まませ)であると言った」という記述が存在するからである。
 伊迦賀色許売命は開化天皇の父・孝元天皇と結婚して比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでいるが、この子が伊迦賀色許売命の連れ子の崇神天皇であったことになる。開化天皇と建波邇安王と崇神天皇は孝元天皇を父とする異母の兄弟であるので、崇神天皇は伊耶那岐命・開化天皇の異母弟となる。
 わがブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・18」で解明したように――伊耶那岐命・開化天皇は伊耶那美命・竹野比売の後を継いで倭女王に就任した天照大御神・伊迦賀色許売命が多数の青年と乙女たちを犠牲(いけにえ)にして殺して伊耶那美命の陵墓(熊野本宮大社の旧社地の大斎原)に埋葬する徇葬(じゅんそう)儀式を憎悪して、クーデターを決行して天下を奪った。ゆえに、天照大御神母子(伊迦賀色許売命と崇神天皇)は伊耶那岐命・開化天皇を怨み呪い復讐と憎悪の炎で身を焦がすものであったことになる。ゆえに、譲位されても怨み骨髄に徹する母と同心一体の帯崇神天皇は、彼が築造しなければならない開化天皇の陵墓を築造しなかった。奈良県奈良市油坂町に所在する伊耶那岐命の墓である開化天皇陵は天照大御神・崇神天皇と須佐之男命と月読命の三貴子が生存した3世紀後半に築造されたものでなく、5世紀末から6世紀初頭に作られたと推定されている。

◆前回のブログ「卑弥呼の逆襲:日本が滅びる・76」で解説したように、須佐之男命は三貴子の分治によって父伊耶那岐命の陵墓が作れないことになった事態を悲嘆して号泣した。そして、『古事記』の天照大御神と須佐之男命の誓約説話に登場する五人の王たちは天照大御神・崇神天皇母子王朝を倒すクーデターを計画し、伊耶那岐命が倭女王天照大御神から天下を奪った熊野に須佐之男命が居住して伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を掲げる国作りを夢見ていた。
 須佐之男命が父の開化天皇が作れなくなった事態を悲嘆し号泣する様子と“必ずや須佐之男命が天照大御神母子王朝を倒すクーデターを起こすにちがいない”という国民々の心配や風雲急を告げる様子を、『古事記』の須佐之男命の啼きいさち説話は下記のごとく記述する。
 「その泣く状(さま)は、青山は枯山(かれやま)()す泣き枯らし、河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾(ほし)き。ここにもちて悪()しき神の音(おとなひ)、狭蠅(さばへ)()す皆(みな)満ち、万(よろづ)の物の妖(わざわひ)悉に発(おこ)りき。」
 上記の文は「天照大御神」という名が容易に連想できる「夏」を象徴し暗喩(あんゆ)する語を並べて、わざわいのすべての原因は日本建国の〔愛〕の理念を敵視して抹殺せんとする天照大御神母子王朝の悪しき政策にあると語らんとするものであったにちがいない。なぜならば、上記の文は「須佐之男命の泣く有様は、木が青く茂る山が夏の日照りで枯れ山になるごとく泣いて泣いて涙を涸()らし、河と海の水も泣く涙にことごとく吸い取られて夏の旱魃(かんばつ)の時のように干上がるかの状況である。そのため悪しき神の声・すなわちクーデター勃発の気配は、夏の五月ごろ湧き騒ぐ蝿のように世に満ちあふれ、夏の極度の水涸(みずが)れのごとくあらゆる災いが起こるような状況となった」と現代語に訳することができるからである。

◆前回のブログで解説したように、「須佐之男命の昇天」という説話名は定説であるが、「須佐之男命が参い上る天」は即位した天照大御神・崇神天皇が居住する「新都」を意味するものであったので、「須佐之男命が都へ上る」とする説話名が正しいことになる。
 A図に示す、天照大御神母子が住む師木(しき)の水垣宮(みずかきみや・磯城の瑞籬宮)へ向かって、兵士を率いて須佐之男命は北北西に所在した伊耶河宮(いざかわのみや╱奈良県奈良市本子守町の率川付近に所在した)から出発して上った。
 この須佐之男命軍の行進を“さてはクーデターの始まりにちがいない”と思った人々の驚きはまるで激震のごとくであったので、その様子を『古事記』は「すなわち天に参上(まゐのぼ)る時、山川悉(ことごと)に動(とよ)み、国土(くにつち)皆震()りき」と表現した。
 須佐之男命軍が進軍してくる情報を聞いて驚いた天照大御神・崇神天皇は「わが弟の命(みこと)が上って来るのは、きっと吾に服従する善良な心ではあるまい。吾が分治された高天原を奪おうと思ってやって来たのにちがいない」と述べたという。
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 この時、崇神天皇は須佐之男命を「わがなせ(那勢)の命」と呼称した。
 この「なせの命」という呼称について、山口佳紀(よしのり)・神野志隆光(こうのし たかみつ)校注・訳者『古事記』(小学館発行)は――「せ」は異性の兄弟姉妹の間で用いられて、女性が男性を呼ぶ称。年齢の上下にかかわらない。(中略)。天照大御神が女性であることはここに明らかである。以下、その天照大御神が男装して須佐之男命を迎える場面となる――という注を付ける。
 しかし、この注は――崇神天皇が女性のごとく着飾り、女性になりきって須佐之男命を「なせの命」と呼称した――と考えても合理となる。だから、山口佳紀・神野志隆光校注・訳者『古事記』の――天照大御神が女性であることはここに明らかである――と断定することができない。
 なぜならば、B図の[鬥(とう)]の「契文」を白川静著『字統』は「卜文」と呼んで「二人相格闘(かくとう)する形。卜文の字形は、二人が髪をふり乱してつかみあう形。のち声符を加えて鬪に作る。鬥は鬪の初文である」と解説するからである。
 この「戦う」を意味する字の[]の字源の秘密にもとづき、吉備国討伐は崇神天皇の生母の天照大御神(伊迦賀色許売命)の敵軍の呪的な戦力を奪う呪詛(のろい)から始まった。このように、当時の戦いは呪術をおこなう巫女(みこ)・魔女の呪詛によって戦闘が始まった。ゆえに、天照大御神は魔女のごとく着飾っていたのである。というのも、須佐之男命軍がおこすクーデターはいつ攻めてくるかわからない奇襲であったので、奇襲された時に敵の呪的な戦力を奪う呪詛の祈祷をおこなう暇がないので、[]の字源にもとづいて崇神天皇は敵の呪的な戦力を奪う巫女のごとく着飾っていた。ゆえに、崇神天皇が須佐之男命を「なせの命」と呼んだのは、須佐之男命軍の呪的な戦力を奪うための呪(まじな)いのためであったことになる。

◆『古事記』と『日本書紀』における天照大御神に関する記事において、天照大御神を女性に限定できる記事は1ヵ所も存在しない。しかし、「崇神天皇の生母の伊迦賀色許売命・倭迹迹日百襲姫命」は「天照大御神」と呼ばれ、「崇神天皇」も「天照大御神」と呼ばれていた。さらに倭迹迹日百襲姫命・崇神天皇母子は一心同体となって伊耶那美命が提唱した日本建国の〔愛〕の理念を憎悪し、伊耶那岐命が決行した熊野・黄泉国のクーデターを怨み骨髄に徹するものであった。このため、混乱が生じていつしか「天照大御神は女性である」と限定する定説が確立されたのであろう。あるいは、その原因は天照大御神を祭る神社において、天照大御神を女神と定めて信仰していたことにあったのかもしれない。
 けれども、あらためて『古事記』と『日本書紀』を丹念に読解すると、須佐之男命と戦う天照大御神は男神として書かれている――この点に気づく才能は学者たる人々が有していなければならない知性と言うことになる。「なせの命」という記述から「天照大御神は男装した女神である」と考えるならば、その逆の「天照大御神は女装した男神である」ということも合理が成立することは容易に考えることはできる。そして、『古事記』と『日本書紀』を読み返すと、須佐之男命と対立する天照大御神は男性として記述されていることに学識を有する人々ならば、当然、気づかなければならないはずである。
 学者たちは『古事記』と『日本書紀』を【誤読】して、「崇神天皇は天照大御神であった」と説明する記述をことごとく排除して空論・虚偽の摩天楼を築きあげた。この【学者たちの誤読の空論】については極めて重大な問題であるので、須佐之男命が都へ上る説話の解説を次回(78)で終了した後の、79回でも再度解説する。 

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